ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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姫屋編 Fenice
Fenice 01 夢の続き


 夢のかたちは様々だけど。

 

 夢の行く手も様々だけど。

 

 揺るがぬ夢を目指して真っ直ぐ、やってきました水の惑星!

 

 トラブルミラクル押し寄せて、オール片手に悪戦苦闘。

 

 落ち込んだりもしたけれど。迷ったりもしたけれど。

 

 折れたままではいられない、アニエス・デュマは水先案内人。

 

 私は……アニエス・ディマは、今も、ここにいます!

 

 

 

 

「はいっ、お手をどうぞっ!」

 

 元気良く、溌剌に。精一杯の笑顔を浮かべて、私、アニエス・デュマは桟橋から手を伸ばした。

 

「ありがとう、楽しかったよ」

 

 私の手を握る、大きな掌。今日最後のお客様は、人の良さそうな大きな男の人だった。

 

「デュマ部長の推薦だったんだが、アニー君に頼んで正解だったよ。いつかまた来るときは、一人前の君に頼みたいな」

「あはは……恥ずかしいからお父さんにはあまり話さないでくださいね」

 

 お客様……マンホームから旅行に来ているという、お父さんの部下さんの笑顔に、私は顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしくてたまらない。顔から火が出てたりしなければいいけど。

 

「本日は、姫屋のゴンドラのご利用、誠にありがとうございました」

 

 戸惑う私に天の助け。ゴンドラの上から見守ってくれていた、晃さんの助け船が飛んできた。

 

「まっ、またのご利用お待ち申し上げておりますっ!」

 

 晃さんの素敵な笑顔に続いて、ぺっこりと頭を下げる。勢い余ってずり落ちかける帽子を慌ててお手玉する私に、お客様は吹き出しそうな笑顔のまま、手を振って宇宙港に去っていった。

 

「さてアニー、帰るか」

「はい、晃さん」

 

 ぽんと私の頭に手を置いて、ずれた帽子を直してくれる晃さん。藍華さんいわく『レディキラー』の微笑みのせいだろうか、さっき火照った頬も冷めやらぬまま、私は姫屋に向けてオールを仰いだ。

 

 

 

 

「アニーちゃん、ご苦労様~」

「お帰りなさいです、アニーさん」

 

 寮の部屋に戻った私を、いつもの顔ぶれが出迎えてくれた。

 

 ミルクティーのカップを片手に掲げて、春の陽気そのままのような笑顔を見せてくれるのは、ARIAカンパニーの灯里さん。その隣では、いつも一緒の火星猫、アリア社長が灯里さんの真似をしてカップを上げて見せている。

 

 バナナをはぐはぐと頬張っている火星猫のまぁ社長を抱いて、微笑を浮かべているのはオレンジぷらねっとのアリスちゃん。彼女が顔を上げると、抱かれたまぁ社長が名前通りに「まぁ」と鳴く。

 

「お疲れさま、アニー。今アニーの分入れるわね」

 

 そして、優しい笑顔でそういいながら立ち上がるのは、我らが姫屋の跡取り娘にして、私のルームメイトの藍華さんだ。

 

「あ、ありがとうございます、藍華さん。……よっこらしょっと」

 

 私の姿を見て、それまで私のクッションに陣取って丸くなっていたヒメ社長が、藍華さんのクッションに移動するのも、すっかりいつもの光景だ。ヒメ社長の頭をそっと撫でて感謝を伝えつつ、私も自分のクッションに腰を下ろした。

 

 そして、改めて視線を巡らせてみる。ARIAカンパニーの灯里さん。オレンジぷらねっとのアリスちゃん。そして、姫屋の藍華さんと私。

 

 私がアクアに来てから地球歴で一年、すっかりお馴染みになった顔ぶれだ。

 

「はい、アニー。お砂糖は入れておいたからね」

 

 と、キッチンから出てきた藍華さんが、暖かいカップを手渡してくれた。暖かなカップからは、湯気と一緒に紅茶のかぐわしさとミルクと砂糖が織りなす甘い香りが漂い、疲れ切った私の身体にきゅうっと染み込むような感覚が広がってゆく。

 

「ありがとうございます、藍華さん。……あは、甘~い」

 

 少し口に含むと、味覚が嗅覚の正しさを証明してくれた。

 

 ややいつもより多めの砂糖が、ふわりと舌の上に広がって、身体の疲れに溶けていくような感じ。口の中で踊るミルクと紅茶の香りも手伝って、そのままクッションの上で眠ってしまいそうなくらいに気持ちがいい。

