ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Donna Stella 03 色のない世界

 アリス・キャロルは、はっきり言えば、拗ねているのですらなかった。

 

 アニエスに、余りに余りな誤魔化し方で『希望の丘』……アリスは『風車の丘』としか知らなかったが……への挑戦を拒絶された時。アリスは、酷く裏切られたような衝撃を受けていた。

 

 そもそも、それ以前からが不愉快だったのだ。大事な物が歪んでしまったような些細なずれが、アリスの心にしこりとなってわだかまっていた。その原因は、アニエスにあると言えばそうだし、アリス自身にあるとも言える。

 

 だから、ペア指導の帰り道、一番率直な感想を、小さく一言だけ、抗議のつもりでアニエスに伝えた。

 

「残念です」と。

 

 その言葉は、アニエスに少なからぬ衝撃を与えた。それは、そのまま立ち尽くして動かないアニエスの姿を見れば、一目瞭然だった。

 

 それこそが、アリスにとっては予想外の事態だった。自分の率直な物言いには、アニエスとて慣れているはず。ならば、この程度の一言くらいで傷つく事はない。精々じゃれ合い程度の意味合いで済む、そう思っていたのに。

 

 半年(地球歴で一年)も一緒に過ごしているのだから、そのくらいはわかって貰えている。そんな甘えが、瞬時に打ち砕かれた。

 

 そして、甘えの破片は、アリスの心に大きく爪痕を残したのだ。

 

 アニエスと顔を合わせない理由は、半々。

 

 アニエスが自分を裏切ったという憤激と。

 

 アニエスを自分が傷つけてしまったという負い目と。

 

 だから、アリスはアニエスと顔を合わせられなかった。それは拗ねているのですらなく、もっと内向的な感情。

 

 アニエスと顔を合わせられない最大の理由、それは。

 

(…………怖い)

 

 怯懦。それこそが、アリスの心を縛る、もっとも太く、もっとも堅いくびきだった。

 

 普段から歯に衣着せぬ物言いをしているだけに、誰かから拒絶されるのは慣れていた。少なくとも、誰かから拒絶される前に自分から拒絶することで、固く心を守っていた。

 

 でも、今は違う。大好きな人が増えた。友達も増えた。自分から手を差し伸べたい大切なものが、数え切れないほどに増えた。

 

 だからこそ。

 

 大好きな人に、拒絶されるのが、怖くてたまらない。

 

 だって、そこに鎧はないから。

 

 大好きだという手を差し伸べているそこに、自分を守る鎧はないから。

 

 だから、怖い。

 

 拒絶されているかも知れない相手と、出会うのが怖い。

 

 アリスがアニエスと、そしてアニエスと繋がる灯里や藍華を避けているのも、結局それが最大の理由だった。

 

 

 だけど、アリスは飽きた。

 

 一人で過ごす時間は、余りにも退屈だったし、一人でいると、恐ろしい考えばかりが浮かび上がってくる。

 

 時間を置けば置くほど、取り返しのつかないことになってしまうのではないか。

 

 連鎖反応のように、アリスが大好きな人たちが、次々とアリスを拒絶するようになるのではないか。

 

 冗談ではなかった。

 

 大事な人達を失うことはもちろんのこと。

 

 そんな陰鬱な思考に囚われて、足踏みを続ける自分自身も、冗談にしても格好悪すぎる。

 

 だから、アリスは決意した。

 

 アニエスと、話そうと。

 

 三日かけて、ようやくたどり着いた答えは、そんな当たり前すぎる事だった。

 

 

 

 

 部屋に帰ると、まぁ社長だけがいた。

 

 アリスのベッドの上で大の字になっていた火星猫の子猫は、アリスの足音にぴょこんと跳び起き、ころりんころりんとベッドの上で転がり始める。

 

「ただいま、まぁくん」

 

 性別が雌だとわかっても、語呂がいいからという理由で使い続けている愛称で、アリスは小さな社長に声をかける。

 

「まぁ」

 

