覇道のドラマトゥルク   作:Okubo Masau

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好条件が整わないレースでも、安定して勝ちたい。テイエムオペラオーと競い合って勝ちたいという目標を掲げ始めたアグネスデジタルは、いきなり壁にぶつかっていた。本気で勝ちを狙いに行くとなれば、今まで意識していなかった立ち回りやペース配分などが急激に重い存在感を持ち始めていた。


勝つにも、負けるにも、1秒にも満たない

 5月13日、東京レース場。

 

 天候は晴れであったが、レース場に到着したアグネスデジタルの気持ちは晴れていなかった。

 

 1月の京都金杯以来、離れていた数か月ぶりの本番レース。新しく決まった担当トレーナーに練習を見てもらう環境は整ったものの、まだ自分の走りの改善については完璧な答えを見いだせていないのだ。

 

 同じトレーナーのもとで指導を受けているナリタトップロードとの並走練習をはじめとして、他のチームとの合同練習をも重ねたが、依然としてコーナーを外側で回る走りに安定感は無い。そもそも、練習時点で勝つこと自体が難しいのだ。

 

 それでも桂崎トレーナーは彼女を京王杯スプリングカップへと送り出した。

 

「どのウマ娘も、練習の場では見せない走りがある。それに本番の駆け引きが絡んだ時、立ち回りの良し悪しも見えてくるだろう。」

 

「はい……!」

 

 練習競走を行うたび、トレーナーの手にしたノートにびっしりと競走記録が書き込まれていくのを見ていたアグネスデジタルは頷いた。

 

 レースのたびにペース配分が大幅に変わる自分を、どうにか確実な勝利へと近づけようとしてくれている。レースで一着になる術を堅実に組み立てていくトレーナーであることは、トップロード先輩を担当していた時期から分かっていた。

 

 迎えた京王杯スプリングカップ当日、以前までのように勝てる気満々で臨めはしなかったものの、心機を新たにアグネスデジタルは本番のターフ上に足を踏み入れていた。

 

 以前までのアグネスデジタルであれば、本番直前ともなればいよいよ目を輝かせていただろう。ウマ娘たちの走りをすぐ近くで感じ、自分自身も走る昂揚を味わえるのだ……と。勝てるかどうかは、自分の全力が通用するか否か、半ば祈るようなところがあった。

 

 が、それでは、たまさかに一度の勝利を得たとしても、その後を勝ち続けられない。

 

 有利な展開に恵まれずとも、芝のレースで勝ちたい。

 

(トップロード先輩も、今までこんな感覚で本番を走っていたんでしょうか。)

 

 レース本番に飛び込んでから勝ちをもぎとろうとするのではなく、勝つ術を模索してからレース本番へ挑むのは、思えば全く初めてのことであった。

 

〈天候は恵まれまして芝状態は良、いよいよやってまいりました京王杯スプリングカップ、間もなく発走の時を迎えます。これまで数々の短距離、マイルの舞台で好勝負を見せているブラックホークは1番人気、今年でレース歴5年目のベテランの風格であります。続く2番人気はスティンガー、昨年の京王杯王者は連覇なるか。〉

 

 GⅡレースともなれば、出走するウマ娘たちも十分すぎる実力者揃いである。3番人気のエイシンプレストンも、アグネスデジタルとは因縁浅からぬ選手。今年に入ってから既に5つ目の本番レースとなる彼女も、勝利へ向かう意気込みは並みならぬものだろう。

 

 単なる腕試しの域など軽く超えた、本気の競走。だからこそ、アグネスデジタルはこれから勝つための走りに全神経を集中させた。

 

〈各ウマ娘ゲートイン、態勢完了……ゲートが開いてスタートが切られました!メジロダーリング好スタートを決めています、ラムジェットシチーが二番手、そしてダイワカーリアンが外から。さらにその外を通ってセントパーク、一番手の位置につこうとするところ。注目を集めるブラックホークも先団グループ、ケイワンバイキングも同じく先団、その外からはスカイアンドリュウです。〉

 

 総勢18名で競われるマイルのレースは、立ち回りにおいてもペース配分においても濃縮された展開となる。

 

 芝のレース、下手に先行ペースについて行こうとすればスタミナに無理が出てくることを、散々練習で経験してきたアグネスデジタル。

 

 追い込みのペースで脚を運んでいる内に、みるみる前方へ殺到していくウマ娘たちが目の前に集団を形成するのを見ていた。

 

(ここで焦れば、ゴール前の勝負に備えられません。)

 

〈ヤマカツスズラン中団グループ、ウチ側にはタイキブライドルです、さらにはエイシンルバーンが居て、中団後方のスティンガーは少し掛かり気味か。その後ろに固まっていますが、ウチからテスタロッサ、トウショウトリガーが居て、一番外側にアグネスデジタルです。〉