 

「こらアニー、居眠り禁止!」

「ええ~……」

 

 そうは言われましても、天国をふわふわ飛んでいるようなこの心地よさ、なかなか振り払えるものではありません。特にこれだけ身体の芯まで疲れ果てているならば……。

 

「アニーちゃん、よく頑張ったものねえ」

「そうね。シングルが予約で一杯だなんて、そうそうあることじゃないし」

「藍華ちゃんの時も凄かったもんね、映画のCMの時」

「あの時の晃さんと藍華先輩、でっかい素敵でした」

「やめてよ、恥ずかしいじゃない。あの時は晃さんの方にほとんどのお客が流れたからまだマシだったけどね。……ともかく。アニーの性格考えたら、人一倍クタクタになって当たり前だわ」

「なるほど、それで藍華先輩、わざわざアリシアさんにおいしいミルクティーの入れ方を教わってから姫屋に戻ってきたのですね」

「こ、こここ後輩ちゃん、情報漏洩禁止!」

 

 などと、先輩方が何やらわいわい騒いでいたのだけれど、

 

「すわっ! お前達、今何時だと思っている!」

 

 と、ドアを開け放ちつつの晃さんの一喝に、しんっと静まりかえった。騒がしい乱入者に、「はわわっ」と、夢見心地だった私の瞼もぱっちりと見開かれる。

 

「騒ぐのはまた明日にしておけ。今日でアニーブームもひとまず終わりだからな」

 

 そう言って、晃さんがウインクして見せる。

 

 そう、先日の雑誌特集(とサイレンの悪魔事件)からはや一ヶ月、ようやく予定表から、私の指名がなくなったのだ。

 

 私を特集した雑誌が発売された直後は、写真をせがまれたり指名予約が入ったりと大騒ぎだったのだけれど、雑誌に次の号が発行されて、私の姿が人々の目に触れることがなくなると、私の指名も徐々に静けさを取り戻し始めた。

 

 それでも、シングルのウンディーネがこんなに指名を受ける事は、前代未聞……とまでは言わないものの、珍しい。そして、シングルが指名を受けると言うことは、その仕事のたびにプリマが指導員として添乗する必要があるから、シングルが指名されると言うことは、プリマの空き時間がその分消費されるということでもある。

 

 そしてプリマの手を煩わせると言うことは、プリマが指導するシングルやペアの時間をも消費すると言うことで……。

 

「晃さん、藍華さん、灯里さんにアリスちゃん、お仕事のことといい、サイレンの事といい、本当にありがとうございました」

 

 改めて申し訳ない気持ちが沸き上がってきて、この場にいる皆と、そしてお世話になったたくさんの人たちに、私は深々と頭を下げた。

 

「うん、本当にいろんな事があったよねえ」

 

 ぺこりと頭を下げた私に、軽やかな笑顔を見せてくれる灯里さん。

 

 彼女の何の打算も屈託もない笑顔は、ちょくちょく霞がかかる私の心を、一瞬で晴れやかに洗い流してくれた。

 

「練習だけではわからないことがでっかい一杯でしたね。勉強になりました」

 

 アリスちゃんが、優しい笑顔を浮かべている。

 

 プリマの晃さんとはまた違う、私と近い視点からの助け船は、まだまだ操船も未熟な私にとって、とてもためになる事ばかりだった。

 

 二人とも、姫屋のウンディーネではないのに、私にこんなにも親身になって手を貸してくれた。

 

 どんなに感謝しても、し足りないし……そして。

 

「ふふん、アニーがちょくちょくチョンボしてくれるから、私も何に気をつければいいかわかって助かるわー♪」

 

 一番私の隣で見守ってくれていた、藍華さん。

 

 少し意地悪を言うこともあるけれど、それは私をからかってリラックスさせようとしているのだと、今ならわかる。

 

 だから、私も少し戯けて悲鳴を上げてみせた。

 

「うわ、それは酷いですよ藍華さん!」

「ほぉう。藍華、するとお前はアニーのミスを全部わかっているんだな。なら、明後日までにレポートと改善点をまとめておけ」

 

 そう言うのは、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた晃さん。思わぬ方向からの一撃に、藍華さんは一瞬目をぱちくりとさせ、そして自分の悲運を嘆いた。

 

