昼下がりの雨のそぼ降る中、京都レース場に到着した一台のバスを出迎えたのは二名のウマ娘であった。
八雲井トレーナーに先導され、バスから降りて来るセイウンスカイ。彼女を待ち続けていたキングヘイローとグラスワンダーの姿をそこに見出しても、何ら意外そうな表情は見せなかった。
「おやおやー。私の引退試合に来てくれたのはいいけれど、花束の一つも無しかにゃあ?」
「花束は、レースに勝ってから、でしょう?」
「にゃはー、さすがはキング、ストイックなコメントだねぇ。」
黄金世代ウマ娘、最後のレース。
既に引退した同期のウマ娘たちが出走直前のセイウンスカイを待ち構えていることを見越して早めに到着したのか、八雲井トレーナーはダラダラとお喋りしているセイウンスカイを急かすことなく少し離れた場所から見守っていた。
わざとらしくセイウンスカイは周囲をキョロキョロと見回し、グラスワンダーに尋ねる。
「ところで、キングの引退レースの時と比べて、お出迎えの数が少ないようだけど?」
「スペちゃんも来るつもりだったのですが、どうしても中継前の打ち合わせに出なくてはならないようでして。」
「お忙しいねぇ、あの子も。」
昨年度に引き続き、大舞台となるレースの実況席にはほぼ必ず同席しているのが当たり前のようになっているスペシャルウィーク。
引退したウマ娘の中でも、もはやURAの顔となった彼女は最も多忙な日々を送っていた。
特に今回の春の天皇賞は、三世代にわたるスターウマ娘たちが結集することもあり、放送する側の気合の入れようも尋常ではないらしかった。放送スタッフとの打ち合わせ、機材チェックのため、スペシャルウィークは現場からはほぼ離れられない状況であった。
「3時間ほど前ごろには、まだスペちゃんも打ち合わせから抜け出してくる余裕があったらしいのですが。」
「マジかー、じゃあ3時間早く来るべきだったんじゃない?」
セイウンスカイの飛ばした冗談に、淡々と、しかし多少は和らいだ口調で八雲井トレーナーは返す。
「挨拶のためだけに、本番直前の調整を疎かには出来ない。」
「カタいこと言いなさんなよぅ。セイちゃん最後の晴れ舞台なんだからさ。」
「あら、最後だからと、気を抜いて走るおつもり?」
「え~?気ぃ抜いちゃおっかな~。」
キングヘイローのツッコミに対する、セイウンスカイの口調も返答も気の抜けた調子のものではあった。
が、その目の色を見れば、彼女がこの本番に向けて集中力を研ぎ澄ませていたことぐらい、同期の友たちには筒抜けである。本番直前にはあるまじきセイウンスカイの発言を耳にしても、八雲井トレーナーは彼女の真意を確認するまでもなく黙っていた。
わずかな沈黙、キングヘイローとグラスワンダーと向かいあい、セイウンスカイは笑みと共に俯く。
「も、そんな、セイちゃんの顔を覗き込むことないでしょ。」
「ふふ、今回のレース、楽しみに出来そうですね。」
「はいはい、勝手に楽しみにしてて。さっさと行くよ、トレーナー。」
セイウンスカイの顔色をチラと一瞥し、八雲井トレーナーは担当トレーナーの良き友に頭を下げた。
「あぁ、来てくれてありがとう、キング、グラス。おかげで、セイウンスカイも気合が入ったようだ。」
「そういうのいいから。」
リラックスした雰囲気を崩さぬよう頭の後ろで手を組み、その割にはそそくさと脚を控室へと急がせるセイウンスカイ。
そんな彼女の歩みを止めたのは、遠く廊下の向こう側から、空気を切り裂くように溌溂と響いたスペシャルウィークの声であった。
「セイちゃん!頑張って!応援してるから!」
本当に僅かな隙間を見つけ、打ち合わせ中の放送席から抜けて来たのだろう。半開きのドアから覗かせた彼女は、襟元にピンマイクを付けたままである。
「実況はひいき無しでお願いしますよ~。ところでそのマイク、声が入りっぱなしじゃない?」
「えっ?あっ。」
背後で放送スタッフからも指摘され、赤面しながら引っ込んでいくスペシャルウィーク。
いつもどこか眠そうに瞼が下がり気味のセイウンスカイ、レースを行うターフを踏まずして既に双眸は見開かれていた。