 

 焦りを禁物とする点は、コース取りについても同じことであった。先行のウマ娘たちを前に行かせた後も、同じく差しや追い込みの選手がアグネスデジタルの周囲に残っている。

 

 内側のコースにはすでに二名のウマ娘が並び、コーナーを内側に入った状態で攻略しようとすれば、前方を塞がれてしまっている以上、最後方まで位置を下げる他になかった。

 

 むろん、マイル走の中でも短い、スプリンターたちも出走するこのレースにて、位置を下げることのリスクは大きすぎる。最終直線に入ってから加速しても、つけられた差を詰めるだけの猶予はない。

 

(ウチ側を塞がれたのなら、望むところです。私は、大外から差し切ってみせるんですから。)

 

〈最後方にはトッププロテクター、エイシンプレストンがその外、更にはその外にゴールドティアラ、三名が並ぶ形となっています。さぁやや縦長に広がって、早くも先頭は4コーナーへと入っています。前を行きますのはセントパーク、ダイワカーリアンが並びかけてくる。そして、外からヤマカツスズラン、スカイアンドリュウも押し上げてくる!間もなく4コーナーを抜けて直線だ!〉

 

 この時点で、アグネスデジタルは大外の位置についていた。

 

 とはいえ、ここから先頭を狙う加速を行えば、前方に広がった集団の中へ突っ込んでいくこととなる。ゆえに彼女はコーナーを回って来た遠心力のまま、さらに外側、すなわち観客席側へとコースを取った。

 

(この位置からであれば、加速を邪魔されることなく、先頭を狙えます!)

 

 ラストスパートに入る直前、コースを定めるのに要した時間は、ほんの少し。

 

 このコース取りに要した、少しの時間が命取りであった。

 

〈先頭は依然としてセントパークだが、差が殆ど無くなった!残り400の標識を通過!ウチを掬って、ラムジェットシチー前に出た、しかし先頭は四名が横一線に並ぶ接戦だ!メジロダーリングも来ている、そしてブラックホーク!先頭はブラックホークだ、残り200の標識を通過!ブラックホーク先頭か、外からスティンガー!〉

 

 1番人気のブラックホークが先頭に躍り出て、スタンドからの大歓声は一層沸き立つ。

 

 が、そのブラックホークにも、2番人気のスティンガーをはじめとして、先頭集団を構成していたウマ娘たちが並んで競り合っている。すなわち、彼女らの実力はほとんど拮抗していた。

 

 タイム差で言えば、1秒差にも満たない範囲に、ほぼすべての出走ウマ娘が収まっていただろう。そんな中で、コース取りにわずかでも時間を割いたことの重さを、アグネスデジタルは痛感していた。

 

(スタミナは、余裕です……なのに!)

 

 同じく最後方からの追い込みを狙っていたゴールドティアラがアグネスデジタルに並んでくる。

 

 たしかに当初の作戦通り、アグネスデジタルには大外から差す態勢が出来上がっていた……前方を塞ぐ相手はいない。

 

 逃げ、先行のウマ娘たちの中から、スタミナ残量に無理が出て来たウマ娘たちであれば、アグネスデジタルは悠々と抜いていける。追い込みの作戦としては、成功した形になる。

 

 最後方から、全体の半分にあたる順位までは上がってこれた。

 

 だが、そこから先は……。

 

(スピードが、足りない……!)

 

〈ブラックホーク先頭!外からスティンガー!スカイアンドリュウが間を割る!三名並んでいる!外から!スティンガー!スティンガーだ!スティンガーだ!スティンガー、今一着でゴールイン!〉

 

 実況には、全く名前が上がらないまま、アグネスデジタルもゴールしていた。九着だった。

 

 その後のウイニングライブでは、以前までのアグネスデジタルであれば浮かべていただろう心の底からの笑顔など作れもしなかった。既に手にしたと思われたGⅠウマ娘の称号が、自分から剥がれてしまったかのような空疎さばかりを感じていた。

 

 帰ってから桂崎トレーナーに確認したところ、一着との差は0.6秒。

 

 1秒にも満たないその差が、ウマ娘レースの中では、あまりにも大きすぎる差であった。

 

「みんな、本当に僅差で、競ってるんですよね……当たり前のことですけれど。」

 

 その日の夜、桂崎トレーナーがレースデータをまとめている前で、アグネスデジタルは呟いていた。

 

 無機質な光を放つ天井の電灯を、今日は殊に薄暗く感じる。

 

「あぁ。ちなみに0.6秒の差というのは、お前が去年勝利したマイルチャンピオンシップで……一着から八着までの差とほぼ同じだ。」

 

 コーナーの最ウチを走り、そのうえ前を塞がれずに直線を一気に走り抜けたからこそ勝てた、あのレース。

 

