ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Donna Stella 07 偉大なる大妖精

 お昼ごはんは、春の山菜のおうどんだった。

 

 筍、わらび、ぜんまいといった春野菜が、おろした大根と一緒に、あっさり味のダシに浮かんでいる。主役の麺もしっかりと太くてコシがあり、歯を立てるともちもちとした食感を楽しめた。

 

「これ、おいしい!」

「こういう麺類もたまにはいいわね」

「ぷーいにゅっ!」

 

 と、三者三様という感じで好評の快哉を上げた後、食卓を囲んだ私たちは、どうして灯里さん達が此処に来たのかを聞いていた。

 

 今朝方に、灯里さんと藍華さんもまた、アリシアさんや晃さんを経由して、アリスちゃんの行方を聞いたのだという。

 

 それで急いで私に連絡を取ろうとしたものの、その時既に遅し、私は城ヶ崎村に向かった後だった。それがわかった灯里さん達は、すぐさま準備を整えて私の後を追ったのだという。

 

 ……私がアレサ管理部長からアリスちゃんの行方を聞いたのは、前の晩遅くだった。もう列車がない、でも明日の準備をするには十分な時間だ。

 

 一方で、灯里さん達がアリシアさん達から話を聞いたのは、朝早く。朝一番からお二人に居場所の連絡があるとも考えにくいから、アリシアさん達も、前の晩から事情を知っていて、敢えて黙っていた可能性が高い。示し合わせたように朝一番に話をしたのも、恐らく本当に示し合わせていたからと考えるのが妥当だと思う。

 

 つまり、この絶妙なタイミングのずれは、やはりアレサ管理部長や、アリシアさん達偉大なる妖精達の仕込みだったという訳だ。

 

 

 

 

 そしてお昼が終わった後。私たちはアリスちゃんが引き受けた仕事……つまり畑の収穫や手入れを引き続き行う事になった。

 

「じゃあ、アリスちゃんとアニーちゃんは上の畑でえんどう豆を採ってきてね。灯里ちゃんと藍華ちゃんは、下で雑草抜きを手伝って頂戴。どの草を抜いて良いかは最初は難しいから、私が一緒にやりましょうね」

「わーひ、グランマと一緒だー」

「後輩ちゃん、大好きなグランマ取っちゃって悪いわねー♪」

「でっかいお世話です。それより藍華先輩、間違えて苗引っこ抜いたら駄目ですよ」

「むーっ! 生意気禁止!」

 

 そんな感じのいつものやりとり。アリア社長を抱いた秋乃さんに引き連れられて坂を下って行く先輩方を見送って、アリスちゃんは私の方に振り返った。

 

「じゃあ、行きましょう、アニーさん」

「うん、アリスちゃん……あれ、まぁ社長は?」

「まぁ社長なら、さっきからずっとここです」

 

 と言ってくるりと振り向くアリスちゃん。見れば、その背中にまぁ社長がびしっと張り付いている。

 

 なるほど。アリスちゃんがいなくなってしまって、まぁ社長は随分寂しい思いをしていたのだろう。普段は飄々としているけれど、やっぱり子猫だということなのだろうか。

 

「ふふ、社長、わたくしめの背中ではお気に召されませんか」

 

 ちょっぴりの嫉妬をスパイスに、アリスちゃんの背中に張り付いたままのまぁ社長の頭を、指先でうりうりとつつく。それでも微動だにしないあたり、まぁ社長は本当にアリスちゃんが恋しかったのだろう。それが大体わかっていたからこそ、私もここにまぁ社長を連れて来た訳なのだけれど。

 

「まぁ社長はアニーさんの事も大好きだと思いますよ」

 

 と、フォローしてくれるアリスちゃんだけど、悲しきかな、世の中には序列というものがあるのです。ましてや、まだ「まぁくん」ですらなかった彼女を最初に抱きとめたアリスちゃんと、彼女を優しく見守っていたアテナさんより上に行こうなんて、いろんな意味でおこがましい。

 

「あ、そういえば……」

 

 それで思い出した。心の隅っこで気になっていたことを。

 

