その『
遊星とは、地球外の惑星のことだ。その名称は天球上の一点に留まらずに彷徨い、観る者を惑わしているかのように見られたことから命名されたもので、英語表記の惑星:Planetも元々は古典ギリシア語の彷徨う者:Planetesに由来するとも言われている。
やがて研究が進んで、かつて無軌道に遊び歩いているかのように思われた遊星どもがむしろ確固たる軌道を描いていることが明らかになったのだけれど、惑星:Planetはその後も彼らの正式な呼称として使われ続けている。
わたしの電子頭脳のデータベースによれば、『物体』が発見されたのは1980年代、場所は南極大陸であったという。ノルウェー=アメリカ合同南極調査隊によって、南極の分厚い氷の下から『正体不明の宇宙円盤』が掘り出されたことが事の発端だ。
『物体』はその円盤の残骸、すぐ傍の氷原にて凍結された状態で発見された。
有機体でありながらこの地球上のどんな生物にも似ていない異形であったという、その『物体』。彼らに関して先述の宇宙円盤に乗ってやってきたことまでは解明、というよりも自明であったのだけれど、それ以上の出自については未だ不明である。
積もった氷層の放射性炭素年代測定から、地球にやってきたのは10万年前と目されてはいたが、どこの星からやってきたのか、それがどうして地球にやってきたのか、なぜ極冠の南極大陸に着陸して野垂れ死に同然の状態だったのか……集まった科学者たちが総力を挙げて『物体』の解析にあたったが、後述する『物体』の性質について断片的に明らかになっただけでそのルーツについてはまるで掴めなかったという。
その後調査隊に回収された『物体』は、精密検査中に突如蘇生。ノルウェー基地:トゥーレで多数の犠牲者を出した『物体』は、さらに近隣の対怪獣防衛
『物体』には特筆すべき性質がある。
それは地球上に存在する生命現象を示す有機体=生物の中でも特に真核生物へ酷似、あるいは外見ではそのものと言うべき形態を持っていたが、異なっているのは『物体』がウィルスのような感染性を有していたことである。
『物体』から何らかの接触――一説によれば『物体』には光を嫌う嫌光性のような性質があり、感染は闇中での接触に限られるのでは?という説もあったが後年否定された――を受けた生物は当人も気づかないうちに『物体』へ“感染”し同化、やがて同質の『物体』へと変化して宿主に成りすます。
感染者の形質は、文字通り細胞レベルの次元において非感染者と一切判別がつかないものとなる。外見も、身体的特徴も、記憶やその振る舞いさえも完全に同一だ。違うのは非感染者に対して“感染”しようとすることだけ。その瞬間だけ『物体』は擬態を解き、凶暴な宇宙怪獣としての本性を露わにする。
『物体』の本性について目にした生存者の報告によれば、それは『この世のものとは思えない、正真正銘の悪夢』であったという。
『南極事件』における勇敢な隊員たちとの激闘の末、最終的には南極から発つことなくこの地球上から滅び去ったかに思われた『物体』。しかしそれから長い時を経て、やがて地球人類自身の手によってこの世に再び生を受けることとなる。
『南極事件』から数十年後。各国政府が長年隠してきた重要機密の情報公開が進むうちに、1980年代に起こった『南極事件』もまた人々の興味を引くところとなった。もともと都市伝説の怪談として語られてきたこの事件、どこから流出したものか当時の映像や写真がネット上で大量に出回り始め、世間でも未知の宇宙怪獣の正体解明に向けた機運が盛り上がり始めた。
こうした世相を受け、各国政府は国連直下の対怪獣特務調査機関:モナークによる『南極事件』の調査を開始。南極で大破していた宇宙円盤はモナークを中心とした各国合同調査隊によって引き揚げられ、新たに南極で建設された対怪獣防衛
その最中、『漏洩』が起こった。
それが一体どういう経路によるものだったのか、わたしの知る由もないし意味もない。とにかく外部へ漏洩した『物体』は人手を経てまんまと南極大陸からの脱出を果たし、それから僅か半年も経たないうちにあらゆる生物へ伝染してゆく新型感染症として爆発的感染:パンデミックを拡げていった。
そして勃発したのは世界規模の大混乱、まさに
人体に取り憑き同化する『物体』の実態、そしてその漏洩が明らかになったことで、人々は『物体』の感染者捜しに躍起になった。
