意識が浮上する、という言い回しがある。
ニュアンスは理解できるが、実際どんな感覚なのかと想像しようとしても上手く言葉にできない部類の表現だ。
しかし現在進行形で感じている意識の状態は、正に「暗くて息苦しい海の底から、いきなり強い浮力が働いて海面から身体が飛び出した」と言い表すのが妥当だと言わざるを得ない。
だから無意識に息を吸った瞬間、思い切りむせた。
「ゴホッ、ゲホゲボッ、ゲぼボッ、ごッフ、げふっ!?」
咳をしながら「意識がある」ことに驚き、困惑して混乱して、咳の止め方が分からなくなって更にパニックになり激しくむせる悪循環。
苦痛で涙腺が決壊し目蓋の裏に涙があふれる。
眼球が乾燥していたのか、急に潤ったことで目がしみて、元から下ろしていた目蓋を更に固く閉ざしてしまう。
咳が止まらない。
苦しい。
喉が痙攣する。
つらい。
喉に痛みが走る。
嫌だ。
目がしみる。
止めて。
誰か。
助けて。
「お嬢様ッ、大丈夫ですかッ!?」
女性の慌てふためく声が聞こえた。
幼いながらも知性を感じさせる、そんな声。
不思議と混乱する意識の奥へと届く、心から安心できる声。
そして背中を優しく撫でられ、意識が浮上してから初めての熱を──人の体温を知覚する。
ああ……良かった、生きてる。
そんな言葉が浮かぶと同時に、咳が自然と引いていく。
心臓は苛烈に脈打ち呼吸も未だ荒いまま。
けれど苦しみや痛みは無くなっていた。
もう自分は大丈夫。
声と体温を与えてくれた女性に礼を伝えようとしたところで、ふと違和感と疑問の壁にぶち当たる。
「(……『お嬢様』って何ですの?)」
疑問が仲間を呼んだ!
新たな疑問が現れた!
「(……『ですの』?)」
自分は極めて
「
わたくし!?
なんだその一人称!?
自分で口にしておいて強いショックを受けた。
再び困惑と混乱に陥りそうになるのを必死になって押し止め、冷静になるよう自分自身を叱咤する。
自然と「ですの」語尾だったのと同様に、一人称も使い慣れた感じで「するり」と出てきた。つまり、それが当たり前の状態であるらしい。
というか発声してみて気付いたが、明らかに自分の声ではなかった。
男の声ですらない。
どう聞いても幼い女の子の声だった。
そんな馬鹿な。
「あっあー」
念のために発声練習してみる。
どうか聞き間違いであってほしい。
しかし祈りは速攻で裏切られ、やはり幼い女の子の声だった。
先程まで痛みを伴う呼吸困難に陥るほど猛烈に咳き込んでいた喉から出てきたとは思えない、可憐な声色だったのだ。
困惑と混乱が彼方から「呼んだ?」とUターンしかけてくる。
いや待てッ、声変わり前の男児の高音ボイスだと仮定すればワンチャンある!
まだ慌てる時間じゃない!
そう心の中で言い繕い、どうにか困惑と混乱にはお帰りいただく。
そもそも男子高校生であったはずなのに「声変わり前の男児」になってるとか「ワンチャンある」とか言っている時点で既におかしいのだが、それについては全力で目を逸らした。
「お嬢様? 本当に大丈夫ですか……?」
別な意味で『お嬢様』を心配するような声が、すぐ隣から聞こえてきた。
そういえば彼女は誰なのだろうか。先程の礼を述べたいのと同時に、それを確認しなければならない。
涙は既に引いている。
もう目蓋を開いても大丈夫だろう。
ついでに自分の『今の状態』も把握しなくては……
ゆっくりと確実に、だが恐る恐る闇の視界を横に切り裂き、世界に色と形を取り戻させていく。
即座に光が眼球に飛び込んできた。
意識が怯み、身体が竦む。
思わず目蓋を閉じてしまいそうになるのを必死に堪え、最初に目に映るものを冷静に受け止め──
綺麗に整備された青く広い芝生、
色鮮やかな花壇の草花達、
高台から見下ろした美しい街並み、
蒼穹に横たわる白い雲、
遠くにあっても雄大に連なる山脈、
空と山の狭間を煌びやかに悠然と飛ぶ白晶竜、
そして要塞の各所に高低差をつけて設置されている回転砲塔。
そのひとつが目の前にそびえている。
「(ダメですわッ、受け止めきれませんの!)」
瞬時にギブアップする。
隣にいるメイド服姿の少女が温もりをくれた人物なのだろうかとか、自分が淡いピンクのフリフリでフワッフワなドレスを身にまとっていることとか……そういう視覚情報が一気に脳へ認識を迫ったものだから、せっかく帰っていただいた困惑と混乱が「てへっ、来ちゃった♪」と恋人面して
「(あ、これアカン奴ですわね)」
