ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
「アテナ先輩。どうして、私はシングルになれないんですか?」
(…………!!)
背中を向けたままの、そんな、引きつったような声での問い。
それは、誰よりもアリスが大好きなアテナにとっては、心臓の表面を硝子で引っ掻かれるような痛みをもたらした。
アテナ・グローリィにとって、その問いは鬼門以外の何物でもなかった。
何故、アリスはシングルになれないのか。そこには、いくつかの重大な問題が内包されている。それはオレンジぷらねっと一社のみならず、水先案内人業界全体の問題であり……その結果、アリスの昇格試験を、アテナの一存で行うことができない、そんな状況を作り出している。
既に、協会はその問題にゴーサインを出している。あとはアテナが認めるかどうか、それだけ。だが、アテナはまだ迷っている。アリスに、これ以上の負担をかける事を躊躇っている。そして何よりまずいことは……アテナは、その問題について、アリスに話す事を厳重に禁じられているのだ。
「それは…………」
言い訳めいた前置詞だけが、口からまろび出る。でも、その続きの言葉が出てこない。ミドルスクールを卒業するまでの辛抱、と言えればいいのに、それすら言うことができない。学校を卒業したからといって、アリスに即座に試験を受けさせられるかどうか、まだわからないのだから。
言葉の続きが出てこない。沈黙が、まるで頭上の空のように重い。
どうすればいい。アテナは懸命に言葉を探す。
奇しくも、これはアニエスが『希望の丘』について問われた時と、同じ状況だ。真実を答える訳にはいかず、かといって嘘をつけば、アリスの心に更なる傷を穿つ。
そもそも、アテナは嘘が苦手だ。先日記憶喪失を装おうとして、早晩うっかりアリア社長の名を呼んでしまったばかりでもある。
それに何よりも、アテナはアリスに嘘をつきたくなかった。どこまでも、アリスとはありのままの自分で触れ合っていたかった。
だから、アテナは言葉を紡げない。沈黙が時間だけを食い散らかしてゆく。
――いつもならば、それで良かったのだろう。
アリスはアテナの意図を汲んで、少し拗ねては見せるものの、概ね穏やかに事を過ごすことができたはずだ。
なのに、今日は。今夜だけは、その沈黙が重い。痛みすら伴って、アテナとアリスの二人を切り刻んでいる。
にゃーーう、と、どこからか猫の鳴声が聞こえた。
酷く耳障りな声。聞くだけで心がざわめく。心の弱いところ、醜いところを晒け出させられているかのような、そんな戦慄をかきたてる声。
背中を向けたままのアリスの背中が、びくりと揺れた。
「答えられない……んですね」
まるで猫に後押しされたかのように、アリスの背中が呟いた。
「そうですね。私、悪い子ですから。奇麗に笑えないし、声は小さいし、ひねくれ者ですし」
ぼそぼそと、陰鬱な声。心が内に籠もってしまった時、アリスはよくこんな声で呟く。でも、今日のこれは、いつになく重たい。アリスの凜とした声が好きなアテナには、受け入れ難い暗さを纏っている。
「それに……アニーさんに嫉妬しているような悪い子は、シングルにすらなれないんです」
断定するように力強く、しかし今にも泣き出しそうなくらい湿った言葉が、アテナの耳から飛び込み、心を袈裟懸けに切り裂いた。
「ち、違うわ、アリスちゃん、そんなことない!」
必死に否定する。そんなことはない。アリスは何か、とんでもない思考のループに陥っている。自己否定の連鎖。何かと考え過ぎることが多いアリスにしても、いくらなんでもこれはおかしい。
「違わないんです!!」
しかし、アリスは頑なに、アテナの言葉を切り捨てた。
「アテナ先輩も、こんな私よりアニーさんを指導してる方が楽しいに決まってます。灯里先輩も、藍華先輩も、ペアの私より、シングルのアニーさんと一緒に練習した方がいいに決まってます」
次々と、自己否定を繰り返す。その言葉の一つ一つが、アテナとアリス双方の心を抉ってゆく。
「だから、私の事なんて放っておいてください。私は……一人でもやっていきますから!」
まるで、泣きじゃくるように、そう言い捨てて。
アリスが、駆け出した。
「待って、アリスちゃん!」
アテナも、その後を追おうとするのに。
その足元を、さっと黒い影が駆け抜け、たたらを踏む。
思わず膝を突いてしまったその目の前に、音もなく舞い降りる、黒い猫の姿。
見る者全てを魅了するような、そんな妖しい光を宿した、黄色い双眸。
魅入られたかのように体が強ばる。動けない。立ち上がれない。
今すぐに、アリスを追いかけなければいけないのに。
”あの娘は、もう心配いらないわ”
内なる声が、そうアテナに囁いた。
”だから、あなたはもういらないの”
まるで、その猫がそう喋っているかのように。
黒猫の目が、すっと細められる。
