ラクスの街にある酒場に到着した私はその内部の状況を確認した。
客席に今は人がいない。
音楽家用の椅子の目の前には大きなピアノが置かれている。あの場所でピサールは演奏しているのだろう。
全体的な大きさは一般的な酒場と大差ないけれど、音楽家用の空間があるのもあってやや広いといったところか。
「やっほー、君がドリュアスのミストルティンだよね?」
気さくな態度で接してきたのはカウンター越しにお酒を冷やしている女性だった。
「マスター、無事に依頼達成したから葡萄酒ほしいなぁ」
カウンター席にだらけるように座りながらピサールがそうねだる。
「はいはい、ピサールには葡萄酒をあげるよ」
「やったぁ」
冷やしたての葡萄酒をマスターと呼ばれた女性がピサールに渡す。
ピサールは嬉しそうな様子でその葡萄酒を味わい始めた。
……どうやら今やりとりしていた人がこの酒場の主人みたいだ。
「ミストルティンです。音楽はハープが得意です」
「噂には聞いてるよ。この付近だと珍しいよね」
「ありがとうございます」
今は開店していないのもあって、酒場は静かだ。
「その、お名前を伺っても?」
「あぁ、私の名前? 大したことないからマスターって呼んでくれればそれでいいよ?」
名前を気にしないタイプなのだろう。
微笑みながら言葉にする彼女の姿からはゆったりとした空気を感じさせた。
「わかりました、マスター様」
「魅力的な響きだけど硬い雰囲気だなぁ、マスターって呼び捨てにしてほしいな」
雇い主だから、様と付けるべきかと思ったけれど、そこまで気にする必要はなかったみたいだ。変な気を使わせてしまったと少し反省しながら、言葉を言い直す。
「では、そう呼びますね、マスター」
「あっ、わたしのこともピサールって呼んでいいからね~」
からんと氷の音を響かせながら、ピサールが緩い調子で話に入り込んできた。
なんていうか、自由奔放だ。
「ついでのように言いますね」
「だってそうしないといつまでも『さん』が付いたままになりそうだし」
「嫌なのですか?」
「嫌じゃないけど、よそよそしいかな~って。仕事仲間になるわけだし、それなりには距離詰めていきたいじゃない?」
……仕事を一緒に行うという関係にも適切な距離があるかもしれない。
それを考えると、わざわざ『さん』と付けて話すのも厄介事を発生させるきっかけになるだろうと思った。
「……では、よそよそしくない言い方に変えていきます。それでいいですか、ピサール」
「いいよ~、よろしくね、ミストルティン」
面倒事は起こさないに尽きる。
余計なトラブルは疲労の元だ。
「じゃあ、頼みたいこととか色々説明して大丈夫?」
「問題ないです」
「わかった。ミストルティンに頼みたいのは新しい形のバックミュージック」
「新しい形……ですか」
最初から、高度な要求をされているのではないかと少し不安になる。
「そんな難しいことを注文するわけじゃないから、大丈夫。ピサールとは違った形の音楽を提供してほしいってだけだから」
「ピサールと違う音楽、ですか」
聞いたことがないから、いまいち漠然としない。
それを見たマスターがピサールの方に視線を向ける。
「ごめんごめん、それだけだと具体性がないよね。今弾ける?」
「問題ないよ~」
よいしょ、と声をあげながらピアノに向かうピサール。
おっとりした様子ではあるのものの、やる気を感じる。
「こういうのがわたしの曲よ~」
そう言って鍵盤の音を響かせていく。
ピアノの旋律が小刻みよく奏でられる。音楽のリズムが独特だ。
……これは、ジャズやボサノバの類の音楽なのだろうか。主張しすぎない、だけれどもバックミュージックとして存在感があるようなゆるやかな雰囲気を感じる。
ピアノを弾くピサールの表情はのびのびとしている。自由に音楽を奏でている様子だ。
音楽が終わると彼女は再びお酒を呑みに席に戻っていった。
「こんな感じ~」
「どう、ミストルティン? 同じ音楽性?」
「同じ雰囲気にはならなそうです。問題ないかと」