 というのは、ARIAカンパニーのアリア社長が、秋乃さんに飛びつくように抱きついていたこと。

 

 アリア社長は人懐っこい猫だけれど、灯里さんとアリシアさん以外に飛びつく姿を見るのは初めてだ。よっぽど大好きな相手でないとあれをやらないとすれば、秋乃さんはARIAカンパニーの関係者なのだろうか。

 

 いや、それにしてはちょっとおかしい。アリスちゃんを連れて帰ったことなどから、最初はアリスちゃんの親戚さんかと思っていたけど、それにしては灯里さんも藍華さんですら秋乃さんを『グランマ』と呼んでいた。アリスちゃんの親戚だとしたら、皆からも『グランマ』と呼ばれるのはちょと不自然。

 

「どうかしましたか? アニーさん」

「あ、うん。秋乃さんってアリスちゃんとどういう関係なの? アレサ管理部長にも顔が利くみたいだし、ただものじゃないって感じだけど」

 

 折角水を向けられたのだから、一応確かめておこう。そう思って聞いてみたのだけれど、アリスちゃんはびっくりしたように目を見開いた。

 

「え? アニーさん、知らずにここに来たんですか?」

 

 ……えっと、何ですか、その物知らずを見るような目は。

 

「天地秋乃さんといえば、《伝説の大妖精》グランドマザーじゃないですか」

 

 ………………え。

 

 言われて見れば、秋乃さんの顔には見覚えがあった。確かアンジェさんの記事が掲載されていた月刊ウンディーネにも、当時いまだ現役のトッププリマであったグランドマザーの顔があったはずだ。

 

 改めて、記憶の中のグランドマザーと秋乃さんを比べてみる。

 

 ……なるほど。背丈は随分縮んでしまっているけど、面差しはそっくりだ。

 

「あ、ああ~~~~っ!」

 

 余りのことに頭を抱えた。私はウンディーネ全ての母とすら言える人を相手に、なんと失礼な態度を取っていたことか!

 

「相変わらず、アテナ先輩ばりのでっかいボケボケですね」

 

 唖然から苦悶へとシフトする私の顔を、そうアリスちゃんがじとりと見上げるけど、実際どうにも面目ない話だった。

 

 ……天然ボケって、感染るのかなあ?

 

 

 

 

「助かったわ。ちょっと調子に乗って育て過ぎちゃったみたいね」

 

 山のような収穫物を前に、秋乃さん……つまりはグランドマザーがほくほく顔で笑った。

 

「つっかれたー!」

「お腹すいたねー」

「ぷいにゅいぷぅ~~~い」

 

 こういう時にたいてい最初に声を上げる藍華さんに続いて、灯里さんとアリア社長が同じようなポーズでお腹を押さえる。

 

 まあ、私アニエス・デュマもまたその例に漏れず、空っ腹を持て余しているところなのだけど。

 

 何しろもう日も傾き、世界は焼き付けたようなオレンジ色に染め上げられているのだから。

 

「御風呂の準備をしておいたから、順に入っておいでなさい。皆上がったら夕御飯にしましょうね」

 

 グランドマザーはそう言って台所にぱたぱたと入って行ったのだけど、残された私達は、誰からともなく顔を見合わせた。流石に遊びに来ている(訳ではなかったのだけど、結果的にそうなっている)身の上で、グランドマザーに料理まで任せてしまうのは気が引ける。

 

「……先輩方、ここはグランマを手伝うべきだと思うのですが」

 

 アリスちゃんの提案は、私の考えを先取りするものだった。

 

「んー、そうねえ……じゃあ私と灯里で手伝って来るわ」

「え、でも……」

「ここは日頃から自炊してる者にお任せよ」

「うん、アリスちゃんとアニーちゃんは、先にお風呂を貰っておいで」

 

 灯里さんにも口を揃えられては、私達にこれ以上反駁する余地があるはずもない。お風呂は一緒に入れるのは二人がいいところということでもあり、配膳や片付けは後輩組が担当すると決めて、私達はお風呂を戴くことにした。

 

 

 

 

「うっわぁーーーー」

 

