彼はできるだけ穏やかに、小さな弟や妹を起こすようにソッと、目の前の扉を叩いた。
「こんにちは、ロドス製薬医療部のアンセルといいます。起きていらっしゃいますか?」
「…!?」
しかし、アンセル青年の気遣いなど心身ともにくたびれた少女の知るところではない。
それがどんなに爽やかなモーニングコールでも、そういう環境で育った彼女の耳には敵陣で無防備を決め込んでいる愚かな自分を撃つ銃声にしか聞こえなかった。
少女は「毛布の虜」から慌てて抜け出し、足音を立てずに扉の真横に張り付いた。すると、
「ドクター、笑うのは止めてくださいって言ったじゃないですか!」
ノックをした青年の意味の分からない抗議と、それに続く何者かの苦笑が聞こえてきた。
「…眠っていたなら申し訳ありません。私はアンセルと言います。」
…どうして、名乗るの……?
これまで少女に紛争地帯以外での他人との交流経験はほとんどなかった。
彼女に近付くものは争いで腹を満たす「武装集団」、もしくは彼女を疫病の元凶と一方的に迫害する「町の人間」ばかりで、彼らは決して彼女に名乗ることはなかった。
名乗らず、少女を思う存分傷つけた。
「悪魔」「怪物」「化け物」……、
少女は振りかざされる暴力に追い立てられるままに逃げ回った。殺虫剤から逃げ惑う虫のように。
「…眠っているのでしょうか?」
「どうだろうな。手当てした時にはひどく弱っていたのに数時間後には艦内を元気に駆け回るような子だ。案外、ベッドの中から聞き耳を立てているかもしれないぞ?」
「…もう少し容体が安定してから伺った方がいいんでしょうか……。」
「おいおい、自分の目的を忘れたのかい?ここで何もせずに引き返すのなら彼女にとって君はその程度の人物だと取られてしまうよ?」
「…そうですね。私が臆病になっていたら理解してもらえるものも理解してもらえませんよね。」
……意図が分からない。
扉は開いているし、相手は自分を捻じ伏せる力を持っている。
彼らはなぜ自分と会話しようとするのか?なぜ中に入ってこないのか?
少女の生きてきた”サルゴンの荒野”という限られた経験ではその答えが見つけられず、耳を
「すでに
…ロドス?…お医者、さま?知らない…。クルビア人の、会社?
「私は医師見習いのアンセル、もう
…作戦?
マンティコアの少女はあの”悪夢”が再来したのだと知ると、「絶望」が顔に張り付き、腰を抜かしてしまった。
ところが――――、
「初めまして、Dr.ノアという。…私たちは、君のことを何と呼べばいいのかな?」
耳に届いたのは、なんとも不思議な耳触りの男の声だった。
「…誰……?」
どうしてそういう気持ちになったのか説明はできない。そういう気持ちになったこともない。けれどもそれは、一度耳にすれば生涯忘れない声色だった。だからこそ、断言できた。
……
「……」
たちまち、少女は扉一枚
けれども「経験」が邪魔をして扉を開けることができなかった。
サルゴンの荒野が、姿を
彼女にとってそれは小さい頃から叩き込まれてきた唯一の、親からの教えのようなものだった。
「…私たちはアナタの
…え?…私の、病気を……?
「もちろん無理強いは致しません。アナタの希望が第一です。それと、今の私たちの技術では症状を和らげることしかできません。それを踏まえてアナタの意思を伺えればと思って訪ねてきたしだいです。」
…治、せるの……?
砂嵐と紛争に抱かれて生きてきた少女に難しい言葉は理解できない。ただ、青年の言葉に今まで生きてきて一度も見たことのない
あの不毛の
虚ろで、愚かな…、けれどもそれだけで胸を満たす「希望」という名の蜃気楼がそこにあるような気がした。
返事どころか、在室している気配さえ感じさせない少女の部屋はどことなく、二人の訪問を拒絶しているように感じられた。
それでも、ドクターに見守られるコータスの青年は少女が少しでも心開くことを期待して呼びかけ続けた。
「私はまだロドスに来て間もないのですが、ここにいるドクターを含め、ロドスの方々はとても優秀な方々です。誰もが諦め、背を向けるような局面でも新しい見地や不屈の精神で挑み続ける姿は私の憧れでもあります。」
…何を、言っているの……?