〈あいにくの雨となりましたが芝状態は良、天皇賞、春の大舞台であります。昨年ウマ娘レース界を席捲した、あの世紀末覇王を始めとして、今年からは新たなる世代のウマ娘、更には黄金世代のウマ娘まで、まさにオールスターといった様相となりました。解説にはスペシャルウィークさんをお招きしております。〉
〈はい!スペシャルウィークです!本当に今回の天皇賞は、凄いウマ娘たちばかりが集まってますね!誰が勝ってもおかしくないと言えるでしょう!〉
テイエムオペラオーをターフ上へと送り出してから、実況のアナウンスが始まるまでの間は、あっという間に過ぎ去るように鷹木には感じられた。
勝てるか否かという点に気を揉むばかりでなく、これより後はオペラオーが脚に不調をきたさないかという不安にまで苛まれ続けることになるのだ。
むろん、担当ウマ娘には極力彼の不安を伝えないように努めていたが、隠し事の苦手な鷹木の顔色などオペラオーにはとっくに読み取られていただろう。伝わったとて、いつもの調子を崩すオペラオーではなかったが。
「ドトウにも、アヤベさんにも、トップロードにも、会うのは一か月ぶりだからね!楽しみだよ!」
「言うまでもないと思うが、遊びに来たわけじゃないぞ。競走相手なんだからな。」
「もちろん!皆がどれほどボクに迫ってくるのかが、楽しみだということさ!」
そんな間抜けたやり取りをした記憶も、オペラオーの脚に蓄積しているであろう疲労が十分に癒えていることを、繰り返し自分の中で確認し続けている鷹木の脳内ではあっという間に押し流されていった。
(大丈夫だ、医務スタッフからも詳細なデータを受け取っているんだし、無理なんてないはずだから……)
自身にそう言い聞かせている鷹木の頭上では、パドックに姿を現しつつあるウマ娘たちの紹介がアナウンスされ続けていた。
〈……さて、お次は6番人気となりました、なんと2年ぶりの復帰であります、セイウンスカイ!前回出走したのは一昨年の秋の天皇賞。未だ現役を引退していない黄金世代ウマ娘として時折話題に上がることはありましたが、ついにウマ娘レースの場へと戻ってきました!〉
〈私も現役で走っていた時、セイちゃんとは火花を散らした仲ですから、彼女の強さは身に染みて知っています!あの勝負強さ、今年の天皇賞でも見せつけてくるんでしょうか!〉
人気順は2年前ほどではないものの、久方ぶりにレース本番の舞台へと姿を現した彼女を迎える大歓声は京都レース場に轟いていた。
当のセイウンスカイは、相変わらずノンビリと、気負った様子をまるで見せていなかったものの。ゆえにこそ、今日出走するウマ娘たちの中でも長いキャリアを有するだけの落ち着きがそこにはあった。
〈5番人気はこの子、エアシャカールです。昨年のクラシック級では一気に頭角を現し、皐月賞と菊花賞の2タイトルを制しました。新たなる世代においても特に注目を集めるウマ娘、かの世紀末覇王と直接対決した回数も、これで3度目と重ねております。〉
〈大阪杯では、惜しいところまで行ってましたね!得意とする差しが、このレースでも発揮されるでしょうか!〉
対戦相手として立ちはだかる頻度が多かった都合上、直接会う機会がそうそう得られなかった鷹木は、エアシャカールの姿を見るのも数か月ぶりであった。
以前にもまして鋭くなったように見える目つきには、レース経験を相応に重ねた落ち着きも備わったようであった。まさに強者といった風格を纏いつつあるエアシャカールを前にして、同期ウマ娘としての自信を保ちがたく感じているアグネスデジタルの思いも、鷹木にはなんとなく理解できるような気がした。
ほぼ確実に、アグネスデジタルもこの天皇賞を観戦しているのだろう。勝ちきれない自分を置いて、晴れ舞台へと上がっていく同期の仲間を前にどれほどの焦りを抱くのだろう。
〈4番人気は、アドマイヤベガです。言わずと知れた覇王の好敵手、2年前に突如の長期療養に入ったものの、昨年奇跡的に復活を遂げ、以降は順調に戦績を残し続けています。今年こそは彼女がレースの一等星となれるでしょうか。〉
