合宿場所が変わろうとも、例年通りにウマ娘たちの夏合宿トレーニングは過酷である。
寝泊まりする場所から練習場まで数分とかからぬ環境にて、彼女らは睡眠と食事、休憩時以外のほぼ全ての時間を練習につぎ込んでいる。過度なトレーニングによって彼女らの身体に負荷が掛かりすぎぬよう、トレーナー達の管理能力も問われる。
とはいえ、ウマ娘たちの表情に苦しみの色が浮かぶことは全くない。自分たちの走りを極めるための理想的な環境の中、思うがままに走り続けられることが楽しくてならないといった感覚だったのだろう。
あるいは、この夏の間だけは忘れていられる事実……いずれ本番レースで競い合う仲であることから離れていられる実感もまた、彼女らに解放的な笑顔を与えていたろうか。
「はーっはっはっは!危ういところだった、今度はシャカールくんに追いつかれかけたね!」
「理想のペースで詰めたんだが、あと一歩足りねェか。」
彼女らの練習は、秋の出走が予定される天皇賞の2000mコースを想定して主に行われていた。
テイエムオペラオーの背に、宝塚記念で一着となったメイショウドトウを始めとした同期ウマ娘たちが迫るのは当然として、既に後輩たちとの実力差も無くなりつつあるようであった。エアシャカールは調子が良ければ世紀末覇王に並ぶ形でゴールすることも珍しくない。
そんな状況を目の当たりにしても、鷹木トレーナーの心に浮かんでくるのが焦りばかりではなくなったのは、彼がオペラオー引退のタイミングを探りつつあったためかもしれない。
エアシャカールには未だ及ばずとも、こちらもめきめきと実力を伸ばしつつあるアグネスデジタルが息を整えながら会話の輪へと入っていく。
「いっ、今のは、ちょっとペース配分をミスりました!もう一回、もう一回お願いします!」
「いいとも!ボクとの競走を望む者がいる限り、何度でも共に駆けよう!」
「無茶をしてはダメ。」
「全力の競走は、今日あと一回だけだね。」
デジタルに同調するようにして気炎を上げているオペラオーを諭すように、アドマイヤベガとナリタトップロードが冷静な言葉を掛けている。合宿の初日にアドマイヤベガ自身が言っていた通り、確かにオペラオーはトレセン学園入学当初から性質がほぼ変わらぬようであった。
黄金世代のスペシャルウィークが引退後の今も現役時代と何ら変わりない姿を見せているあたり、ウマ娘レースにてトップに立ち続ける存在はどこか不変なるものを内に抱えているのかもしれない。
それと比べれば、アドマイヤベガなどは特に性格に大人びた雰囲気が備わりつつあった。三年前、この合宿所に居た彼女は、僅かな休憩も惜しんでトレーニング時間を確保しようと躍起になり、息抜きを入れることなどムキになって拒んでいたものである。
「合宿の開始から、今日で一週間ね。毎日トレーニング漬けが続いていたし、そろそろ息抜きの日を作ってもいいかもしれない。」
それだけに、とある朝、他ならぬアドマイヤベガの口からそんな言葉が出たことに、トレーナー陣はウマ娘の精神的な成長を感じ取らずに入られなかった。
真っ先に反応したのは、やはりテイエムオペラオーである。
「おぉ!よもや、アヤベさん自身から息抜きの提案があろうとは!では、これよりパリ・オペラ座へ向かおうか!」
「言うまでもなく、練習を兼ねての息抜きよ。目的地は合宿所の近場……結城トレーナー、またお願いしてもいいかしら。」
老トレーナーは熱い茶を啜っている最中であったが、眉を上げながら返答をまとめつつ、茶を飲み込んでから口を開く。
その仕草は三年前と全く同じであり、彼に対してのみ鷹木は時間の流れというものを実感できなかった。きっと、これから先も結城トレーナーは、こうして変わらずウマ娘レースの行方を見守りつづけるのであろう。
「ん、太田さんの食堂かい?」
「えぇ、あれ以降、結局また行く機会も無かったものだから。」
その食堂もまた、三年前の夏合宿にてウマ娘たちが訪れた場所であった。
午前中を軽いトレーニングで済ませ、この合宿所からウマ娘の脚で走ってもそれなりの時間はかかる食堂へ向かい、昼食をとる。昨年はドトウがはぐれるというトラブルのために到着が大幅に遅れてしまったが、何事もなければ日が傾くよりは早く帰ってこれるだろう。