 ひょこん、と身を起こし、ベッドの上に直立するまぁ社長。火星猫は地球猫とは骨格からして違うのか、まぁ社長やアリア社長はしばしば猫にはあり得ない二足直立の姿勢を見せる。

 

「アテナ先輩はお仕事ですか?」

「まぁ」

 

 まぁ社長を抱き上げ、顔を覗き込んで訊ねる。火星猫の知性は人間並であるとはいえ、子猫のまぁ社長に意味のある返事を期待していた訳ではないのだが。

 

「まぁ」

 

 まぁ社長は、いつもの声と共に、びっと前足を壁の方に指し示した。

 

「……え?」

 

 壁にあるのは、衣装棚がひとつ。かつて、まぁ社長がまだ「まぁくん」でしかなかった頃、アリスがこっそり彼女を匿っていた場所だ。

 

 ……衣装棚の中? と一瞬考えて、その思考を振り払う。いくらアテナが時折突拍子もないことをする人だからといって、衣装棚の中に隠れているなどということがあるはずがない。

 

「……うん、あるはずない」

 

 衣装棚の戸を閉じて、溜息を吐き出す。すると彼女はどこに行ってしまったのだろう。

 

 もう一度、衣装棚の方を見る。その向こうにあるのは、寮の廊下。そして更にその先にあるのは。

 

「……アニーさんの部屋?」

 

 ちらりと、腕の中のまぁ社長の方に視線を配る。当の子猫社長はアリスの呟きを聞いているのかいないのか、アリスの制服の袖を咥えてぶらぶらゆらゆらと遊んでいる。その様子からは、これ以上意味ある情報は得られそうにもない。

 

 改めて、考える。確かに、アテナがアニーと話をしている可能性はある。ペアのアリスと違い、アニエスはシングルだ。アテナとしても、ペアにはまだ必要ない指導をすることもあるだろう。どうやらシングル以上には、ペアには教えられない秘密があるようでもあるし。

 

 部屋の空虚さ故だろうか。アリスの胸に、ちくりと小さな痛みが差し込む。

 

「ちょっと行って見ましょうか」

 

 まぁ社長に言うように振る舞いつつ、その実自らに言い聞かせるアリス。アニエスの部屋にアテナがいるとすればむしろ好都合、いないとしてもそれを口実に、一緒にアニエスと夕食にでも行けばいい。それできっと、この胸のもやもやは消えてくれる。

 

 決断すれば、行動が早いのが自分の長所だと思っている。まぁ社長を部屋に残して、廊下を歩く。業界最大を誇るオレンジぷらねっとの寮だが、そこで迷うのは浮かれたアテナくらいのものである。程なくアリスは目的地、すなわちアニエスの部屋の扉の前に辿り着いた。

 

 扉の向こうに、人の気配がする。僅かに聞こえる、アテナやアニーの声。

 

「それにしても、私演技力が……声量はそれなりに自信があるんですけど」

「大丈夫よ、私だって最初は案内の台詞を忘れて、必死に歌って誤魔化したもの」

「……それはさすがに……」

 

 どうやら、二人は技術指導の相談をしているように聞こえる。

 

 今ならば大丈夫だろう。アリスは深呼吸をする。吸い込み、吐き出す。もう一度、繰り返す。

 

 よし大丈夫、ここにいるのはいつも通りのアリス・キャロルだ。何も変わらない。何も怖くない。

 

 だから、アリスは拳を握って、いつものように扉をノックしようとして。

 

「ふ~~ん、するとアニーは棒読み台詞の棒子ちゃんね」

 

 藍華の声が聞こえて、アリスの手が止まった。

 

「えぇ~~っ、それはないですよ藍華さん」

「藍華ちゃん、なんだかそれ、暁さんみたい」

「なんですと、誰がポニ男じゃ、もみ子~~~~っ!!」

「はひぃ~~~っ!? 藍華ちゃん髪引っ張らないで~~~っ」

「ええと、ええと……」

「ああああ藍華さん落ち着いて~~っ」

 

 姦しい声。藍華が逃げ回る灯里の長く伸ばしたサイドを掴み、アニエスが藍華を止めようとして、アテナがその背後でおろおろしている。そんな光景が、声を聞くだけでアリスの瞼に浮かび上がる。

 

(……あれ?)

