ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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”空に溶けた、二人のセイレーンの歌声に捧ぐ”
”私たちが、貴女たちを忘れないことの誓いとして”


オレンジぷらねっと編 Silent Seiren
Silent Seiren 01 セイレーンの沈黙


「……まったく、人騒がせな娘たちね」

 

 城ヶ崎村からの電話を切って、アレサ・カニンガムは一つ大きなため息を吐き出した。

 

 アテナ・グローリィにとって、そのため息はいささか判断に悩むところだった。若干の憤り、呆れ、更には安堵の息すらブレンドした複雑な味わいのそれは、現在のアレサの感情を如実に表したものだったろうか。

 

 そんなアテナの伺うような視線に気づいて、アレサは少し気恥ずかしげに咳払いをして見せた。

 

「あの娘たちが、城ヶ崎を出発したようね。昼過ぎくらいには帰って来るかしら……言わずもがなだけど」

 

 アテナは頷く。事をグランドマザーが預かってくれた以上、心配することは何もないとアテナは思っていた。

 

 何しろ《伝説の大妖精》はアテナの親友アリシアの直接の師匠であり、アリシアと懇意にしていたアテナや晃もまた、グランドマザーの薫陶を少なからず得てきたのだから。正直な所を言えば、アテナの指導員であったアレサよりも、信頼度の上では……まあ、拮抗している、というくらいのところか。

 

「何、何か言いたそうね、アテナ?」

 

 と、胡乱なことを考えた瞬間に、アレサの鋭い指摘。余程顔に出ていたのか、それとも彼女は心でも読めるのか。慌ててふるふると首を振るアテナに、アレサは不審げに眉を潜めたが、

 

「まあ、この件はこれでいいわ。……問題は、むしろそちらの方ね」

 

 そう言って、アレサは眉を更に難しげに歪めた。その視線は、アテナの……より正確にはアテナの首のあたりに差し向けられている。

 

 そこには、アテナを《天上の謳声(セイレーン)》足らしめるすらりとした喉が……見えなかった。

 

「全く、あの娘が大事なのはわかるけど、貴女はウンディーネを代表する《水の三大妖精》なのよ? それがそんな状態になるなんて、自覚をもうちょっとしっかり持ってもらわないと困るわ」

 

 深々とため息を吐き出すアレサ。いやいや、まったくもって返す言葉もない。

 

 もっとも、今のアテナは、返す言葉どころか話す言葉すら失われているのだが。

 

 今、アテナの喉には、サポータがぐるりと巻き付けられていた。湿布を織り込んだそれは、アテナの天上の美声の源である首回りをすっぽりと覆い隠している。

 

「……まだ、声は出そうにないのかしら?」

「…………」

 

 ふるふると首を振る。今口を開いても、出て来るのは咳だけだ。

 

 雨の中で冷えきった身体のまま、アリスを探して春の夜の町を駆け回った代償がこれだった。抵抗力の落ちたアテナの身体に侵入した風邪の菌は、ピンポイントでアテナの喉を狙い撃ったのである。

 

 体調そのものは、二日が過ぎたことですっかり元どおりになった。しかし、肝心の喉だけが、しゃがれ声一つすら絞り出せないくらいに痛め付けられているのだ。

 

「稼ぎ頭の貴女がダウンしたことで、予約はキャンセル、代理のプリマはお休み返上で穴埋めの真っ最中。シフトはぐちゃぐちゃで、我が社の損失はかなりのものだわ」

 

 若干の刺を帯びたアレサの言葉。ちくちくと心を苛むのも、自らの粗忽が招いた事であるから仕方ないと割り切りつつも、アテナは首を傾げる。アレサが皮肉やあてこすりをするのは珍しい。意味のない言葉は時間の無駄だと言うのが常である彼女の事であり、その言動には必ず意味がある。

 

 そして、アテナのそんな洞察は、まさしく正鵠を射ていたのだ。

 

「罰という訳ではないけれど……原因になった娘たちには、それなりの義務を果たしてもらいましょうか」

 

 来た、と思った。先程の皮肉は、今から自分が押し付ける無理難題を受け入れさせるための枕だったわけだ。

 

「そうねえ……」

 

 視線だけで「一体どんな事を?」と問いかけるアテナに、思案するように宙に視線をさ迷わせるアレサ。

 だが、そもそも彼女が悩む所をアテナは見たことがない。悩んでいるように見えたとしても、それはポーズでしかない。そんな姿を晒した時には、既に結論を出しているのが彼女なのだ。

 

 だから、アテナはまるで処刑を待つ罪人のような心持ちで、アレサの言葉を待つしかなかった。

 

 そして、アテナの覚悟が程々に決まったように見受けられる頃を見計らって、アレサは悪戯っぽく笑ったのだ。

 