〈デビュー当初から、かなりの実力を見せ続けてくれていましたからね!積み重ねた走りの技術も備わって、まちがいなく今回の優勝候補ですよ!〉
自身が脚の不調で長期間療養していたこともあって、鷹木に対しては執拗に担当ウマ娘の状態チェックを怠らぬよう伝え続けてきていたアドマイヤベガ。
ひたむきにレースへと臨まんとする彼女の瞳をこうしてパドックにて見れば、ライバルウマ娘であっても故障せぬよう願う彼女の意向はハッキリと理解できた。不本意な形で、自分が強敵と認めた相手との決着がついてほしくはないのだ。
いつも覇王のすぐ背後にまで迫っている次のウマ娘も、その思いに関しては同様であったろう。
〈今回は3番人気となりました、メイショウドトウです。かの世紀末覇王の撃破に一番近いウマ娘、幾度も幾度も僅差にまで迫り、あと一歩というところで栄冠を逃しつづけてきました。とはいえ、説明するまでもなく彼女の実力は本物です。〉
〈昨年度から持ち越され続けている玉座の攻防、いよいよここでドトウが破るのか!私も非常に注目しています!〉
自分自身がそんなにも勇ましい存在として見られているとは思っていないのと同じく、メイショウドトウ自身はテイエムオペラオー自体を憎き仇敵として認識しているわけではなかった。
当然ながら、トレセン学園入学当初から最も親しくしている間柄であるし、オペラオーに勝とうとし続けて来たがために今の自分があると考え続けている。
覇王撃破の執念に取り憑かれたウマ娘という世間のイメージからはかけ離れた存在ではあったものの、毎度のゴール前、オペラオーと並ぶ時に彼女の心で燃えているのは確かに執念には違いなかった。
〈いよいよ2番人気の紹介となります、ナリタトップロード!彼女もまた、かの覇王の好敵手として長く戦いつづけてきました。先月の阪神大賞典では、なんと二着以降に8バ身もの大差をつけて悠々の勝利。その並みならぬ強さを存分に見せつけました。〉
〈いつもの冷静なペース配分に、いよいよ走りの強さまで極まってきてますね!十分に勝てる脚をもっているウマ娘ですよ!〉
テイエムオペラオーのみならず、メイショウドトウやアドマイヤベガの図抜けた実力を前に、自分の実力とは差を付けられてしまっていることを実感することが少なくなかったナリタトップロード。
しかし、アナウンスにもあった通り、阪神大賞典での圧倒的な勝利が彼女を2番人気にまで押し上げていた。勝ちきれないウマ娘としての印象は、世紀末覇王に並び続けることの意味によって完全に塗りつぶされていたのだ。
〈さぁ、やってまいりました、1番人気はもちろんこのウマ娘、テイエムオペラオー!かつてこれほどまでに人気を得て、同時に破られることをも待ち焦がれられたウマ娘が居たでしょうか。戦績はもはや語るまでもありません、昨年度より引き続き、依然として無敗!覇王伝説に終止符はいつ打たれるのでしょうか!〉
〈とはいえ大阪杯でもギリギリでしたし、ライバルたちの実力は拮抗してます!この天皇賞でも、分かりませんよ!〉
そう、結果は分からない。鷹木が周囲から、「次のレースでオペラオーは勝てるか」と問われるたびに、例外なく返してきた答えである。
特に、今回は黄金世代として最後となったウマ娘、セイウンスカイが出走しているのだ。昨年、一度だけ共に走ったものの、それを除いて直近のレースデータは存在しない。
2年間もの沈黙の間、彼女がどれだけの策や能力を身につけたのか。
ゲートインの時、セイウンスカイの顔色には何らの異変も無いことに鷹木は気づいていた。以前は狭苦しいゲートからスタートダッシュをかけるのを嫌がるそぶりも見られたのだが、それもまた彼女が克服した弱点なのだろうか。
競走相手については全くの未知数のまま、テイエムオペラオーにとっては三連覇がかかる天皇賞がいよいよ幕をあける。
