ギラド公国が継承者戦争に巻き込まれて、一体どれ程の月日が経っただろう。
国境線では常に砲火の音が絶えず、例え銃後であっても、場所によっては複翼機のプロペラ音が鳴り響く。
平和な時代を知らない子供も、市井には増えてきた。そんな中、
「ぜぇ……ぜぇ……あぁ、クソッ……」
ある山中の森を、軍服を着た男が歩いていた。
足と頭には血のにじんだ包帯をグルグル巻き、ヘルメットを目深に被り、ぼろ布で腕を首に吊り、男は銃剣を杖代わりに、歩いていた。
「流石に、もう……追手は来ねぇか……」
荒く肩で息をする男は、しきりに背後を気にしながら、なおも痛む足を止めない。
ろくに整備されていない、登山道から外れた森林を、日の光とコンパスを頼りに、よろめきながら前進してゆく。だが、
「ぐわっ……!」
遂にバランスを崩し、その場にどさりと倒れてしまう。木の根か何かに、足を引っ掻けたようだ。
「だぁっ……! はぁ……ちくしょう……」
最早立ち上がる気力すら無い。何せもう三日間、ろくに飯を喰わずに悪路を歩き通したのだ。無理もない。寧ろここまで、良くやったと言うべきだろう。
「クソ……クソッ……」
目蓋の裏に、故郷の景色が広がってゆく。陽光を浴びる麦畑、小舟の行き交う川、草原で眠る羊たち。そして、
「母ちゃん……」
優しく微笑む、愛しの母。
男は腰のベルトに差した、棒付きの手榴弾を引き抜き眺める。
どの道原隊には戻れない。だが、故郷までにはあまりに遠すぎる。今のままでは、確実にたどり着くのは不可能だ。
「ごめんな……」
最後の力を振り絞り、男はピンに指をかける。これで、これで楽になれ――
「――お前、死ぬのか?」
「……は?」
その瞬間、男は意識を失った。
*
パチパチと、薪のはぜる音がする。
鼻腔をくすぐるのは、煙の匂いと、旨そうな魚の香り。香り……
「はっ……!」
「おっ、目ぇ覚めたか」
男はサッと目を覚まし、辺りをキョロキョロ確認する。
西の空が微かに赤く、辺りは既に真っ暗。焚き火の明かりだけが光源だ。
焚き火の回りには、串に刺された数匹の川魚。そして、
「ほら、死にたくなけりゃ食いな」
赤い巻き毛の、継ぎ接ぎ少女。
魚を差し出す右手はまるで、龍かワニかのように鱗で包まれ、鋭い鍵づめが五つしっかり付いている。
左手は大きなサワガニの様なハサミになっており、男の腕など簡単に両断出来そうだ。
そして極めつけは、背中に生えた大きな翼。折り畳まれてはいるものの、コウモリの翼膜にそっくりだ。だが、かなりボロボロで、とても空を飛べそうには無い。
「どした、食わねぇのか?」
「あっ……いや、頂こう」
「おう。食え食え。水は今沸かしてっから待ってくれよ」
継ぎ接ぎの少女はそう言うと、焚き火の上に掛けられた軍用の水筒の蓋を左手であける。熱くないのだろうか?
