―――翌日、青年はまた休憩時間に彼女の様子を見にいくつもりでいた。
結局、先日の「
同僚に話せば危険だと止められるかもしれない。けれども彼には――根拠はないが――、彼女が自分に危害を加えることはない気がしていた。
彼女の正体も目的もわからないのに。
それでも彼が会いに行こうとするのは……、
――――海の家“海が好き”
「ジェイお兄さん、ごめんね!」
幼いウルサスの少女はヒヨコのように小さく愛らしい頭と、やはりヒヨコのように若々しく愛らしい声で繰り返し頭を下げた。
たとえそれがどんな問題であっても、この絶世の愛玩少女の謝罪を前にまだグチグチと文句を垂れるような人間がいるのなら、そんなスクランブルエッグのような脳みその持ち主は一度、彼女のフライパンで矯正されるべきだろう。
もちろん好青年ジェイはそんな物騒な更生を必要とするような不良な人間ではなかった。
「気にしないでくだせえ。アッシは海や皆を眺めながら
今日、当番の予定だったグムに友人からの熱烈な誘いが掛かったらしく、彼女はそれを断れなかったのだという。
「気が向いたら飯、食いに来てくだせえ。腕によりをかけやすから。」
「お兄さん、ありがとう!じゃあ行ってくるね!」
流行りのヌイグルミにもケージの中の小動物たちにも真似のできない、浜辺に映えるキラキラとした笑顔を浮かべ、彼女は元気一杯に駆けていった。
「君、良いとこあるね。」
「…皆幸せだったら良いなって、俺ぁ思うんすよ。」
彼女の笑顔と、水平線とひと続きの青空が、そんな日もあったあの街の風景を思い出させる。
「…それに、見た目よりも優しいね。」
「ハハ、よく言われやすよ。お前の見た目はヤクザにしか見えねぇなって。」
「あぁ、ごめんね!そういう意味じゃなくて…。素直に良いなって思ったんだよ。」
青年は、訂正する彼女の「朗らかな笑顔」の中に、ほんの少しの愛情が混じっていることに気付く。
「まいったなぁ。俺ぁちょっと、褒められるのに慣れてないんですよ。」
「アハハハ!そうなんだ。でもダメだよ、周りの人が認めてるってことはそれは君の長所ってことでもあるんだから。」
「長所、ねぇ……、」
彼女はとても優しく、甘えやすい笑顔をつくるのが上手だった。…と言うと語弊があるかもしれないが。
「…少し、関係ない話をしてもいいですかい?」
「もちろん。」
青年は思った。彼女の笑顔は自分の故郷ではあまり見かけない。
そして、彼女にそれを身に着けさせたであろう経験や人間関係は、防波堤のループスには縁のないものなんだろうと思った。
「サベージの
「…そうだねぇ、」
姐さんはほんの少し、勘繰るような目付きで俺を見たけれど、そこはやっぱり人付き合いの上手な人で。
敢えてそこを突っ込むような
「その人にいつ、自慢のキャロットパイを食べてもらえるかを考えたりするかな。」
「…それってぇのは、打ち解ける切っ掛けって事ですかい?」
「そうだね。話しててわかると思うけど、アタシもお喋りが上手って訳じゃない。どっちかって言うと、勢いに任せちゃうタイプだから。キャロットパイはその起爆剤みたいなものなんだよ。」
姐さんには人を和やかにさせる笑顔がある。
つい心を許してしまう屈託のない口調がある。
努力すればなんとかなるように見えて、それは生まれ持った才能と彼女を取り巻く気の合う仲間がいればこそ身に付けられるもののように思えた。
「もし、そいつが悪い奴だったら?」
話の筋を大きく曲げる俺の一言に、姐さんは素直に驚いていた。驚きこそすれ、それでも真剣に、俺なんかのために頭を巡らせてくれる。
だからこの人は良い人なんだ。
「…アタシね、ロドスに入ってからよく思うようになったんだけど、」
そして俺はまるで仕返しをされるように驚かされた。
「どうしてアタシたちはその人を
「え?」
「周りの人に迷惑をかけるからかな?それとも自分に都合が悪いからかな?もしくは、
「…それは……、」
俺がそう見られる時はいつだって「人相が悪いから」ってだけだ。
誰にも迷惑はかけてねえし、ましてや町のルールを破ったことなんか一度だってありゃあしねえ。
…そう考えると、あの人だってそうだ。
何もしちゃいねえ。ただ、俺が今までの経験で一方的にそう感じてるだけだ。
だから……、
「分からないよね。アタシも分からないんだ。考えてたらだんだん自分も悪者に思えちゃう時だってある。」
「悪人を悪人だと見てる奴もやっぱり悪人なんだよ。」
あの時は親父もだいぶ飲んでたから。ただのたわ言なんだと思ってた。
それでもこうして憶えてるのは、その後に親父がこうも言ったからだ。
「テメエが悪人だと
…もしかすると、俺が「危険な人だ」と感じているあの人も、誰かを幸せにしようとしているんだろうか?