「…ロドスに入る前の私は、悲惨な運命を辿らざるをえない感染者たちを目にして何もできずにいました。兄弟や両親に災いが降りかからないよう努力するしかありませんでした。」
……、
……、
「つまらない話です。アナタにはなんの役にも立たない話かもしれません。…ですが、私はもう見て見ぬ振りをしたくはないんです。あの頃の私なら、何をしてもアナタの力にはなれなかった。ですが今は、違うんです。そのために私はロドスにやって来たんです。」
………私は…、逃げて、きたよ……、
…この力は、誰の、役にも、立たない、から……、
…皆を、不幸にする、から……、
「私はあまり頭の出来が良くなくて、ロドスに入社するまでの採用試験は散々でした。ですが、今ではそれで良かったんだと心から思います。」
…皆が、私を、避けた……、
…皆が、私を、
「ロドスの皆さんは他では得難い心から尊敬できる人たちだったからです。」
…アナタは、恵まれてるよ……、
…だって、私は、そんな声で、話せない……、話す、勇気が、ない……、
青年はなおも呼び掛けた。
それこそ青年がここへやって来た理由なのだから。
隣で彼が見守っているのだから。
「不快に思わないでいただきたいのですが、ドクターはアナタの力を必要としています。」
…え……?
「もちろん、主な現場は戦場になってしまうでしょう。ですが決して、ドクターは私たちをただの戦闘員として扱うことはありません。ドクターは私たちを“戦友”と呼んでくれます。」
……、
「時々、ドクターは私たちを気遣うあまり、自分を
……、
……、
「私だけではありません。ロドスにいる多くの人がドクターに命を救われています。それに、ロドスでは感染者だから、健常者だからといって差別されることはありません。」
……、
……、
……、
「ドクターやケルシー先生の理想が、私たちの未来を支えてくれているからなんです。私は、ロドスに
……、
……、
…いて……、
「ロドスはこれからも成長します。この世界のあらゆる“病”を治せる日がくるのも夢ではないと私は思っています。」
……、
……願…、
…気付い……、
「…もちろん、治療を受けるだけでも構いません。ですが、もしよろしければ考えてみてください。ロドスの一人として私たちと同じ夢を見ることも。」
…い、や……、
…待……、
…わた…、ここ……ッ!
「それでは、また日を改めてきますので。今は十分に体を休めてくださいね。」
……………お、願い………、
置いていかないで……。
「……」
「どうしたんですか、ドクター?」
そして、思いもよらない一言を口にする。
「…声が、聞こえなかったか?」
……!?
「え、私には何も。ドクターの聞き間違いでは?」
カップ麺やコーヒーの暴飲暴食。睡眠不足に運動不足。
少なくとも、不健康がマスクを被って歩いているような人間よりは聴覚に自信のあるコータスはハッキリと答えた。
…ドクター、私、頑張るからっ!!
「……」
この体が不健康の塊だということは十分すぎるほどに承知している。幻覚、幻聴が自分に囁きかけているとしても何の不思議もない。
それでも、私は見詰め続けた。意固地に。
……この感覚は
…そうだ、間違いない。そこに、「助けを求める誰か」がいる。
…お願い……、私も、一緒にいさせて……、
「…ドクター?」
フルフェイスの男は何も言わず、扉の隙間から何かを差し込んだ。そして、岩戸に向かってたった一言、なんの変哲もない呪文を唱えた。
「中に、入っても構わないかな?」
特別な力など必要ない。人は、自分の力で道を選べる生き物なのだから。
扉には初めから鍵など掛かっていないのだから。
「…え?!ドクター、これは……、」
隙間から返ってきたメモにはただ一言、「うん」とだけ書かれていた。
……どうして、そうしなかったんだろう。
少女はゆっくりと光を招き入れる扉を見詰めながら思った。
恐かったから?自信がなかったから?