「ぎゃーす! 藪蛇だわ!」

「あははは、藍華さん、酷いこと言った罰ですね」

「何笑ってるアニー。当事者のお前もに決まっているだろう」

「ええ~~!?」

「ちゃんとこっちは今日のミスはリストアップしているからな。一つでも見落としていたら二人とも、次の休日はないと思え?」

「「ぎゃーす!!」」

「お二人とも、でっかい墓穴です」

 

 声を揃えて悲鳴を上げる私と藍華さん。アリスちゃんがくすくす笑い、灯里さんがはわわわと狼狽える。

 

 そしてそんな私たちを、晃さんがちょっと意地悪な、だけど優しい笑顔で見守ってくれている。

 

 ……生まれも、育ちも、会社も違う人たちが、この場に集って笑っている。

 

 それは、まるで水の惑星が導いてくれた奇跡。暖かい人と海と街が、私を包み込んでくれている。

 

 これが幸せでなくて、何が幸せだろう。

 

 ――ふと、くらっと意識が遠のいた。

 

 泥の中に沈んでいくような、抗いがたい睡魔。心地よい疲れが、眠りの泥濘から手を伸ばし、私の意識を引きずり込んでゆく。

 

「ん、アニー、疲れたのか。ほら、お前達、そろそろお開きだぞ」

 

 眠りの帳の向こうから、晃さんの言葉が遠く聞こえる。

 

 ――あ、ベッド、行かなくちゃ。

 

 そう思っても、もう意識は身体から離れてしまっている。

 

 そして、抗いようもないまま、私の意識は眠りの海に沈んでいった。

 

 

 

 その時は、まだ何が起きているのか、誰一人としてわかってはいなかった。

 

 だけどその時、アニエス・デュマの運命の輪は、既にぎしぎしと軋みを上げ始めていたんだ。

 

 軋み……その影がはっきりと姿を見せ始めたのは、それから一週間が過ぎた頃のことだった。

 

 

 

 

 

「ゴンドラ、通りまーーーっす!!」

 

 市街地の細い水路にて、角を曲がる直前。私があげた大声に、灯里さん、藍華さん、アリスちゃんが揃って目を丸くした。

 

「はひっ」

「アニーさん、でっかい大声です」

「んー、元気でよろしい」

 

 併走するゴンドラから灯里さんとアリスちゃん、そしてこちらのゴンドラから藍華さんが、口々に私の声を評してくれる。

 

「あはは、元気だけが取り柄ですから!」

 

 そう笑って、力こぶを作る真似をしてみせる。操船も接客も舟謳も、何一つとして先輩達に及ばない私だけれど、元気だけは誰にも負けない。そういう気迫で頑張っている。

 

「ふっふーん、後輩ちゃん。アニーより声が小さいんじゃ、先輩としてちょっとまずいんじゃなーい?」

「でっかいお世話です。アニーさんは後輩ですけど、歳はアニーさんの方が上ですから、腹筋とかが強くて当然です」

「ほほー、そうきましたか-」

「藍華さん藍華さん、私アリスちゃんみたいにオール捌き綺麗じゃないですし」

「お黙りっ。生き馬の目を抜く水先案内人業界では、一つ油断したら後輩が先に行っちゃうのよ。アニーはムラはあるけど頑張り屋だし、泣くのが嫌ならさあ歩けー!」

「あ、藍華ちゃんそれマンホームの古典だねー」

 

 わいわいと騒ぐ藍華さんに、ちょっととぼけた灯里さんの突っ込み。そんな二人のやりとりにクスッと笑った私は、隣で櫂を握るアリスちゃんの方からも、クスクスという忍び笑いの声が聞こえてくるのに気づいた。灯里さんがよく言うところの、アリスちゃんの素敵な笑顔。何となく、見入ってしまう。

 

「…………っ」

 

 私の視線に気づいたのか、アリスちゃんが少し頬を赤らめて仏頂面を作った。その仕草の可愛さに、ついつい吹き出してしまう私。アリスちゃんの仏頂面が更に堅くなってゆく。

 

「アニーさん、お先に失礼します」

 

 ぷいっと顔を背けて、アリスちゃんが併走していた船を先に進めてゆく。どうやら拗ねさせてしまったみたい。

 

「わわ、急ぎすぎだよアリスちゃーん」

「ぷいにゅーっ!」

 

 ゴンドラが急に加速したために、バランスを崩しかけてしゃがみ込む灯里さん。アリア社長もその足にしがみついて……ああ、違った。まぁ社長がもちもちぽんぽんに噛みついてるだけだった。

 

