ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Donna Stella 06 スタンド・バイ・ミー

 トンネルを抜けると、そこは山国だった。

 

「ふわぁ…………」

 

 ぱっと明るく照らされる、窓の外の景色。昨日の曇天が嘘のように晴れ上がり、地平一杯に広がる新芽の絨毯を、鮮やかなグリーンに染め上げている。

 

 体に響いてリズムを刻む、とかたん、とかたんと規則正しい音。ゴンドラの他は、エアカーやエアバイクといった重力制御車にばかり慣れている私には、格別に新鮮なリズムだ。

 

 私こと、アニエス・デュマが今揺られているのは、古式ゆかしいレールウェイ。かつては化石燃料で動いていたものをアクアに運び、動力だけを無公害エンジンに入れ替えたものだと、乗り換え駅に説明書きがあった。わざわざエンジンの駆動音と振動を、昔ながらの音と振動になるように調整してあるあたりは、流石『昔ながら』を大切にするアクアだと思う。

 

 そういった解説に必ず目が向くようになったのも、観光案内が主体のウンディーネらしい職業病なのだろうか。少し困ったような、少し嬉しいような不思議な気分を弄びながら、車窓の外に広がる世界に目を向ける。

 

 アクアというと青い海というイメージばかりが強いのだけれど、少し陸地に踏み込むと、こういった山岳地帯が広がっている。特に、オリンポス山周辺は有名だ。海面上昇で10キロ近くが水没していながら、なおも太陽系内では最大の標高を誇り、登山家達のメッカになっていると聞いたことがある。

 

 今私の目の前に広がっているのは、ネオ・ヴェネツィアにも色濃く文化圏の痕跡を残している、日本列島をモデルにして開拓が行われた土地だ。

 

「四季折々の自然を豊かに蓄え、いつでも様々な色と香りで訪れる人々を迎え入れる、そんな暖かさが溢れる場所なのです……っと」

 

 ここまで遠いと、ウンディーネとして観光案内する機会などないとは思うのだけれど、何となく口に唱えてしまう。まったく、自分ながらすっかりウンディーネ色に染まったものだ。

 

「まぁ!」

 

 何となくクスリと微笑んでしまった私の膝の上で、まぁ社長が同意するように声を上げた。

 

 

 

 

 さて。なぜ私がこんな所にいるのか。そろそろそっちに目を向けよう。

 

 昨日、アレサ管理部長にやんわりと、しかしぴしりと行いを咎められたこの私。管理部長のおっしゃる事は理解できたけど、もちろん感情的には納得できるものではなかった。

 

 灯里さんたちに相談しようとそれぞれにも連絡を取ってみたのだけれど、灯里さん達もまた、アリシアさんや晃さんに釘を刺されていたようだった。電話口で、特に藍華さんがぶちぶちと愚痴を呟いていたのが印象に残っている。

 

 ともあれ、そんなこんなで、私は気が明後日の方向に向いたまま、昨日を練習に費やしていた。もちろん、気が抜けた上に半徹明けの頭で、まともな練習ができたはずもない。

 

 そして、その夜遅く。自己嫌悪を抱えて帰宅した私を、またもアレサ管理部長の呼び出しが出迎えた。

 

「アリスの居場所がわかったわ。アニエス、貴方が迎えに行ってちょうだい」

 

 いきなりな展開に目を丸くする私に、アレサ管理部長は目的地までの地図と交通費を手渡し、明日の朝一番に出発するようにと勧めた。私としては今すぐにでも出発したかったのだけど、この時間になっては、乗り換え駅の先の列車がないと言われては仕方がない。

 

 そして次の朝、まぁ社長を引き連れた私が、列車に揺られて数時間。乗換駅で列車を一両編成に乗り換えて、更に数時間。朝一番に出発したというのに、目的地の駅が見えてくるころには、すっかり太陽が高く昇ってしまっていた。

 