結城トレーナーの呼びかけに応じ、厨房から手を拭きつつ出て来た割烹着の中年女性は、やはり三年前と何ら変わらぬ姿に見えた。
「あら、まぁ、今年は新しい子も増えたのね。」
「はい!私、アグネスデジタルっていいます!新しいって言っても、もう学園入って三年目なんですけどね。」
「……オレは、エアシャカール。」
学園の三年目、シニア級を走っている彼女らが新入りとして扱われるのも、思えば奇妙な状況であった。
本来であればベテランの域に達しているはずのデジタルやシャカールが、オペラオーたちの後輩として見られ続けてしまう。存在感の大きすぎる先輩たちを抱えた彼女らの立場が、間接的に示されているかのようでもあった。
「じゃあ、あの時と同じように来てくれるのね。準備をして、楽しみに待っているわ。」
「えぇ、よろしくお願いします。」
三年前はトップロードに引っ張られるような形でついて行ったアドマイヤベガが、今年は率先して太田へと頭を下げている。
白飯の上に梅干しの果肉をほぐしながら様子を見ていた片桐が、隣に座る鷹木に耳打ちした。
「あんなに頑なに息抜きを拒否していた子が、変わるもんですなぁ。」
「えぇ、やはり後輩ウマ娘が出来ると、成長するものかもですねぇ。」
きっと、後輩たちにも、この夏の思い出をすこしでも多く持って帰ってもらいたいのだ。そう考えているトレーナー達は、それぞれの思い込みを元に頷き合っていた。
が、アドマイヤベガの本心は別にあった。正直なところ、彼女は夏を迎えるたびに膨れ上がる不安を抱えていたのだ。
初めてここでの夏合宿に参加した年、彼女は一つの怪奇なる経験をしている。まさに三年前、食堂を訪れた帰り……独りで先に合宿所へと帰ろうとしたアドマイヤベガは、古びた掲示板に貼られている謎めいた新聞記事を目にしたのだ。
『99年ダービー馬、アドマイヤベガ急死。 29日早朝、99年日本ダービーを制したアドマイヤベガ(父サンデーサイレンス、母ベガ)が急死した……』
そこに書かれていた年数、および『馬』という言葉を彼女は全く知らなかったが、ともかく自分について不吉なことが書かれた文章であることは理解できた。
その後、記事に予言されていた通り、東京優駿での勝利後、脚の不調を理由に長期休養することとなり、ますますもってあの不吉な予言に確信めいたものを感じることとなったアドマイヤベガ。
翌年にはどうにか療養期間を乗り越えて現役に復帰できたのだが、昨年の夏合宿中に再びそれは現れた。
この合宿所ではない、トレセン学園の所有する合宿所だったにもかかわらず。
『……引退した。アドマイヤベガは引退した。走っていない。もう走らない。走ってはならない……』
執拗に、自分が引退していないことを責めるような文章は、その古ぼけた紙面に間違いなく記されていたのだ。
今年は何が来るのか。自分が引退しない限り、あの怪奇現象は起こり続けるのか。
「何かの勘違いよ、実際にはあんなもの、存在しないんだから……。」
そのように自分自身に言い聞かせても、むしろ言い聞かせるほどに不安は膨れ上がっていく。
それゆえに、早いところ三年前と同じ状況を作って、あんなことは二度と起きないものだとアドマイヤベガは確信を得たいのであった。
予定通りに午前中のトレーニングを終え、食堂へと向かう一同。潮風に全く冷まされることなく陽射しに焼かれる路上を、たまに通るのは農作業の道具を積んだ軽トラぐらいのものである。
「合宿所の外に出ても、寂れてンだな。」
「ま、まぁ、山も海も近いですし、自然豊かな場所だってことでしょう!」
「はーっはっはっは!田舎だ!」
エアシャカールの呟きをアグネスデジタルが婉曲な表現へと落ち着けたうえで、身もふたもない言い方へと変換しているテイエムオペラオー。
メイショウドトウはと言えば、今回こそは皆からはぐれまいと気を付けつつも、雑草の生い茂る路肩へ気づかわしげに視線を走らせていた。そんな彼女へナリタトップロードが尋ねる。
「どうしたの?何か探してるみたいだけど。」
「三年前、私が助けたタヌキさんは大丈夫かなって、気になってるんですぅ。」
「あぁ、あの溝にハマっていたっていう……。」
「もしも、また溝にはまってしまって、そのまま乾涸びていたらと思うと、急に心配になってきましてぇ……。」
