「だ~れだ」
女の声と共に、司令室に座る碇ゲンドウの視界は柔らかく、暖かい掌によって覆われた。
碇ゲンドウの身体は、視界が塞がれた瞬間、反射的に動いていた。
視界を塞ぐ手を掴み、捻り揚げようするが、碇ゲンドウの意識が女の声が何者かを認識し、手を掴んだ所で身体の動きを止める。
「情熱的に掴んでくるのはいいけど、女性の手を握るときに込める力じゃないかにゃ」
「真希波博士か」
「ご名答~」
揶揄するような声音に、碇ゲンドウは確信をもって相手の名を告げた。
告げられた女、真希波マリは碇ゲンドウの視界を塞ぐ手を外すと、司令室の机に腰掛ける。
年は30代前半、赤みがかったロングの茶髪、胸元が開いた白いブラウスに薄ピンクのジャケット。
碇ゲンドウの記憶に残る碇ユイの赤い縁の眼鏡。
真希波マリの赤い眼鏡が視界に入った瞬間、碇ゲンドウは思わずその眼鏡に手を伸ばすが、真希波マリは片手でその腕をそっと抑えた。
「駄目だよゲンドウくん。この眼鏡は私の宝物なんだから」
「……真希波博士、どうやって入ったかは聞くまい。何故、日本にいる、アダム計画はどうした」
「アダム計画責任者真希波マリ博士はお仕事がひと段落したから休暇中よん。ふふ、そんな可愛い目で睨まないでほしいにゃ。ゲンドウくんが欲しいものはおじーちゃん達の鈴が届けることになってるよ」
真希波マリは、鈴を転がすような声で楽しそうに笑っている。
しかし、多くの異性を魅了するであろう真希波マリの容姿を目の前にしても碇ゲンドウは揺るがない。
「報告は受けていないが」
「それは鈴くんのお仕事じゃん。正式ルートならあたし関係なくない?NERV所属じゃないんだから」
「無駄話をしに来たのか」
「相も変わらず堅物だにゃ~。おじーちゃん達がサルベージしたアダムの魂はどう使ったと思う?」
真希波マリは焦らすように言葉を区切ると、碇ゲンドウの顎に細い指を添え、そっと上を向かせて目線を合わせる。
「葛城調査隊が実施したアダムへのダイレクトエントリーの副産物。色々と破損が激しかったけど修復してなんとか実用に耐える器が出来たからそこに封入、良い感じに定着してるよ」
「それは計画には必要無いものだ」
「けど、障害にもならない。ゲンドウくんに都合のいいものばっかり作ってたら、あたしまでおじーちゃんに睨まれてこの先やりにくくなるじゃん」
「それだけを言いに来たのか?早く本題に入れ」
真希波マリは碇ゲンドウの顎から指を外すと、そのまま上半身を倒し机の上で横になり、ジャケットの内ポケットから取り出した携帯端末を、碇ゲンドウの目の前に置いた。
「ゲンドウくんにはソレを通してもらおうと思って」
「これは……」
「ふふ、驚いた?ゲンドウくんは忘れてたかもしれないけど、一応あたしも天才枠なのよん」
携帯端末を手にした碇ゲンドウの反応を見た真希波マリは、悪戯が成功した子供のように顔をほころばせて笑う。
碇ゲンドウは、得意げ笑う真希波マリを一瞥すると、携帯端末に表示された情報に視線を戻す。
真希波マリがくすくすと笑いながら机の上で仰向けになると、長い髪が波打つように机の上に広がった。
そのまま腕を伸ばし豊満な胸をそらしている。
「ん~……気持ち……いい~」
「使えるのか?」
「5号機で実証済。使えなかったらフィフスの申請するわけないじゃん。おじーちゃん達にも話は通してあるから問題無しよん」
「ほう、老人たちがよく許可したな」
「おじーちゃん達も一枚岩じゃないし、米国の無茶ぶり……第4使徒と第6使徒のS2機関提供要請でてんやわんやだったからね。そこをちょちょいのちょいっと」
真希波マリは両手の指をくるくると回しながら、してやったと笑う。
碇ゲンドウは、そんな真希波マリに動きには関心を示すこともなく、その言葉に思案する。
「老人たちはどうするつもりだ?」
「どうもこうも、一枚噛んでるおじーちゃんもいるし提供することになりそうよ。必要なデータは取ってあるから時間をかければ再現も出来そうだしね」
真希波マリは机の上で器用に転がると、うつ伏せになって長い髪を指に絡めとる。
碇ゲンドウは手にした携帯端末を閉じると、司令服の内ポケットにいれた。
「米国支部は実験台にいいんじゃん。上手く行っても上手く行かなくても私達はデータを掠め取って万々歳にゃ」
「失敗してくれた方がいい。そうすれば老人たちもしばらく静かになるだろう」
「ゲンドウくんてば鬼畜ぅ」
「5号機と6号機は?」
「引き続き機密扱いね。ベタニアベースの5号機は、米国支部への第4使徒提供がどうなるか次第。提供になったらお役御免になるからドイツに搬送ね。6号機はドイツで封印中。5号機も6号機も、米国の3号機、4号機の結果を待ってお披露目予定よん」
