ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
深く、息を吸い込んだ。
深く、息を吐き出した。
真っ直ぐに、前を見据える。閉ざされたドアを睨み付ける。
左手を握ろうとして、鈍い痛みに顔が歪む。気を取り直して、右の拳を握り直す。
拳をこう堅く握って、裂帛の気合いを込めて、戸板に向けて振り下ろ――
「ほぁ……、アニーちゃん?」
――そうとした私の目の前で、ぐったりと力の抜ける声と一緒に、ドアが開いた。
その奥から覗き込む、銀髪のとぼけた顔。夢遊病半歩手前くらいの寝ぼけ顔を強打しかけた拳を慌てて引っ込め、頭を下げた。
「おはようございます、アテナさん。……アリスちゃんは?」
「ふぇ……ええと……カバンないから、もう学校じゃないかしら~~~」
ふらふらと、低血圧な身体を持てあましつつ部屋に戻って、銀髪のぽやぽやとした顔の女性……つまり我らが《天上の謳声》アテナさんが言う。
覗き込んでみると、確かに、アリスちゃんの机の上にあるはずのカバンが見えない。つまり、アリスちゃんは今日も、早朝練習をさぼって、学校に出かけてしまったということだ。
時計を見る。午前六時。始業時間には相当余裕がある。つまり、アリスちゃんは純粋に、私と顔を合わせないようにと学校に行ってしまったということ。
肩が落ちるのを押さえられない。これがもう、三日繰り返されている。
この間の後輩指導から、アリスちゃんの態度は明らかに変わった。簡単に言ってしまえば、私を避けるようになったということだ。
例えば、早朝練習。いつも朝が弱めの私(とアテナさん)を、これまではアリスちゃんがたたき起こしてくれていた。のろのろぐずぐずとする私(とアテナさん)に、アリスちゃんが檄を飛ばしていたからこそ、私は無事に早朝練習に参加できていたんだ。
一日目は、てきめんに遅刻した。気が付けば学校も始業時間で、単に前の晩寝付けなかった私を、アリスちゃんが気を遣って起こさずにいてくれたのかとも思ったのだけれど。
実際には、アリスちゃんは早朝練習より早い時間に登校してしまっていたと、わかったのが昨日のこと。
学校から帰ってきても部屋に引きこもり、お風呂の時間すらいつもとずらしているアリスちゃんに、ようやく私は自分が避けられているのだと気が付いた。
どうして、どうしてだろう。
思い当たることは、やっぱりこの間のペア指導。アリスちゃんにちゃんと指導できなかったり、折角のチャンスなのに『希望の丘』到達を手伝わなかったり、その辺りがアリスちゃんの逆鱗に触れたりしたのだろうか。
でも、私事だからかも知れないけど、これ自体は、そんなにアリスちゃんを怒らせるような事ではないと思うのだ。
だったら、一体何が悪いのか。多分だけど、アリスちゃんはそれがわからないまま頭を下げても、それで許してはくれないと思う。
……わからない。どうしてなのか。どうしたらいいのか。わからない。
「……うう、しょうがないよね」
幸い、こんなときのために、先人達はとてもありがたい格言を残してくれている。
――バカの考え、休むに似たり。
おとなしく、一番頼りたい人に相談することにした。
※
問題は、『頼りたい人』であって、『頼れる人』かどうかはわからないという事だった。
「アリスちゃんに、避けられてる?」
私が一番『頼りたい人』アテナさんが、アールグレイにミルクを注ぐ手を止めて、眉を寄せた。
「はい……」
応える私の声に、暗雲が立ちこめているのが自分でもわかる。
「アリスちゃん、昨日も一昨日も早朝練習に出てこなかったんです」
「昨日の夕方街で見かけたときも、ふいーっと逃げちゃいましたしねー」
灯里さんと藍華さんが、二人ともちょっと困った顔で補足してくれる。
それぞれ同業他社の制服を纏う彼女たちだけど、内部から手引きをする私たち(私、アリスちゃん、アテナさん)の存在もあって、すっかり我が寮の玄関をフリーパスで通過するようになっている。
今日の合同練習で、私は灯里さんと藍華さんの二人に、アリスちゃんに避けられているのだと話した。元々ここ数日姿を見せないアリスちゃんの事を気にしていた二人は、今日アテナさんに相談をするつもりだと言うと、一緒に話を聞きたいと申し出てくれたんだ。