「み、みょうに生々しい想像するね……。」
「きっと大丈夫よ。」
アドマイヤベガも脇から口を挟んだが、この場に少しでも不吉な連想を入れたくはないという思いの表れであったろう。
結局、ウマ娘たちが食堂までの長い道のりを駆ける間、何の予想外な出来事も起きなかった。今年こそはドトウもはぐれることなく、当初の予定通りに昼飯時に到着した一同。
太田の歓迎を受けながら食事に舌鼓を打ち、雑談をしている内に時計は午後の一時を過ぎていた。
アドマイヤベガはふと立ち上がり、ナリタトップロードが目を向けた。
「おや、アヤベ。やっぱり、先に帰って練習かい?」
三年前は既に夕刻が迫りつつある頃だったため、彼女は確かに急いで合宿所へ帰ろうとしていた。が、今年のアドマイヤベガは首を横に振る。
「いえ、ちょっと外の空気を吸いに行くだけ。皆と一緒に帰るまで、待ってるわ。」
安心したようにトップロードは賑やかなお喋りの輪へと戻っていき、その賑わいを背にアドマイヤベガはカラカラと食堂の扉を開けて外へ出る。
かつてとは全く対照的に、明るい昼下がりの田舎道が目の前に広がっている。念のため目を凝らしてあちこちと見回してみるも、古い新聞記事が貼り付けられている掲示板など存在しない。
「ホントに、何でもないことに心配になったりして……。」
先に帰るわけでもないのに、こうやって独りで外に出たのも、三年前の経験が幻覚か夢であったのだとの確信を得るためであった。自転車がのどかな音を立てて、夕刊を運びに来たのであろう新聞配達人が食堂のポスト前までやって来る。
海に近い土地特有の、強い海風が吹きつけ、配達人の手から新聞紙をめくり取って運び去ろうとした。
「おっと……!」
風に乗って飛んでいく新聞紙に、追いつくのはウマ娘の脚をもってすれば容易いことである。風で運び去られようとする新聞紙の方へ配達人が向き直るよりもはやく、アドマイヤベガは捲れた一面を空中でキャッチしていた。
「はい、どうぞ。」
そのまま、新聞紙を渡していれば、何事もなく昼下がりの平和なアクシデントは終息していたのかもしれない。
が、アドマイヤベガの目は、その紙面に見覚えのある名を見つけ出してしまっていた。
『2000年の準三冠馬、エアシャカールが死去。2001年の有馬記念を最後に引退していたエアシャカールは、引退から三か月後の2003年3月13日、放牧中の事故により左後脚を骨折。牧柵に激突した際の負傷と見られ、懸命に治療が施されたものの完治は見込めず、安楽死処分となった。現役時代に怪我をせず走り切っていただけに、驚きの声が……』
『11月25日、東京競馬場で行われた第21回ジャパンカップにて、1番人気の状態でゴールへ向かっていたテイエムオペラオーは突如失速。歩くこともままならぬ状態となり、レースを中止した。間もなく脚部の粉砕骨折が判明し、治療の見込み無しとされ安楽死の処置がとられた。98年のサイレンススズカの件をなぞるような出来事から、“暗黒の日曜日”だとも……』
あまりに冷たすぎる水を唐突に浴びせられた時のような状態で、アドマイヤベガはボーッとした感覚のまま、その紙面を見つめていた。
やがて総身の毛が逆立ち、指先と声を震わせながら、どうにか声を出す。
「……嘘よ……これは、全部、ウソ……」
視線を紙面から上げれば、先ほどこの新聞紙を運んできた配達員と目があった。
今さらながらに、不気味な人物であった。歳を取っているとも、若いとも言えぬ風貌。瞳に宿る光は若々しく、それを縁取っている瞼は年月を重ねたように垂れ下がっている。肌に張りはなく、しかし皺は一本も刻まれていない。
表情も無い。男性か女性かも分からない。とりあえず人間の姿をかたどっただけの何か……もはやそうとしか表現できない存在……は、アドマイヤベガが手に取った新聞紙を指さして、口を開いた。
「……。…………。」
たしかに、何かを伝えようとして口を動かしている。が、声は全く聞こえない。
新聞配達人の口の中は、真っ暗であった。歯も、舌も見えぬ暗闇。昼の明るさに溢れた周囲から、闇の要素を全て凝縮して詰め込んだかのように暗い。
「ちょっと、皆……。」