 

 違和感があった。

 

 何故、アリス・キャロルはここにいるのだろう。

 

 アリス・キャロルの居場所は、この扉の向こうだったはずじゃなかったのか。

 

 いつもなら、暴れる藍華に突っ込みの一つでも入れて、後は素知らぬ顔で本を眺めていたり、あるいはそろそろ槍玉がこっちに向いてきている頃ではないか。

 

 なのに。

 

 アリス・キャロルはここにいて。

 

 壁の向こうでは、輪が完成してしまっている。

 

 どうして。

 

 足りないピースは、ここにあるのに。

 

 身体が金縛りに遭ったように動かなかった。

 

 ノックをする直前の姿勢のまま、凍りついてしまっていた。

 

 心まで、凍ってしまえばいいのに、と思った。

 

 心が凍りつけば、これ以上考えなくていい。

 

 これ以上考えたら、多分、大変なことになる。

 

 何も考えるな。

 

 何も考えるな。

 

 いいから今すぐ、ドアを叩け――!!

 

「あ……アニーちゃん、そろそろ私は部屋に戻るわね」

 

 力を込めた拳が、またアテナの声に縛られた。

 

「え? まだいいじゃないですか。夕ごはんもまだでしょう?」

「うん、でも、もうアリスちゃんも戻ってくると思うから」

 

 いけない。

 

 輪が、閉じていく。

 

 アリス・キャロルというピースを欠いたまま、輪が閉じてしまう。

 

 それだけは。それだけは駄目だ。

 

 だって、あそこは私の場所。私がいていい、私が一番大切な場所。

 

 なのに、どうして。

 

 なのに、どうしてあんなにも、遠い。

 

 たった壁一枚なのに。

 

 ノック一つで打ち破れるはずなのに。

 

 なのに、越えられない。

 

 なぜなら。

 

(……駄目)

 

 私のいるはずの場所に。

 

(……それは駄目)

 

 私の場所を、彼女が

 

「それだけは、駄目――――ッ!!」

 

 思考を、怒声で切り裂いた。

 

 それは、絶対に考えてはいけないこと。

 

 それを考えてしまったら、アリスは、自分を許せなくなる。

 

「アリスちゃん!?」

 

 アテナの声が、はっきりと聞こえた。

 

「アテナさん、今の……っ」

 

 アニエスの声も、はっきり聞こえる。

 

 駄目だ。

 

 彼女らに、合わせる顔がない。

 

 気が付いた時には、アリスは走りだしていた。

 

 逃げ出していた。

 

 安らぎから、遠ざかるために。

 

 罪を、否定するために。

 

 

 どこかから、にゃーう、と嫌な響きの猫の声が聞こえていた。

 

 

 

 

「アリスちゃん!」

 

 率先して飛び出したのは、もちろんアテナだった。

 

「アテナさん、『水の三大妖精』たる貴女が、そんなばたばたと……」

「おばさん、アリスちゃんは何処に!?」

 

 はしたなくも駆け出した先の廊下で、目を丸くしている寮母を見つけ、つかみ掛かるように問いかけた。いつになく慌てた様子のアテナに、寮母は丸くした目を更に白黒させる。

 

「今そこを下に走って行きましたよ。でも一体」

「ありがとう!」

 

 寮母のお小言をすっぱりと斬って捨てて、アテナは走り出した。それに続き、アニエスがぺこりと頭を下げてアテナを追いかけ、更に同業他社の制服が二つ、寮母の前を駆け抜けて行く。

 

「一体なんだというのですか、まったく最近の若いウンディーネは!」

 

 ぷんすかと頬を膨らませて憤る寮母だったが、当然のように、悠長にそれに耳を傾ける人間はいなかった。

 

 

 

 

 外にアリスが飛び出すと、世界は灰色に染まっていた。

 

 雲は厚く垂れ込み、貪欲なことに傾いた陽光の名残を残らず呑み込んで、地上にはわずかなおこぼれだけを投げかけている。

 