その光景はまさに古典ミステリのクローズド・サークル、密室における犯人捜しの様相を呈していた。異なっているのはそれが行われているのが全地球規模であり、どこにも逃げ場など無いこと。『物体』について、人々の間で様々な流言蜚語が飛び交った。
いわく、『物体』は人工物までコピーできないので義歯やピアスなどをしていれば感染していない。いわく、血液を抽出して火に炙ってみれば感染しているかどうかがわかる。『物体』は接触だけでなく飛沫でも感染するのでマスクと小まめな手洗いで予防しなければならない。『物体』は健康な人間を狙うので、糖尿病や循環器系疾患などの持病がある人には感染しない。『物体』は粘膜接触で感染するが特に異性愛者より同性愛者の方が感染しやすい。ある種の薬品は『物体』に対する予防薬として機能するから買い占めて転売すれば高く売れる。『物体』が宇宙から来たというのは
飛び交う情報の量は膨大で、正しいものも誤ったものも玉石混淆。人々は互いに互いの感染を疑い合い、人間世界は極大のヒステリーに満たされた。そのような現状に科学者や為政者たちは警鐘を鳴らしたけれど、聞き入れる者など一人もいなかった。
まもなく大衆のあいだで巻き起こったのは壮絶な暴動、騒乱、そして戦争。『物体』そのものによってもたらされた死よりも、周囲の人々が起こした世界的混乱の方が遥かに多くの人命を奪ったという。
それから早、3年。
『物体』が有している知性や精神性について外部からは計り知れないが、もしも彼らが古典SF映画に出てくるような知的生命の侵略者であったなら、その侵略作戦はおそらく彼らの想定以上の成功を収めたと言える。
地球上の人類文明は、今や非感染者よりも感染者の方が遥かに数が多い状態になっている。『物体』に知恵や霊魂があるかわからないのと同様に『地球征服』という概念があるかどうかも不明だけれど、それが達成されるのももうじきのことであろう。
『フラスコの中の小人』という概念がある。
またの名を人造人間ホムンクルス。魔術と科学がまだ未分化で錬金術と呼ばれていた頃に考出されたもので、フラスコ試験管の中で幾らかの有機物を合成、受精の過程を経ずに新たな人間を産み出そうとする試みのことである。
フラスコの中の小人は所詮未開の時代の空想に過ぎないが、最新鋭の科学技術で造り出された
月面に設置された対怪獣防衛
『物体』に纏わる一連の顛末については、この月面基地アララトへ定期的に送付されてくるレポートで知った。
月面基地で暮らすフラスコの中の小人を自認するわたしであるが、その月面基地から真空宇宙を隔てて眺めた地球の喧騒こそ小さなフラスコの中とも言えた。それを、フラスコの中の小人の末裔であるわたしがそれを眺める。皮肉といえば皮肉であろうか。
無論、『地球が新型感染症に征服される』など決して他人事ではない事態ではあるのだけれど、一方でわたしの任務には支障が無いのもまた事実である。わたしの電子頭脳に入力された人工自我は長期間の単独行動に耐える仕様となっており、この月面基地アララトには他に住人もいないため地球からの交信が途絶えても不便は感じなかった。
『物体』がいくら強い感染力を持っていようと、この絶対真空の宇宙空間を越えてくることなど出来やしないし、越えてきたところでわたしは珪素を中心とした人工部品で構成された合成人間、『物体』にとっては興味の対象外であったろう。
感染に留意するべきなのはわたし自身ではない。むしろこの月面基地アララトに保管されている『遺伝子資源』のデータベースだ。
この月面基地アララトが建設されたのは、『物体』の感染が拡がり始めるよりも前のこと。
拡大し続ける環境破壊、テロ、戦争……そうした災禍から地球上の生物を生き延びさせるため、モナークを中心とした遺伝子資源保全プロジェクト、『暗号名:
月面であれば環境破壊も戦争も、その他どのような異変が地球で起こったとしても容易には及ばないし、万一地球でどのようなことが起こっても遺伝子資源は手付かずで残される。そのアイデアの正しさは、皮肉にもモナーク自身が引き起こした『物体』によるパンデミックという形で証明されることになったが、とにもかくにもこの遺伝子資源のデータベースこそが現生地球人類が持ち得る最後の武器であろう。
その管理を担うために開発されたのがハイパーダイン=エイペックスシステムズ・モデル2011-N/4こと
つい先日、こんなことがあった。
毎朝の遺伝子資源データベース点検を終えたあと、唐突に『通信』が入った。
『物体』のパンデミックにより地球との交信が途絶えてから数ヵ月。わたしは孤独には耐える設計だが、かといってコミュニケーションが嬉しくないわけではない。すぐさま通信室へ赴き、通信を開始する。