「トリアンゴーレなんて、どうかしらね?」

 

 

 

 

 日が中天から傾くころ、グランマの所から戻ってきた私達……つまり灯里さん、藍華さん、アリスちゃん、そして私ことアニエス・デュマだったのだけれど。

 

 そんな私達を、アテナさんの言葉が……出迎えなかった。

 

「え、ええ~~~~~っ!?」

 

 会社に戻って来て、部屋に戻ってきた直後。迷惑をかけた人達にお詫びをして回ろうと、最初に巡ったアレサ管理部長の部屋で、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

 はしたないな、と思いはするけれど、だからといって自重できるものでもない。そもそも、そういう事を真っ先に突っ込んでくるアリスちゃんですら、私の隣で顔をぽかんと口を開いたままでいるのだから。

 

 なぜ、そんなことになっているのかと言えば。

 

「ほ、本当なんですかアテナさん!? 声が出ないって!」

 

 上ずった声で問いかける先は、そういえばあの夜以来声を聞いた覚えがない、我らが《天上の謳声》アテナ・グローリィさん。今日に至っても一言も口を開こうとしない彼女は、目を伏せ、こっくりと頷いて見せた。

 

 その顔に、病の気配は見えない。でも、その普段ならすらりとした喉が見えているはずの場所には、ぐるぐるとマフラーが巻かれ、そこから僅かにハーブの爽やかな香りが漂っている。

 

「風邪の熱自体は、一昨日でもう引いたみたいなのだけれどね。喉を酷く痛めているから、当分は声を出さないように、とお医者様に言われているのよ」

 

 言葉を発することができないアテナさんに代わって、アレサ管理部長が説明する。それに追従してアテナさんがこくこくと首を縦に振っているから、アレサ管理部長の言葉に間違いはないのだろうけど。

 

 むしろ、そうなると、心配なことは別にあった。

 

「わ、私の……せいです」

 

 とっさに振り向いた先にいるのは、私の隣で顔を青ざめさせ、身を震わせるアリスちゃん。無理もない。経緯はどうあれ、アテナさんが風邪をひく大元の原因を作り出したのは……私と、アリスちゃんに他ならないのだから。

 

 そして、それに追い打ちをかけるように、アレサ管理部長の言葉が続いた。

 

「お陰で、プリマのシフトは滅茶滅茶。動けるプリマは休日返上で、アテナの空けた穴をフォローしているわ」

 

 事実だけを述べているのに、まるでナイフを突き立てられているかのよう。私ですらこうなのだから、アリスちゃんの心の痛みは想像を絶する。

 

 アレサ管理部長も、あてこすりとかをする人じゃないと思うのだけど。なのにこれはちょっと酷いんじゃないですか? そんな恨みがましい目で管理部長を睨みつける私なのだけれど、当然のように、《鋼鉄の魔女》の顔を揺るがせるには、私の眼力では到底力が及ばない。

 

 涼しい顔のアレサ管理部長。それに相対して、顔を青くするアリスちゃん。その前に立ち塞がるようにして管理部長を睨みつける私。そして、その間に、挟まれて、声を出せないままおろおろするアテナさん。

 

 そんな緊張の図式を崩したのは……やはり四者の頂点に位置する、アレサ管理部長だった。

 

「でももうちょっとだけ、手が足りないのよね」

 

 そう言ってアレサ管理部長は、小さく……どことなく芝居がかったため息を吐き出す。

 

「三日後、団体のお客の予約があるの。人数は五人。一隻では無理だし、プリマ二人を引っ張り出す余裕も……いいえ、そもそもその日程で出てこられるプリマは今のところゼロ」

 

 会社の稼ぎ頭のアテナさんは、観光シーズンともなれば、ほとんど休みもなく働き続けている。そのスケジュールが、予約だけ残してぽっかりと空洞化してしまえば、それを補填するのに普通のプリマ数人分の力が必要だ。

 

 それを既に一人前以上の仕事を引き受けている他のプリマたちに分散しなければいけないのだから……どうしたって、どこかに限界は来る。

 

「本来ならアテナのお客だし、我が社をいつも贔屓にしてくれている方々だから、失礼のないようにしたいのだけれど、このままだとちょっと困ったことになるわ」

「それは……でっかい大変です」

 

 アリスちゃんが呆然と呟く。そうだ、事態の規模は、私がうっかり仕事をバッティングさせてしまった時の比じゃない。

 

 ……とんでもないことになってしまった。頭の中を、その言葉ひとつが幾重にも反響し、埋め尽くす。

 

 その時。まるで自分の言葉の意味が浸透するのを待っていたかのように。

 

