テイエムオペラオーが、ついに敗れた。
思えば昨年の初頭、鷹木トレーナーがトレセン学園主任会議にて「一度でもオペラオーが負ければ、担当を外れる」との決定を受諾し……同時に、テイエムオペラオー自身も「自分は勝ち続ける限りレースに出る」と宣言してから、一年半もの時が流れていた。
宝塚記念のゴール板前を、メイショウドトウがテイエムオペラオーから逃げ切って駆け抜けた時。麻痺したような感覚の鷹木は、これといって明確な感情を見いだせずにいた。
とはいえ、それは虚無ではなく、まるで通常の知覚範囲を超えた熱さに触れた直後のような……間もなく、多大なる苦悶と激痛が襲ってくるのを待っている時の感覚にも近かった。
GⅠのレースで敗れ、自分は短からぬ時を過ごしたテイエムオペラオーの指導から外れることになるのだから。
当のオペラオー自身は、起きたことの重みを分かっているのかいないのか、宝塚記念からトレセン学園へと帰るバスの中でも、そして帰って来てからも、メイショウドトウを讃える言葉を尽くすことが無かった。
照れているドトウを前にしてオペラオーは得意の即興オペラを披露し、祝い事を先延ばしにするまいと思いついた片桐トレーナーは帰路の途中でにんじんケーキを購入し、夕闇の迫るトレセン学園のトレーニングルームにて、メイショウドトウの祝勝会が行われた。
「あぁ、ドトウ!やはりキミこそボクの最大の好敵手だと、ずっと思っていた通りだったよ!おめでとう、そして見事!この世紀末覇王を打ち倒してみせたね!」
「はわわわわぁ、直々に褒めていただけるだなんてぇ……。」
何故か負けた側の態度の方が大きく、勝った側であるドトウが恐縮して控えめな態度となっている奇異な空間ではあったが、ともかく宝塚記念の興奮冷めやらぬ彼女らは顔をほころばせっぱなしであった。
よくぞ自分に勝った、と相手を讃えるのもまたずいぶんと尊大な態度ではあったが、オペラオーの賛辞は純粋そのものであったろう。
そんな相手からの称賛を何らの下心もなく、これまた純粋な気持ちで受け止められるのもドトウならではの反応であった。
この場を純粋に喜ぶことは鷹木にとって難しい事ではあったが、表情を暗くする理由ばかりがあったわけではない。
前々より、彼の神経をすり減らしていたのは、激戦続きのオペラオーが脚に支障をきたす可能性についてであった。
昨年度、GⅠのタイトルを総ナメにしたオペラオーは、その時点で十分に引退しても構わぬほどの戦績を挙げていた。が、自分を破る者が現れるまで走り続ける、と定めた彼女自身の判断によって、引退の時は先延ばしとなっていたのである。
担当トレーナーとしては、引退の予定も無いまま、担当ウマ娘の身体に負担が蓄積し続ける状況を前に、心休まるはずがない。
だから鷹木は、その点については安堵に似た思いも抱いていた。オペラオーが致命的な怪我を負い、引退後もマトモに歩けない状態を引きずるような悲劇は回避できたのだ、と。
とはいえ脳が痺れるような疲れと共に、今までオペラオーと共に駆け続けて来た覇道に一つの終止符が打たれたことをじわじわと実感しつつある鷹木は、ただ目の前の光景を眺めるばかりであった。
よほど彼がボンヤリしていたのか、隣の席に座った片桐は鷹木の顔を覗きこんでくる。
「大丈夫ですか?お疲れでしたら、早いところ切り上げても。」
「……あ、いや、問題ないです。ただ……いよいよ、終わるのかな、と……。」
「まぁまぁ、今は後のことなんて考えずに、楽しく過ごしておきましょうや。」
むろん、片桐トレーナーも、一度でも負ければ鷹木は担当トレーナーとしての座から降ろされるというトレセン学園との約定を有していることぐらい、知っていた。
それゆえに鷹木の晴れぬ顔が、単に先ほどの負けのみに起因するものでは無いことには察しがついていたが、その憂いがいずれ杞憂と化すだろうという予測にも、どこか確信めいたものを抱いていた。
鷹木と違って、片桐は勘の良い男であった。
翌朝、トレーナーの常として早朝の決まった時刻に目を覚ました鷹木は、枕元のタブレット画面を起動し、トレセン学園側から通知が入っていないかを確認する。