情報処理能力に限界が生じ──だが逆にそれ故パニックへ陥ることなく──意識が遠くなってしまう。
メイド少女が悲痛な叫び声を上げるのを、別の世界での出来事のように感じ取る。
「(うふふ……"別の世界"……ね)」
それに対して申し訳なく思いながらも、薄くなる意識がキーワードを拾い上げる。
「(……そうか、これは本当に別の世界なんですわ)」
根拠はない。
ただ本能がそれを理解した。
だって自分の──自分と融合した『誰かの記憶』も言っている。
要塞も街並みも回転砲塔も、全て自分の家が管理している物なのだと。
今度のシャットダウンは黒ではなく白だった。
そのことが何故か嬉しくて、安堵しながら意識を手放した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ユキノイン侯爵家は名門と呼んで差し支えない、永い歴史と耀かしい実績を現在進行形で併せ持つ上級貴族だ。
帝国においては建国から三〇〇年、揺るがず「武門」を司る位置にあり、敵対国に面した領地を守護する各辺境伯を監督する『辺境方面国防総監』を代々勤めている。
そして自らの領地も敵対国家と隣接する土地にあり、有事の際は当主自らが前線に立って辺境方面軍を指揮してきた。
故にユキノイン家は「
ナディア・ユキノインは、そんな脳筋貴族の長女として産まれた。
つまりは脳筋一門のお姫様、脳筋一族の次期当主として運命を背負わされたのだ。
ちょっと過酷すぎやしないかしら……と、当のナディアは──ナディアとしての記憶と意識が融合してしまっているらしい増糸瑞希は、自家の説明を受けて先ず思うところはソレだった。
ちなみに
貨物列車に轢かれたと思ったら、将来は脳まで筋肉になる予定の幼女になっていた。
ちょっとどころではないレベルで過酷すぎる。
現状を改めて把握して、瑞希は頭を抱えた。
自室のベッド──フカフカではあるが天蓋付きの豪華なものではなくシンプルで実用的なデザイン──で目を覚ました瑞希は、あのメイド少女にタックルめいた抱擁を受けワンワンと泣きつかれた。
八番砲塔が設置されている区画を散歩中に、うっかり転んで頭を打って「気絶」したらしい。
確かに瑞希──今の状態に準じてナディアと今後は呼ぶべきだろう──には「散歩をしていて転んだ」という記憶がある。
「御無事で本当に良かったです。一時はどうなることかと……」
同い年ぐらいのメイドだと思っていた少女は、ナディア専属の侍女であったらしい。
つまりは彼女も貴族の御令嬢であるということだ。
「名前はなんだったかしら?」
と尋ねたら
「お嬢様の脳が頭を打った衝撃で筋肉に!?」
と、かなり失礼なベクトルの心配をされて再びオンオンと泣きつかれた。
仕方がないので「大丈夫、まだプルンプルンの脳ですわよ」と自分でもよく意味の分からない誤解の解き方と慰め方をして頭を撫でてやると、ようやく泣き止んでくれたのだが。
侍女の少女はシンシアと名乗り、ナディアの乳母をしていた女性の(とある辺境伯の妹にあたる)娘なのだという。
となると、ナディアにとってシンシアは乳姉妹であり幼馴染みであり侍女であり心を許せる数少ない友人ということになる。
「頭を強く打ったせいで記憶が曖昧になっている」ことを都合の良い理由にして、ここぞとばかりに情報収集に励んだ結果の一部が、前述したユキノイン家に関するものである。
意識が融合する以前から「ナディアの記憶」は不完全ながらも残っているが、同時に増糸瑞希としての記憶も残っている。
だからこそ彼女には「ある認識」が浮かび上がっていた。
「気絶」から目覚めて再び気を失った際に得た、あの妙な確信である。それがベッドで目覚めてから、ずっと心身に絡み付いていた。
そしてシンシアからユキノイン侯爵家や帝国のことなどについて様々な情報を聞き出し、望んではいなかった──信じたくはなかった事実を認めざるを得なくなった。
「やはり……ここは『メルファン』の世界なのですわね……」
一旦ひと休みしたいと申し出て部屋からシンシアを下がらせてから、ナディアは暗い声で灰色の感情を吐露する。
自然に口から零れる令嬢的口調については諦めた。
これはもうナディアの魂に刻印され定着した
だからナディアは無視をした。
それよりも無視できない事象が、目を覚ましてから常に視界を侵食しているのだから。
視界左側の上部に「表示」されている「47010」というアラビア数字。
その下に表示されている、上下左右や斜めの方向を向いた矢印の
二つ並んで表示されている★マーク。