俺が理解してないだけで。
だったら、俺がこうやって彼女の善悪を見抜こうとしていること自体がお門違いってことなんじゃねえか?
「でもさ、」
姐さんは苦笑いを浮かべながら続けた。
「ロドスには悪人っぽい人って何人もいるでしょ?」
「確かに。」
嘘か本当かは分からねえが、密売人に殺し屋、それに――俺はあんまり関わってねえが――、レユニオンって犯罪組織を足抜けした奴もいるらしい。
「それでもさ、ドクターはその人たちとだって上手くやってる。付き合い方は違うかもしれないけど、平等に“仲間扱い”してる。そう思うと、もしかしたら“悪人”って決めつけることが“悪”なのかもしれないって思えてくるんだよね。」
…そうか。俺はようやくあの酔っ払いの言葉の意味を理解した気がした。
それと同時に、大将はやっぱりすごいお人なんだと改めて思わされた。
直接
「…姐さんはドクターみたくできやすか?」
少なくとも、俺に真似できるとは思えねえ。
なんたって、数年前の親父の言葉を今になって理解するような出来の悪い奴なんだから。
だけど、それは姐さんも同じことを考えているようだった。
「う~ん、難しいよね。ドクターはアタシたちよりも沢山の経験をしてきて、それでいてあんなに努力してる人だから。やっぱり一朝一夕じゃ真似できないよ。」
「尊敬してるんすね。」
「そうだね。時々あの人の皮肉にはムッとすることもあるけど、それも含めてドクターは本当にすごい人なんだよ。」
家族を自慢する母親ってのはこういう顔をするのかもしれねえ。
それだけ、姐さんの頬は緩んでいた。
「……、」
「君はどうしてその人のためにそんなに悩んでるの?」
「え?」
思ってもみないことを言われて、思わず間抜けな声を出しちまった。
…俺は、
俺はただ、あの人が仲間に危害を加えるかもしれないって思ったから近寄っただけだったはず。
「多分だけどね。君は優しい人だから。その人のことを大事に思ってるんじゃないかなって思ったの。」
「……」
「ゴメンね、変なこと言ったかもしれないね。あんまり考え過ぎないで。良い人間関係はいつだって自然体でいられるかどうかだから。」
その言葉を体現するように、姐さんの笑顔にはとても他人とは思えない親しみやすさがあった。
「
サベージのキャロットパイ。それはロドス内でかなりの評判があり、パーティーでは必ずテーブルに並ぶほどなのだとジェイは強面の相棒から聞いて知っていた。
それを食べれば、誰もが彼女の虜になるのだと。
「…俺ぁ、上手く姐さんの罠に掛かったって訳ですね。」
「フフ、そうだよ。君も今日からワタシのファミリーだ。よろしく頼むよ、ジェイくん。」
少しおどけた演技を交わし、二人は姉弟のように笑い合った。
仕事は楽しく、仲間は優しい。
なのに、俺は一日中あの人の、波に
―――バカンス最終日
その日は前日のお礼だとグムが当番を代わり、丸一日、予定が空いてしまった。
「……」
せっかくのリゾート地。行きたいところがない訳でもない。普段、関わりのない同僚と遊ぶのもいいかもしれない。
そういう数少ない機会をフイにしてでも、青年の足はあの防波堤に向かうのだった。
「……」
あの人は変わらずそこにいた。変わらず、海を見詰めていた。
「釣れますかい?」
「……」
返事は
…なんだか、今日の自分はいつもと違う気がした。
妙に、落ち着かない。
「……」
次第に、沈黙まで気まずくなってきた。…俺が?人前で緊張するような上等な人間でもないくせに?
「……」
それでも青年は声をかける言葉が見つからず、ただ彼女を見詰め、想いに
俺はこの人に何を感じているんだろうか。
この人はいったい何者なんだろうか。
そして、俺はどうしてこんなにもこの人のことを気にかけているんだろうか。
勘違いされやすい面立ち。そのせいで、俺は今まで散々周りに振り回されてきた。
危ない目にも何度も遭ってきた。
…この人は今までどんな人生を送ってきたんだろうか。
「……」
だからって、どうすればこの人のことを知ることができる?
俺にとっての「キャロットパイ」って何なんだ?