自分には力があった。それは自覚している。むしろ、それしか自分には取り柄がないのだという確信があった。
だからこそ雲の上の人の暗殺を頼まれ、やり遂げることができた。
それでも、一度として「自分の存在」を認めてもらえたことがない。
どんなに自分を犠牲にしても、いつの間にか彼女の居場所は失くなっていた。いつかは棄てられた。
荒野に打ち捨てられた獣の残骸のように。
無造作に。無慈悲に。
…でも、いいの……、
…私は、「怪物」、だから…、
…いつか、現れる、英雄に、殺されるための、「悪者」、だから……、
彼女と同じ世界に住むあらゆる存在が、彼女を忌み嫌うべき「怪物」に育て上げ、彼女を執拗に世界から追いやった。
だから、想像することができなかった。
この扉の向こうに「私を護ってくれる誰か」がいることを。
自分の人生にも「希望」というものが存在するのだということを。
だからこそ、これは彼女の人生における「最大の幸運」と呼ぶべき出来事なのだ。
「希望」が自ら扉を開け、彼女を迎え入れようというのだから。
だがその「幸運」も、何もかもが彼女の理想に応えられる訳ではなかった。
「…!?」
少女は「
それは決して、礼を欠いているとか、人を見た目で判断しているとか。受け手側の未熟さのせいではない。
「
むしろ、初対面で「
もしも彼女が、正体を隠し、暗殺を
そういう意味では、少女の負ってきた不遇な人生は「
メモとペンを投げつけそうになる手をどうにか思いとどまることができたことに関しては「奇跡」と呼んでしかるべきだろう。
心許しかけていたところだっただけに、少女の動揺は大きかった。
しかし悪いのは見た目だけで、フルフェイスの「
「…すまないが、どこにいるのかこちらには分からないんだ。良ければ、そこのテーブルに着いて話さないか?」
一挙一動が、少女の目を魅了した。
何が違うかは分からない。けれども間違いなく他の人間とは何かが違う。
男がテーブルを指さすその仕草だけでも、多くの人間を観察し殺してきた少女の瞳には天球に指を添え、夜空に輝き舞う星々を動かす魔法使いのように異様で、美しい姿に映っていた。
それは、彼女の暗殺者としての「警戒心」が初めて見る人種の情報をつぶさに観察したからこそ生じた「誇張」なのかもしれない。
だからこそ、一方では彼に得体の知れない近寄り難さも感じていた。
『アナタが、ドクター?』
少女は刺激しないようにソッとテーブルにそのメモを置くと、姿は見えていないと分かっていても、逃げるように彼らから離れた。
「そうだ。私がDr.ノアだ。こんな姿で驚かせてしまったかな?」
男はまるでその様子を目に捉えていたかのように答えた。
「ああ、なるほど。そうですね。私たちは見慣れているから何とも思いませんが、初対面の方は少し面食らってしまうかもしれませんね。」
そう、なんだ。ずっと、その格好、なんだ……。暑く、ないのかな……。
ソレが本物の「人間」だと分かると、少女のドクターへの関心はさらに枝分かれし始めた。
「すまないね。私にも色々と事情があるんだ。どうしても人前でこのマスクを脱ぐわけにはいかないんだよ。」
『わかった』
「ありがとう。」
そうして少女は「恐くない、恐くない」と自分に言い聞かせることでようやく、おっかなびっくり彼らの向かいに着くことができた。
そこからは少女にとって、見たことのない世界への「扉」を開けるような衝撃的な感覚の連続だった。
「新鮮な食べ物」や「襲撃のない寝床」が暗殺以外の手段で得られる報酬であること。
死に神と揶揄される「感染者への治療」が人の目を気にせずに受けられること。
果ては、少女の世界の代名詞でもあった「”砂嵐”や”太陽”の渇き」から逃げ回る必要がないのだということ。
これら全てが「ロドス」という会社に入職するだけで叶えられる。
それは少女にとって、そこが
少女は押し寄せてくる希望と過度な恵みへの不安のせめぎ合いに、先程までとは別の困惑に囚われ、返事の一つひとつにたくさんの時間を費やした。