「次は~、城ヶ崎村~。城ヶ崎村~。お降りの方はお忘れ物のなさいませんよう~……」

 

 運転手兼車掌さんのアナウンスを聞き、私はひとつため息を吐き出して、ハンガーにかけていたお気に入りのコートを羽織った。

 

 ちなみに、今の出で立ちはいつものウンディーネの制服ではなく、お気に入りのワンピース。窓から差し込む光を浴びて、左胸に付けたブローチの花が、きらりきらりと光り輝いている。

 

 このワンピースは、前の誕生日にアンジェさんから貰ったもの。そしてブローチは、アリスちゃんから貰ったもの。

 

 ふと、ブローチに触れながら想う。これを貰ったのはあの《サイレンの悪魔》事件の直前くらい。

 

 あの頃はもちろん、つい最近まで、アリスちゃんとは普通にふれあえていたはずなのに、どうしてこんな事になってしまったのだろう。

 

 そしてそもそも……アリスちゃんはどうして、こんな所まで来てしまったのだろう?

 

 

 

 

 とかたん、とかたんと軽快な音を残して、シックなブラウンの列車が走り去ってゆく。

 

 それを遠くに見送って、私は周囲のぐるりを一通り見回した。

 

 このあたりは農村地帯のようで、広大な稲の畑(田んぼというんだったっけ?)が、平地に緑のタイルを敷き詰めたように広がっている。駅舎の側の柱から伸びる黒いケーブルに沿って視線を巡らせると、緑の絨毯の合間に、飛び石のように一つ、また一つと民家の姿が浮かび上がっている。

 

 遠くの山裾に見えるひときわ大きな建物は学校だろうか。畑道の途中に見える小さな小屋は、確かジゾーとかいう宗教シンボルだったか。あまりネオ・ヴェネツィアでは見かけない様式の家屋が、この地方独特の雰囲気を醸し出している、と思う。

 

 PDAにダウンロードしておいた地図を片手に、今いる場所を確認する。目的地は、田園地帯を抜けて行った先の、小さな民家らしい。

 

 地図にはアメツチ家……と書いてあるけど、この家は一体アリスちゃんとどういう関係なのか、そもそもアレサ管理部長はこんな正確な居場所をどうやって手に入れたのか、疑問は次々浮かび上がっては、解決されないままにわだかまっていく。

 

(ああもう、わからないことだらけだよ)

 

 地図を上へ斜めへと傾けながらそんな事を考えていたものだから、私はいつの間にか背後に近寄っていた人影に、気づく事ができなかったんだ。

 

「こんにちは、アニーちゃんね?」

「へっ?」

 

 予想もしない所からの声に、私は間抜けな声を漏らして振り返った。

 

 そこにあったのは、上品な装いの女性の姿だった。

 

 『綺麗な女性』という表現がとても相応しい。元は豊かな金髪だっただろうけど、年輪によって銀色を孕んで緩やかにカールする髪の下で、そうであるのが当たり前であるかのように自然な笑顔が湛えられている。若々しい魅力とは違うけれど、人としての美しさを損なわないまま歳を経てきた、そんな独特な魅力。すっかり身体は小さくなってしまっているけど、若い頃は相当な美人だったんじゃないだろうか。

 

 そんな人が、私の名前を知っている。慌ててPDAのメモを確認して、恐る恐る上目遣いで問いかけた。

 

「ええと……天地秋乃さん、でしょうか?」

「ええ。アレサちゃんから話は聞いているわよ。アリスちゃんを迎えに来たのでしょう?」

 

 そう、秋乃さんが微笑む。なるほど、彼女は概ね全部の事情を知っているみたいだ。

 

 そして彼女の所にいるということは、アリスちゃんはどうやら《サイレンの悪魔》に誘拐された訳ではなかったらしい。少し、胸のつかえが軽くなった気がする。

 

 それにしても……アレサ『ちゃん』。あの《鋼鉄のアレサ》をちゃん付け。

 

 この秋乃さん、一体何者?