〈各ウマ娘、ゲートイン完了です。……スタートしました!12名がきれいに揃ってのスタートを見せました、まずはナリタトップロードが外から行こうというところでありますが……ここは、やはりセイウンスカイ!セイウンスカイが行きました、彼女の逃げは健在であります!リードは2バ身といったところ、二番手にはタガジョーノーブル、ウチからはサンエムエックスが行っています。〉
〈やっぱり逃げですね、セイちゃ……セイウンスカイは!〉
2年越しに見られるセイウンスカイの逃げを前に、観客席からは大きなどよめきと歓声が上がる。
当のセイウンスカイ自身は、そんな騒ぐようなことでもない、とばかりに悠々とリードを広げていくばかりであったが。
〈一周目の向こう正面、上り坂を駆けあがっていきます、1バ身差で四番手にはメジロランバート、そして4バ身から5バ身ほどおかれまして、ここにテイエムオペラオーは中団の位置であります。六番手にはイブキガバメントが行っています、それを見るようにウチからはメイショウドトウ、並んで外にはナリタトップロードと言った順であります。〉
〈優勝候補の子たち、みんな落ち着いた走りを見せていますね!最後の追い込みが熾烈になりそうです!〉
向こう正面の坂を上り切り、3コーナーの下りに入ろうとするところ。五番手につけているテイエムオペラオーは、鷹木と繰り返し練習した通りのペースであった。
昨年まではメイショウドトウやナリタトップロードが、オペラオーより後ろを走っているだけで鷹木は目を剝いて驚いていただろう。しかし、存分に実力を上げた今となっては、彼女らが先行していようが追い込みの位置にあろうが、特筆すべきことでもないように思われた。
〈エアシャカール、アドマイヤボス、そして内側に半バ身差でアドマイヤベガ。そして最後方にエリモブライアンと言った形、バラバラの展開となりました。さぁこれから第4コーナーを回りまして、一周目のスタンド前に入ってまいります。セイウンスカイが先頭に立っています、リードは3バ身ほど。タガジョーノーブルが二番手、三番手サンエムエックスには5バ身のリードであります。〉
〈セイウンスカイは大逃げの選択でしょうか、逃げウマ娘たちのさらに先を行ってますね!〉
大逃げするセイウンスカイと言えば、今となっては3年前の菊花賞が世間の印象には残っている。
実際のところは大逃げではなく、大逃げに見せかけた釣りだったわけだが。スタミナを使い果たすようなリードの取り方に見せかけて、実際はスタミナを温存し、最後の最後で末脚を発揮するというセイウンスカイの策であった。
あれ以降、レオリュウホウのようにそれを模倣するウマ娘も時折は見られたのだが、レース全体を釣るという策はセイウンスカイの代名詞でもあったのだろう。現在の京都レース場においても、ぐんぐんとリードを開いていくセイウンスカイが通過する観戦スタンドからは歓声が投げかけられた。
〈さらに6バ身ほど置きまして、メジロランバート、さらにイブキガバメントまでは8バ身と開いています、バラバラの展開であります。その後ろ六番手にはナリタトップロード、そして並んでいるのはテイエムオペラオーであります。直後にメイショウドトウが続きます、さらに外からはじわじわとエアシャカールが上がってきました。〉
〈先頭のセイウンスカイ、タガジョーノーブルは既に第1コーナーに入っていますよ!かなり全体が開いてますね!〉
逃げ、先行のウマ娘たちの間はかなりひらいている。オペラオーを中心にまとまって走っている中団まで、先頭からは合計20バ身以上離れていることになるのだ。
セイウンスカイは、真後ろから執拗に距離を詰めようとし続けてくるタガジョーノーブルの蹄音を聞き続けていた。当然ながら、かつてのごとき釣り戦法は、もはや現役ウマ娘たちにとって意外でも何でもなくなってしまっているのだろう。
(ま、私が全く同じ手を使うとも思ってないんだろうけどね。)
コーナーを抜けきれば、上り坂の控える向こう正面。そこを上り切れば、あとは下りながらの緩やかなコーナー、そして最終直線を抜けきるまで、地獄の差し合いが延々と続く。
