ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
「……で、トリアンゴーレって、結局どういうものな訳?」
プレッツェルをぽりぽりとリスのように齧りながら、藍華さんが疑問を呈した。
「オレンジぷらねっと独自の制度だよね。私もよく知らないけど」
灯里さんも、ほかほかの湯気が沸き上がるカフェラテのカップを両手に包んで、興味深そうに聞いて来る。
ここは、カフェ・フロリアンのオープンカフェ。サン・マルコ広場の片隅で、カフェ・ラテ発祥の店であると同時に、オープンカフェがカンパニーレの影を追ってくるくると場所を変えてゆく事で有名だ。
アレサ管理部長にトリアンゴーレでの営業を任せられた私達は、灯里さん、藍華さんと合流して、今後の対策を練ることにした。
アテナさんの声が出なくなったことを聞いて、最初は二人も泡を食ったようだったけれど、今は落ち着いて私達の相談に乗ってくれている。
「ええっと……」
「……トリアンゴーレっていうのは、基本的には水上実習と変わりません。違うとすれば、シングルと同乗するのがプリマではなく専門の指導員で、プリマは別の舟に乗って、通常の営業を行うところですね」
思わず口ごもってしまった私をフォローして、アリスちゃんが説明を引き継いだ。
「ということは、シングルの舟とプリマの舟の位置関係が重要ね。細い路地に入る時とかのセオリーも、色々コツがありそうだわ」
「お互いの声がしっかり届くようにして、どっちの舟のお客様も満足して貰えるようにしないといけないね」
ふむふむ。藍華さんと灯里さんの言葉をメモに取る。なるほど、教本にはいろんな操船のセオリーが載っているけれど、その意図するところまでは考えていなかった。
「操船については、プリマの舟はアテナさんが漕ぐんだから心配はないとして、問題はアニーの舟ね」
「……ま、まあ何とかします。できるといいな……」
「この三日間で練習すればいいよ。アニーちゃんなら大丈夫大丈夫」
「そうそう、足りなければ足せばいいのよ。諦めるのは全部やった後でもできるんだから」
ついつい気弱になる私に、ぐっと両手を拳にした灯里さん、悪戯っぽくウインクしての藍華さんの声援。そうだ、諦めるのは後でもいい。私自身のため、アリスちゃん、アテナさん、そして何よりお客様のために、私ができることはいつでも、精一杯の自分で立ち向かうことだけだ。
ちらりとアリスちゃんの方を見ると、彼女も大体同じような目線で私を見ている。こくんと頷き返して決意を新たにする。
そんな私達を余所に、藍華さんが机に地図を広げた。その上でペンをくるくると回し、思案するように地図を一通り眺める。
「コースの選定とかはどうなってるの?」
「トリアンゴーレ向けのお勧めコースがあるみたいですけど、それを決めるのは大体プリマみたいで……」
「何言ってるの。アテナさんの声が出ないって事は、アニーと後輩ちゃんが決めないといけないじゃない」
「あっ……」
言われて気づいた。そうだ、アテナさんが声を出せないということは、コース選定だけじゃなく、お客様とのお話や観光案内など、ほぼ全てのお仕事がシングルに回って来るということ。つまり事実上、私が二つの舟を同時にお世話するようなものになるんだ。
「……アテナ先輩の舟の案内は、何とか私がフォローします」
硬い声で、アリスちゃんがそう言った。
確かにアリスちゃんがどうにかしてくれれば、こちらとしても負担はぐっと軽くなる。他に選択肢がないというのも事実だ。
でも、正直なところ、接客全般はアリスちゃんにとって苦手分野だ。緊張が高まると、彼女は表情が強ばり、声が小さく籠もったようになってしまう。
そして……今のアリスちゃんは、明らかに緊張している。この状況で、彼女が自分で満足できる接客ができるのだろうか。
「やれやれ、こりゃー特訓が必要ね」
私と同じ危惧を感じたんだろう、藍華さんが肩を竦めながら言った。まあ、どっちにしても特訓はするつもりでいたのだけれど。
……本当に、大丈夫だろうか。まだ、弱気の虫は、心の中でざわついたままだ。
※
「それで……後の問題は、やっぱり
おかわりのカフェ・ラテのカップを両手に、灯里さんが言った。
「
「そうね。他のプリマのゴンドラならともかく、アテナさんのゴンドラともなれば、当然お客も
怪訝な顔で聞き返すアリスちゃん。その前で、藍華さんが頷いて同意し、後を引き継いだ。
「
また、アリスちゃんの顔がぎこちなくなる。これもまた、アリスちゃんにとっては鬼門に等しい。
「まあ、アニーはイル・チェーロの実績があるからいいとして……」
「え、ええ~!? か、勘弁してください藍華さん! 私ついこの間、調子に乗って歌ったら音程めちゃめちゃになっちゃったばかりなんです!」