 

「それじゃあ、付いていらっしゃい。アリスちゃんは今、家にいるから」

 

 内心で疑問符を弄ぶ私を余所に、秋乃さんはいつのまにかすり寄っていたまぁ社長を抱き上げると、日傘を小さく振って見せた後、畦道を先に歩き始めた。

 

「あ、は、はいっ……お世話になります!」

 

 慌ててその後を、小走りに追いかける私。程なく追いついた私を、秋乃さんはとびっきりの優しい笑顔で仰ぎ見る。

 

 その視線が驚くほど暖かくて、私は思わずどきりとして立ち止まってしまった。

 

 ――やっぱり、この人、ただ者じゃない。

 

 そう思いはするのだけれど。

 

 いつもの事と言えば、いつもの事。私は少し考えればわかりそうな事に、全然気づく事ができないのだった。

 

 

 

 

 程なくして、石垣の上に鎮座した、タイル敷きの屋根(瓦屋根と言ったっけ)の家が見えてきた。

 

 縁側があって、引き戸が沢山あって、瓦屋根の家。石垣の下には畑だろうか、多分キャベツだろう、緑色のボール草の列が挟んだ土壌に黒いビニールシートが敷き詰められ、その隙間からさっき見た稲を大きくしたような苗が頭を飛び出させている。

 

 多分こういうのを、典型的日本家屋っていうんだろうな……などとぼんやり考えていると、

 

「こっちよ、アニーちゃん」

 

 と、身体は小さくなっても足取りは淀みなく、秋乃さんが坂を上りながら呼びかけてきた。

 

「す、すみません、きょろきょろしちゃって」

「うふふ、こういうところ、珍しい?」

「ええと……はい。マンホームにいた頃は、あまりこういうところに興味がなかったですから」

 

 少し迷ったけれど、正直に答えることにした。私が生まれた地方にもこういう田園風景はあったのかも知れないけれど、現在のマンホームは合理化が進みすぎて、海は泳げない、古代の史跡はみんな資料映像ばかり。都市部は環境整備がこれでもかというくらい行き届いてるし、春夏秋冬もありもしない。食料生産も教育機関も娯楽施設ですら、極めつけに合理化が進められている。

 

 私と同じマンホーム生まれの灯里さんは、そんなマンホームに物足りなさを感じていたらしい。一方私はというと、実のところ小さい頃からずっとマンホームの中でも特に合理化の進んだ場所(つまるところ病室)に缶詰だったせいか、合理化一辺倒のマンホームの社会そのものも、目立って不満があるわけではなかった。どんな場所でも、病室よりはマシだった、というわけ。

 

 アクアに来た理由は、単に不満のない場所よりも憧れる人がいて、憧れる場所があったというだけ。今から考えると、随分贅沢なことをしたんだな、と思う。

 

「それじゃあ、今はどう?」

 

 少し遠い目になっていた私に、滑り込む秋乃さんの問いかけ。それに私は、少し小首を傾げて思案して……少しばつの悪い心持ちを返した。

 

「どっちも大好き……じゃ駄目ですか?」

 

 そんな私の答えを肯定してくれるように、秋乃さんはにっこりと、満面の笑みを見せてくれた。

 

 

 

 

 目の前には、背の高い草が青々と生い茂っていた。

 

 と言っても、無秩序にぼうぼうと緑が盛っている訳じゃない。土の盛り上がったあたりに鉄棒が立てられていて、根本から生えている蔓草が、その棒と、棒の間に張り巡らされたネットを這うようにして空を目指している。

 

 多分野菜なんだろうけど……と思いながら房の一つを眺めてみて、この畑がえんどう豆を栽培しているのだとわかった。豊かに実った莢が、蔓から鈴なりにぶら下がっている。

 

「えーーっと……」

 