 お風呂の戸を開けると、むっとする熱気に乗って、濃厚な木の香りがあふれ出した。

 

 この香りの源は、湯船にあった。厚手の堅い木材をつなぎ合わせて作られた湯船は、蓋を開けると更にその香りを強く吹き上げる。

 

「もしかして、これが桧のお風呂?」

「多分、そうだと思います」

 

 私の推測に、アリスちゃんが曖昧ながら是を返す。なるほど。流石は和風家屋、マンホームでは想像もできないようなものが幾つもあふれている。

 

 本物の木材、特に桧みたいな高級な素材を使った浴槽なんて、マンホームでは超がつきそうな贅沢品だ。ましてや、木材燃料……薪で沸かすお風呂なんて論外なくらい。

 

「~~~~~~♪」

 

 ほかほかと湯気を立ちのぼらせる水面。いかにも暖かそうなそれに、鼻歌交じりの私は、早速洗面器を突っ込もうとして……。

 

「あ、いけません、アニーさん!」

 

 アリスちゃんの、はっと迸らせた警告は、残念ながら一歩間に合わなかった。

 

「え? ……て、あ、熱ーーーっ!?」

 

 水面に差し込んだ左手に、かっと灼熱するような痛み。とんでもない熱湯に手を突っ込んでしまったと気づいたのは数秒後で、その時にはアリスちゃんが、蛇口から流す冷水で、尻餅を突いた私の左手を冷やしてくれていた。

 

「大丈夫ですか? もう少し冷やしておきましょう」

「うう……なんでこんなにお湯が熱いんだろ」

「薪のお風呂は、熱いお湯が上に溜まりやすいんです。下からお湯を吸い込んで、上から過熱したお湯を戻していますから。だからしっかりかき回した後でないと、不用意に触れられないんです」

「そ、そうなんだ……」

 

 なるほど、マンホームの家では、お風呂はいつでも水温が調整されていたし、オレンジぷらねっと寮の大浴場も、サイズがサイズだけに、いつも大体一定くらいに調節されていた。私の人生で、こういう風なお風呂に出会う機会はこれまでなかった訳なのだけど……。

 

「まったく、アニーさんはほとほとドジッ娘ですね」

「……うう……面目ないです」

 

 グランドマザーの件といい、どうにもこうにも、私はアリスちゃんに頭が上がらないのだった。

 

 

 

 

「……んっ、ふ~~~~~~」

 

 湯もみで湯船の中をかき回し、どうにか水温を丁度よい塩梅に調節してしばし。肩まで湯に浸し、小さく息を吐き出すアリス・キャロルの隣で、アニエスがぐぐっと腕を延ばし、気持ち良さげに伸びをした。

 

 どこまでも自然体。彼女を長く蝕んでいた陰はすっかりその姿を潜め、内罰的な性質は努力家として、没頭しがちな性格は揺るぎない信念として、よりプラスな方向に作用しているように見受けられる。

 

 今のアニエスならば、灯里や藍華と並んでも、さほど遜色はあるまい。同僚ということで過大評価があるかも知れないが、それだけ今のアニエスは、アリスの目に魅力的に映っていた。

 

 そこには、アニエスがアリスより先にシングル・ウンディーネに昇格したが故の、半ば強迫観念的な贔屓目も含まれているのだが……ともあれ。

 

「ん……どうかしたの?」

「あ、いえ、大した事ではありませんから」

 

 視線に気づいたアニエスが小首を傾げて訝しむのを、丁度器用にもぷかぷかと仰向けに浮かんだまま流れて来たまあ社長を抱き上げてごまかす。そう、全くもって大したことではない。

 

(大したことではないのに、私は、どうしてあんなにも拘っていたんだろう)

 

 アリスとアニエスの歯車のずれ。その発端は、実につまらないことだった。今ならば、それが本当につまらないことだったとわかる。

 

 アリスの不満の原因は、実のところ極めてシンプル。アニエスに『敬語を使われた』事にあったのだ。

 

 アニエスは基本的にとても礼儀正しい。三大妖精の先輩達相手は当然として、灯里や藍華といったシングルに対しても、年が近いながらも、目上の人間ということで敬語を使って接している。