 視界を埋め尽くす、色を失った街。今の私みたいだ、と、アリスの冷静な部分が呟いた。太陽に照らされている間は美しく輝いていても、悲しみが空を閉ざせば、途端に灰色の中に沈み込んでしまう。

 

 アリス・キャロルにとっての太陽とは、あの愛おしき先達たち。

 

 舟を漕ぐことばかりに目がいって、ウンディーネというありかたを、人と人が触れ合うことの価値を知ろうともしなかったアリスの心に触れて、新しい世界に引っ張ってくれた人々。

 

 それまでは、自分で輝いていると思っていた。否、輝いていなくてもいいと思っていた。誰に気づかれることもなく、ただ気ままな彗星のように、ゴンドラをこぎ続けていられれば、それだけで十分幸せなのだと思っていた。

 

 なのに、その狭隘な世界が砕け散った。砕け散った後に気がついた。誰かと同じ輪の中を巡る心地よさ。同じ太陽の回りを巡って、同じ光を浴びて、きらきらと輝く惑星のありかたを。

 

 だけど、その太陽系の軌道に、新しい星が加わった。遠くから飛び込んできたその星は、アリスの軌道のすぐ側で安定し、同じような軌道でぐるぐると太陽を巡り始めた。

 

 それだけならよかった。むしろ心地よかった。先達として、新たな星を導き、或いは導かれていくうちに、アリスの心は以前よりもずっとしなやかに、ずっと柔らかに振る舞えるようになったと思う。

 

 なのに、それだけでは終わらなかった。巡る星々の間には、緻密な引き合う力のバランスが成り立っている。そこに異分子が飛び込めば、当然のバランスは崩れ、星の軌道は千々に乱れてしまう。

 

 アリスの軌道のすぐ側であるからこそ、アニエスの星の重力は、アリスの星の軌道を揺らした。

 

 そして気がつけば、アニエスの星は、アリスのそれよりも一つ先の軌道へと飛び出してしまった。

 

 暖かな太陽のような人達に、より近い軌道へと。

 

 まるでそうであるのが一番自然であるかのように、楽しげにくるくると巡る、シングルの星々。その姿を、アリスは一人遠い軌道から眺めていた。眺めるしかなかった。

 

 だって、アリスはペア・ウンディーネだから。

 

 シングルの星々は、シングル同士で踊るのが一番だから。

 

”――だから、アリス・キャロルは、その輪の外にいるのが相応しい”

 

 そう、内なる声が告げる。

 

 でも、それは嫌だった。

 

 この身体を柔らかに包む暖かい光。香りそよぐ爽やかな華の香り。女神が優しくしろしめすようなあの場所。それを今更、手放すことはできない。手放すことができる程大人ではないし、手放した痛みと失った虚ろに気づかずにいられる程子供でもない。

 

 だから、苦しい。

 

 欲求と理性があまりにも相反している。

 

 だから、苦しさのあまり、子供じみた感情があふれ出すのを止められない。

 

(どうして、私はペアのままなんだろう)

(どうして、私はアニーさんのように笑えないんだろう)

(どうして、私の場所に)

 

「駄目……」

 

 思考を振り払おうと、かぶりを振る。それは考えてはいけないこと。それを考えてしまえば、アリスは大切なものを失ってしまう。

 

 なのに、その否定の言葉は、酷く弱々しいものだった。

 

”――どうして、アリス・キャロルの場所に、アニエス・デュマが”

 

「やめて……っ」

 

 内なる声が囁く。思わず耳を両手で塞ぐが、声が聞こえるのは自分の心から。どうやっても、止められはしない。

 

 それはその声が語る言葉が、真実であるから。

 

 否定しようのない、醜い感情の発露であるから。

 

”否定する必要なんてない。それはアリス・キャロルの一番正直な感情。もっと素直になればいい”

 

 甘い囁き。心が揺れ動く。まさしく悪魔の誘いのように、心の鎧を一つ一つ引き剥がしてゆく。

 

 そう、素直になればいい。

 

 どうせ誰もアリスを見ていない。

 

 大好きな人達も、もうアリスのことなんて見ていない。

 

 何故ならば、アリス・キャロルがいた場所には。

 

 アリス・キャロルより努力家で。

 

 アリス・キャロルより社交的で。

 

 アリス・キャロルよりも笑顔の似合う。

 

 

 ――アニエス・デュマが入れ替わってしまったのだから!!