 いつものウンディーネの手袋ではない、無骨に厚手の手袋を填めた手を眺める。傷ついたり落としたりしたら嫌なので、ブローチは外し、その上からエプロンをかけている。

 

「お昼を用意するから、アニーちゃんはちょっとアリスちゃんを手伝ってきて頂戴」

 

 そう言って、秋乃さんは私にこの軍手と、小さな裁ち鋏を手渡してくれた。

 

 なんでも、アリスちゃんは今、裏の畑で野菜を収穫しているのだという。お世話になっているのに何もしない訳にはいかない、と彼女が自分から引き受けた事だというのだけれど……。

 

「そうだ、アリスちゃん……」

 

 改めて、目的を思い出す。私はアリスちゃんを探しにここまで来たのだ。

 

 家の裏手の山裾に広がるこの畑は、苗の密度は凄いけれど、広さ自体はそう驚くほどじゃない。大体、オレンジぷらねっとの寮の部屋より少し狭いくらいだろうか。だから、ここでアリスちゃんが収穫を続けているなら、いくらなんでもすぐにわかると思うのだけれど……。

 

 そんな事を考えながら畑のぐるりを回った私は、足下に籠が、鋏と揃えて置いてある事に気がついた。中は緑の莢で半分くらいが満たされている。

 

 多分、アリスちゃんがここで収穫をしていて、道具をここに置いて行ったんだろう。アリスちゃんはやることを途中で投げ出す娘じゃないし、多分、近くで休憩しているだけなんじゃないだろうか。

 

「まぁ!」

 

 突然、まぁ社長が私の肩から飛び降りて、とことこと何処かに駆けだした。

 

「あ、待って、まぁ社長!」

 

 まぁ社長は、行動がいまいち予想できないところはあるものの、そうそう勝手に私たち(アリスちゃんとか、アテナさんとか)の側を離れる事はない。

 

 だとしたら、彼女の向かう先には、誰かがいる。まぁ社長が大好きな、誰かが。

 

 そう思って再び周囲を見回す私は、風の音に交じって、小さく囁くような声が流れてくる事に気が付いた。

 

「これって……」

 

 聞き覚えのある歌詞、聞き覚えのあるメロディー。それは、私があの時、お父さんとお母さんと仲違いした時、伝えたい気持ちのすべてを込めて歌った、『イル・チェーロ(Il Cielo)』。

 

 別に特別な歌という訳じゃない。私がさらっと出てくるくらい、ウンディーネの舟歌の中ではありふれていて、今では格別に歌う人も少ない、そんな普通の歌。

 

 だけど、だからこそ、その歌を口ずさむ人には、それなりの理由がある。

 

 歌は続いている。山肌に沿って、石垣の向こうに伸びる道の先。

 

 風に流されて、日に照らされて。岩陰の向こうで、風に流されたプラチナブロンドが、エメラルドのように輝いている。

 

 歌声は、その向こうから。風になびく髪が、ハープとなって奏でているかのように。

 

 

 だれが歌っているのか、どんな願いを込めているのか。

 

 それがわかるから……私はまぁ社長を抱き上げると、岩壁に身を寄せて、すぅっと息を吸い込んで。

 

 そして、歌声を重ねた。

 

 歌が、空に溶ける。

 

 重なった歌声が、優しい風に乗って、梢を揺らし、髪を流して、空に還ってゆく。

 

 そして、私は空を見上げたまま、風の音に耳を澄ませていた。

 

「…………アニーさん?」

 

 風の音に交じって、そんな呼び声が、私の耳を撫でて。

 

 私は、囁き返したんだ。

 

「……アリスちゃん、みーつけた」

 

 

 

 

「…………うわぁ……」

 

 石垣の上から眺める世界は、空と緑の二色で一杯に塗り分けられていた。

 