 

 アリスだけなのだ。アニエスが、砕けた口調で語りかけてくるのは。それは同じペア・ウンディーネであるからということもあったろうし、出会った時に「さん」ではなく「ちゃん」と呼ぶように願った事にも起因しているかも知れない。

 

 だが、原因はともあれ。天才少女として名を知られるアリスにとって『気さくに接してくれる』友人は、少なくならざるを得ない。そんな数少ない友人の中でも、もっとも近い立場でお互いをフォローし合える相棒、アニエス。そんな彼女に『敬意』を表された事に、アリスは『隔意』を感じてしまったのだ。

 

(そんなこと気にしなくても、アニーさんはアニーさんでしかないのに)

 

 今ならば、そう言い切れる。まったく、度し難いのは数日前の自分の不甲斐なさだ。

 

「……ん、えっと……だ、大丈夫だよ、アリスちゃん。そんなに熱くなかったし。痛かったのはケガのせいで……」

 

 アリスの視線を、手のことを心配されたと思ったのだろう。アニエスがそう言って左手を振って見せる。そのちょっと赤く火照った手のひらには、手の腹あたりの擦り傷や指先の切り傷など、小さな怪我が幾つも散っている。

 

(そういえば、このところずっと絆創膏が消えていないような)

 

 思い起こしてみる。一週間近くアニエスと一緒に練習していないが、最後の合同練習でも、後輩指導の時も、ずっとアニエスの手には傷があった。

 

「そういえば、そのケガは……?」

 

 折角なので、理由を聞いてみることにした。

 

「ああ、これ? ……うん。ほら、私ってそそっかしいでしょ? ついつい壁とかに手を突いて、ちょくちょく怪我しちゃうんだ」

「でも……以前はそんなに怪我をすることもなかったのに」

 

 そう言って、アリスは気づいた。そう、アニエスが怪我をする理由は明らかだ。そそっかしさは変わらないのに、今になって怪我をする理由。それは、彼女の手から手袋がひとつ消えたから。

 

 そもそも、ウンディーネの手袋が昇格とともに外されるのには理由がある。漕ぎ手の熟練に応じて、手にできるマメや傷が減って行くからだ。最初は両手を守り、次は利き手だけを守る。それが、漕ぎ手の上達のバロメータでもある。

 

 アニエスが手を怪我しているということ。それは、ペア・ウンディーネではない、シングル・ウンディーネへと成長を遂げた事による、環境の変化に戸惑っていたということ。それまで保護してくれていたものを取り去り、成長する事を強いられているということ。

 

 以前、晃が姫屋のウンディーネから陰口を言われていた時、ぽつりと誰かが零した言葉を思い出す。

 

『手袋が守ってくれていたのは、中の手だけじゃなかったんだ』

 

 守られる立場から、守る立場へ。自分のあり方を見失って、戸惑って、悩んで、迷って。

 

 手袋が守っていたのが中の手だけじゃなかったように、アニエスが傷ついていたのは、裸の左手だけではない。

 

 そんな戸惑いの中で、どういう訳か階級を追い越してしまったアリスに、アニエスがどう接して良いのかわからなくなったのも、無理もないこと。

 

(……なのに、私は自分のことばっかり)

 

 ふっと、軽いため息が口から漏れた。

 

「本当に、でっかいお子ちゃまです」

「……え?」

「なんでもありません。さ、早く上がりましょう。あまりゆっくりしているとのぼせちゃいます」

 

 アリスの呟きに、怪訝な顔を見せるアニー。それをにっこりと笑顔でいなして、アリスはさばっと湯船から身を立ち上がらせた。

 

 

 自分が子供であるということ。

 

 それを自ら認めることが、大人へと成長するための重要な一歩。

 

 そういう意味で、アリス・キャロルは確かに、大人に至るための大きなステップを踏み出していたのだが。

 

 もちろん、当人にそんな自覚がある筈もなかった。

 

 

 

 

「……っふー、終わったー」

「ご苦労様です、アニーさん」

「いえいえ、アリスちゃんこそお疲れ様」

 