びくり、と身体が震えた。何か忌まわしいものに触れられたかのように、心が凍りついてゆく。
そして、アテナの心は停止した。
※
――雨が、降り出した。
まだ冷たい、春の雨。アリス・キャロルの髪にぱたぱたっと降り注ぎ、髪をべったりと濡らしてゆく。そして髪が抱え切れなくなった雨水は、額から眉へ、眉から目尻へと濡れた跡を刻んで行く。
もっと降ればいい、と思った。
もっと降り注いで、この胸で荒れ狂う、正視できない感情を洗い流してくれればいい。
――最悪な事を考えてしまった。
――最悪な事を口にしてしまった。
アニエスを傷つけた。アテナを傷つけた。きっと灯里と藍華も傷つけただろう。大事なもの全てに爪を立て、だくだくと血を流させてしまった。
だから、凍えてゆくこの身体は、きっと罰だ。
罰だと思えば、濡れて冷えて強ばってゆく身体も、むしろ歓迎すべきもののようにすら感じられる。
(おかしいな)
そう思った。
これは、アリス・キャロルの思考ではないと思う。
こんな鬱屈した感情は、どちらかと言えばアニエスが持て余していたもので、アリス・キャロルがこんなものに苛まれるなど、あまりにも……らしくない。
”でも、罪は罪。穢れは穢れ”
なのに、そう思い至った思考も、ネガティブな思考が押し寄せてきて、悔恨の渦に飲み込まれ、見えなくなる。
そうして、心ここにあらずという状態のまま、ふらふらと小道を歩いて行くうちに、ぱっと世界が見覚えのある姿を見せた。
「サン・マルコ広場……」
ぽつりと、その名を呟いた。かつて英雄が『世界で最も美しい広場』と呼び慣わした、古都ヴェネツィアと、そしてネオ・ヴェネツィアの象徴。
雨が降りしきる夜の広場に人影はなく、カフェ・フロリアンの建物も闇の中に黒く沈んで、煌々と輝くのは窓の明かりばかりだ。
確か、あの部屋は、ゴンドラ協会がしばしば会合に使っている部屋だ。以前、会合の終わりを待つ灯里とに付き合って、その部屋に出席者であるアリシアがいることを確かめたことがある。
そういえば、もうすぐ《海との結婚式》がやってくる。自分たちウンディーネにとって、数年に一度の大イベントだ。特大のゴンドラ『総督船』が引っ張り出されるイベントということもあり、運河の交通整理や人員誘導などのため、協会が果たすべき役割は多い。
今頃、あそこでは協会の重鎮たちが、イベントをつつがなく執り行うための準備を進めていることだろう。
普段であれば、うまくすれば今年の総督役が誰なのかを知る絶好のチャンス、などと考えるところなのだろうが……。
(でっかい、そんな気分じゃないです)
かぶりを振るアリスだったが、カフェの中で誰かが窓際に立つのが見えて、さっときびすを返した。こんな姿、誰にも見られたくない。
カフェ・フロリアンの明かりから逃げ出し、誰もいない雨の夜を駆け抜ける。パリア橋の方は、星間連絡船や島間フェリーの乗客達が見えたので、途中で踏みとどまり、人の見当たらない反対側へと足を向ける。
そして、二頭の有翼獅子が柱上から見下ろす、サン・マルコ広場桟橋の前で、ふと足が止まった。
冷たい闇の中で、以前聞いた話を思い出す。この場所にまつわる、いくつかの伝説を。
『サン・マルコ広場は、かつて罪人の処刑場だった』
『《噂の君》は、サン・マルコ広場から、サン・ミケーレ島まで乗せてくれと、ウンディーネを誘う』
そういえば、確かかつて灯里が《噂の君》に誘われたのもここだったというし、アニエスが最初に毛皮のサイレンに出会ったのも、大体このあたりだったはずだ。
そう思って見ると、照明の光が雨に散らされ、淡いオレンジに染められた広場は、闇の中にぼんやりと浮かび上がるようで、背筋をぞわりと撫で上げるような不気味さを漂わせている。
逢魔ケ刻――まさしくそんな形容が相応しいその時間。なるほど、こんなサン・マルコ広場であれば、《噂の君》でも《サイレンの悪魔》でも、出てきても不思議はない。
(いっそ、私を連れて行ってくれれば)
一瞬浮かんだ思考を、頭を振って振り払う。おかしい。アリス・キャロルはこんなことで迷ったりはしないはずなのに。
なのに、弱々しい思考を振り払うことができない。
何故なら、今のアリス・キャロルには、どこにも帰っていい場所がないのだから。
寮には帰れない。アテナに、そしてアニエスに合わせる顔がない。
友達の所にも行けない。彼女たちの側から逃げ出したのは自分だ。
家にも帰れない。ゴンドラ漕ぎたさに飛び出した自分が、どんな顔をして逃げ帰れるというのだろうか。
だから、アリスは、雨に打たれ続けるしかない。
「……どこに行けばいいんだろう」
目尻がじわりと熱くなる。ここまで必死に押さえ込んでいたものが、あふれ出しそうになる。
その時、背後から、包み込むように暖かい声が聞こえたのだ。
「じゃあ……一緒に来る?」
※
「アテナさん!?」
アテナ・グローリィが意識を取り戻したのは、その肩を揺さぶる手によってだった。
(……あれ?)