 仮にウチ側のコースを塞がれ、最終直線でコース取りに僅かでも時間を要していれば、今回と同じような結果に終わっていただろうということだ。

 

「お前は遅くなってはいない。ペースにも無茶はなかった。最終直線の走り、今までで一番の加速だった。」

 

 勝てたレースとの違いがあるとすれば、コーナーを外で回らざるを得なかったこと。

 

 内側に二名の選手が並ぶ、さらにその外を走るとなれば、余計に長い距離を走らなければならない。だが、その距離分を差しきるだけのスタミナであれば十分に残っているのだ。

 

 純粋にスピードが足りない、今のままでは好条件を得られないかぎり追いつけない。

 

「じゃあ……もっと速く、もっと強く加速しなければ、ですね。」

 

「あぁ。能力を伸ばすための土台は出来ている。苦しい道だが、難しい道じゃないはずだ。」

 

 他のトレーナーや担当外のウマ娘に対しては物腰柔らかな表情しか見せていない桂崎トレーナーだったが、自分の担当ウマ娘のために真剣となっている彼の表情は一気に厳しい色を帯びていた。

 

 これまでになく鋭さを増している彼の瞳を覗き込んで、アグネスデジタルは力強く頷いた。

 

 京王杯では勝てなかったため優先出走権を得られなかったものの、翌月の安田記念への出走枠はアグネスデジタルに与えられた。昨年度のマイルチャンピオンシップで一着となっていた、その実績が買われる形となったのである。

 

 正直なところ、やはり自信を取り戻せていないアグネスデジタルだけでは出走の決断など下せなかっただろうが、桂崎トレーナーは迷いなくアグネスデジタルに出るよう伝えた。

 

「本番の駆け引きの経験は、一度でも多い方がいい。お前がどんな結果を突きつけられても自信を失うような性格じゃない、と踏んでのことではあるが。」

 

「その点は、ご心配なく!なんだかんだ、勝てないままに今まで続けてますからね!」

 

 アグネスデジタルは威勢よく言い放ったものの、それは比較的好ペースで走れた練習の直後に行われた会話だったことも手伝っていたかもしれない。

 

 たしかに彼女は目に見えて成長していた。シニア級に突入してからでは遅いようにも見える、スピードを上げるためのトレーニングも、これまで培ってきた基礎的な身体能力も手伝って、昨年までとは比べ物にならない効果を挙げていた。

 

 今しがた終えた並走練習においても、京王杯の前には並ぶことすらできなかったナリタトップロードに対し、1バ身未満の差まで詰めることが出来ていたのである。

 

「それに、勝てなかったら、なんて考えたままレースに出たりはしませんし。」

 

「あぁ、今のペースで走れれば、安田記念でもトップに迫れるだろうね。」

 

 ナリタトップロード先輩からのお墨付きも得て、アグネスデジタルはますます練習へと打ち込んだ。

 

 6月が訪れ、世間の話題は宝塚記念一色に染まりつつある。

 

 テイエムオペラオー、および覇王を討伐せんと集う者たちの中に、自分の同期ウマ娘であるエアシャカールが加わっていたとしても、アグネスデジタルに以前のごとき焦りはなかった。

 

 自分が勝つべきは安田記念……れっきとしたGⅠレース、ここでの勝利が大きなものであることは間違いない。

 

 しいて挙げるならば、自分がテイエムオペラオーと対決する機会を得る前に、覇王が破られ、引退してしまうのではないかという懸念だけは感じていた。

 

「オペラオー先輩、ホントに一度でも負けたら引退しちゃうんでしょうかね?」

 

 彼女は、世紀末覇王と長く競ってきたナリタトップロードに尋ねたことがある。

 

 宝塚記念を特集する番組がテレビ画面に映り、話題はやはりテイエムオペラオーを破る者が現れるとしたら誰になるか、に終始していた。当然のようにメイショウドトウが最有力視されている。

 

「うーん、どうかな……」

 

 トップロードは、しばらく考え、その次にアグネスデジタルの目を覗き込みつつ口の中で言葉を選び、そして答えた。

 

「オペラオーは、自分がやると決めたことは確実に通すからね……」

 

「じゃあ、私よりも先に勝っちゃうウマ娘が出てきたら、もうオペラオー先輩と競走するチャンスは無くなるってことでしょうか。」

 

「もしも、オペラオーが戦いたい相手を待ち続けているのなら、そうだとは言い切れないけれどね。」

 

 もう一度、トップロードはアグネスデジタルの瞳を覗き込むようにして返事をした。実戦績はともかく、この異彩を放つ後輩ウマ娘に対しては、テイエムオペラオーも特別視しているところがあるのではないかと前々より感じていたのである。

 

 アグネスデジタル自身には、その答えの意図するところを完全に理解できたわけではなかったが。

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