世紀末、覇王世代の優駿たちは、既にそのコーナーに差し掛かるころには背後に迫っているだろう。
旧世代であると一般からは見られる自分が、このレースで通用するための走り。それを無に帰させぬよう、セイウンスカイはなおも逃げ続けた。
〈エアシャカールと並ぶメイショウドトウから遅れてアドマイヤボス、そしてアドマイヤベガ。最後方は変わらずエリモブライアンで、先頭は早くも2コーナーを抜けるところであります。おっと、タガジョーノーブルが一気に前へ出て先頭になりました、セイウンスカイを交わし、タガジョーノーブルが先頭で二周目の向こう正面を進んでいきます。〉
〈セイウンスカイが先頭を譲ったのは作戦でしょうか!さぁ、後方の集団も徐々に前へと詰めてきましたよ!〉
今なお10バ身以上は差が開いていたものの、確かに中団を構成しているウマ娘たちは向こう正面の直線に入ると同時にペースを上げ始め、逃げウマ娘たちとの差はじわりじわりと詰まってくる。
おそらくテイエムオペラオーに策はないだろう、今までのレースのように、1番人気としてマークが集中しないような位置取りを保つことが優先事項となっていることは推測に難くない。
ナリタトップロードの真後ろ、最ウチにぴったりとついてテイエムオペラオーは前を目指していた。向こう正面の上り坂を徐々に加速しながら上りつめ、トップスピードに達すると同時に緩やかな下りをゴールまで一気に駆け抜けるのだろう。
順当なコース取りであり、最もスタミナの消費が軽減されるペース配分である。
(いいトレーナーさんを持ったね、残りの距離に応じてそんなに細かく速度を管理できるだなんて。)
外を回っていくタガジョーノーブルにハナは譲ったものの、セイウンスカイはコーナーのウチ側を決して譲ろうとはしなかった。すなわち、並んだまま、第3コーナーへと突入したのである。
〈サンエムエックス、メジロランバートと間は未だに開いておりますが、この辺徐々に差が縮まって来たか、ナリタトップロードは五番手、その外にイブキガバメント、半バ身差でウチをテイエムオペラオーが行っています。これをマークするように背後のウマ娘も前へ上がって来た、メイショウドトウも動き始めました、そしてエアシャカールも外からメイショウドトウに並んでいる!〉
〈いよいよ坂を上り切れば、勝負所の始まりです!かなり無理のないペースで進んでいるので、大接戦になるんじゃないでしょうか!〉
背後から集団の迫る蹄音が聞こえても、セイウンスカイは焦りを見せぬ走りのまま、距離を詰められるに任せていた。
コーナーの最ウチ、一番距離を短く攻略できる位置は、自分がキープしている。勝負をかけるポイントは、ここではない。
ナリタトップロードの堅実なレース運びは、まさに先行ウマ娘の教科書のごとき配分であった。自分の前に走るウマ娘にどれだけリードを見せつけられても、あらかじめ定めた通りに走り、余力を残して最終直線へと突入する。
それでもテイエムオペラオーに勝てないのが、これまでずっと続いてきたレースであった。地の実力を底上げする他に、覇王を討伐する術はない。
背後にぴったりとついてくるオペラオーのすぐ傍に、メイショウドトウ、エアシャカール、そして後方から虎視眈々と狙うアドマイヤベガ……そしてさらに新たなる世代、アドマイヤボスの蹄音も迫っていた。
〈アドマイヤボス、アドマイヤベガ、並んで前を目指している、そして最後方のエリモブライアンもペースを上げ、一気に全体が固まってまいりました!先頭からしんがりまで、ぐっと縮まっております!さぁ先頭はタガジョーノーブルだが、セイウンスカイがウチ側に並んでいる!ナリタトップロードが真後ろから並ぼうとするところ!〉
〈ここからゴールまでは緩やかな下りだけです!一気に速度が上がりますよ!〉
ナリタトップロードが先頭に並びに来たということは、スタミナに余力がある状態でも逃げウマ娘たちに追いつくペースであるということだ。
(にゃはー、さすがにキッツいねぇ。けど、これに勝ちに来たんだからさ……!)
