凪《なぎ》
私が求めているのはそれだけだ。
静寂。平和。静けさ。
それさえあれば、巨万の富も、愛も、何もいらない。
そう、思っていた。
私は近所で起こっている凶悪犯罪の取り調べを受けるため、警察を家に迎えていた。
あらかじめ「3時に訪問します」と電話を受けていたが、本当に3時ピッタリにインターホンが鳴った。
几帳面な警官だ。
この男は佐野というらしく、優しい顔をしたいわゆる普通の中年男性だった。
それから彼を家のリビングに迎え、彼との取り調べが始まった。
犯人の人相はどんな風だったか?
年齢。性別。体型は?
似ている芸能人は?
などと言った質問を受けながら、目の前に居る警官は犯人の行動を手帳を使ってプロファイリングしていく。
彼にコーヒーを渡して冷蔵庫の中で佐野に出せる菓子が無いか探していると、スマホに突然通話がかかった。
謎の電話番号だ。
何だろう。と思い、とりあえず電話に出てみる事にした。
「・・・無事か?」
「誰ですか?」
「・・・何も知らないらしいな。」
電話の男は話を続ける。
「いいか・・・俺は佐野だ」
「?どういう事ですか?」
一瞬の戸惑いが私を襲う。
「落ち着いて聴いてくれ・・・今そこにいる男は・・・」
「連続殺人犯の斉藤だ」
それを聴いた瞬間、一気に自分の中の恐怖に関係する神経が爆発した。
「今そっちに車で全速力で向かっている。それまで持ちこたえてくれ」
私は恐怖に震える体でリビングいる「佐野だった男」を見る。
すると私にまるで幼稚園で子供がバイバイをするようにこちらに笑顔で手を振った。
私は恐怖の中で、なんとか時間を稼ぐ事だけに全力を尽くす事にした。
恐怖で頭が支配されている中で、佐野だった男に菓子を渡す時、彼の手元のコーヒーをこぼしてしまった。
コーヒーが彼のスーツに胸からかかる。
やってしまった。
この時初めて、私は「死」というモノの実感を現実のモノとして捉えた。
だが、その佐野だった男は「いえいえ。大丈夫です。これぐらい」
「この程度の事が起きても、これからの事に変わりはありませんから」と答えた。
それからの記憶は無い。
ただ恐怖に打ちのめされていた。
それから、警官が自宅に入ってくると、何の抵抗もせずに、佐野だった男。斉藤はあっさり逮捕された。
なぜ私が「許された」のか。はわからない。それとも最初から殺す気は無かったのかもしれない。
今も私は同じ家で暮らしている。
私は凪を求めていた。
静寂。平和。何も無いという事が「保証」されている世界。
今の私の心には、もう凪は無い。
焦燥感と、苦しみと、恐怖に支配された日常が私の心を支配している。
・・・そうか。
殺人犯である斉藤は「わからせたかった」んだ。
この世界の「凪」が幻想である事を。
静寂や調和など、人間の意志次第で簡単に破壊できるという事を。
それをわからせるためだけに。殺人を犯した。
そしてその「理解の生き証人」のために、私を生き残らせたのだ。
私は今でも、恐怖と苦しみに震えながら、自分の家で生活をしている。
人間社会というものの「信頼」という概念の薄氷さを噛み締めながら。
コーヒーを飲む自分の手は、今日も震えていた。