そんなわけで、集まったのは私の部屋。オレンジぷらねっと社員寮の、贅沢にも二人部屋を一人で占有しているものだ。
部屋を広く使えるために、私が混ざった会社の未熟者同士のお茶会などでは、大抵私の部屋が会場になる。もちろんアテナさんを交えての時は、アテナさんとアリスちゃんが暮らす部屋を会場にするのが普段の話。だけど、今日は特別に、アテナさんを私の部屋に招いて話を聞いて貰っている。
理由は簡単。私がアリスちゃんの部屋に陣取っていたら、アリスちゃんが帰って来にくいのではないか、という危惧。藍華さんなどに言わせれば「余計な気遣いだと思うけどねー」ということなのだけど、私がアリスちゃんに避けられている今、アリスちゃんの居場所を奪うような真似だけは、絶対に避けなければならないと思ったんだ。
だから、アテナさんにはわざわざこちらにご足労を願った。
「……何があったの?」
そう少し影を落とした顔で、アテナさんはつとととと、とミルクをカップに注ぎ込む。すこぶるつきのドジっ娘なアテナさんのことだから、またミルクを入れすぎるのではないかと警戒していた私なのだけど、その時に限っては、ついっと適量でミルクの口が上げられる。
それを見届けたところで、私はため息を交えながら、あの時の顛末を語った。
「この間のペア指導の時に、ちょっと……」
少し、声が重くなる。
ペア指導に張り切ったものの、まるでアリスちゃんを指導する役に立っていなかったということ。
アリスちゃんが自力で『希望の丘』を目指していて、まもなく丘の上まで到達してしまうだろうということ。
今丘を制覇してしまっては、シングル昇格試験に差し障るだろうから、なんとかその場はごまかしたのだということ。
それらの話に、アテナさんはずっと静かに耳を傾けていた。
「それにしても、自力で『希望の丘』に挑戦してるなんて、アリスちゃんって凄~い」
「まあ、いつも私たちについて来ていれば当然よね、当然」
「……いつも先輩方と一緒に漕いでる私は一苦労だったんですけど、あそこ」
私の抗議に、「んぁ~、そう、まあねぇ」と曖昧な笑みを浮かべる藍華さん。言外に「まあアニーと後輩ちゃんじゃ漕ぎの腕前はダンチだからしょうがないわよねー」と言っている顔だ。
まあそれ自体は事実なので、しょうがない。とりあえず藍華さんにべっと舌を出してから、改めてアテナさんの方に向き直ったのだけど。
「……ごめんなさいね、アニーちゃん」
と、いきなり謝られた。
「え?」
「アリスちゃんのために、悪者になってくれたんでしょう?」
目を白黒させる私を、少し上目遣いで見やるアテナ先輩。
思わず顔に血が上った。別に、意識的に悪者になろうとか、そういうつもりはなかったのだけれど。でも、結果的に嘘つきになる事を選んだ動機は、アリスちゃんを後々楽しませたいと思ったからで。
ばたばたと手を振って否定しようと思ったのだけれど、確かに言われてみれば、悪役を買って出たような形になっている。
「……ん……そんなつもりなかったんですけど、結局そうなっちゃいましたね」
それで、アリスちゃんに避けられている、と落ち込んでいるのだから、我ながら世話はない。
「考えすぎなのよ、アニーは。……なんか後輩ちゃんが伝染ったんじゃない?」
浮かんだ苦笑いに、藍華さんが容赦なくツッコミを入れる。いやはや、本当に面目ない。
でも……どうせ嘘をつくなら、ちゃんと奇麗につき続けられれば、こんなことにはならなかったんだろうか。
「そうね……でも、嘘は、すぐに心を霞ませるわ。アリスちゃんはカンのいい子だから、アニーちゃんが嘘をついてるとすぐに気が付いたでしょうね」
「ですよねえ……」
また、気分が落ち込んでくる。
「……どうすれば、よかったんでしょうか」
嘘をつかなければ、アリスちゃんは『希望の丘』に到達していた。それができないとすれば、どうすれば良かったのか。またぐるぐる回り始める私の思考。結局、これからも嘘をつき続けるしかないのだろうか。アリスちゃんと、そして私たちの心に傷を付けながら。