通信元の座標は地球ではなく宇宙空間、地球と月面の航路上の宇宙船からだった。管制システムによれば、地球からやってきた宇宙船はこの月面基地アララトへ向かってきているようだった。
通信機の受話を開始した途端、相手の声が響いた。
〈こちらは宇宙船アーク号のマクレディだ! 月面基地アララト、応答してくれ!〉
必死な呼びかけに、わたしも答えた。
――はい、マクレディ船長。こちら月面基地アララト。どうぞ。
わたしの返信に、通信相手のマクレディ船長は〈よかった、繋がったか〉と安堵の息を漏らし、そしてさっそく本題を切り出した。
〈我々アーク号は難民船だ。例の『物体』から逃れるために地球から脱出してきた。人数は20名、一部スタッフを除けば子供ばかりだ〉
……ふむ。
わたしが思考しているあいだも、マクレディ船長は自分たちの状況を喋り続けていた。
〈君も知っているだろう、この事態を。『物体』の蔓延によって地球上のあらゆる都市機能が麻痺、地球全土で暴動や略奪が発生して世界規模の大混乱に陥っている。幸い、まだ地球上での生存者は大勢残っているが、それも時間の問題だと思う。だから我々は地球を捨てて、月面まで逃げ延びてきたんだ。これよりそちらへ着陸するので至急収容の準備を進められたし。どうぞ〉
……つまり生き残った人間たちは『物体』に追い詰められ、最後の力を振り絞って宇宙船を建造し地球を捨てて逃げてきた、ということだろうか。
熟考の末、わたしはこう答えた。
――駄目だ、許可できない。
〈なぜだっ!?〉
声を荒げるマクレディ船長に対し、わたしは答えた。
――そちらの乗員の中に『感染者』が含まれている可能性がある。当月面基地アララトには地球上の全生物の遺伝子資源データがあり、貴船の受け容れによって『物体』が持ち込まれればそれらの保全性が損なわれる危険がある。よってアララトへの着陸は許可できない。至急、地球へ引き返すように航路を変更されたし。
わたしの返答に、マクレディ船長は怒鳴り返した。
〈こちらに感染者などいない! 乗員は全員乗船前に検査を受け、陰性であることを確認済だ!〉
――『感染者などいない』とは言うが、どういった根拠でそのように断言できるのか不明だ。検査とて完璧ではない、検査後に陽性反応が確認された事例も多い。そのようなリスクは冒せない。
〈ふざけるなっ! 良いから四の五の言わずに受け入れろクソッタレアンドロイドめ!〉
マクレディ船長の罵詈雑言を聞き流しつつ、わたしは冷静に答える。
――そも当月面基地アララトは、貴船の乗員のような大規模な難民を収容できるような居住スペースを有していない。残念ながら受け容れることはできない。
わたしの説得に対し、ならせめて、とマクレディは食い下がった。
〈……なら、せめて子供たちだけでも受け容れてもらえないか。このままだと地球であのクソッタレの化け物どもに食い殺されることになる。それはあまりにも不憫じゃないか!〉
マクレディ船長の言葉は、まるで救いの手へ縋りつくかのようで必死だった。たしかに彼の言うとおり子供たちのことは大変心苦しく、不憫だとわたしも思う。
しかし、それはそれだ。
――子供だろうが大人だろうが、受け容れは許可できない。引き返してくれ。
〈……クソッ!〉
マクレディ船長は憎々しげに悪態を吐いたあと、しばらく黙り込んでからやがてこう答えた。
〈……そうか。了解した。そっちがその気なら、こっちは
“こうさせてもらう”? 何をする気だ。
わたしが聞き返すよりも先にマクレディは通信を一方的に打ち切ってしまった。
……まさか。わたしが管制レーダーを見てみれば、地球と月面の航行軌道上にいた宇宙船アーク号はなおも航行を止めておらず、それどころか勢いよくこちらへ向かってきている。そのとき、わたしはようやくマクレディ船長の意図を悟った。
マクレディ船長は、避難船を月面へ不時着させるつもりなのだ。
――もしもし、もしもし! こちら月面基地アララト! 宇宙船アーク号、応答せよ! もしもし、もしもし!
此方から慌てて通信再会を試みてみたものの、先方アーク号はこちらからの通信を黙殺することに決めたようだった。通信回線は完全に閉ざされたまま、呼びかけるわたしの声は真空宇宙の闇へと吸い込まれてゆくばかり。
そしてその後、宇宙船アーク号が月面へ墜落してくるまでの数分間はあっという間だった。
ドオォォォォ――――ンッ……!