昨晩も遅くまで、トレセン学園の主任会議からメッセージ、あるいは呼び出しが送られてこぬかと眠れぬままに待ち続けていた彼の目は赤く充血していた。
が、やはり今朝になっても一切の連絡はない。
特段取り立てて連絡する事項が無い、などということはあるまい……と考えつつも、常通りに出勤せねばならない鷹木は、いつも通りに支度すること自体に違和感を覚えつつもトレセン学園へと向かった。
練習場に到着すれば、やはり常通り、先に着いてウォーミングアップの走り込みを行っていたテイエムオペラオーの歌声が響いている。
「やあ!おはよう、鷹木!どうしたんだい、まだ寝ぼけたような顔をして!かの者の名は『愛』です、とでも言わねば目が醒めないかな?」
「いや、別に……」
いつぞや見た夢の内容とは真逆に、至極当然のように早朝の自主練を行っているオペラオーの姿が目の前にある。
「なぁ、聞きたいことがあるんだが。」
「おぉ、やはりこのボクについて、解き難き謎を見出していたんだね!言ってごらんよ、ボクの美しさの秘密を余すところなく教えてあげようじゃないか、さぁ!」
「そうじゃなくって、だな……オペラオー、まだ、走るのか?」
やる気満々で練習していたウマ娘に対して掛ける問いとしては、いささか適切ではない内容だったかもしれない。
が、テイエムオペラオーは顔色一つ変えぬまま、鷹木がその質問を口にすることなど予測しきっていたかのように答えた。
「もちろんさ!見ての通り、ボクの走りを初夏の風たちが待ちわびているだろう?」
いかにも説得力のある証拠を見せているとばかりに、オペラオーは風の吹き渡る広大な練習場を指し示す。
梅雨が明けたばかりの快晴の空、本格的な夏の暑さにもまだ早い今の時期は、確かに絶好の練習日和ではあった。が、無論ながら鷹木の疑念は解かれていない。
「以前に『勝ち続ける限り、走り続ける』とか言ってたと思うんだが。」
「あぁ、言ったとも!ドトウにはボクも敗れてしまったが、まだまだ勝ち続ける気は失せていないよ!」
すなわち、一度負けたとしても『勝ち続ける』だけの見通しが立っている間は、オペラオーに引退する気はないというわけだ。
一度でも担当ウマ娘が負ければ、その指導から外れることと定められている鷹木の条件とはワケが違う。そもそも、ウマ娘自身の意図はトレセン学園にも強要できないのだから、この時点で鷹木とオペラオーの道は分かたれることが決まったようなものであった。
チームを担当しているわけでもない、まだ若手のトレーナーに、自らの意思を通せる範囲は限られている。
「そうか……頑張れよ。」
「えっ?」
鷹木の口から発された言葉を聞いたオペラオーに、初めて意外そうな表情が現れる。
テイエムオペラオーがそんな表情を見せることが滅多にないだけに、むしろ意表を突かれる思いであったのは鷹木であったが、ともかく彼は担当を外れるトレーナーとして告げるべきことは告げるつもりであった。
「去年の主任会議、お前も覚えてるか?オペラオーが一度でも負ければ、担当トレーナーは変更するって決まりだった。」
「あっ……けど、それは……。」
「理事長だって忘れちゃいないさ、一年以上前のことだからって無かったことにしたりはしないだろう。」
先ほどまでの饒舌さはどこへやら、まるで別のウマ娘のように口籠り始めたオペラオー。
きっとテイエムオペラオーは誰が担当トレーナーであろうとも、変わらずその優れた能力を発揮し続ける。だから自分が去ることを告げようとも、いつも通り事も無げに送り出すのだろう。
そんな予想が見事に外れた、鷹木の方がいよいよどぎまぎし始めていた。が、努めて冷静を装いつつ、言葉を継いでいく。
「間もなく、学園の方から正式に通達が来るだろう。俺はお前の担当から外される。これからは、もっとベテランのトレーナーがつくだろうから安心していい。」
「ちょっと、待って……待ってほしい、そんな……」
「祝賀ッ!メイショウドトウ殿、GⅠ勝利おめでとう!」
トレーニングルームの扉が開くとともに、あまりに場違いなバカでかい声が響き渡り、鷹木もオペラオーも思わず軽く跳びあがった。