「あの……」
「ん? どした。便所か?」
「あぁ、いや……違う」
三日間なにも食っていない以上、彼の中から出るものは無い。大きい方ならなおのことだ。
串焼き魚を手にしたまま、彼はゆっくり口を開く。
「君、
――奇舞羅。小国であるギラド公国が長きに渡り継戦出来ている理由の一つだ。
戦災孤児、ストリートチルドレン、捨て子等を軍が引き取り、独自の技術で他種族と融合、結合させ、強力な軍事兵器に改造する。
奇舞羅となった彼ら彼女らは最低限の衣食住や勉学、安定した地位を与えられ、その見返りに生物兵器として生涯を軍に尽くす。そう言う生き物として、生きてゆく。
彼も、何度も戦場で奇舞羅の姿を見た。口から炎を吐き、或いは航空機を追い回し、戦車の装甲に穴を空け、敵兵の喉笛に食らいつく。
そんな姿が彼らには頼もしくあり、恐ろしくあり、そして何処か、悲しく見えた。彼らの瞳に、希望はない。
だが、この少女は? 焚き火に照らされた、彼女の瞳は……
「おう、そうだ。怖いか?」
別段気にする素振りも見せず、胡座をかいた彼女は魚の火加減を調節しながら、男の言葉を肯定する。良く見れば足も、人の形をしていない。フクロウか何か、鳥類のようだ。
「いや……そう言う訳じゃない。ただ」
「ただ?」
「君は、明るい目をしているから……他の奴らとは違うな、って……」
男は少し言いよどみながら、気になったことを最後まで言い切る。話せているから、存外余力はあったらしい。
そんな彼の言葉に対し、少女は顎に手を当て考える。そして「あぁ……」と心当たりを見つけると、にっかり笑ってこう言った。
「
「……え?」
彼女の放った一言を、男が理解するのには、少し時間が必要だった。
だが、彼も戦地に赴いてかなり経つ。段々と言葉が理解できてくる。そして、理解できたことが嫌になる。
奇舞羅達は、遅くとも三十年で処分される。
敵に
維持費だ。
多いとはいえない人口、乏しい産業、小さな国土。そんなギラド公国に、何十年も同じ個体を養い続ける余裕はない。
それならば、若く強く新しい奇舞羅に力を注いで、古い個体は殺処分に回した方が、何かと都合が良いらしい。
「私ももう二十五だ。それに、翼も欠けて使い物になんねぇし、帰ったら即ガス室送り決定なのさ。……正直、もう人殺しはうんざりなんだよ」
明るかった彼女の顔がサッと曇る。
まともな倫理観をしていれば、こんなこと許せるわけがない。
だが、国家の体裁を理由に何年も血みどろの戦争をしているこの国が、まともな倫理観を持っている筈がない。
例え雑兵が倫理観を持っていても、だからと言ってどうしようも無い。この状況を、変えられる訳がない。そう、ただの雑兵なら。
「なぁ君」
「……ん?」
「もし、殺処分を回避できて、かつ人殺しを辞められるとしたら……どうする?」
「んな夢みたいな話、有るんなら乗っかりたいよ……私も、普通の女の子みたいに生きたい」
きらり。炎に照らされ、彼女の目尻が煌めく。
話は、決まったようだ。
「なら、さ。俺の故郷まで、護衛を頼まれてくれないか?」
「……はぁ?」
あまりに突飛な提案に、少女はパッと振り返る。
「俺、逃亡兵なんだよ。故郷に残してきた母ちゃんが心配で、脱走してきたんだ。だからさ、俺と一緒に、故郷まで付いてきて欲しい」
俺の故郷は山奥の小さな村だ。軍人なんて誰もいないし、身を隠す場所も、空き家も土地もたんまりある。報酬だって、家に帰ったら出す。だからどうだ? 男はそう、継ぎ接ぎ少女に提案する。
「……お前が嘘を付いていないと言う証拠は?」
「ここは前線から何十キロも離れた森の中だぞ? そんなところに、衰弱した兵士が倒れてるか?」
「……なんか胡散くせぇ」
「故郷じゃペテン師って呼ばれてた」
焚き火がゆらりと風に揺れる。
男としては、なんとしてでも護衛が欲しい。正直、今また追手と遭遇して、生き残れる保証はない。
だからこれは、死にゆく哀れな生物兵器への情けでも、良心の呵責の末の慈善活動でもない。これは、彼の、彼自身の、命を懸けた商談なのだ。
「お前の村、どんなとこだ?」
「何もない。でも、町にはないものがある。のどかで優しい、良い村だ」
「……本当に、そこに連れていってくれるのか?」
「ああ。俺の命を守ってくれれば」
長い沈黙が、二人の間を流れゆく。
森の木々が擦れ合う。
夜空には満天の星々と、それを見守る大きな月。
「お前、名前は?」
ふと、少女が男に問い掛ける。
「えっ?」
「名前だよ、名前。……これから一緒に行動すんだ。名前がないと呼びづらいだろ?」
ギラド公国暦三〇八年初秋。
この日、この夜、とある山中で二人の逃亡兵が、盟約を交わした。
男は言う。ただ、故郷へ帰りたい。
女は言う。ただ、普通に暮らしたい。
この日、この夜、二人の逃避行が始まった。