「負けるなアニー! 小生意気な後輩ちゃんに姫屋根性を見せてやれー!」

「はいっ、藍華さん!」

 

 先を行くアリスちゃん達の船に、そうはさせじと藍華さんが拳を突き上げながら檄を飛ばす。体育会系だなあ……と思いつつも、それに元気よく返事をしているあたり、私もまったく人のことは言えない。十二ヶ月以上の時間は、私を姫屋色に染め上げるに十分すぎた。

 

 櫂を水面に突き立てる。切り裂いた水が櫂を押して、その流れを私に伝えてくれる。その流れに逆らわず、切り裂くように、或いは溶け込むように、櫂を流す。

 

「よーし、もう少し! 全力で漕げアニー!」

「了解であります藍華さんっ!」

 

 やいやいと騒ぐ声で、私達が近づいた事に気づいたのだろう。ちらりと、先を行くアリスちゃんがこちらを見て、私と目が合った。

 

「…………」

 

 ぷいっと顔を背けて、更に櫂を早めるアリスちゃん。一見するとただの意地悪だけれど、私もさすがに十二カ月も一緒に練習していない。アリスちゃんの口元が、楽しそうに小さく微笑んでいるのを、私は見逃さなかった。

 

 ゆっくりと、私の舟がアリスちゃんに追いついてゆく。もちろんこちらは全速力だけど、アリスちゃんの舟に追いつくのはそれだけが理由じゃない。

 

 アリスちゃんは、こちらに合わせて櫂繰りの手を緩めている。

 

 それは、私達を待ってくれている……だけじゃない。

 

 アリスちゃんは、私達が横に並んだ瞬間に、本気で抜きちぎるつもりなんだ。

 

 どうせ勝負するのなら、同じところからスタートしなければならない。そんな感じの自分ルールを思いついたのだろう。アリスちゃんにはよくあることだ。

 

 だから、私もその挑戦に乗った。そうしなくちゃ、面白くないし、アリスちゃんに失礼だ。

 

 あと、五メートル。力いっぱい櫂を振り上げる。

 

 あと、三メートル。櫂を水面に突き立てて、一番奇麗な形で前に押し込む。

 

 あと、一メートル。隣舟のアリスちゃんが、スタートダッシュに力を蓄えるのが見える。

 

 そして、舟が並んだ、その瞬間。

 

 

 耳の中で何かが歌うような声が、聞こえたような、気がした。

 

 

 

 

 気づいた時、私は息をしていなかった。

 

 頭がぼんやりする。考えがまとまらない。酸素が足りないんだと、本能が警告しているのだけれど、それを理解する脳がまともに働いてくれない。

 

「アニー! しっかり! アニー!」

 

 誰かが私を呼んでいる。泣きじゃくるような濡れた声。

 

 声が私を呼ぶ度に、私の身体がゆさゆさと揺れているのがわかった。

 

 肺のあたりが圧迫されて、何かが喉をせり上がってくる。

 

 たまらず、私は咳き込んだ。

 

「げほっ、うっ、ごほっ!!」

「アニーちゃん! しっかり!」

 

 引き裂くような肺の痛みと一緒に、体中を酸素が駆け巡る。私のにぶい頭もようやくまともに仕事をするようになったようで、何度も咳き込みながらも周囲を見回す余裕が生まれた。

 

 最初に、藍華さんの顔が一番近くにあって、目許に涙を溢れさせていた。

 

 見れば私の身体は川岸に寝かされていて、すぐ側で青ざめた顔の灯里さんとアリスちゃんが私をのぞき込んでいる。

 

「んっ、けほっ…………あれ?」

 

 胸の痛みがようやく落ち着いた私は、そこで初めて気がついた。

 

 制服の胸を握りしめた手から、水滴がしたたっていることに。

 

 それは胸だけじゃなく、髪も靴も下着に至るまで全部が、水でぐっしょりと濡れていることに。

 

 更に、私を見下ろして深々と安堵のため息を吐きだしている藍華さんも、全身濡れ鼠であることに。

 

「え、えっと……藍華さん、一体何が……」

「何がじゃないわよアニー! 覚えてないの!?」

「えぁええええ、ちょ、ちょちょちょ、藍華さん待って、待って~」

 

 もの凄い剣幕で肩を揺さぶる藍華さん。首がかっくんと折れそうな勢いに目を白黒させつつ、私は灯里さんに助けを求めた。

 

「えっと……アニーちゃん、舟から落ちちゃったんだよ」

 

 舟から……落ちた? 私が?