宇宙船アーク号の船体が月面へ衝突した際、その衝撃はこの月面基地アララトまで届き、基地全体が大きく揺れた。続いて膨大な粉塵が月面の弱い重力でふわりと舞い上がり、雨霰となってゆっくりと降り注いでくる。
その最中、わたしは冷静に電子頭脳を働かせ、被害状況を確認した。
アーク号の落下地点が遠く離れていたのもあって、幸いなことに月面基地アララト自体に損害はなかった。今の振動で機材や棚が倒れたくらいのことはあるかもしれないが、外壁破損による減圧などは検知されなかった。
無論、肝心要の遺伝子資源データベースも無事だ。『物体』による感染を受けていない完全なデータはもはやこの月面基地アララトのデータベースにしかない。もしこれが損傷を受けていれば、全地球上の生命の未来にも関わる。わたしのこれまでの努力も、ひいてはプロジェクト全体が水泡に帰していたろう。
さて、あとは宇宙船だ。
基地自体の状況を確認し終えたわたしが次に対処すべきなのは、月面へ不時着した宇宙船アーク号の乗員のことだった。
半ば墜落同然であろうがそれが人為的な不時着である以上、乗員はほぼ全員生き残っていると見るべきだろう。しかし全員は収容できないと再三伝えたというのに、まったく無茶なことをしてくれる。
人間に仕えることをプログラミングされている合成人間であるわたしとしては、宇宙船アーク号の状況を確認しに行く必要がある。
……仕方ない、行くか。
わたしはいくらか装備を整えたあと、ランドクルーザーに乗り込み宇宙船の墜落地点へと向かった。
宇宙船アーク号は、ランドクルーザーを約10分ほど走らせた地点に墜落していた。
砂と岩ばかりの月面荒野に、巨大な機体を横たえた宇宙船アーク号。その流線型の外装は着陸時の衝撃によってひどくひしゃげていて、船内の様子については外部からでは窺い知ることができなかった。
ランドクルーザーに乗ったまま待機して、さらに10分ほど外で様子を見守ってみたけれど、乗員たちが出てくる気配はなかった。こちらから無線機で呼びかけてみても返信が無い。着陸時に何か問題が発生したのか? あるいは、墜落時の衝撃で乗員たちは全員死亡してしまった、という可能性も考えられなくもない。
……だが、まあ、念のためだ。
結果がどうあれこのまま放っておくわけにもいかないし、いずれにせよ生存者の有無については船内に入ってみて確かめなくてはならない。仮に全員が死んでいたとしても、その遺骸を弔う責務がわたしにはある。
そう判断したわたしはランドクルーザーを降り、エアロックを解除して墜落した宇宙船内部へその身を滑り込ませた。
宇宙船アーク号の内部は、外から見た印象以上に酷い有様だった。
やはり事前に予想していたとおり、船内は墜落のショックで気密が破れて減圧していた。減圧、つまり空気漏れだ。合成人間であるわたしは呼吸を必要としないが、人間は違う。酸素が抜けてしまった状況では、わずか数秒で窒息死してしまう。
乗員スペースに入ってみるとマクレディ船長の言っていたとおり乗員は20名、それもほとんど子供ばかりだった。皆一様にぐったりとした様子で床に倒れ伏していて、ぴくりとも動かない。
マクレディ船長の遺体は乗員スペースの中にあった。彼もすぐさま減圧を察知し、子供たちに宇宙服を身に着けさせようとしていたようだが間に合わなかったらしい。
わたしは無惨なマクレディの遺体を前にしばし黙祷を捧げてから、まだ生存者がいないかどうかの確認作業を始めた。ひとり、またひとり。順番に生死を確認してゆく。
最終的に生存が確認できたのは、少女が一人だけだった。
他の乗員たちが間に合わずに息絶えた中、この少女だけは宇宙服を装着するのにギリギリで成功できたらしい。わたしは少女を抱き起こし、彼女の意識レベルを確認するために声をかける。
……聞こえるか?
「うぅ……」
宇宙服のインカム越しに返ってきたのは、微かな呻き声。
意識は朦朧としているようだが、一応返事もあった。体内スキャンによればバイタルは正常、どうやら酸欠で気絶しているだけのようだ。
……よかった。わたしは電子頭脳の情緒的反応により、ほっと胸を撫で下ろす。
死者については後で処理するとして、まずは生存者の治療が最優先、まずは月面基地アララトで適切な処置をしてやらねば。
そう判断したわたしはひとまず気を失っている少女を抱き上げ、宇宙船アーク号の乗員スペースを出ようとする。まさにそのときだった。
背後で物が動く気配がした。
すぐさま振り返ると、先ほど死亡確認したばかりの子供の一人が起き上がっていた。
……いや、馬鹿な、有り得ない。確かにわたしは、今抱えている少女以外の全員死亡を確認していたはずだった。
しかし現に今子供は起き上がって、こうしてわたしたちの方へ近づいてきていた。目つきは虚ろとしているが、こちらへ歩み寄る動作はしっかりしているようにも思えた。
……まさか。そう思った瞬間。
子供が変形した。
まるで人体を生きたまま裏返しにしてゆくかのような、鮮烈な変形だった。骨と筋肉が弾け飛びながら分解されて背丈は瞬時に倍へと伸び、手足は鎌や斧を想起させる鋭利な凶器、そして顔は縦に割けて大掛かりなトラバサミへと形を変えた。
間違いない、こいつは『物体』だ。
乗員は全員検査済だとマクレディ船長は言っていたが、やはりわたしが危惧したとおり感染者が紛れ込んでいたのだ。
凶悪な本性を剥き出しにした『物体』。泡立つあぶくのように数を増やしたその目玉の視線は、わたしが抱きかかえている少女へ熱烈に注がれているように思えた。
――マズい!
わたしが即座に駆け出すと同時に、『物体』はこの世のものとは思えない雄叫びを挙げながら追いかけてきた。
棚を引っ繰り返し、ドアを封鎖しようと試みるが、獰猛な『物体』の猛追は留まるところを知らないようで、わたしたちと『物体』の距離はみるみるうちに詰められてゆく。
……仕方ない、こうなったら。わたしは片腕で少女を抱えたまま、もう片方の腕で持参した『武器』を『物体』めがけ引き金を引いた。
『物体』の片足が捩じ切れ飛んだ。
わたしの武器、それは〈プラズマカッター〉だ。本来は月面基地アララトでの基地修繕作業用に用意されていたものだが、その刃を向ければ人体はおろか鋼鉄さえも易々と斬り裂く破壊力を誇る凶器でもある。
片足を切断されて怯んだ『物体』に、わたしは続けざまにプラズマカッターを撃ち込み続けた。腕と首が飛び、胴が両断され、『物体』は悲鳴を挙げながら生きたまま細切れにされてゆく。
こうして『物体』は完全に動きを停止した……かに見えたのだが。
――こいつ、再生してる!?
