夏が訪れれば必ず夏合宿に行かねばならない、という決まりは実のところ無い。
トレセン学園二年目、あるいは三年目のウマ娘たちについては事実上、全員参加のような状態となっていたが、昨年のアグネスデジタルのようにレース出走スケジュールが重なっていた場合はレースが優先される。
それに、トレセン学園四年目ともなれば、夏季期間の過ごし方には大幅に自由が認められていた。ウマ娘自身の意思、あるいはトレーナーの裁量に大きく委ねられている。
無論、例年通りにトレセン学園の合宿所へ向かっても良いが、現役トップクラスのウマ娘たちが練習を行うとなれば練習場を他のウマ娘たちが譲らねばならぬことになる。まさに今から能力を伸ばしていこうとする後輩ウマ娘たちの存在を思えば、鷹木トレーナーとしては憚られる選択であった。
何かにつけて無遠慮かつ豪胆な片桐トレーナーであれば、それにも躊躇しなかっただろうが。しかし、今年の彼が鷹木の元へ持ち込んできた話は全く別のプランであった。
「今年の夏は、久々にVIP気分を味わえそうですよ。また、ウチのドトウに吹き込んでおきましたのでね。」
「……何をですか。」
胡散臭い無精髭面を歪ませてニヤニヤしている片桐に、不穏な空気しか感じられない鷹木は恐る恐る聞き返す。
不穏とはいえ、この男について行けば利のある立場に着くことが出来るのは経験則からも確実であったため、持ちかけられた話を拒むという選択肢は鷹木の中には無かった。
「『今年こそ、競うべき相手に集中して練習すべきだ』……と、アドマイヤベガに伝えるように、ですね。」
「アドマイヤベガ……つまり担当の結城トレーナーの合宿所狙いですね。」
「来年は厳しい。行けるもんなら、行っておきたいでしょ?」
「えぇ、まぁ。」
そして、鷹木がどうせそう考えることを、片桐も分かり切っていただろう。
トレーナー二人が打ち合わせを行っていたのはそもそも夏の予定の件ではなく、これから行うテイエムオペラオーとメイショウドトウの並走練習のためであり、間もなく休憩時間が終わるとともに両ウマ娘は同じ練習場で顔を合わせていた。
その会合を見計らったように現れたのは、アドマイヤベガである。
「おぉ!夏を迎えていよいよ燦然たる一等星も、ボクたちの並走練習に飛び入り参加かい?」
「はわわわぁ、ますます、緊張しますぅ……。」
「あなたはオペラオーに勝ったんだから、もう少し堂々としていいでしょうに。」
メイショウドトウに向けたそんなアドマイヤベガの言葉は、後半を鷹木トレーナーへと視線を向けた状態で発された。
担当トレーナーが年間無敗記録を打ち立てようとも、そして敗れた後も絶対的覇王としての出走を求められるほどの存在になろうとも、なお自信なさげな態度を続ける鷹木に対しても思うところはあったのだろう。
とはいえ、アドマイヤベガがこの場に現れたのは愚痴を伝えるためではない。彼女は二通の封筒を、それぞれオペラオーとドトウに対して差し出した。
「はい、夏合宿への招待状。」
「え、えぇとぉ、招待状、ということはぁ……。」
「すなわち!結城トレーナーの所有する、合宿所へとボクたちも行ける、ということだね!」
ことを察したオペラオーの声が、普段にもまして明るくなったのも無理はない。
トレセン学園の管理する合宿施設とは別に、URA界のレジェンドである結城トレーナーは個人で合宿所を持っていた。当然ながら利用期間外も常時管理し続けなければならぬ以上、多少名の売れた程度のトレーナーには到底真似できる芸当ではない。
他のウマ娘との兼ね合いを気にすることなく、芝・ダート双方のコースを備えた練習場、およびトレーニング設備を好きなだけ利用し続けることが出来る。……とはいえ、トレセン学園から専用練習場を与えられているウマ娘たちにとっては、大して普段と変わらぬ環境ではあったが。
しかし、オペラオーはその内実よりも、アドマイヤベガから招待状を受け取るという行為そのものについて大いに興奮していたようであった。
「あぁ!あの夏の太陽は、さぞやボクの美しさを待ち焦がれていることだろう!天上のベガが輝く下で、共に夜を語り明かそうじゃないか、アヤベさん!」
「存在しない記憶を捏造しないでもらえる?」
「さ、三年ぶりですぅ……あの合宿所、今はどうなってるんでしょうか……。」
封筒から取り出した招待状を読み、再び畳んで封筒に入れようにも不器用ゆえか容易く戻すことが出来ず悪戦苦闘しているドトウ。
彼女の呟きを聞いて、鷹木も当然の事実を今さらのように認識した。
「そうか……三年前のことになるのか。」
結城トレーナーの個人合宿所に招かれ、夏季の特訓に明け暮れたのが三年前の出来事。
それから今に至るまで、あまりに多くのレースを乗り越え、URAの歴史にも刻まれるほどの大舞台も経験してきた。それだけに、人間の時間感覚をもってしても三年前は遠く思い出されるものであった。
「私のところからはシャカールがついてくる。もちろんトップロードにも招待状を渡してるし、一緒に練習してるアグネスデジタルも来るわ。」
「おぉ!実に賑やかで、輝かしい夏になりそうだ!はーっはっはっは!そのまま冬をも越せそうだよ!」
「夏合宿だって言ってるでしょうが。」
先ほど片桐からも言われた通り、来年の夏になってもなおオペラオーが現役で走り続けている可能性は大いに低い。むしろ、今年中に引退していなければ、いよいよ身体に故障を抱えることが確実となってしまう。
鷹木にとっても、これ以上に輝かしい夏を経験する機会は二度と無いようにも思われた。
