正式にアグネスデジタルの担当が、ナリタトップロードをも指導している桂崎トレーナーに決まってから間もなくのこと。
トレセン学園所属トレーナーの中でも比較的に経験豊かな部類に入る桂崎トレーナーであったが、彼をもってしてもアグネスデジタルの走りの特質を見抜くことは困難なようであった。
他ならぬアグネスデジタル自身が、自分の得意とする走り方を見いだせていない以上、それも当然のことであったが。
「ダートでは、比較的先行寄りの走りをしてきたんだね。」
「はい、それも、状況次第で勝ったり負けたりですが……。」
直接的な敗因だけであれば、レースが終わった後にいくらでも分析できる。スタミナを浪費しすぎた区間があったり、コース取りを誤って集団に前を塞がれていたり。
しかし、レースが終わってから分かっているようでは遅いのだ。まだ始まっていない、これから出走するレースで勝たねば意味が無い。
走り込みのトレーニングを終えたアグネスデジタルと並んで、彼女の過去のレース映像を前に桂崎トレーナーも頭を抱えていた。トレーニングルームの窓の外ではすでに夕闇が迫っている。
「たしかにダートレースの中では、スピードが伸びやすいようだね。芝での走りにも向いていると言えるだろう。」
「それは結城トレーナーにも言われました、私は軽めのバ場で速度を出せるウマ娘だって。」
「だが、芝のレースでも状況が同じというわけにはいかない、ダートとは全くレース運びが異なるのは経験しているよね。」
アグネスデジタルは頷く。
ダートレースと比べて、明確にスピードの出やすい芝のレース。彼女らについて行こうとすればたちまちレース前半でスタミナが枯渇してしまうだろうことは、これまでのレース出走経験からも実感していた。
現に、今は同じトレーナーのもとで練習する仲となったナリタトップロード先輩と並走しても、その先行ペースに合わせるのは至難の業であった。
「はい、ですから、芝では自然と追い込み寄りの作戦になることが多くなってるんです。」
「そうだろうね……。」
デジタルの返答に納得しながらも桂崎トレーナーは腕組みをし、なおも考えを巡らせている様子である。
彼が既に掴めていることを確認しても、事態に進展はない。課題を解決するための手段を見出すには、まだ分かっていない点を探り当てる他に無い。
アグネスデジタルはその翌日、またしてもテイエムオペラオーと鷹木トレーナーのもとを訪れることとなった。今度はトレーナー探しのためではなく、並走練習のためである。
ナリタトップロードと桂崎トレーナーも共に姿を見せ、自分がアグネスデジタルに選ばれなかった事実を突きつけられる形となった鷹木。
それも当然のことと彼の中では受け入れようと努力していたようではあったが、やはり挨拶の言葉はぎこちなかった。そんな挙動不審な身振りも、傍らで高笑いするオペラオーの声によってかき消されていたが。
「ど、どうも……今日は、よろしく。」
「はーっはっはっは!ようこそ騎士たちよ、この初夏に薫る風に導かれ、共に青葉の光る山を駆け上がろうか!」
「ひょぉう!それも良いですねぇ、今日は天候にも恵まれましたし!」
「並走練習だって言ってるだろ。」
油断も隙も無く差し込まれる覇王ジョークが鷹木のぎこちなさをすんなりと解消し、やがて三名は練習コースのスタートラインに立っていた。
今回の並走練習は、桂崎トレーナーから鷹木トレーナーへと申し込まれる形で決定したものである。今までもアグネスデジタル自身はオペラオーと共にコースを走ることがあったものの、トレーナーから正確にタイムを見てもらいながら走るのは初のことであった。
桂崎トレーナーとしても、アグネスデジタルの直近の身体能力を知る必要がある。
また、今このタイミングでテイエムオペラオーと並走練習できるということは……無論、オペラオーが次に出走を予定している宝塚記念が2か月先であるという猶予も関係していたが……アグネスデジタルもナリタトップロードも、オペラオーと本番レースで競い合う機会をしばらく得られないということでもあった。
アドマイヤベガやメイショウドトウといった、いつもオペラオーと並んで走っている面々が宝塚記念への出走を決める中、ナリタトップロードはそれを見送っていた。
天皇賞ではメイショウドトウに次ぐ着順であったものの、大舞台に連続で出走することによる負担の蓄積を鑑みた結果である。昨年のジャパンカップでも同期のウマ娘たちが出走する中、同じ判断を下している。