ともかく仲間たちの元へ戻ろう。得体の知れぬ危機を感じ取ったウマ娘として、本能的にそう考えたアドマイヤベガは食堂の中へと視線を向け、更にギョッとすることとなる。
その中には、誰も居なかった。
まるで何年も前から閉店してしまったかのごとく、入り口のガラスはひび割れ、部屋の隅には蜘蛛の巣が張り、埃だけが床に積もっている。
「なんで……!?」
なおもこちらに向かって、声なき声を語り掛け続けてくる配達人に背を向けるようにして、アドマイヤベガは走り出していた。
テイエムオペラオーから東京優駿の栄冠を奪った脚、あの不吉な予言に従わず今もなお現役でレースに出続けている彼女に、陸上で追いつける存在などそうそう居ないであろう。
それでも、アドマイヤベガは理解できぬ脅威から少しでも逃れようと、必死で、息を切らして、走り続けていた。
空は夕刻にはまだまだ遠く、周囲は夏の日差しに溢れている。路上は陽炎が立つほどに暖められているし、両脇には生き生きとした雑草の緑があふれている。この明るい時間帯を、こんなにも不気味に感じるものだとは思えなかった。
田舎道をしばらく走り続けたアドマイヤベガは、ようやく勇気を振り絞って、本当に勇気を振り絞って、背後を振り返る。
誰も居ない。すかさず前を見る。やはり、ここには自分ひとりだけ。
「今のも、幻覚……それとも、手の込んだ悪戯……?」
しかし、あの食堂内の荒れ放題になった光景は、とてもちょっとしたイタズラで用意できる範囲のものではない。本当に、自分がちょっと食堂から離れた瞬間に、何年もの歳月が経過したかのようであったのだ。
あの食堂から逃げてきた今、アドマイヤベガは向かうべき先を見失っていた。
「戻りたくは、ない……。」
三年前、同じく奇怪な現象に見舞われたアドマイヤベガは、いかにして皆の元へ帰ったのかを懸命に思い出そうとしていた。
「確か……」
〈迷うことはないさ 君がこの手を つかめば
夢に見た世界へ さぁ!共に行こうか!〉
遠方から、かすかに、はっきりと、嫌というほど聞き慣れた声が喧しく歌う声が響いてくる。
それは確かに、先ほど逃げて来た食堂とは反対側から聞こえて来た。アドマイヤベガは迷わず走り出す。自分が巻き込まれた怪異から、逃れ出る確実な手段を得たのだと信じて。
〈振り返れば 花が舞い まるで世界に愛されるために
生まれた その先へ行くのさ!〉
息は切れ始めたが、アドマイヤベガは脚を止めない。本番のレースであれば、とっくにラストスパートの失敗が確定しているペース配分であったが、息を切らしながらもアドマイヤベガは駆け続けた。
果たして、テイエムオペラオーの歌声が響く方向から、皆と共に来たはずの食堂が見えて来た。
「君に会えたこの奇跡!すぐ走りだそう!踏み出せば、ほら!誰にも負けはしないさ……!あぁ!見てごらん、やはりアヤベさんは戻って来たじゃないか!」
「さ、さすがですぅ、オペラオーさん……」
食堂の前にて姿を消したアドマイヤベガを探し求めていたウマ娘たちが、こちらへ走ってくるアドマイヤベガを見つけて手を振っている。テイエムオペラオーは、何の根拠もない自信と共に、歌によってアドマイヤベガを呼び寄せることが出来ると宣言していたようだ。
結果的に、それは正しかったのだが。
「アヤベ先輩!どこ行ってたんですか、皆で心配してたんですよ、すっかり姿が見えないもんですから!」
「合宿所からも帰っていないと連絡が来るし、いったいどうしたのかと……ッ!?」
アドマイヤベガは無言のまま、そしてすっかり息の切れてふらつく足取りのまま、ナリタトップロードへと飛びつく。
彼女の熱い息が首筋にかかると同時に、トップロードはアドマイヤベガの喉元が震えていることに気づいたのであった。
「ひょわぁあ!?な、何をなさってるんです、アヤベ先輩!」
「おぉ!やはり感動の再会シーンは、こうでなくてはならないね!」
「タダの迷子から戻って来ただけにしちゃ、大げさすぎンじゃねぇのか……?」
周囲のウマ娘たちが口々に勝手な解釈をそこに加え、間もなく暑さのためか自らの妄想のためか鼻血を噴き出しはじめたアグネスデジタルへと騒ぎの中心は移っていった。
が、ナリタトップロードだけは、アドマイヤベガの瞳の中に、大きな怯えが浮かんでいることを分かっていた。
「アヤベ、あとで話をちゃんと聞くから。」
「……うん。」