 エプロンを外し、まくり上げた袖を戻しながら、私たち……つまり私アニエス・デュマとアリスちゃんは、洗い物でふやけた手を見せ合うようにして笑い合った。

 

 エプロンには、細々と飛び散った洗剤の泡が残っている。もっとうまくやれれば、エプロンを汚さずに洗い物をすることもできたのだろうけど、そこはまあ、私たち二人はまだまだ未熟者だ、ということで。

 

 夕ご飯の食卓には、グランマ特製の豆ご飯と、春野菜のお煮染めなどといった、土地の特産物をふんだんに使った料理が並んだ。

 

 それは普段食べている食堂の和食と比べても遜色無い、というよりも明らかに美味しかった。

 

 材料的には食堂も相当気を使っているとは思うのだけど、ネオ・ヴェネツィアはなんだかんだいってイタリア料理が主流。その日に注文があるかどうかもわからない和食の料理を、しかもすぐ出せるようにしておかなければいけないのが食堂の辛いところ。

 

 それに対して、最高のタイミングと最高の材料で作ることができる家庭料理では、まあ家庭料理に軍配が上がっても不思議じゃない。

 

 まして、それが《伝説の大妖精》の手によるものだというならなおさらだ。

 

 それに……この時の私達には、格別強力なスパイスが二つ用意されていた。

 

 一つは、とびっきりの空腹。

 

 もう一つは、この材料のいくらかを、ついさっき自分たちで収穫して来たのだという事実。

 

 これで、最高の味わいにならないはずがない。

 

 こういう和食はなにかと手がかかり、私アニエス・デュマやアリスちゃんなど、普段あまり自分で料理をしない人間では、料理の手伝いにもならないということがよくわかった。

 

 そんな訳で、配膳と後片付けを任せられた私達が居間に戻る頃には、外はすっかり薄暗くなってしまっていた。

 

「お疲れ、後輩ちゃん、アニー」

「二人ともお疲れさま。大変だったでしょう?」

 

 縁側には、浴衣姿の藍華さんと、黒猫を撫でるグランマの姿があった。灯里さんの姿は見えない。

 

「藍華先輩、灯里先輩は?」

「さあ、アリア社長がどこかに飛び出していっちゃったんで、それを追いかけて行っちゃったわよ」

「アリア社長が? 何かあったんでしょうか」

「大丈夫よ。猫って気まぐれなところがあるし。そういう意味じゃ、あんたたちの社長なんて極め付けじゃない」

 

 と言う藍華さんの視線の先にあるのは、アリスちゃんの浴衣の肩に『ぺた』と張り付いているまあ社長。確かに、まぁ社長の行動は、火星暦で半年も一緒に過ごした私ですら、掴みかねているところはあるわけで。

 

「そういえば、猫といえば……」

 

 思い出したように、藍華さんの視線が滑る。それを追って行くと、そこにいたのは笑顔で猫を撫でているグランマ。その腕の中にいるのは、透き通したかのような黒を纏った大きな猫。

 

「前はあの子、いなかったのよね。グランマの飼い猫かしら」

 

 訝しむ藍華さんの視線の先で、ごろごろと喉を撫でるグランマの手に、気持ち良さそうな、そしてどこか諦めたような顔で身を任せる黒猫。びっくりするくらい器量のいい猫なんだけど、どこか……。

 

 ……どこか、なんだろう?

 

「グランマ、そちらはグランマの子ですか?」

 

 黒猫のヒメ社長といつも一緒の藍華さんは、奇麗な黒猫となると並々ならぬ興味があるらしい。そっと首を伸ばしてグランマの膝の上を覗き込む。

 

「いいえ、この子は昨日くらいから、時々家の近くで見かけていた子よ。とっても奇麗でしょう?」

「ええ、そう思いますけど……」

 

 グランマはそう言うけど、何か引っ掛かる感じは拭えない。どこかで見た事があるような。そんなはずはない。私はほとんどネオ・ヴェネツィアの近くを出た事がないのだから、この城ヶ崎村の猫を目にする機会なんてない。