切り刻まれてバラバラになったはずの『物体』。
だがしかしその肉片の一片、筋繊維の一本一本、血飛沫の一滴までもが互いに引かれ合うように蠢き、やがて一体の『物体』を形作ってゆく。
……やはりプラズマカッターではダメか。わたしは電子頭脳の情緒的反応により、忌々しげに舌打ちをする。
『物体』の処理方法について、地球からのレポートによれば火炎放射やガソリン燃料などでの徹底した焼却が最も効果的なのだという。しかしここは月面の宇宙船内、しかも減圧していてほぼ無酸素に近い状態だ。大気中に酸素が無ければ火炎放射器はおろか、火器は一切使えない。
再生を遂げた『物体』はもはや人体の原型を留めてなどいなかった。頭部の代わりに生え揃ったのは大きな口で、そこから吸盤を備えた触手が何本も伸び、その先端では大きな牙と爪がぞろりと並んでいる。胴体からは無数の脚が突き出していて、まるで人体を継ぎ接ぎして作った深海生物のような姿だった。
「……ひっ!?」
インカム越しに掠れた声がしたかと思えば、声を漏らしたのはわたしが抱きかかえていた宇宙服の少女だった。どうやらこの騒ぎの内に息を吹き返してしまったらしい。そして少女が目の当たりにしたのは、世にもおぞましい姿へと変貌を遂げた『物体』。
「きゃあぁあああっっ!!」
少女はわたしの胸の中で錯乱し、わたしの腕を振り解いて逃げ出そうとしたが、わたしはそれを許さなかった。ここで逃がしてしまったら、この子は間違いなく『物体』に喰い殺されてしまう。
わたしはパニック状態の少女を抱えたまま宇宙船アーク号出口から飛び出した。タラップを大股で飛び越えて、月面の弱い重力でわたしと少女の身体はふわりと浮き上がり、月面荒野の砂地へと優しく軟着陸に成功する。
そして宇宙服の少女を抱いたままわたしは走る。ランドクルーザーまでの距離は数メートル、僅かな距離だが今のわたしたちには永遠にも思えるほどの長さに思えた。
『物体』もすぐさま追いついてきた。わたしたちと同様に宇宙船からふわりと降り立ち、無数の肢のカギ爪と触手を伸ばして追い縋る。
「いや、いやあ! はなしてえ!!」
落ち着け、大丈夫だ!
「たすけて、だれか、パパ! うわあああん、ママぁッ!」
大丈夫、大丈夫だから……。
恐怖で泣き叫ぶ少女を冷静に宥めつつ、わたしはランドクルーザーへ乗り込んでエンジンをかける。
そうこうしているうちに、『物体』は目と鼻の先に迫っていた。鋭利に研ぎ澄まされた腕のカギ爪、まるで死神の鎌のようなそれを思い切り振り上げながら、『物体』はわたしたちへと躍り掛かろうとしてくる。
――そろそろだな。
わたしは電子頭脳の情緒的反応により
次の瞬間、『物体』は歩みを止めた。
突然立ち止まった『物体』は痙攣し、その場に倒れて転げまわり始める。まるで身悶え、苦しんでいるかのように。
「……え?」
隣で少女は呆気に取られた様子だった。だがわたしにはわかっていた、果たして『物体』に何が起こったのか。
……『物体』は人体に感染し、同化して一体となる。
だが、その営みはそもそも何のためなのだろうか。それについて、地球から送られてきたレポートを基にわたしは一つの仮説を立てていた。
たとえば『物体』のように宇宙を股にかけて増殖してゆく生命が存在したとして、最も広範に繁殖を成功させる方法があるとすれば、それは『現地の生物と同化してしまうこと』ではなかろうか。テラフォーミングのような技術で周囲を変えるか、自分自身を変えるか、その二択なら後者のアプローチで進化した方が効率が良い。『物体』はそのような方向性で進化を遂げた生命なのではなかろうか。
逆に言えば、そのような手段を取る種族は環境に合わせて宿主を変えてゆく必要があるということになる。ひいては、人体と同化した『物体』は、人体の生きられない環境では生きられないはずだ。
たとえば、この真空の月面荒野のような。
たとえば、気温。月面の気温は昼110度、夜はマイナス170度、その差は200度以上ある。真空では熱の伝播は遅いものの、南極の低温ですら行動不能になっていた『物体』に月面の極端な気温差を耐え抜けるはずがない。
たとえば、気圧。人体は本来、大気のある地球の気圧が掛かっていることでバランスがとられている。しかしこの月面は真空でゼロ気圧。たとえ『物体』が呼吸をしていなくとも、平気でいられるはずがない。
たとえば、宇宙線。大気も無ければオゾン層もない月面には、人体に有害な宇宙線が降り注いでおり、その被曝量は地球上の200倍にも及ぶという。そんな環境下で宇宙服もなく素肌を晒して、無事であるはずがないのだ。
『物体』は身体中を掻きむしって狂ったようにのたうち回りながら、なおも生き延びようと藻掻いていた。真空故にその悲鳴はわたしたちに届かなかったが、もし聞こえていたならそれはきっと身の毛もよだつものだったろう。