真隣りで共に逃げ続けて来たウマ娘からは、既に足掻きの色が滲み出ている。足取りが乱れているなどということでは決してなく、間近の選手のスタミナが枯渇しかけている雰囲気は、長きにわたって走っていればおおよそ伝わってくるものだ。
やがて最終直線が近づき、ついにナリタトップロードが外側から並びに来るギリギリの時まで、セイウンスカイはペースを守り続けていた。
〈ナリタトップロードが一気に先頭を目指す!タガジョーノーブルが下がっていった、先頭は再びセイウンスカイ!三番手にはイブキガバメント、その後ろに、いよいよここまで上がって来たか、テイエムオペラオー!後方に居たエアシャカールも、テイエムオペラオーに並んで上がってきている!ウチを突いてメイショウドトウも、徐々に差を詰めてまいりました!〉
〈4コーナーを回り切れば、最後の勝負です!殆ど同時に直線に向くんじゃないでしょうか、ここからはどうなる!〉
いつものごとく、そろそろ終盤の白熱とともに解説を放棄し始めたスペシャルウィークの叫びに呼応するかの如く、レース場の熱狂は頂点へ達しようとしている。
まさに夢のごとき光景であった、セイウンスカイを先頭にスタンド前の直線へと邁進してくるウマ娘たち。ナリタトップロードが先頭に並びかけ、すぐ背後にはテイエムオペラオー、メイショウドトウが迫りくる。
エアシャカールも負けじと食らいつき、その後ろからはアドマイヤボス、そしてアドマイヤベガが大外から一気に追い込む態勢に入っている。
この化け物揃いの天皇賞、最後の直線に向いた時、セイウンスカイは末脚を一気に踏み込んだ。
(見てなよ、スペちゃん。世紀末覇王が、私に食いつくところを。)
〈テイエムオペラオーいよいよ本格的に仕掛けだしたか!ナリタトップロード!そしてテイエムオペラオー!さらに外からはエアシャカール!第4コーナー抜けて、最終直線!間を抜けてメイショウドトウ!さぁ先頭はセイウンスカイ!並ぶナリタトップロードを置いて抜け出した!〉
〈末脚!やっぱり持ってた!〉
スペシャルウィークの声に、感極まった響きが混じったのも無理からぬことだったろう。3000m以上を走りぬいて、更に発揮される末脚をもって、セイウンスカイは更なる加速を披露する。
かつての黄金世代の走り、それが再び甦ったかのごとき光景。京都レース場に満たされる歓声も、息を呑むような音が殆どを占めていた。
セイウンスカイは並ぶトップロードを引き離し……同時に、ぐんぐんと近づいてくる世紀末覇王の蹄音をも聞いていた。
〈ナリタトップロードは二番手!そしてテイエムオペラオー!テイエムオペラオーがぐんぐんぐんぐん差を詰めてくる!あと200を通過!大外からアドマイヤベガ!アドマイヤボスを連れて大外から飛んできた!さぁ先頭はセイウンスカイ!テイエムオペラオー伸びる!テイエムオペラオー伸びる!しかしメイショウドトウが突っ込んできた!〉
〈行けっ!勝てるっ!〉
誰に向けて「勝てる」と言ったのか、と後から問われれば、スペシャルウィークはきっと返事に窮しただろう。
そんなことを観客の誰もが覚えているはずもなかったが。大接戦を前に、誰もが極限の熱狂状態で喚き、或いは祈っていた。