アグネスデジタルもまた、しばらくはテイエムオペラオーと直接対決する予定が無いことに変わりはなかったが、デジタル自身にとっては大きな焦燥をはらむ事実でもあった。
同期のエアシャカールは、宝塚記念への出走が決まっている。すなわち、競走相手となるオペラオーと、共に練習することは出来ない。
一方、アグネスデジタルは十分に出走できる立場を得たうえで出走しないトップロード先輩とは違う。今後、十分な戦績を挙げない限り、世紀末覇王と同じ舞台に立つことすら現実にならないのだ。
(もしも、私よりも先に、誰かがオペラオー先輩に勝ってしまったら……私と競走することもなく、オペラオー先輩は引退してしまうんでしょうか。)
「デジタル?準備はいい?」
「さぁ、さぁ!いよいよ覇王自身も参戦しての御前試合が始まる!いざ!」
「は、はい!」
今の自分が、まだテイエムオペラオーの練習相手としての域にとどまっている現実に思いを巡らせ、少しの間俯いていたアグネスデジタル。
並び立つトップロードやオペラオーから掛けられた声で顔を上げ、意思も新たに練習コースへと視線を向けた。
(共に練習できる機会を得ている今を大切に、先へ進む足掛かりとしなければ、ですね。)
〈スタート。タイム計測を開始します。〉
スピーカーから流される合図とともに、三名のウマ娘は駆け出した。
距離設定は2200m、宝塚記念と同じであり、2000mを超えるとスタミナが苦しくなるデジタルにとっては一つの壁となる距離だ。
ナリタトップロードは天皇賞同様に、先行の位置についていた。オペラオーの先につき、スタート直後からじわじわと差を開いていく。いつも正確なペース配分で走るトップロードと共に練習することは、デジタル自身にとって大きな助けとなっていた。
(今回も、追い込みの作戦で行かせてもらいます……というか、先行のペースには追いつけません。)
トップロードに遅れる位置で走っているオペラオーでさえ、アグネスデジタルから距離を開きつつあった。
また、既に宝塚記念を想定した勾配の設定が為されている練習コースの直線には、上り坂が設けられている。序盤からハイペースで突っ込んでいけば、コースを一周して戻ってくるころには先頭争いに加わる余力は残っていないだろう。
(出来る限りタメて、最終直線で追いつかせてもらいます!)
軽めのバ場が得意だと評されたアグネスデジタルであったが、やはりダートで培われたコースを走破する力では芝のウマ娘よりも優れていると自認するところがあった。
スピードの出る区間で張り合うことなく、他のウマ娘が最後の力を振り絞ろうとするところで、自分にだけ残された潤沢なスタミナを燃やし尽くして一気に差す。
そうやって、去年のマイルチャンピオンシップには勝ったのだ。
あれ以降勝てていないのは、あまりにコーナー内側で攻めることを狙いすぎて、集団に巻き込まれているからではなかろうか。
その立ち回りについては考えねばならないが、集団など無い今回の三名だけでの並走練習ならば、自分の追い込み作戦の是非が判然とするだろう。
練習相手に不足はない。不足はないどころか、現世代最強格の二名である。
(向こう正面を抜ければ、緩やかに下りながらの3コーナー……先輩方、そろそろ仕掛けましたね。)
先行するトップロードもオペラオーも、徐々に速度を上げ始めた。アグネスデジタルも本意気でのスパートはまだ抑えつつ、あまり引き離されないように加速し始める。
コーナーは完全に最ウチで回り切り、道中に無理な配分はなく、スタミナには十分な余裕があった。
(コーナーの出口……私も行きますよ!)
直線へと向いたアグネスデジタルは、一気に踏み込み、ラストスパートに全力を掛ける。
距離が2000mを超えた時に感じるような苦しさは、全くない。現状の自分で組み立てうる最良のペース配分であった。
(……あれ?)
自分がラストスパートを掛けた時には、十分に差し切るだけの射程圏内にいた、先輩ウマ娘たち。
だが、ナリタトップロードも、テイエムオペラオーも、アグネスデジタルが脚を動かせば動かすほど、遠のいていくように見える……。
いや、実際にみるみる遠ざかっていく。
(離されませんよ!その先には上り坂が!)
アグネスデジタルには、まだまだスタミナに余裕がある。渾身の力を込めて末脚を発揮し、ぐんぐんと加速する。この余力があれば、上り坂に突入しても減速することなく、その勢いのままに差し切れるはず。
しかし、既にトップロードとオペラオーはアッサリと坂を上り切り、ゴール板前を駆け抜けていた。
(マジですか……?)