 

 なのに、どこかで出会ったことがある、そんな感覚が拭えない。

 

 じっと見つめる私の視線が居心地悪いのか、黒猫はするりとグランマの腕を抜け出して、そのまま茂みの中に潜り込んでしまった。

 

「あらあら、ふられちゃったわね」

「猫は気まぐれですものね」

 

 ちょっと残念そうに微笑むグランマと、苦笑気味の藍華さんが顔を見合わせた。

 

「すみません、グランマ。私が居心地悪くしちゃったみたいで」

「いいのよ。猫はいつでも自由な生き物ですもの。……それよりアニーちゃん」

「はい?」

 

 急に改まって名を呼ばれ、居住まいを正す私。そんな私にグランマは「そんなに堅くならないで」と笑う。

 

 ちなみにさっきの食事中、『グランドマザー』と呼んでいた私が、『グランマ』と呼ぶようにお願いされた時も、同じようなやり取りがあった。まったく、私はなかなか成長できない。

 

「ねえ、アニーちゃん。……今日は、どうだった?」

 

 深呼吸する私を優しく見つめて、グランマはそんな、とても抽象的な問いを示した。

 

「今日……ですか?」

 

 戸惑いつつも、改めて思い起こす。

 

 そう、今日はとても複雑な日だった。アリスちゃんを助けにくるつもりで列車に乗り込み、駅で乗り換えて更にしばし。降りたところでグランマに出迎えられ、裏山でアリスちゃんを見つけた。

 

 そして、グランマの家に戻って来た時には、そこには先輩たちがいた。アレサ管理部長たちの……素敵な陰謀とでも言うのだろうか。私達は大先輩たちの計らいで、こんな素敵な時間を過ごすことができたんだ。

 

 皆と一緒に畑仕事。一緒に薪の御風呂。熱くて手を少し火傷してしまったこと。美味しい山菜料理。一緒の配膳と片付け。そして、こんな穏やかで、優しい時間。

 

 アリスちゃん曰く、前にここに来たときは、グランマと一緒に丸一日遊び惚けていたらしい。そしてその時、何事をも楽しむ日々の過ごし方を教わったのだという。

 

 一方、今回は(最初にアリスちゃんが申し出たからとはいえ)日がな一日農作業。マンホームでは地肌に畑を作ることがすっかりなくなってしまったので、あちら生まれの私としては生まれて初めての野良仕事だ。

 

(お野菜作るのも大変だよね……)

 

 身体の芯に何かが詰まったような、重たい感覚。初めて櫂運びの練習をした時や、晃さんにご指導戴いた時のような、今まで使われていなかった筋肉がじんじんと熱を放っている。

 

 明日は筋肉痛、確定。突っ張った体のままゴンドラを漕ぐ事を考えるとちょっと憂鬱になるけれど。

 

 ……この身体の火照り、実のところ、そう不愉快なものではなかった。

 

 働いて、その結果手に入れるいろんな喜び。成し遂げる喜び。手に入れる喜び。育てる喜び。悲しいことや辛いことだって一杯あるだろうけど、それを糧にして、更に大きく高く伸び上がって行く。

 

 だから。それが感じられるから。私は今日という日を、一つの言葉で締めくくることができる。

 

 私は、グランマの目をじっと見る。小さい体なのに、何もかもをとても大きく包み込むような、大々々先輩。そんな彼女の優しい目に、私は素直な感情を口にした。

 

「はい……とても、とっても、楽しかったです!」

 

 そう言うと、自然に笑みが零れて、グランマもまた、輝くような微笑みを見せてくれた。

 

 グランマはもちろん、いつの間にかアリア社長を抱いて戻って来ていた灯里さん、藍華さん、そしてアリスちゃん。皆が、私を見て、どこか満足そうに笑っている。

 

 鏡に映したように、というには、まだまだ私の輝きが足りなかったけれども。

 

 太陽が月を照らし、月は大地を照らす。そして大地もまた、月を、そして太陽を照らし返している。

 

 そんな風に、私も笑い返せていればいいな。

 

 そう、私は心から願っていた。

 


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