ゴールまで、残り100m。
ほとんどのウマ娘が、1秒もない差の中で競っていたが、先頭争いが行われているポジションは、まさに次元の違う世界であった。
セイウンスカイは、生涯で一番の速さをその時発揮していた……レースが終わった後でなければ、確認しようもなかったが。
〈セイウンスカイが先頭だ!セイウンスカイにテイエムオペラオーが並ぶ!ナリタトップロードも食い下がる、メイショウドトウが先に行くか!アドマイヤベガも猛烈な追い上げを見せるが、先頭は、セイウンスカイか!テイエムオペラオーか!メイショウドトウか!テイエムオペラオー!審議のランプが点きましたが、僅かに体勢の差でテイエムオペラオーか!〉
〈あぁ……!すごい!……すごい!〉
ほとんど解説などしておらずとも、その語調や声色だけで、観客たちの思いを代表できるのもスペシャルウィークのパフォーマンスの妙であった。
6番人気、もはや旧世代と見られたセイウンスカイが、最後の最後まで先頭に立ち続け、世紀末覇王と僅差にまで迫った。
全力を賭して走り切り、それでもやはり残念そうな顔色は隠せないセイウンスカイへと、惜しみなく喝采が贈られる。客席の中には、思考が麻痺したように放心状態となり果てている観客の姿も少なくなかったが。
〈ただいま着順が確定しました、一着はテイエムオペラオー!惜しくもセイウンスカイは二着となりましたが、実に僅差、大接戦でありました!三着にメイショウドトウ、ナリタトップロードは四着であります!これにてテイエムオペラオー、念願の天皇賞三連覇をも達成しました、無敗伝説も継続しています!彼女から、初の勝利を奪うのはどのウマ娘になるのか!いかがでしょう、スペシャルウィークさん……〉
〈セイちゃん!〉
自分が実況席に居ることを半ば忘れたような状態のスペシャルウィークからは、解説者としてではなく、素の声が出ていた。観客席からは、どよめきと笑い声が混じって聞こえてくる。
いつもトレセン学園で呼びかけられていたその声が、デカデカと京都レース場に響き渡るのを聞いたセイウンスカイは思わず苦笑する。実況席では、隣のアナウンサーも苦笑しつつ、その呼びかけを中断させるつもりも無いらしかった。
「なーにー?」
自分の声はきっと歓声にかき消されて届かないだろうと踏んだセイウンスカイは、口の形だけで返事をする。
〈最高だったよ!……ありがとう!また、あの走りを見せてくれて!〉
多少涙声まじりのスペシャルウィークの声が響き渡り、同時に観客席からも改めて拍手が巻き起こる。
最後の黄金世代。競い合った友たちが現役を去っていった、そのしんがりを、セイウンスカイは最高の名勝負で飾ったのだ。
とはいえスペシャルウィークの興奮度があまりに極まっていた反動か、セイウンスカイ自身の胸中は不思議と落ち着いたままであった。
「ホントは勝ちたかったんだけどにゃあ~。」
少し離れたところで、観客席から響くカメラのシャッター音に向かって様々にポージングを決めていたテイエムオペラオーが、ふと振り返ってセイウンスカイの姿を見つける。
自分までオペラオーの騒がしさに巻き込まれるのは御免だとばかりに、セイウンスカイはそそくさと控室へ下がっていったのであった。