「…………アテナ、貴女、三日後ならもう”身体は”大丈夫よね?」

 

 アレサ管理部長が確認するように問いかけた。

 

 見た感じ、アテナさんの体調は、喉以外はそう悪くはないようだ。明日、明後日と休養を取っておけば、多分身体の方は仕事できるくらいに回復するだろう。

 

 問題は、喉の方だ。一度痛めた喉は、じっくりと治さないと、なかなか元の声を出すのは難しい。今年の春風邪は特に喉に来るし、無理をすると、それこそ完全に喉を壊してしまう恐れすらある。

 

 つまり、アレサ管理部長の言う通り、三日後にアテナさんの体調は回復するだろう。でも、それは《天上の謳声(セイレーン)》の復活を意味はしない。

 

 ……だとすれば、アテナさんが仕事をするとしたら、それをフォローする誰かが必要になる。そう私が思い至ったのとほぼ同時に、アレサ管理部長が、私の推測通りの言葉を発した。

 

「アニエス・デュマ、貴女には三日後、《天上の謳声(セイレーン)》と一緒にトリアンゴーレ形式の水上実習をして貰います」

「……トリアンゴーレ、ですか?」

 

 思わず聞き返してしまった。

 

 トリアンゴーレというのは、オレンジぷらねっと独自のサービスで、二艘の舟を使うのが特徴だ。片方の舟にはプリマ・ウンディーネがお客を乗せ、もう片方にはシングル・ウンディーネが専門の指導員と共にお客を乗せる。

 

 大体四人以上の団体のお客を対象としたサービスで、シングルによる水上実習と違うのは、実習中プリマも普通に営業を行っているところだ。

 

 私はまだ、トラゲットと同じくトリアンゴーレも講習の経験がない。それでいきなり実践というのはちょっと……いや、凄く不安な話ではあるのだけど。

 

 ……でも、やるしかないよね。アテナさんの風邪は、私たちが原因なんだから。

 

「でも……プリマがアテナ先輩だとしたら、プリマ側の舟で喋る添乗員がいなくなってしまいます」

 

 アリスちゃんが、おずおずと口を差し込む。確かにそうだ。本来トリアンゴーレはプリマが普通にお仕事をしているから成立するサービス。今のアテナさんは喋る事ができないから、満足なサービスを提供する事ができない。

 

 しかし、私たちの疑問が向けられても、アレサ管理部長は全て承知の上、という顔のまま。

 

 彼女は少し意味ありげに微笑むと、私とアリスちゃんの間で視線を移ろわせて、

 

「そうね。……だから、アリス・キャロル。貴女に、特別に《天上の謳声(セイレーン)》に同乗し、彼女のフォローをして貰うわ」

 

 ……と、さらりととんでもない事を言ってのけたんだ。

 

 

「で、でも、私はまだペアです。水上実習はシングル以上でないと……」

 

 当然のごとく、アリスちゃんが声を上げた。

 

「確かに『シングルの水上実習にはプリマの添乗が必要』とは規約にあるけれど、それさえ満たしていれば、ペアがプリマをフォローしても、何の問題もないわ。ちょっと特例だけれど、この際重要なのは、お客様を満足させるサービスを提供する事よ」

 

 アリスちゃんの反駁も、《鋼鉄の魔女》の前には空しく弾かれるばかりだ。まあそもそも、シングルでないとプリマの営業助手にはなれないという制度も、実のところ割と有形無実。アリスちゃんはもちろん、私ですらペアの頃、こっそり営業助手として働いたことがあったりする訳で。

 

 ……考えてみる。私は幸い雑誌に特集を貰ったお陰で、シングルとしては営業の経験は豊富な部類だと思う。トリアンゴーレの経験はないけど、トラゲットと違って長舟を使う訳じゃないし、どうにかなる……と思う。

 

 問題はアリスちゃんの方だけど、彼女だって練習はシングル準拠のものをずっと積み重ねて来た。操船技術はプリマ級、接客だって、油断しなければ私より堂に入っている。

 

 覚悟さえ決めていれば、アリスちゃんはいつでもやってのけられる。そう、私は確信できる。

 

「……アリスちゃん」

 

 そっと、どこか不安げに指先を震わせている彼女の手を握った。ちらりと視線がこちらを向けば、私は元気づけるように一つこくんと頷いて見せる。

 

 それで決心が定まったのか、アリスちゃんはアレサ管理部長の方へときっと顔を向けて、そしてぺこりと頭を下げた。

 

「…………わかりました。お引き受けします。……いえ、させてください」

 

 そんなアリスちゃんを見つめる、アテナさん、そしてアレサ管理部長。

 

 不思議とその二人の眼差しは、私に向けられていた時よりも、どこか満足げな光を宿しているような気がした。

 


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