 

 

「あ…………」

 

 膝が折れた。

 

 心も折れた。

 

 考えてはいけないことを、考えないようにしていたことを、ついに心が理解してしまった。

 

 それは、紛れも無い嫉妬の感情。

 

 いつの間にか先に行って、様々な活躍を見せるようになった、年上の後輩。彼女に対する、嫉妬と、恐怖と、羨望。

 

 恥ずかしい。とても耐えられない。アリス・キャロルともあろう者が、こんな感情に振り回されているなんて。

 

 だけど、消せない。拭い切れない。一度燃え上がった感情の炎は、容易に消すことなどできはしない。

 

(助けて)

 

 アリスは、心の中で悲鳴を上げた。

 

 誰かに助けてほしかった。

 

 この荒れ狂う感情を、静めてほしかった。

 

 だけど、一番大好きな人達には、合わせる顔がない。

 

 こんな醜い感情を吐露して、あの笑顔を曇らせたくない。

 

 だから、この感情は、胸の奥で殺しておかなければならない。

 

 

「アリスちゃんっ!!」

 

 その時、アリスの心の悲鳴に応えるように。

 

 今一番聞きたくて、今一番聞きたくない声がした。

 

 

 

 

「どうしたの、アリスちゃん」

 

 駆け寄る足音。弾む吐息。背中を撫でる、優しい気配。

 

 振り返る必要もなかった。その声、その気配、アテナ・グローリィ以外の誰のものでもない。

 

 アリス・キャロルだからわかる。その息の弾み具合。会社から方々を駆け回ってきたのだろう。少しひゅうひゅうという、喉に絡んだ音が交じっている。

 

 ああ、《天上の謳声》は喉が命だというのに。まだ季節は春、対策もなしに夜闇を駆け回るには、大気は冷たすぎる。

 

”その原因を作ったのはアリス・キャロル自身でしょうに”

 

 内なる声が、そう揶揄する。その通りだ。こんな形で飛び出さなければ、こんな子供じみた感情に振り回されていなければ、アテナはこんな所に飛び出してくる事もなかった。

 

「……こんな夜に出歩いて、喉を痛めたらどうするんですか」

 

 振り向かないまま、声だけを送り届けた。

 

「だって……」

「私のことはいいです。アテナ先輩はオレンジぷらねっとのエースなんですから、ご自分のことを一番に考えなきゃ駄目です」

 

 そう、彼女は特別だ。《水の三大妖精》であり、オレンジぷらねっとのみならず、水先案内人業界全てを底支えする偉大な《天上の謳声》。

 

 こんな、いじけたアリス・キャロルのために、時間を費やしていてはいけない。

 

 だって、アリスは未熟者だから。何の役にも立たず、会社に、アテナに負担ばかりを積み上げていく存在だから。

 

 せめて半人前、シングル・ウンディーネになれば、まだ役に立てるのに。こんな忌まわしい負い目からも解放されるのに。

 

”どうして、アリス・キャロルは――”

 

 内なる声が囁く。それは、心の奥でずっと燻っていながら、敢えて見ないようにしていた疑問。わずか火星暦で半年のうちに、ペアからプリマまで駆け上がったアリシアの逸話を耳にするたびに、ちくちくと心を突き刺していた疑問。

 

「でも、アリスちゃん。私は」

「――どうして」

 

 アテナの言葉を、問いで押し返す。

 

 それまで、心の奥底に押し込まれていた疑問が、ついに鎌首をもたげる。

 

「アテナ先輩。どうして、私はシングルになれないんですか?」

 

 そしてアリスは、アテナに背中を向けたままで、その問いを放ったのだ。

 

 


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