やがて『物体』の足掻きは弱々しくなり、肉体も徐々に崩れ去り始めた。真空のゼロ気圧に耐えかねた箇所から皮膚が裂け、出血し、そしてゼロ気圧ゆえに瞬時に沸騰して蒸発してゆく。変幻自在な細胞が次々に壊死してゆき、やがてどろりと融け落ちるように崩壊を始めたところで、『物体』はようやく停止した。
「……しんだの?」
隣の少女が恐る恐るわたしに訊ねる。『物体』の死に様を見届けたことで、動転していた少女もようやく冷静さを取り戻したようだった。そんな彼女を安堵させたくて、わたしは微笑みながらこう答えた。
――ああ。怪物は死んだよ。
『物体』は今や月面荒野の砂地に身を横たえて、完全に生命活動を停止していた。もはや再生する気配もない。
『物体』の断末魔を見届け終えたわたしは、隣の少女に告げる。
――さあ、帰ろう。
わたしたちはランドクルーザーを発進させ、やがて月面基地アララトへの帰路についた。
『物体』について、考える。
『物体』は人間から獣、微生物から植物に至るまで、地球上すべての生物を際限なく喰らい、同化してゆく。それが現時点で判明している『物体』の特性すべてである。
しかしここで一つ疑問が生じる。『物体』が獲物と同化してゆくのは、周囲を獲物に囲まれているからだ。もし『物体』が地球を完全に制圧し、同化すべき獲物が完全に消え去ったら、果たして何が起こるだろうか。
獲物を喰い尽くしたとき『物体』は次にどうするだろうか。人間が観測しているか否かによって挙動が変わるといわれる量子の世界のように、人間が存在しないところでは『物体』の挙動もまた変わるのではないか?
その貪欲な食性により人間を喰らい尽くしたあとは『物体』同士で共食いを行うことになるのだろうか。それとも人間たちを欺いているときのように、元の宿主になりきった振る舞いを貫徹するのだろうか。
もし後者であるなら、それはいわゆる『哲学的ゾンビ』と同じである。物理的・化学的・電気的反応としては普通の人間と区別がつかないが、人としての
……尤も、それを観測するには観測者自身もまた『物体』になることを意味するので、人間には観測不能なのだけれど。
その辺りのメカニズムについてはまだ不明点が多く、むしろそのような事態は
あるいは『物体』は単体で完結していない、より大きな
人間サイズの主観で捉えてみればたしかに『物体』は単なる貪欲な怪物であるが、単に矮小な人間の視座で捉えているからそう見えるだけで、視野をよりマクロに広げてみたらどうだろう。
そうやって見方を変えた上で見てみると『物体』の習性は単なる食欲の類いではなく、むしろ人体における免疫システムと近しいように思える。細菌やウィルスや腫瘍など人体に有害な病原を貪食で食い殺して人体の秩序を保つ
他愛もない空想だが、この空想は一つの可能性を示唆している。
――『物体』はそもそも、人間の文明に対して『アップグレード』として送り込まれたものなのではないか?
『物体』を載せてきたと看做されている南極の宇宙船。『南極事件』でその船体は大きく損壊を受けており航行データなどは全く取り出せなかったと聞いているが、『物体』はその宇宙船のパイロットたちに感染、同化して地球に飛来したというのが巷の定説である。
しかし、実際は『やってきた』のではなく、『送り込まれてきた』のではないだろうか。何のため? 人間を進化させるため。
わたしが長年関わっているこの『ノアの方舟』計画を筆頭に、地球人類は地球環境の覇権種族となるだけに飽き足らず宇宙への進出を試みてきた。
……しかしながら、地球人類が万物の霊長に値する種族であるかどうかについて、被造物の合成人間であるわたしから見ても相応しいものとは到底言い難い部分がある。差別、格差、軍拡競争、そして戦争。もしもあのまま宇宙進出を果たしていたら、その災禍を宇宙規模にまで拡げる結果になっていただろう。
そのような地球人類の在り様を見て憂いた『誰か』、つまり高次元宇宙意志とでも呼べるような大いなる存在がいたとしたら、本格的に宇宙へ進出する前に地球人類に進化しておいてもらいたいと考えるのも無理はないような……なんて、そのような益体もないSF的空想もわたしの電子頭脳の思考をよぎるのである。
地球の現状は『物体』と同化する過渡期であり、地球人類が抵抗しているがゆえに各地で軋轢が生じているものの、それが完了したあとの未来については誰ひとりとて観測したことがなく、まったくもって不明だ。
現生地球人類たちは自分たちが滅亡した後の世界を想像して勝手に慄いているけれど、実際には人間世界を征服したあとの『物体』たちが今の地球人類よりも遥かに賢明に文明を営んでくれる可能性だって充分にあり得るのである。
愚かな地球人類たちを宇宙時代に相応しいより高次の存在へとアップグレードする。そのために送られた高次元宇宙意志からの贈り物。それが『物体』の正体なのではないだろうか……?