小柄な体が丸ごと隠れてしまうサイズの大きな花束を抱えた秋川理事長は、前が良く見えぬまま、メイショウドトウを祝うつもりでテイエムオペラオーの練習場に入ってきてしまったのであった。
おそらく受け取り手が花束を手にするのを待っているのだろう、花束を差し出した格好のままの秋川理事長。
彼女の視界が塞がれたままでは間違いに気づけぬままであろうと考えた鷹木は、しかたなくこの場に居ないメイショウドトウの代わりにそれを受け取った。
秋川理事長が入るべき扉を間違えたことに気づくと同時に、先走った理事長を見失っていた秘書の駿川たづなは遅れて姿を現した。
「よく見てください、理事長。ここはオペラオーの練習場です。」
「失敬ッ!これは済まなかった、だがテイエムオペラオー、もちろんキミの走りも称賛するッ!宝塚記念は、素晴らしい走りだった!」
「どうも……あ、ありがとう……。」
ボソボソと呟くその声が、目の前にいるテイエムオペラオーの口から出たのだと認識するまで、秋川理事長は数秒を要した。
この世のあらゆる物事に動じないものだと思われた秋川理事長もさすがに、しおらしくなってしまったオペラオーを目の当たりにするとは思ってもみなかったようだ。これまた珍しく驚きの表情を浮かべた。
もちろん、その背後のたづなも、それに輪をかけて驚きを浮かべている。
「驚嘆ッ!?いったい何があったというんだ、オペラオー!具合でも悪いのか!?」
「違うんです、理事長。今、ちょっと大切な話をしていた最中で……その、おそらく正式な通知を待つべきだと思うんですが、俺がオペラオーの担当から外れるって話です。」
鷹木としては、その説明で十分に自分の意図するところは伝わるものだと考えていた。オペラオーが動揺しているわけについても、そして今の自分が、決して明るくはない思いであることについても。
が、実際には、秋川理事長からますますポカンとした表情を引き出したのみであった。かろうじて、何か記憶を探る様子であった駿川たづなが、ハタと昨年の記憶を引っ張り出すに成功した程度である。
「理事長、昨年初頭の主任会議での話です。オペラオーが一度でも負ければ、鷹木トレーナーは彼女の担当を外れるとの取り決めが。」
「迂闊ッ!すっかり忘れていた!テイエムオペラオーの担当トレーナーは、鷹木以外に想定していなかったゆえ!」
「……え?」
その発言の意味を鷹木が飲み込むよりも、オペラオーの表情にパッと明るさが取り戻される方が先であった。
「……お、おぉ!それでは、このボクのトレーニングを、変わらず鷹木が担当してくれるんだね!」
「無論ッ!我らがトレセン学園は、ウマ娘の意思を最優先とするッ!オペラオー、キミが担当の変更を望むのならば、代わりを用意しないでもないが……」
「ボクは、鷹木トレーナーがいいんだ!あぁ、良かった、トレーナー!これからもずっと頼むよ、はーっはっはっは!」
「おう……よろしく……」
どこか悲壮な覚悟を固めてまで、オペラオーに別れを告げる決心を抱いていた鷹木は、これで幾度目かの肩透かしをトレセン学園から食らった形となった。
あまりにもアッサリと理事長の許諾を得て、テイエムオペラオーの担当トレーナーを続けることとなった鷹木であったが、やはり手放しに喜べる状況ではない。
再び本番の舞台へと、ひとたび敗れた世紀末覇王が姿を現すとなれば、今後の戦績についてトレーナーの肩にかかる責の重さは並みならぬものだろう。また、前述した通り、いよいよ身体に負担が蓄積していくオペラオーの引退のタイミングも難しくなってくる。
「落着ッ!ところで、その花束はメイショウドトウに渡すために持ってきたものだ!丁度良い、私の代わりに持ってもらおうか、鷹木トレーナー!」
「あ……はい……。」
「ボクも行こう!理事長が再び迷わぬように、ドトウの練習場へ案内しよう!そして再び、彼女を讃えようじゃないか、さぁ!」
しかし、今この場を占めていたのは、圧倒的に賑やかな面々の声々で。
鷹木は大人でも一抱えはある花束を持たされたまま、オペラオーや理事長に引っ張られる形でメイショウドトウの元へ向かったのであった。