「そっか、よかった」
「ミストルティンの音楽も聞いてみたいなぁ~」
「私のですか?」
「うん、せっかくだからね」
こっちも演奏したんだし、やってほしいというところか。
「私からもお願いしていいかな」
「わかりました」
マスターからも願われている。
それならば、断る理由もないだろう。
ハープを用意し、椅子に座る。
そして曲を演奏する。
「酒場の音楽……」
まだ、漠然としている。
人が集まる空間の少し軽快な音楽にするべきだろうか、それともいつもの私らしい目立たないけれども、しっかり続いていく音楽にするべきだろうか。
悩みながら、弦を弾いていく。
自然の音を意識した、ヒーリングミュージック。これを静かにゆったりと奏でていく。
夜に集まってくる客はどんな表情をしているのだろうか。
疲れて茫然としているのだろうか。
私はお酒を呑む方ではないからわからない。
ただ、自然のおおらかさは疲れを癒してくれるという事実は知っている。だからこそ、自然の音を意識した音楽を奏でるのだ。
ドリュアスが誘惑するように。
自然のせせらぎを、森の世界を、音楽で展開する。
音楽を静かにフェードアウトさせて、小さく頭を下げる。
演奏終了だ。
「わたしとはやっぱり全然違う~」
小さく拍手をするピサールが感想を述べる。
後ろではマスターも拍手していた。
「今の雰囲気の曲なら閉店時間が近い時とかに使えそうね。おやすみなさいって感じで」
「静かにお酒呑めそうなのが好印象だったね」
「えぇ、そうね。これならバランスよくなりそうだわ」
満足そうに頷くマスター。
どうやら、それなりに評価される演奏ができたみたいだ。
「ピサールとは交代で音を奏でる形になるんですか?」
「基本的にはそれで行くつもりだけど、要望次第で変わるかも。というのも、ミストルティンを呼んだ理由も別のジャンルの曲が聞きたかったからってお客さんから来てたからだし」
「もしかしたらデュオになることもあるかもね」
「……人と合わせる演奏はしたことがないのですが」
「あはは、わかる。わたしもそう~」
面倒事が増えなければいいけれども、これについてはなんとも言えない。
要望次第でやることが増えるというのはなかなかに大変だ。だけれども、こういうのは断るともっと面倒になる。だからやるべきだろう。
「とにかく、明日からお願いしちゃうからよろしくね」
「わかりました、こちらこそよろしくお願いします」
「ねぇねぇ、ミストルティン。乾杯しない? 葡萄酒で」
「仕事がお酒で失敗するのは怖いので今日は遠慮しておきます。アルコールのないワインなら飲みますが……」
「あるよ。じゃあ、それ用意しとくね」
マスターがノンアルコールワインを用意して、カウンターに置く。
「むぅ、葡萄酒は美味しいのよ~?」
身体をくっつけながらも、ピサールがお酒を進めてくる。
その様子はまるで酔っ払いのようだ。
「……酔ってますか、ピサール?」
「別に酔ってないって。もし酔ってたとしても、これくらいはほろ酔いよ?」
「そうなんですか」
「もっと凄い人は酒場にいるもん」
「……そうなんですか」
「そうなのよ~」
ふふふっ、と笑いながら葡萄酒を嗜むピサール。
静かな雰囲気のお店なのもあっておっとりとした空気を感じる。
こういう場所で行動してみるのも悪くはないのかもしれない。
そんなことを考えながら、私はノンアルコールワインを嗜む。
濃厚な葡萄の味わいが口いっぱいに広がってのど越しがいい。これは美味しい。
「素敵な味です」
「ふふっ、味には自信があるからね」
「ねぇマスター、もっと葡萄酒のみた~い」
「ピサールは駄目、明日頑張ったらあげるから」
「ん~、頑張る~」
この酒場に音楽が付いたらどうなるか、それは明日にならないとわからない。
それでも、うまくできるだろうと感じることができたのは、彼女たちのおおらかな雰囲気があったからかもしれない。
後日、頑張る。
私は、私自身に気合を入れることにした。