その後、メイショウドトウとオペラオーとの並走練習を終え、今日は早めに練習時間を切り上げてウマ娘たちを寮へと帰した鷹木。
オペラオーに蓄積する疲労のことを鑑みると、学園のウマ娘たちがまだ練習を続けている頃にその日のトレーニングを終えることが多くなっていた。夏ゆえにまだ日は沈みきらず、練習場には長い影を伸ばしたチームウマ娘たちが走り込みを続けている。
あの中から、覇王の次なる世代を担うウマ娘たちが現れるのだろうか。あるいは既に戦績を挙げていれば、専用の練習場を与えられているのだろうか。
そんなことを考えながらボンヤリと夕陽に顔を照らされていた鷹木の背後から、久々に聞く声が呼びかけた。
「鷹木トレーナーさん?」
「わっ……あっ、あぁ、グラスワンダー……さん。」
現役を引退して、丸一年以上が経過していたグラスワンダー。
同じく引退していたスペシャルウィークが今なお華やかに、姿を現すときは歓声に取り巻かれているのとは対照的に、彼女はいつも静かに現れた。
裾の長い外套を身に着けていた冬の寒い頃とは異なり、爽やかに淡い色でまとめた彼女は大きく印象が異なった外見となっていた。
が、やはり歩行補助の杖は手放せないようであった。
「唐突にすみません、今日は学園の図書室で過ごしておりまして、その帰りに偶然お見かけしたものですから。」
「そ、それは、どうも……」
「この前の宝塚記念、素晴らしい名勝負でしたね。」
「あぁ、いや、ドトウが凄かったので。とうとう、オペラオーは無敗記録がストップということになってしまったが……。」
そこまで自分の口で答えて、鷹木はハッと思い当たったようにグラスワンダーの顔に改めて視線を向ける。
昨年末の大晦日、仮にオペラオーが引退すべき時が来れば、トレーナーとして彼女を本当に引退させられるのかと問うたのは、ほかならぬグラスワンダーであった。
が、ついに敗北を喫したにもかかわらず、テイエムオペラオーは現役を続行する気でいる。
グラスワンダーは、この件について鷹木に改めて問いを投げかけるため、ここで待っていたのかもしれない。
「問題ないのですか?以前、オペラオーさんの身体について、無理と感じたら引退させる、と仰っていましたが。」
「あ、あぁ、その点は、大丈夫、レース後もきちんと校医に見てもらったし、脚には何も問題ないと言われている。」
「そうですか。」
鷹木から返事を得たグラスワンダーの反応は、しかし余りにも素っ気なかった。
自分の返事に何らかの不備があったろうか、と考えた彼は、その返答がトレーナーであれば把握していて至極当然の事に過ぎなかったと気づく。
そうではない、自分がオペラオーの現役続行を止めなかった理由が、本当はどこにあったか。
黙りこくって、この場から立ち去ろうとせず、鷹木の隣でウマ娘たちの練習風景を見つめているグラスワンダー。彼女が待っている答えを、鷹木は真剣に探り出した。
「……オペラオーは、走り続けたいんだ。」
「……。」
「そうだ、そうでなきゃ、俺も不安なのにレースへ送り出したりしない。正直なところ、俺は不安だ、医者でも見つけられなかった怪我の原因が潜んでいるかもしれないってのに。」
「そうでしょうね。それでも、ウマ娘が走りたいと言うならば、彼女を勝たせるのがトレーナーの責です。」
グラスワンダーは練習場へと踏み出す。
何を始めるのかと訝し気に見つめている鷹木の目の前で、彼女は手にした杖を、ストッと練習場の芝の上に突き刺した。先端に刃がついていたわけではなく、あくまで木製の杖に過ぎなかったのだが、まるで鋭利な刀剣を突き立てたかのように真っすぐに杖は立っていた。
杖をあとに残し、グラスワンダーはスタスタと歩いていた。現役引退直後は車椅子生活を続けていた彼女が、今や杖を使わず歩けるほどにまで回復したのだ。
「えっ……。」
が、鷹木はそれ以上に驚かされる光景を目の当たりにすることとなる。
グラスワンダーは走り出している。
既に日は沈み、夕の薄闇の中、練習からウマ娘が撤収していった後の練習場をグラスワンダーの脚が駆けていく。
おそらく全力では走っていないのだろうが、スペシャルウィークから二度も勝利を奪い取った、有馬記念連覇の黄金世代ウマ娘の走りは、練習場から帰ろうとしていたウマ娘たちの視線をくぎ付けにしていた。
逢魔が時に現れた怪異さながら、伝説級のウマ娘は宵の魔風となって練習用コースを軽々と一周する。
唖然として口を開きっぱなしにしている鷹木トレーナーの前まで戻って来た彼女は、全く息を切らしていないままの声で告げた。
「心配ないですよ。骨折して引退していた私だって、今はこうやって走れるんです。」
「は……はい……。」
「オペラオーを、全力で走らせてあげてください。あなたのようなトレーナーにこそ、彼女はきっと感謝するでしょうから。」
芝の上に突き立てていた杖をスッと抜き取り、一応は補助用として突きながらグラスワンダーは去っていく。
やがて練習場にかつてのグラスワンダーが現れたとのうわさを聞き付けたウマ娘やトレーナーたちが押し寄せて騒がしさを加え始めるまで、鷹木は打ちのめされたように立ち尽くしていた。
たしかに、彼は己の取った選択に肯定を与えられた。しかし、それは厳しい肯定であった。
いかなる結末に終わろうとも、トレーナーはウマ娘が走るのを引き留められないし……その結末は、ウマ娘の生涯とともに背負っていかねばならないのだ。
ウマ娘の世界の熾烈さは、選手生命が続く限り付きまとうものであった。