 空の青には雲の白が点々とちりばめられ、大地の緑はちょこちょこと下地の茶色を覗かせている。これが夏には空はもっと青く白く、大地は一面の緑に覆われるだろうし、秋には空は高く深く、大地は黄金色に輝いて、風が波になって穂先を揺らしてゆくのだろう。

 

 遠くに見える黄色は、菜の花の畑だろうか。駅からでは見えなかった遠くの世界が、ここからならば手に取るように伺える。

 

 そんな景色を眺める私の身体を、風が優しく撫でてゆく。ワンピースの裾が揺れる感触が気持ち良い。

 

 春の風。優しい風。暖かい風。空と大地と風に包まれた、ここはまるで天国のような場所。

 

「ここ、素敵だねー、アリスちゃん」

 

 文字通り舞い上がるような気分で、隣に座るアリスちゃんに笑顔を向ける私なのだけど。

 

「………………」

 

 当のアリスちゃんは、黙ったままでじっと膝を丸めて、眼下の光景を眺めていた。

 

 顔を強ばらせ、いつもより三割り増しに怖い顔。

 

(うぁ…………)

 

 内心で、私は呻いた。これでも駄目ですか、アリスちゃん。

 

 私が姿を現した時から、アリスちゃんはこの顔のままだった。堅く強ばって、私の方を真っすぐに見ず、拒絶するように膝を抱えるばかり。

 

 さっきまで、あんなに透き通った声で歌っていたのに。

 

 くすんだ心では、あんなに綺麗に歌うことはできないはずなのに。

 

 私のせいなんだろうか。

 

 私が姿を現したから、アリスちゃんは心を強ばらせてしまったのだろうか。

 

 いや、違う。だってあの歌は、思いを届ける歌。届かない想いを空に預けて、風の応えに耳を澄ます歌。

 

 あの歌のお陰で、私はお父さんとお母さんに、想いを届けることができた。それを間近で目にしていたアリスちゃんにとっても、この歌に意味がないはずがない。

 

 あの歌が私に向けたものだと考えるのは傲慢かも知れない。だけど、今はその細いよすがに頼りたいと思う。

 

『いつも通りに接してあげて』

 

 アテナさんの言葉が思い起こされる。そう、アテナさんは、いつも通りに接しろ、と言った。そうして、私は貴女を受け入れられるのだと、態度で示すべきだと言ったんだ。

 

 でも、いつも通りに話しかけてみたけれども、アリスちゃんの頑なさは解れそうにもない。

 

 では、どうするの、アニエス・デュマ? どうしたら、アリスちゃんに私の想いを届けられる?

 

 ……そもそも『いつも通り』とは何だろう。いつも通りに接するというのは……平静を装って話すことなんだろうか。

 

(それは……違うよね)

 

 だとしたら、私の『いつも通り』はどんなものだろう。私の『いつも通り』、アリスちゃんの『いつも通り』。そう、『いつも通り』と言いつつも、人の関係は環境や条件で刻々と変わってゆく。

 

 だとすればどんなものが『いつも通り』なのか……そんな事を考える事自体が、そもそも間違っている。着目すべきは、『私のいつも通り』ではなく、『私とアリスちゃんのいつも通り』なんだ。

 

 私とアリスちゃんのいつも通り。私とアリスちゃんの関係。年下の先輩、年上の後輩。同じ水先案内人で、同じ会社にいて、同じ先輩に学ぶ。お互いを同じ高さから見つめ合って、悩みを打ち明けて、励まし合って、喜びを分かち合う、先輩後輩というよりももっと近い、親友とかパートナーとか、そんな関係。

 

(ああ……そうか)

 

 ぱっと、心の霞が晴れたような気がした。そう、私は悩むことなんてなかった。

 

 確かに私はアリスちゃんの気持ちが分からない。何が彼女を傷つけてしまったのかわからない。鈍い私がどんなに頭で考えても、答えは見つかりそうもない。

 