目をしばたたかせる。今まで何をやっていたのか。確か、アリスと話していたのだ。何とか連れ戻そうと言葉を探したのに、アテナの思いを伝える言葉は見つからなかった。
そして、アリスが駆け出してしまって……それから。
それから、どうしたのだろう?
アテナ・グローリィは、何故こんなところにいるのだろう?
「アテナさん、しっかり!」
そう叫びながら、アテナの肩を揺らすのは、アニエス・デュマ。アリスと並んで、今やアテナの大事な教え子の一人。
その手が、肩を揺さぶる度に、ぐしゃぐしゃと濡れた音が聞こえる。
どうして、アニエスの手が濡れているのだろう? と思って、そこでアテナは、濡れているのが自分の身体の方なのだと気づいた。
見上げれば、アニエスが手にした傘が、アテナの頭上でぱたぱたと音を立てている。
――いつの間にか、雨が降り出していた。
(雨に濡れているのにも気づいていなかったということ?)
愕然とした。いくら自分が鈍い方だとしても、下着まで濡れるほどの間、雨に降られ続けて気づかないなんて。
身体が濡れている事に気づいた途端、寒気が襲ってきた。季節は春とは言え、夜の雨は冷たい。くしょっと小さくくしゃみをするアテナを、アニエスが心配げに見上げる。
「アテナさん、アリスちゃんは見つけたんですか?」
ポシェットからハンカチを取り出してアテナに手渡しながら、アニエスが尋ねた。
「ええ……さっきまで、そこにいたのだけれど」
連れ戻そうと話をしたのだけれど、そのまま走り去ってしまったのだと、アニエスに説明する。
……その時アリスが漏らした痛切な叫びについては、言葉にすることを躊躇ってしまったのだが。
歯抜けの説明ではあったが、アニエスはアテナの言葉にひとつ頷くと、
「わかりました。じゃあ、後は私が探します。アテナさんは先に戻っていてください」
と言いながら、手にした傘をアテナに押し付け、ポシェットから折り畳みの傘を引っ張り出し始めた。
準備の良いことだ、と心の片隅で感心しつつ、しかしアテナも退く訳にはいかない。
「でも、私もアリスちゃんを……」
そんな反駁を、アニエスはぴしゃりと制した。
「そんな格好でこれ以上外を歩き回ったら、風邪ひいちゃいますよ」
「でも……」
「いいから! ただでさえここしばらくの風邪は喉に来るんですから、早く戻ってお風呂入って待っていてください! いいですね!」
アリスを彷彿とさせる勢いで、アテナを叱り飛ばすアニエス。これではどちらが年上なのかわからない。
火星暦で半年も一緒に暮らすうちに、アニエスはアリスの呼吸をも吸収してしまったのだろうか。そうアテナが内心で小首を傾げる間に、アニエスはぱっと白い傘を開いて、小道を駆け出して行ってしまった。
「……本当に、強くなったのね」
冷えきった心が少しだけ暖かくなったようで、アテナの口元に微かな笑みが浮かぶ。アンジェリカの幻影に惑わされ、泣き暮らしていたのはついこの間の事だったと思うのに。
試練は人を試し、乗り越えた者を大きく育てるとは言うけれど……。
「……くしょっ」
ほんわかと浮かび上がっていた思考が、鼻の奥から迫り上がる衝撃に吹き散らされた。身体から一気に空気が吐き出されたせいか、急に身体が冷え込んだような気がする。
(早く帰らないと、アニーちゃんの言う通りになってしまうわね)
ぶるっと身を震わせながら、アテナはその場に背を向けた。
アリスの事は、ひとまずアニエスに任せよう。このまま自分が捜し回っても、同じことを繰り返すばかりのような気がする。
そう、思いながらも。
アテナは寮に戻るまでに、濡れ鼠のままに心当たりを数カ所巡り、冷えきった姿を寮母にこっ酷く叱られることとなった。
結局、その晩、アリスは帰ってはこなかった。