 

 ……確かに、服はひどく濡れているし、身体も冷え切っている。正直寒くてたまらないのだけど……だけど。

 

「でっかいびっくりしました。私の隣に来たちょうどくらいに、こう、ぐらっと」

 

 手真似で、どんな風に私が落ちたのかを教えてくれるアリスちゃん。確かに、私の記憶は大体そのあたりで途切れているのだけど。

 

「足でも滑らせたの? 気をつけなさいよね、ウンディーネが溺れたなんて格好悪いったらないんだから」

 

 ぷいっと顔を背けて、藍華さんが私を叱咤する。冗談めかしてはいるけれど、その目元が赤く充血しているのを見れば、藍華さんがどれほど心配してくれたのか、手に取るようにわかる。

 

 ……そうか。藍華さんもびしょ濡れってことは、落ちた私を藍華さんが飛び込んで助けてくれたんだ。

 

「ごめんなさい……藍華さんっ……はくしょっ」

 

 謝ろうと頭を下げたら、そのままくしゃみが飛び出してしまった。

 

「あー、流石に春とはいっても、濡れたままじゃ風邪ひいちゃうわね。ってーか寒寒寒寒っ」

「ここからなら、ARIAカンパニーが近いよ。藍華ちゃん、アニーちゃん、急ごう」

 

 灯里さんの提案を、断る理由なんてどこにもない。灯里さんの舟とアリスちゃんの舟にそれぞれ分乗して、私たちは一路ARIAカンパニーに向かったのだけれど。

 

 その道中、私の頭の中で、ずっと一つの疑問が渦巻いていた。

 

 ……一体いつ、どうして私は落ちてしまったのだろう?

 

 

 

 

 そんな訳で、私たちはARIAカンパニーにやってきた。

 

 お風呂を戴いて、濡れた服を着替えてひと心地。ちなみに濡れ鼠二人のうち、私は灯里さんの制服の予備を、藍華さんは灯里さんの私服を借りている。

 

「アニーは意外とARIAカンパニーの制服も似合うわねー。あの時姫屋に来なくても良かったんじゃない?」

 

 藍華さんが言う「あの時」とは、私が姫屋に入社し損ねそうになった時の事だ。

 

「アリシアさんも乗り気だったし、アニーちゃんなら私も大歓迎だったんだけどねー」

「アテナ先輩も、アニーさんがうちに来てくれてたら楽しかっただろうって、言ってたことがあります。私も割と同感です」

 

 ARIAカンパニーの灯里さんと、オレンジぷらねっとのアリスちゃんが口々に言う。

 

 そう、私には姫屋以外にもこんなにも選択肢があった。結局初志貫徹のつもりで姫屋にお世話になっている私だけれど、もしARIAカンパニーやオレンジぷらねっとにお世話になっていたら、私は今頃どんな私になっていたのだろう?

 

「意外と変わらないんじゃない? 頑張り屋で、アップダウンが激しくて、アンジェさんの事で騒いで、親が来たらまた大騒ぎして……」

「あはは、そうかも知れませんね」

 

 藍華さんの容赦ないコメントに、やや冷や汗混じりに愛想笑いを浮かべる私。あまりそのあたりをほじくられるとまたちょっと気分がダウン気味になってしまいそうになるのだけれど。

 

 その時、ばたんと扉が開け放たれ、晃さんの怒号が飛び込んできた。

 

「アニー! 運河に落ちたって本当か!?」

「ひゃぁっ!? あ、晃さん!?」

 

 アリシアさんの暖かいカフェオレを戴いていた私は、晃さんのあまりの勢いに驚き、思わずカップを取り落とすところだった。

 

「あらあら、いらっしゃい、晃ちゃん」

「ああ、アリシア。連絡ありがとうな。……アニー?」

 

 台所から顔を出すアリシアさんに片手を上げて挨拶した晃さんが、改めて私の方に歩み寄る。その剣幕の厳しさに、私は思わず何か言われる前に頭を下げてしまった。

 

「す、すみません、ご心配をおかけしましたっ」

「あ、いや……反省しているならいい。そんなことより大丈夫かアニー?」

「だ、大丈夫ですよ、ほら。お風呂も貰ったし、身体はすっかり元気ですから!」

 

 ガッツポーズを取って見せる。それは別に誇張でもなんでもなく、本当に身体の調子は万全、むしろいつもより元気なくらい……なんだけど。

 

 ……だとしたら、私はどうして運河に落ちたりしたんだろう?