真希波マリは、くるくると指に絡めていた髪を離すと、机の上で横に丸くなる。
5号機はベタニアベースに封印していた第4使徒への対処として急造し、配備されていた。
第4使徒が活性化し、再封印に失敗、孵化した際にこれを殲滅するためだ。
そのため、第4使徒を米国支部に提供するのであれば、ベタニアベースにそのまま配備しておく必要はないため、ドイツ支部へ搬送し本格稼働に向けた再調整をすることとなる。
「パイロットはどうするつもりだ」
「5号機のパイロットは勿論フィフス。6号機はどうなるかにゃ~」
「ダミープラグか」
碇ゲンドウの言葉に、真希波マリは困ったような笑みを浮かべて肩をすくめた。
「おじーちゃん達はアダムくんを取り込んで乗せたいみたい。ゲンドウくんへの牽制のつもりかにゃ。ダミープラグは保険。という事で、次の実験からあたしも加わるから赤木博士との調整宜しく」
「赤木博士には指示をしておこう」
「噂のフォースくんに会えるのも楽しみね」
「淡島カイか」
「腕の一本でも解剖されてくれないかな」
「好きにしろ」
碇ゲンドウの無感情な言葉を聞いた真希波マリは、肉食獣のような笑みを浮かべ碇ゲンドウに向かい合うように膝に跨ると、その耳元に口を寄せた。
ばさりと落ちた長い髪によってその表情は隠されている。
「1番と4番がフォースを気にしてる。あの子、何かあるよ」
真希波マリは碇ゲンドウにしなだれかかり、囁くように告げた。
碇ゲンドウは表情を変える事無く、真希波マリの動きに合わせてその細い腰を抱くように手を回した。
「ふふ、楽しくなってきた」
真希波マリは愉快そうに笑い声をあげると、碇ゲンドウの上から降りると両手を上げて大きく伸びをする。
「我々の目的は忘れていないな」
ズレた眼鏡を片手で直しながら、微かに圧を含んだ声音で碇ゲンドウが真希波マリに問いかけた。
その言葉を聞いた真希波マリは腰に手を当てると振り返ることなく、強い意思の籠った口調で言葉を返す。
「忘れるわけないじゃん。もう一度、先輩と……そのためにあたしは、ゲンドウくんや冬月先生とここまできた……そんなことより」
真希波マリは言葉を区切り碇ゲンドウの方へ振り返ると、その鼻先に指を突き付けて睨みつける。
「王子様の扱い酷いよ」
「王子様だと?」
碇ゲンドウは、真希波マリの言葉が理解できずに聞き返す。
その言葉を聞いた真希波マリの目が釣り上がり、それを目にした碇ゲンドウは無意識に椅子を引いてしまった。
「シンジくん」
「お前には関係ない」
「関係ある。だって先輩の子供じゃん。あたし、先輩の夫の座は諦めたけど、妻の座は諦めてないから」
「……お前は何を言っている」
碇ゲンドウは真希波マリの言葉を一蹴したが、真希波マリは碇ゲンドウには理解不能な言葉で反論をした。
「先輩が望むならゲンドウくんが一緒でも我慢するって話じゃん。兎に角ゲンドウくんは王子様への態度を改めて。そんなんじゃ先輩ともう一度会えても、離婚届で殴られて終了じゃん」
真希波マリの呆れたような言葉にも、碇ゲンドウは口を開かなかった。
真希波マリの眉がピクリと動くと、その手が素早く動き碇ゲンドウの眼鏡を奪い取る。
「はい没収」
「……返せ」
真希波マリを睨みつける碇ゲンドウに対して、真希波マリは憐れむような表情を浮かべて小首を傾げた。
「ゲンドウくん、ひょっとして本当にわかってない?ゲンドウくんが嫉妬しちゃうほど大事にしてた王子様にあんな扱いをして先輩が怒らないと思ってる?自分は絶対に嫌われないって勘違いしてない?全て一つになっても最後の瞬間に先輩に嫌わて、それでいいの?」
「ユイが私を拒絶することなど……っぐ、何をする!」
碇ゲンドウは、捲し立てるように語る真希波マリから視線を逸らし呟くが、真希波マリが頬を両手で挟むと視線を戻させる。
「……仕方ない、日本にいる間はあたしも協力してあげるから頑張れ!ゲンドウくんだって笑顔の先輩と再開したいでしょ!」
「お前の協力など必要無い」
「必要ある。だって先輩に頼まれてるから」
「……なんだと?」
真希波マリの力の籠った言葉とその内容に、碇ゲンドウは茫然と聞き返してしまった。
その言葉を耳にした真希波マリは満面の笑みを浮かべると、碇ゲンドウの頬から手を離した。
そして、碇ユイから譲られた赤い縁の眼鏡を外すと、碇ゲンドウの眼鏡をかけ、腰に手を当てて碇ゲンドウを見下ろした。
「『もし私に何かあったらゲンドウくんと、シンジの事お願いね』ってね」