彼女はそこにいる。釣りもしない竿を握り、ただ静かに揺れる波間を見詰めている。
…そして、彼女からは「血」の臭いがする。
それは青年の生きる世界とは違う臭い。それでも青年は、ほんの少しの決心をする。
彼女に見た「悪」を
「ほんの少し、俺の話をしてもいいですかい?」
「……」
彼女は何も言わない。けれど、今の青年にはそれが彼女なりの「肯定」なのだと思えるようになっていた。
そんな都合のいい解釈をしている自分に気付いた時、これは「聞いて欲しいこと」じゃない。「口したいこと」なんだと、青年はぼんやりと思った。
「
青年は海を挟んだ向こうにある、遠い、遠い生まれ故郷を想った。
容易に浮かぶ雑多な景観。聞こえてくる物騒な遣り取り。そして、口に入れると生きてることを実感する温かな飯。
それらが自分を育てたんだと、ロドスに来て――町の外に出てみて――彼は痛感した。
「そこで俺は飲食店やってて…。俺一人で回せる小さな店ですけどね。…それで、迷惑な客と揉めたことがあるんです。まぁ、龍門じゃあ大して珍しいことでもないんでさ。」
無銭飲食をキメようとした不良ども。町の人に手を上げるゴロツキ。
どいつもこいつも
だから俺もあまり深く考えずに手を出した。
「俺は、誰かのためを思ってやったつもりでいたんです。」
そうだ、それこそ俺は誰かのためを想って、俺の育った町を護るためにやったんだ。
悪人がどうのという話以前の問題だと思った。
「それなのに、菫の親父は俺を叱りつけたんです。”どんなに腐った奴が相手でも手を出せばテメエの負け”なんだそうで。」
実の親は早くに他界した。あの魚団子を作ることしか能のない、冴えない人だけが、俺の家族だった。
そんな頑固で、屁理屈で…、そんで人情味のある菫さんは、一度だって俺の拳を褒めたことはない。
「ジェイ、お前は筋が良い。団子の味も悪くねえ。だから、もっとシッカリしな。」
菫さんはあの下町を愛してる。仲間も、町並みも、店の味も。
それなのに、町のためと思ってる俺を褒めてくれないのはなぜなんだ?
菫さんはいつも俺に理解できねえ言い回しで俺の
「…アッシには未だに理解できませんがね。」
それが、今の俺が出せる精一杯の答えだった。
俺には悪たれどもを殴ることができる。町の誰かが血を流さずにすむ拳が付いてるんだ。
だったらそれを使うのが筋ってもんじゃねえのか?目を逸して魚相手に包丁突き立ててる方が町のためだってのか?
「テメエに奴らを倒す力があるって?
だったら俺が追い払ったゴロツキはなんなんだ?俺に感謝の言葉を掛けてくれたあの人たちはなんなんだ?
「だったら、そいつらがテメエの団子を喰って金を払ったことがあるか?」
「…はい?」
その時ほど親父が理解できない時はなかった。だからこそ出た、心の底からの声だった。
すると親父はそんな俺の顔を見て大笑いをしやがった。
「ハッハッハ、そらみろ!テメエの力なんざまだまだそんなもんよ。拳を振り回していい気になってるだけの小僧ってことさ。」
「……じゃあ、親父はどうなんでぇ。親父だってアイツらに金を払わせたことなんかねぇじゃないですかい。」
あの時、もしかすると俺は言っちゃならねえことを言っちまったのかもしれない。
それまで威勢の良かった親父が、どこか昔を懐かしむような、何かを諦めたような顔で俯いた。
けれど、俺の前だってことを気にしてか。すぐに顔を上げて言った。
「そうさ、だから今はお前も店に立たせてるんだ。俺は不出来だったが、ジェイ坊、お前は違う。磨けばこの町一の魚団子屋になれるんだ!」
笑ってたが、目尻が薄っすらと濡れているのに俺は気付いてた。
「だから、地道に頑張れよ。”急いては事をし損じる”だ!」
そしてまた、親父の都合のいい教訓が一つ増えた。
……そうだ。親父からもこの人と同じ臭いがしたんだ。
うまく「
だからなのかもしれない。俺がこの人のことをこんなにも考えてしまうのは。
だからなのかもしれない。昔話をし終えて逆にモヤモヤした俺は彼女にこんなことを聞いていた。
「アンタはその力、正しく扱えていやすか?」
「……」
尋ねて返ってくるのはいつだって、押しては返す波の音だけ。まるであの街の
…変わらないんだ。
この海も龍門も、親父もこの人も…、そして俺も。
誰も、誰かを護ろうと思って生きちゃあいねえ――護りたくても護り方がわからねえでいる――。
皆、与えられた命を自分なりの「屁理屈」の中で飼い殺しにしてるんだ。
――――チガウ
「……え?」
俺にはそう聞こえた。
重なる
海を見詰め続けたからか。ほんの少し「青」が映り込んでいるようにも見える。
彼女の視線は真っ直ぐで、目を逸らす気にもなれない。
綺麗だ。
だけど、恐ろしい。
その形容はどちらも――親父の言う――俺の弱さを突いているように感じられた。
「お前の拳は強くない」
だったら、彼女の目が語った(俺が勝手にそう感じただけだが)、
「違う」
それはどういう意味なんだ?