「そうね。アリスちゃんが自分で望むんだったら、今度は丘の上まで行っちゃっていいと思うわ」
なのに、こともなげに、アテナさんは前提そのものを引っ繰り返した。
「え、でもアテナさん。それじゃあ昇格試験はどうするんです?」
「どんな試験も、過去問とか練習問題をやるでしょ? 他の人が問題を教えるんじゃなく、アリスちゃん本人が挑戦する事なんだから、それは尊重してもよかったと思う。たまたま、練習してた問題が試験の問題と同じだったっていうだけのことなんだもの」
聞き返した藍華さんも私も、頷くしかなかった。
なるほど。確かにアテナさんの言う通りだ。
私は、アリスちゃんにあの感動を味わってほしいと思った。あの素晴らしい気持ちを、真っ白なカンバスにオレンジの絵の具を乗せていくような、新しいはじまりを、心一杯に感じてほしいと思った。
だけど、そのために嘘をつく事に意味はない。私がどんなに考えて、アリスちゃんの目指す目標に価値を付け加えようとしても、それが形を見せるまでは、アリスちゃんにとってはただの足かせにしかならない。
私は、また私の独りよがりで、誰かを傷つけてしまった――。
「……私、駄目ですね。結局ちっとも、変われてない」
ため息が喉の奥から沸き上がろうとするけど、それを飲み下して考える。私のやったことが間違っていたのはわかった。それならば、これからどうすれば一番良いのかを考えなければいけない。
胸の中に溜め込んだ嘆息が痛い。思わず、服の上から指先でペンダントに触れる。それだけで、あの音色が耳の奥に蘇る。旅人達が紡ぐ、希望の歌が。
心の音色に身を浸しながら、深く息を吸い込む。深く息を吐き出す。胸の疼きは消えないけれど、ずんと重い気持ちだけは、少しだけ吐き出せた気がする。
「今、心が痛いのは、アニーちゃんが本当に優しい子だからよ」
そのとき、憂鬱を吐き出した心の隙間に、アテナさんの涼やかな声が、するりと滑り込んできた。
「え……」
「アニーちゃんの答えも、間違ってはいなかったと思うわ。だって、アニーちゃんはアリスちゃんのためを思って苦しんだんでしょう?」
多分今、私は凄く間抜けな顔をしていると思う。表情を取り繕う事もなく、きょとんとアテナさんの顔を眺めているだけ。
そのアテナさんが、私の視線に返すのは、しっとりとして優しい笑み。
「アリスちゃんもここ数日、とても辛そうにしていたわ。何か、とても大切なものを壊しちゃったみたいな、そんな顔」
アテナさんの笑みに、陰りが混じる。そうか、アテナさんはアリスちゃんと同室。つまり、機嫌を悪くしたアリスちゃんといつも顔を合わせている。ただでさえアリスちゃんのことが大好きなアテナさんのことだ。アリスちゃんの表情が陰っていれば、辛くないはずがない。
「アニーちゃんもアリスちゃんも、お互いのことを大事に思っているのは変わりないと思う。だから、アニーちゃん。どうかアリスちゃんの側にいてあげて。いつも通りのアニーちゃんで、いつも通りのアリスちゃんに接するように」
いつも通りに振る舞うということは、あなたといつも通りに接したいですよ、という暗黙のシグナル。そうしていつも通りに触れ合えば、私達はまた元のように仲良くできるだろうか。
「大丈夫よ、きっと」
アテナさんが、嬉しそうにでっかい太鼓判を押す。その笑顔に勇気づけられない人などいないだろう。
「うん、私も大丈夫だと思う。私も頑張って協力するから!」
「灯里、アテナさんの話聞いてたの? いつも通りにするのに、頑張ったらいつも通りにならないじゃない」
「……はれ?」
灯里さんと藍華さんのとんちんかんなやりとりに、思わず私は吹き出した。
……私は、相変わらず本当にだらしない。だけど、そんな私を助けてくれる、素敵な先輩達がいる。
こんな素敵な人達に救われたから、今の私はここにいる。ここにいることができる。
その中でも一等素敵な年下の先輩と、ちゃんと仲直りするために。
明日、アリスちゃんと会おう。
ちょっと無理してでも、会って話をしよう。
謝る事でもなく、釈明する事でもなく。ただ、いつものように。
まずは、そこから。そこから始めないと、何も始まらない。
そう心に決めると、心がすっと軽くなったような気がした。