 でも、答えはわかる必要なんてない。お互いの事なんだもの。私が一人で考えるより、もっと簡単で、確実な答えがそこにあるじゃないか。

 

 だったら、まずは心の枷を取り払おう。正しい答えを探すよりも、もっと先にやるべきことがある。

 

 拗れてしまった、綾なす心の糸を、解きほぐすために。

 

 目指すは、風に靡くエメラルドグリーンの髪の姫君。

 

「アリスちゃん……ちょっといい?」

 

 精一杯真剣な顔で、じっとアリスちゃんの横顔を見つめる。私の様子が変わった事を察したようで、アリスちゃんはきょとんとした顔を私に向ける。

 

 ひやりと、心が冷たくなる。これで拒絶されたら後がない。そうなってしまったら、私はどうしたらいいだろう。

 

 ううん、大丈夫。私は私に微笑みかける。信じるべきは、ありのままの私。私が私を信じるからこそ、私は相手を信じられるし、相手も私を信じてくれる。

 

 だから、私は心を決めた。

 

 ぱんっと両手を打ち合わせて、心持ち頭を下げて。

 

 何の装飾も気負いもなく、ただの本心だけを晒け出して。

 

「あのね……ごめんなさいっ!!」

 

 ……まあ、私が私らしくなんて言っても、できるのはこんなことくらいなのだった。

 

 

 

 

「あのね……ごめんなさいっ!」

「まぁ?」

 

 横で大の字になったまぁ社長が代弁するように声を上げていたが、最初にアリス・キャロルの意識を埋め尽くしたのは、ずるい、という言葉だった。

 

 何が、もなく、どうして、もなく、ただ感情の赴くままの謝罪。そこには細かい理屈もなにもない。

 

 こんな謝り方をされたら、何も言い返せないじゃないか。

 

 アニエスよりも、アリスの方が、何倍も何倍も悪い。少なくともアリスはそう思っている。発端は確かにせいぜい五分五分。なのに、弱った心に惑い彷徨ううちに、いつの間にかアニエスやアテナ、灯里や藍華、その他多くの人に、大変な迷惑をかけてしまった。それが、アリス・キャロルが自覚する罪である。

 

 ここに来てから、アリスの心を燻ませていた忌まわしい感情は、すっかりどこかに消えてしまっていた。それは土地を変えたせいか、それとも時間が過ぎたからなのか、偉大なる彼女がかけた魔法か何かのように。

 

 だからこそ、わかった。自分がどれほどみっともなく喚いていたのか。取るに足らない感情(と、自らを言い聞かせようとしているフシはあるものの)に振り回され、どれほどの人に迷惑をかけてしまったのか。

 

 だから、謝りたかった。謝って、そこからもう一度話をしたかった。それがアリスの仲直り大作戦のスタートラインだったのだ。強ばった仏頂面は、どう言っても謝ったものか、気持ちがまとまらないうちにアニエスが現れたことへの緊張故の事である。

 

 なのに、アニエスに先に謝られてしまった。それじゃあ、アリスはどう切り出せばいいのか。

 

 少し考えて、そんな事はどうでもいいのだと、気づいた。少し拗ねたように顔を俯かせ、口をとがらせる。

 

「アニーさん、それでっかいフライングです」

 

 そう口にしてみると、なんだか気持ちが軽くなった気がした。

 

 ふっと、息が漏れた。気が抜けたせいか、それとも吹き出してしまったのか。

 

 絶不調だった心のエンジンが、軽やかに踊り始めた気がする。

 

「でも、いいです。私も……でっかいごめんなさいです」

 

 アリスも、シンプルな謝罪を送り出した。

 

 弁解も理屈もいらない。ただ言葉と気持ちを交わして、お互いがお互いらしくあればいい。

 

 そう、アリス・キャロルはアリスらしく。

 

「……ふふ」

 

 アニエス・デュマも、アニエスらしく。

 

「……あはは」

 