また、俺ぁその言葉を理解するのに何年も費やさなきゃならねえってのか?
考えている内に彼女はまた海へと向き直り、竿の先を眺め続けていた。
「釣りをしない殺し屋」は何も語らない。
まるで「海」が釣り糸を伝って彼女の体の中に染み込むように。
特に意味はない。けれど俺は彼女が今、何を感じているのか想像してみることにした。
腹に山程の鱗獣を抱える海。青い血そのものが心臓となって潮流を生み出し、腹の中で鳴る命の音を全身に響かせる。
そこに細い、細い一本の釣り糸がひっそりと漂う。
糸はしなるカーボンの竿を通ってリールへ、ロッドへ、ナイフがよく
海は彼女を腹へ引きずり込まず、彼女も海を
だから
一見、無意味な時間で、空虚な関係に見える。
だけどどこか、その一体感には無二の「平穏」を感じる。
親父があの町に求めてるもののように。
だとしたら、俺や親父があの店で「町」の一部になれてるんだとしたら、親父は俺にゴロツキたちのための「釣り糸」になれって言ってんのか?
アイツらが「町」に溶け込めるように?
だとしても、どうすれば良いかなんてわかりゃしねえ。
団子を作ってりゃなんとかなるってのか?そんな
……でもそれは、「拳で語り合おう」としてる今の俺も
――――だったら、そいつらがテメエの団子を喰って金を払ったことがあるか?
「……」
悩みが解決した訳でもない。妙案が浮かんだ訳でもない。
けれど、青年の中で確固たる「目標」が一つできた。それだけで何か胸のつっかえが取れた気がした。
「…お、引いてやすぜ?」
「……」
彼女の竿は動かず、ただただ穏やかな潮風に身を任せていた。
――――翌日、ロドス本艦、社長室
そこに、幼さの残るしかし、どこか大人びた表情を見せるコータスの少女と防波堤のループスがいた。
「お疲れ様です。どうでした?」
コータスの少女は上司と同じく書類仕事に追われながら、やはり上司と同じように余裕のある声で尋ねた。
「問題ない。ロドスは、安全。」
ループスは与えられた任務に対し、簡潔に答えた。
ロドスは国籍を持たない。そんな彼らが各国でいくつもの仕事を抱え、
防波堤のループスはそういった者たちの動向を伺う意味も含めて、休暇中の社員たちの安全を護る任務を受けていた。
彼らのバカンスを邪魔しないよう、あくまでも
「ただ、アイツに、見つかった。」
「アイツ?誰ですか?」
少女は手を止め、顔を上げた。
「…ジェイ、」
防波堤のループスはロドスの船員を全て把握している。
護るべきもの、殺すべきものを判別するために。
対して、防波堤のループスの正体を知るものはほとんどいない。
同じ船に乗り、同じ未来を目指していながら。
「そうなんですね……、」
だからこそ少女は彼女の本音を知りたかった。
彼女は今、幸せなのか。
「…仲良く、なれました?」
「……」
ループスの表情は変わらない。…けれど、
「ジェイさんのお店、龍門の三番区画にあるそうですよ。」
「……ありがとう、アーミヤ。」
「フフ…、どういたしまして。」
会いに行くかどうかは分からない。けれど、その言葉が彼女の口から聞けたことが何より嬉しかった。
ケルシー先生は彼女を過酷な役職に就けた。
だけどそれは決して彼女を「群れ」から孤立させるためじゃない。
結果的にそうなってしまっていることを先生は後悔しているけれど、先生もドクターもせめて彼女がここを「家」のように感じてくれればと願っている。
「…?銛で何か取ったんですか?」
「…これ、服、乾かすのに、便利。」
ループスは小さく笑った。
※S.W.E.E.P.
前回の「毒針を隠す少女」でも触れたように、ケルシーの私兵を指すグループのことです。
ただ、ロドスにおいてどこまでの人間がそのグループを認識しているのかわかりません。
原作内のレッドのプロフィールを見る限り、オペレーターとしては結構交流があるのかもしれませんが、それが「S.W.E.E.P.」としてなのか。
それともただの「戦闘オペレーター」としてなのかわかりません。
今回のお話ではそもそも他のオペレーターとの接点が少ない設定にしてみました。
※
読み方が分からなかったのでグーグルで中国語の読みを検索すると「ヂィン」と出てきました。
日本語では「スミレ」という花の名前、もしくはスミレの花のように濃い紫色を指すそうです。
原作のどっかに振り仮名を打ってたシーンがあったのは憶えてるんです。それがどうしても思い出せなくて……f(^_^;)
結果、最近放送された「リー探偵事務所」でハッキリとワイフーが「ドンさん」と言ってました(笑)