それでも、一歩一歩が痛いくらいに新鮮で、鳥肌の立つような期待が絶えず少女に感じたことのない「生の実感」を与え続けた。
この人は、私を「怪物」と呼ばない。
感染者なのに。殺し屋なのに。少しも怯えない。
見えない私を、真剣に見詰めてくれる。
マスクが邪魔をして私もこの人の瞳は見えない。だけど、なぜだか分かる。この人は「一生懸命な人」だ。
自分が生きることにも、私を生かすことにも……。
何度も頬を
…ううん。だからこそ、
――――この人は
今度こそ、ちゃんと確信できた。
…湧き上がってくるの。
言い知れない気持ち。初めての気持ち。
『わたし、がんばります』
あの砂嵐の中にいた頃は考えもしなかった。
自分の「気持ち」を
それを、誰かに聞いてもらえる日が来るなんて…、夢にも思わなかった。
――――ロドス艦内、通路
「すみません、ドクター。」
コータスの青年は今日もまた「未熟な自分」だったことを反省していた。
「せっかくドクターからアドバイスを頂いたのに、結局はいつものようにドクターの力に頼ってしまいました…。」
良い所を見せたい。
他人の目をあまり気にしないアンセルにとって、それは特別な感情だった。
初めは、純粋に不遇な少女を心配して訪問したはずなのに。尊敬する人が隣にいるというだけで、いつの間にか手に汗を握っていた。
けれどもこの人は、無様な僕を笑わない。
「よく頑張ったね」と褒めてくれる。
「私だって彼女の声に気付いたのは偶然なんだよ。年を取るとね、聞こえないものが聞こえるようになるものなのさ。」
そう言って優しく頭を撫でてくれる人だからこそ、アンセルは彼という大人の存在に涙が出そうになる。
苦笑いで誤魔化さないと、さらに格好悪い姿を見せてしまいそうになる。
「…それは彼女に失礼なんじゃないですか?まるで亡霊か何かじゃないですか。」
「おっと、そうだな。せっかく、こんなにも話してくれたんだ。あの子の気持ちはしっかりと届けないとな。」
「…そうですね。」
持ってきたメモでは足りず、部屋にあった紙という紙を使って交わした「彼女との会話」をアンセルは握りしめていた。
それら全ては、彼の隣で冗談をいう男が引き出した「人の想い」。
共に命をかけて戦った戦友にさえ素顔を見せない不義理な人だけれど、それでもこの人と言葉を交わせば見えてくる顔がある。見せてくれる優しさがある。
この人は、私たちには見えないものを見る目で、沢山の命を救える人なんだと。
「それと、君は自分には力が足りないと言うけれど、掛けた言葉がどんなものであれ、それが本心であるなら、言葉は必ず相手の心を響かせているものだよ。」
「…そういうものでしょうか。」
「ああ、熱心に語る君の横顔は実に格好良かったよ。」
「…ドクター、
「ハハハ。」
頭を撫でられるのはそんなに好きではないけれど、僕にとってドクターはそれが許せる、とても特別な人だった。
※クルビア
「サルゴン」と同様、国もしくは地域をさす名称です。
イメージ的には「アメリカ」辺りなのかな。
※パーディシャー
サルゴンで用いられる権力者の名称で、ペルシア語では「皇帝」「君主」という意味なんだそうです。
なんですが、私が確認した限りでは同時期に複数人が就ける地位のようです。
初見の方が読みやすいように「皇帝」という文字を当てていますが、それだけ地位の高い人なのだというイメージだけ受け取ってもらえれば幸いです。
※ホンマの後書き
ムダに空白を使って書いた「お願い、置いていかないで。」の部分なんですが、
本当は三点リーダー(…)を一面に敷き詰めて「サルゴンの砂嵐」を表現して、その真ん中にこの言葉を置きたかったんですが、文章のルールなのか。
どうしても「お願い、置いていかないで。」の「で。」の部分だけ改行されてカッコ悪くなってしまうので、今回は「空白」で我慢しました。
……わりとマジで悔しいです。