 誰もが誰もらしく、笑い、怒り、喜び、泣く。そうすることで、世界は紡がれているのだから。

 

 

 

 

 高台から天地家までの道すがら、まぁ社長を抱いて歩きながら、アリスちゃんはこれまでの事情を話してくれた。

 

 そもそもの始まりであるあの晩、アリスちゃんは雨の中を彷徨っていたところ、たまたまネオ・ヴェネツィアを訪れていた秋乃さんに見つけられたのだという。

 

 酷く落ち込んで、降り出した雨に濡れそぼったアリスちゃんを、秋乃さんは自分が宿泊していたホテルに連れて帰った。(なんでも秋乃さんは、サンタ・ルチア駅前のホテルに宿泊していたらしい。オレンジぷらねっと宿舎のすぐ側だ)

 

 そして朝になって、まだ落ち込んで帰りたくないままだったアリスちゃんを、秋乃さんは自宅に連れて帰る事にした。そのためにホテルから列車に乗り、その瞬間をたまたま、私がエアバイクから目撃したという訳だ。

 

「今から考えると、グランマは出かける前にどこかに電話をかけていましたから、その時に会社に私の居場所が伝わったのだと思います」

 

 アリスちゃんがそう推測する。なるほど、アレサ管理部長がこの場所を知っていたのは、そういう理由だったのだろう。……だとすれば、早い内に会社に戻っていれば、もっと早く事情を知る事ができたのだろうか。

 

 ……いや、それは違う。私が会社に戻った直後、アレサ管理部長は『信頼できる人に任せた』とは言ったけれど『居場所がわかった』とは言わなかった。アリスちゃんの推測が正しければ、アレサ管理部長はあの段階でアリスちゃんの行方を知っていたはずだ。なのに、私が彼女からアリスちゃんの居場所を聞いたのは、その日の夜遅くになってからだった。

 

「考える時間を……くれたってことなのかな」

 

 多分、あの朝すぐにアリスちゃんの居場所を知ったならば、私は即座に飛び出してしまったことだろう。そうなったら、心の整理ができていないアリスちゃんと鉢合わせして、またとんでもないすれ違いをしてしまったかも知れない。

 

 お互い、冷却に一日を費やしたからこそ、今落ち着いて話し合う事ができている。

 

『どうしてこうするのが正しいのか、いつか必ずわかる時が来るから』

 

 アレサ管理部長の言葉が思い起こされる。アテナ先輩の師匠でもあるという《鋼鉄の魔女》。全ては彼女の掌の上だったということなのだろうか。

 

「……まあ、いいよね」

 

 少し釈然としない気分は残ったものの、私はふっと笑みを漏らした。アレサ管理部長に踊らされていたとしても、その結果こうしてまたアリスちゃんと並んで歩けるようになったのだから、それはそれでいいじゃないか。

 

 そんな事を考えながらお家の角を曲がると、これまたアレサさんに躍らされた若手二人の声が飛んで来たのだった。

 

「あーっ、帰って来た! アリスちゃーーん! アニーちゃーーーーんっ!」

「ぷいにゅーっ」

「遅かったじゃない。何やってるのよ二人とも」

 

 晴れやかな笑顔で手を振る灯里さん。その足元で同じようなポーズで手(前足)を振るアリア社長。灯里さんより少し後ろで、怒ったような態度を取りつつも、その頬を少し綻ばせている藍華さん。声の主は案の定、私服姿の先輩方だった。

 

 どうして、彼女たちが此処にいるんだろう。いや、考えるまでもない。アリスちゃんが心配なのは、彼女たちも私と変わるところはない。どうにかしてアリスちゃんの居場所を知った彼女たちが、ここにたどり着いたとしても何の不思議もない。

 

 そう考えると、全ての謎に絡み付いた糸が、するすると解けて行くのがわかった。

 

 そう。私達は完全に、アレサ管理部長と秋乃さんに、『してやられちゃった』んだな、と。

 

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