そしてナディアの中にある瑞希にとって馴染み深いデザインの、細くて長い黄色い
「……この世界が『メルファン』でしたら、数字は
口に出して自問してみるものの、推測はできている。
格闘ゲームは多くの場合「タイマン勝負をして先に相手の体力ゲージをゼロにした方が勝利する」という試合方式を採用している。
なので体力ゲージについては見た目から簡単に推測できた。
得点に関しても同様だ。
だとしたら「矢印のアイコン」も『メルファン』と格闘ゲームの間で共通しているものに関係しているはずである。
というより、格闘ゲームで矢印といえば十中八九「必殺技のコマンド入力」であろう。
『メルファン』は所謂「8方向レバー+6ボタン方式」と呼ばれるシステムの格闘ゲームであった。
レバーを動かすことでキャラクターを前後に動かし、ジャンプさせたりする。
6
個のボタンはパンチボタンとキックボタンに分けられ、更に小・中・大の威力に細分される。
これを押すことで、キャラクターがパンチやキックといった様々な攻撃を繰り出すのだ。
このボタンだけを押して出す攻撃を「基本技」と呼ぶ。
一方、レバーの動きとボタンを組み合わせて繰り出す攻撃を「必殺技」と呼び、全てのキャラクターごとに個性豊かな技が設定されている。
例えば『メルファン』の主人公である西園蓮司には『紅響式・螺旋波動』という飛び道具系の必殺技がある。
これの「出し方」は(キャラクターが右を向いている場合)まずレバーを下・右斜め下・右と素早く動かし、その直後にパンチボタンを押す。この一連の操作タイミングが合えば、蓮司の手から赤い竜巻が発生して飛んでいく。
これを記号で表記したものが、
⬇️↘️➡️+P
である。
つまり、いまナディアの視界に表示されている矢印のアイコンは、この必殺技コマンドで入力するレバー操作を表しているものと推測できるのだ。
「この矢印を使えば必殺技を使えますの…?」
小さく、やや震えた声で呟く。
疑問形を使いはしたが、おそらく"使える"。
今は少女の体になってしまっているが、心の半分は男の子のままなのだ。
「必殺技が使える」というパワーワードだけでも血が熱くなるほど興奮するものである。
まして夢に出るほどやり込んだ格闘ゲームの必殺技を使えるとなれば余計に、だ。
全キャラクターの性能やシステム、CPU相手の攻略法は全て記憶している。
「見てからの昇龍、余裕でした」レベルで対人戦も経験豊富だ。
この先、その知識や経験を遺憾なく発揮できる可能性は高い。
勝ったも同然。
格闘ゲームなだけに。
だがナディアの表情はというと、ちょっと人には見せられないほど「微妙ですわー……」な感じに曇っていた。
分かっていたのだ。
ここが『メルファン』の世界であると推測できた時点で、肉質的・物質的な「リアル」を持つ現実であったとしても、どこかに格闘ゲーム的なシステムが存在しているであろうことは。
問題は自分自身。
この「ナディア・ユキノイン」という名前が──存在そのもの問題だった。
「どうして、よりによってナディアに……」
ナディア・ユキノインは『メルファン』に登場するプレアブルキャラクターだ。
肩口で揃えた縦巻きロールと、淡いエメラルドグリーンとパールホワイトを基調とした戦闘用ドレスが特徴的なビジュアルの持ち主である。
アーデルハイド流
ゲーム内では、ヒロインキャラである
少しポンコツな性格もあって、ネットでは「キャラ
それがナディア・ユキノインというキャラクターである。
「悪役令嬢……」
脳筋な悪役令嬢。
待ち受ける未来に頭痛の激しさが増してきそうだが、ナディアが重要視している「微妙さ」は
「同じ転生をするなら
そう。
ナディアの戦闘スタイルは近接タイプ。
それも相手に近付いて投げ飛ばしたり、相手の攻撃を受け止めて投げ飛ばしたり、受け止め記憶した技に対して自動的にカウンター技を叩き込んだりするのが主な必殺技の──増糸瑞希が人生の半分を費やしてきた合気道と似た特性を持つキャラクター、いわゆる「投げキャラ」なのである。
非現実的な技を使っているからこそ、主人公を極めてきたというのに。
「にゃあああああーッ!?
飛び道具技を使ってみたかったですわーッ!!」
やり直しを要求しますのーッ!とベッドの上でバタバタと駄々をこね始めたため、シンシアが何事かと部屋に飛び込んで「やはり脊髄まで筋肉に……」と心配される未来の方が、待ち受ける脳筋悪役令嬢の未来よりも先に到来してしまうのだった──