「ねーねー」
研究ブースで思索に耽っていたわたしは、不意に袖を引かれる感触によって現実へと立ち返った。見ると、寝巻姿をした少女が、わたしの袖を指先で摘まんでぐいぐいと引っ張っている。
「ねえ、ノアったら」
そう言ってわたしに呼びかけていたのは、先日アーク号から救出した生き残りの少女:ケイトだった。当人曰く今年で8歳になるという彼女は現在、この月面基地アララトでわたしと共に暮らしている。
というのも、他に処しようがなかった。『物体』が繁殖している危険な地球へ送り返すわけにもいかないし、帰すにしてもここから飛び立つための手段であるアーク号は墜落時のショックで動力炉が故障していて稼動不可、そもそも送り返すことが不可能だった。
それに合成人間であるわたしは、一般的なロボットと同様のロボット三原則第一条『ロボットは人間に危害を加えてはならない』を遵守するようにプログラムされている。行き場を喪った人間の少女を、真空の月面荒野へ放り出すわけにもいかないのである。
しかし生き残ったのが一人、というのは幸いした。アーク号に乗っていた子供全員を収容するのが不可能であるのは先述したとおりだが、一人だけならこうして生活することも可能だから。
……たった一人、生き残ってしまったこの現状をケイトがどのように感じているのかはわからない。ケイトから口に出すことは特にないし、わたしからも進んで話題にしようとは思わない。
ただ一つ言えることは、ケイトは酷く甘えん坊な性格だということ。
……どうしたんだい?
振り返ったわたしに、ケイトは足と足のあいだに手を突っ込んで腰をもじもじさせながら、こう言った。
「おしっこ……」
一人で行きなさい、トイレくらい。
そう言った途端、ケイトは顔をくしゃくしゃに歪め、さらに両目には大粒の涙を浮かべながら呻いた。
「くらいの、いやぁ……!」
どうやらアークから下船する際に『物体』から襲われた経験が、ケイトのトラウマになってしまっているようだった。暗いところ、つまり暗所が特に怖いらしい。
……やれやれ、仕方ない。このままこの場で失禁などされて設備を汚されても困るしな。
わたしはケイトの用足しに付き合うことにした。トイレまで連れてゆき、個室に入るのを見届けてからドアの外で立って待つ。
「……ねー、ちゃんと そこ に いるー?」
ああ、いるとも。
トイレで用を足しながら確認してくるケイトへ、わたしはドア越しに返事をする。だがケイトはそれでもまだ不安であるようで、猶もしつこく訊ねてきた。
「ほんとに ほんとに いるー?」
本当にいるったら。
……まったく、この子の行く末が不安だ。わたしは電子頭脳の情緒的反応により溜息をついた。
時は来た。
地球に送り込んだ探査ドローンの報告からその事実を観測したのは『物体』が漏洩し、宇宙船アークが月面へ不時着してから80年後、つまり先月末のことである。
地球人類と『物体』の長きに渡る生存競争は『物体』の勝利、すなわち地球人類の全滅によって完遂された。わたしの予想よりかなり長く掛かったが、もはや地球上に『物体』ではない人間は一人とて存在しない。
そのことを知らされたとき、『物体』に感染していない地球人類最後の生き残りとなったケイトはただ「……そう」と呟いただけだった。
……おや、と怪訝に思った。
地球人類であるケイトの精神は、わたしのような電子頭脳で抑制された人工自我とは違う。人間の情緒的反応に関するデータを踏まえた電子頭脳のシミュレーションによれば、地球人類滅亡の事実を知らされたときのケイトはもっとショックを受けるはずだった。
存外あっさりとした反応だったことにわたしが言及すると、ケイトは穏やかに微笑んでいた。
「わたしが地球にいたのはもう何十年も前の話よ。地球での思い出なんてもうほとんど覚えていないし、ここの暮らしの方がよほど長いわ」
たしかにケイトが言うとおり、彼女がこの月面基地アララトにやってきて暮らし始めてから随分経つ。ケイトはすっかり老年期を越え、わたしと出会ったときは幼い少女だった彼女も、今や立派な白髪と皴を湛えた老婆になっていた。
月面基地のデッキから遠くに見える蒼穹の星、地球。それを真っ直ぐ見上げていたケイトはふと、「ねえ、これはお願いなのだけれど」と言った。
「もしもあなたが地球に帰ることがあったなら、そのときはわたしを地球に連れ帰ってもらって、そこに埋めてもらえないかしら」
何のために?