 

「春とはいってもまだ水は冷たいんだからな。油断はするなよ」

「あ、はい、晃さん」

 

 ほっとしたように、微笑を浮かべる晃さん。本気で心配してくれていたことがわかるその表情に、嬉しくなった私も笑って見せたのだけど……そんな私と晃さんのやりとりに、どこか拗ねたように藍華さんが頬を膨らませた。

 

「あのー、晃さん。濡れ鼠は私もなんですけどー」

「ああ、風邪をひかないようにな。まあひいたらひいたで抜け出さないようプリンは買ってきておいてやるが」

「ぎゃ~~す、話が漏れている……!!」

 

 がーん、と藍華さんがショックを受けて、どこかの絵画のような顔になる。

 

 ……藍華さんの打ち明け話を、うっかり晃さんに話してしまったのは私だということは、ばれるまでは秘密にしておこうと心に誓う。そのためにも、藍華さんが『話を漏らしたのは誰なのか』と、追求するべく視線を巡らせる前から逃げ出したいところなのだけど……。

 

 藍華さんの視線が、挙動不審な私のところでじとーっと停滞したところで、晃さんが藍華さんの頭をぽん、と叩いた。

 

「だが、よくやったな藍華。あまり救助訓練は時間を割けなかったから、心配だったんだが」

「は、はい。そりゃまあ、基礎教練の一つですし」

「ああ。だが、華やかなようでいて、ウンディーネもまた、お客様の命を預かる仕事だ。あるべきでないことだが、何らかの理由でお客様が運河に落ちる事もあるだろう。事故を起こさない努力は当然のこととして、起きてしまったときのリカバリができるのとできないのとでは天地の差がある。……今日、アニーを救った感覚を忘れるなよ」

「は、はい、晃さんっ!」

「うふふ、藍華ちゃん頑張ったわね」

 

 晃さんとアリシアさんに褒められた事で、情報漏洩の件は頭から吹っ飛んでしまったらしい。顔を赤くして笑顔を浮かべる藍華さんに、私も改めて礼の言葉を贈ろうと思ったのだけれど、その前に晃さんの矛先がこっちを向いた。

 

「アニーもだ。救われる側だったとはいえ、自分の状況はわかっていただろう? その感覚を活かして、自分が救う側に立った場合の事を考えておくんだ。いいな?」

「あ、は、はい…………」

 

 晃さんの言う事はわかる。自分でも活かしていきたいとは思う。思うのだけれど……。

 

「……? どうした、アニー」

 

 歯切れの悪い私を訝しみ、晃さんが私を覗き込んでくる。本当はこんなことをわざわざ話したくはないのだけど、私が、晃さんの目に勝てるはずもない。

 

 だから、私は正直に白状した。

 

「それが……私、いつどうやって水に落ちたのか、全然覚えてないんです」

「何だと……?」

 

 晃さんの表情が、ぎゅっと引き締められた。

 

 どうやら聞き捨てならない話だったみたいで、アリシアさんも、形の奇麗な眉を潜めている。

 

 一方で、先輩方は話がよくわかっていないようで、小首を傾げてひそひそと話すばかりだ。

 

 念を押すように、晃さんが問い質した。

 

「……足を滑らせたんじゃないんだな?」

「はい、多分。アリスちゃんの舟に追いつこうとして、もうちょっとというところで、記憶がぷっつり……」

「落ちる前からもう意識がなかったのか……すると、落ちたから失神したんじゃなくて、失神したから落ちたということか」

「確かに、水をあまり飲んでなかったですから、そうかも知れません」

 

 晃さんの分析に、アリスちゃんが同意を示す。アリスちゃんはこういうところの知識や分析力は大したものだ。

 

「…………お医者様に看て貰った方が良くないかしら」

 

 アリシアさんが、表情を硬くしたままそう提案する。アリシアさんにそんな顔をされると、本当にまずい状態なのではないかと不安になってくるのだけれど……。

 

「そうだな……まだ結論を出すのは早い。まずはしばらく様子を見よう」

 

 晃さんがそう言って、その話はそこまでということになった。

 

 

 そうして、取りあえず、この件については保留ということにはなったのだけれど。

 

 アリシアさんと晃さんが、最後まで深刻な面持ちを崩さなかったのが、私の何処かにひやりと冷たい予感を忍ばせていた。

 

 

 そして現実はまったく予感を裏切らず……。

 

 私は次の日、また意識を失った。

 

 

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