昨年も、同じ光景を見た。あの時は、さすがに年間無敗を掲げるウマ娘には“まだ”届かないか、と一種の楽観的な諦めとともに遅れてゴールできたのだが……。
〈タイム計測を終了します。〉
数秒遅れてアグネスデジタルがゴールすると共に、機械音声のアナウンスが流れ、並走練習は終了となった。
前方、デジタルから離れた位置で、まだ息を整えている最中のテイエムオペラオーがナリタトップロードと顔を見合わせている。どうやら僅差であったらしく、互いの走りを讃え合う表情がそこには読み取れた。
が、アグネスデジタルには、彼女らがその後何を語り合っているかなど、聴き取っている余裕はなかった。
スタミナ配分に問題はなく、自分の思うように脚が動かなかったわけでもない。
現状の自分に出来る全てを出し尽くして、なおも先輩ウマ娘たちとの隔たりが縮まらない。さすがのアグネスデジタルも、しばらく表情に緩みは戻ってこなかった。
彼女の走りを目に焼き付けていた桂崎トレーナーの表情にも、明るさはない。
しかし、その眼に映っていた困窮の色は薄れていた。アグネスデジタルに足りないものは、確かに見えたのだ。
並走練習の直後は、気持ちよく走り終えた昂揚も手伝って暫し相手を歌に付き合わせることの多いテイエムオペラオー。そんな彼女が早々に桂崎トレーナーの一行を解放したのも、アグネスデジタルが珍しく浮かぬ表情をしていたのを確認していたためだろう。
「作戦の問題じゃないな。」
トップロードと共に個別練習場へと戻った桂崎トレーナーの第一声が、それだった。
「能力不足だ。」
ますますうなだれるアグネスデジタルであったが、彼女自身が求めていたのは、言葉を濁すことなく指摘をしてくれるトレーナーである。
能力不足と言われても、否定はできない。たしかに昨年のマイルチャンピオンシップでは一着を獲ったものの、コーナーを最ウチで回り切り、そのうえ集団に前を阻まれることなく末脚を発揮して、最終直線を駆け抜けることが出来たおかげである。
いわば、なかなか巡り合えない好条件が揃ったレースだった。しかしあらゆる本番レースで有利な条件が整っているとは限らない。そのうえで、かの世紀末覇王に勝たんとするのならば、いかなる状況でも勝つだけの地の能力が求められる。
いったん口を閉じ、アグネスデジタルの表情を注視している桂崎トレーナーに視線を返し、彼女は努めて冷静な声を放った。
「トレーニング次第で、埋められる不足でしょうか。」
一番の不安は、そこにあった。これが去年であれば、まだ自分にも伸びしろがあると信じることも出来ただろうが……。
トレセン学園の三年目、ウマ娘の身体能力が本格化を迎えると言われている年に、アグネスデジタルは既に突入しているのだ。GⅠレースへ次々に出走している同期のエアシャカールと比較されれば、明らかに自分は行き詰まっている。
今以上に自分の能力を伸ばすことが出来ない、自分の限界がここまでだ……などと、信じたくなかった。
「やらなきゃ、分からない。」
あくまで現実主義、慎重に状況を見極めるのが常である桂崎トレーナーからは、至極当然の答えだけが返ってくる。
それは厳しい言葉でもあった。アグネスデジタル自身以外に、その能力の向上を保証しうる存在は居ないということだ。
「指導、お願いします。やるべきことは、全部やるので。」
彼女は深々と頭を下げ、桂崎トレーナーへそう告げるまで迷わなかった。
「身体、壊さないようにってのは、忘れないでね。」
それまで黙っていたトップロードの優しい声に、アグネスデジタルは振り返らず頷いた。
とはいえ、いかに好条件の整わないレースでも勝てる力を身に着けるというのは、険しい道である。
大概の練習においては、ウマ娘にとって理想的な走る環境が整えられるのが常であり、これまで独りで自己流の練習を続けて来たアグネスデジタルもそれに慣れてきた。
来月行われる京王杯スプリングカップの出走枠を早々に得て来た桂崎トレーナーが、新たに課したのはコーナーを外側で回って走りぬく作戦の会得である。
「分かり切ったことだが、コーナーは外側に行けば行くほど距離は長くなり、それだけスタミナも消費する。だが、あれだけ最終直線に余裕を残しているのなら、十分に勝機はある。」
「大外を回って、前が塞がれない形で最終直線に入れれば……勝ちはずっと確実になりますね。やってみます。」
が、ウマ娘の走るコースにおいて、コーナーにおける内側と外側の距離差は非常に大きなものとなる。人間が陸上競技で走るコースよりも、はるかに大きな曲線を描くウマ娘のレース場。
競争の舞台によって差はあるものの、10mから20mは差が出てきてしまう。コンマ秒の差を競うウマ娘レースにおいては、あまりにも決定的な差である。
巧みにスタミナ管理し、コーナーも綺麗に内側を回って勝ちに行くナリタトップロードと度々並走するも、まずもって最終直線に入る前につけられた差を縮められない。不用意にその差を広げられまいとレース前半で焦れば、勝負所では既に息が上がっている。
アグネスデジタルは、大外から差し切って勝つことの難しさを今さらながらに感じていた。