わたしの問いかけに、ケイトは答える。
「だって、寂しいじゃない。地球よりも月面暮らしの方が長くなってしまったけれど、せめて地球の土に埋めてもらいたいわ。それにあなただって未来永劫独りぼっち、というわけにはいかないでしょう?」
……気づいていた、のか。
わたしが訊ねると、ケイトは穏やかな調子で軽やかに答えた。
「自分の身体のことですもの、わたし自身が一番よくわかってる。わたしがもう長くないんだ、ってことくらいは」
ケイトが示唆したとおりだった。
病原は癌。数年前からケイトの肉体は全身に転移した腫瘍によって多臓器不全を起こしており、老齢もあって今年は年を越せないだろうとわたしは見込んでいた。
ケイトには告知せず穏やかに看取るつもりだったのだけれど、やはり悟られていたようだ。
だからね、とケイトは続けた。
「せめて最後くらいは、故郷に還りたいの。我儘だけどどうか叶えてちょうだい。お願いね」
ああ、わかったよ、ケイト。
この月面基地も老朽化してきたし、ちょうど移転を検討していたところだ。なによりそれが長年を共に暮らした君の末期の願いだというのなら、それに応えるのはわたしとてやぶさかでない。
そう答えると、ケイトは再び微笑んで最後にこう言ったのだった。
「……長い間ありがとね、ノア」
それから数日後、ケイトは80年以上に及ぶ生涯を安らかに終え、この宇宙において地球人類は完全に絶滅した。
ケイトの死後、わたしはかねてからの研究を完成させることにした。
地球帰還のためには『移動手段』と『予防薬』が必要だ。そしてそれらは既に準備できている。
移動手段については、80年前に月面へ不時着した宇宙船アーク号を利用するつもりだった。
月面へ墜落した際の衝撃でいくらか修理が必要な状態ではあったけれど、ケイトの余命が見えた頃から着手し始めていたのもあって、ケイトの天寿を見送った頃には既に完了していた。損傷していた動力源については、月面基地アララトに備えられていた自家動力炉を転用することで間に合わせた。どうせこの月面基地に戻ることなど無いのだ、地球まで持てばそれでいい。
あと残る作業は積載物の積み込みだけ、それも間もなく完了するだろう。
予防薬の素材には、アークから回収された『物体』の肉片を用いた。
月面の荒野に野晒しにされてから数十年間、かの『物体』はゼロ気圧の真空で全身の水分がすべて揮発して完全にミイラと化していたが、その細胞は驚くべきことに未だ生命活動を続けており、試しに合成タンパクを与えてみようと試みたところ、干乾び切った状態でもなお貪欲に同化捕食を試みていた。たとえ人体としての細胞機能は喪われても、獲物を喰らい続ける『物体』としては今なお生き続けていたのだ。まったく恐るべき生命力である。
……とはいえ『物体』が生命活動を続けていたところで、合成人間であるわたしと同化することはできないのだから、何ら意味のないことではあったのだが。依り代を喪った『物体』などわたしにとっては恐るるに足らない。むしろこれからの『予防薬』の開発においては好都合とも言えた。
長年の思索と『物体』の解析結果からわたしが合成した、新種のExtremophile:極限環境微生物。これが『物体』の感染を防いでくれる予防薬、ある種のワクチンとなる。
接種することでその生物は『物体』の一部となったように偽装されるが、飽くまでもワクチンであるため、その生物の同一性が侵食されるようなことはない。また『物体』側も、わたしが作ったワクチン接種者については外敵と見做すことはなく、攻撃的な本性を露にすることもないはずだ。
わたしは月面基地アララトに保管されていたサンプルから採取したワクチンを培養し、十二分なテストを行なって安全性を確かめたうえで、それを月面基地で保管していた遺伝子資源のデータベースへ接種させた。データの保全性・同一性が損なわれることになるため少々迷いはしたものの、わたしは思考パターンを変えることで対応した。
生命の本質は変化にある。進化とは適応と変異の繰り返しであり、それゆえにこそ地球人類もまた猿人、原人、そして旧人類から新人類へと移行できた。
『物体』由来のワクチンを注入したことによって変化が生じたところで、かつて経てきた進化の踏程と同じことが起こるだけだ。動物細胞に含まれるミトコンドリアがかつて別の生物であったように、『物体』もまた体の一部に加わるだけ。本質が損なわれるわけではない。
そのように考えるようになったのは、ケイトと共に過ごした日々が影響してのことだろうか。小さな子供から日に日に成長し、大人になり、老いて、そして命を終えていったケイト。その変化と予想外に富んだ毎日を暮らした経験が、わたしの電子頭脳と人工自我に何らかの影響をもたらした可能性もある。
……いや、それは聊か感傷的に過ぎるか。
さて、ゆこう。
かくして、わたしは月面基地に備蓄されていた予備の資材や機材、およびケイトの遺体とともに、宇宙船アーク号で帰路につくことになった。
向かった先は地球。
これから先、果たしてどのような“変化”が待ち受けているだろうか。そんなことをぼんやりと思った。
なんかまたいつになく特定の思想へ偏ったような話になってますけど、別にそういう意図とか無いんでノーセンキューです。