それは、先日オレンジぷらねっとのシングルとペアで集まって、仕事抜きの歌唱大会をやったときのこと。まるで神か悪魔が乗り移ったかのように、はちゃめちゃな歌になってしまった。あの時の、生暖かい周りの視線。今思い出しても消えちゃいたいくらい恥ずかしい。
「まあ、アニーの都合はおいといて……」
「あ、ひどいです」
「上手下手は練習するしかないとして、問題は何を歌うか、ね。時間もないことだし、この際何か一曲を選んで、それだけでも満足してもらえるように練習するのが良いと思うんだけど」
私の非難の声を何処吹く風で、藍華さんが指をぴっと一本立てて見せる。
「一曲……ですか」
「…………」
藍華さんの指先を見つめて、ぼんやりと呟く私。アリスちゃんも同じようにして、じっと言葉もなく考え込んでいる。
一曲。ただ一曲に、今の私たちのできる全部を詰め込む。それで満足して貰えるかどうかはわからない。だけど、今、私たちにできることは、私たちのできる限りで、お客様をもてなす事。できるかどうかではなく、やれる限りを尽くす事が大切……だと思う。
「とりあえず、まずは候補選びから始めましょ。アニー、オレンジぷらねっとの舟謳本はある?」
「あ、はい。ここに持ってます」
「相変わらず色々入ってるねー、アニーちゃんのバッグ」
「他にも応急処置キットとか入ってますよ。ちょっと重いですけど、普段は舟の荷物入れに隠しておけますし」
灯里さんに答えながら、藍華さんに舟謳本を手渡す。藍華さんはそれをテーブルの上で開くと、難しい顔でぱらぱらとページをめくった。
「練習時間も十分に取れないし、やっぱり定番どころでいくのがいいと思うんだけど……」
「シューベルトのアヴェ・マリアとか」
「勘弁してください、とても息続きませんからっ」
「じゃあフニクリ・フニクラとか?」
「著作権料大丈夫? ルイージ・デンツァ・カンパニーへの」
「さすがに大丈夫だと思いますけど……」
「じゃあ、『鬼のパンツ』の替え歌とか」
「どこの世界に仕事で『鬼のパンツ』を歌うウンディーネがいるのよ。それよりノン・ノ・レタとかの方が良いんじゃない?」
「あ、いいよねー、ジリオラ・チンクエッティ」
好き勝手にタイトルを挙げて行く藍華さんと灯里さん。だんだんお互いの好きな舟謳自慢になってきている気がするので、ここらで一つ釘を刺しておこうか……。
と思ったところで、藍華さんが正気に戻った。
「っとと、調子に乗りすぎたわね。えーと、じゃあ基本の基本、サンタ・ルチアあたりはどう……って、後輩ちゃん?」
そこではたと、藍華さんが言葉を切った。そしてまじまじと見つめる先は、舟謳本をばらばらとめくり続けるアリスちゃんの姿。
もう何度目を通したのか、まるで何か大切なものを捜すように、ぱらぱら、ぱらぱらとページを繰り返しめくり続ける。
そして、私が見ていた限り、目次から奥付までを一通り三回眺めたところで、ばたんと本を閉じ、深々とため息を吐き出したんだ。
「どうしたの、アリスちゃん?」
「……ないんです」
目線を動かさないまま、アリスちゃんがそう呟く。
「ないって、何が?」
「アテナ先輩の歌が……」
灯里さんが問いかける。それに、アリスちゃんはじっと舟謳本を睨み付けるようにして見つめながら。
「……アテナ先輩の歌が、本に載ってないんです」
と、眉をしかめながら答えた。
※
「本当ね、確かにないわ」
藍華さんが、舟謳本をぱらぱらとめくって、そう同意した。
「アテナさんの
「てっきりオレンジぷらねっとの秘伝だと思ってたけど……載ってないの?」
灯里さんが首を傾げる。改めて私も舟謳本を眺めてみるけれど、確かに載っていない。『バルカローレ』『コッコロ』……思い当たるアテナさんの歌の題名を捜してみるけれど、本のどこにも、一曲も掲載されていないんだ。
「さすがにポピュラーなのは載ってるけど、十八番の奴はどれも載ってないわね。どうしてかしら」
ぽん、と舟謳本を叩いて思案げに呟く藍華さん。「プリマ専用の特製謳本があるとか?」とか「まさか一子相伝?」とかぶつぶつと憶測を並べていたけど、やがてアイデアが尽きたのか、でっかいため息をひとつ吐き出した。
「まあ、いいわ。本にないんだから練習にもならないだろうし、この事についてはアテナさんが元気になったら聞いてみましょう。
それよりもうちょっと定番を……」
そう言って、再び藍華さんが、本のページをめくり始めた時だった。
「…………です」
「……え?」
その声は、囁くようでありながら、藍華さんが本のページをめくる手を止めさせるには十分な力が込められていた。
私は、声の主を見た。灯里さんも、藍華さんも、私と同じ方を見た。
三人の視線が一点に集まった先。それは言うまでもなく、我らがオレンジぷらねっとの期待のプリンセス、アリスちゃん。
そのアリスちゃんは、私達の視線に少し気後れしたようにごくりと喉を鳴らしたけれど、意を決したようにじっと前を見つめて、そして。
「嫌です。アテナ先輩の代わりにするなら、アテナ先輩の歌を歌いたいです」
そう、一気に自らの願いを口にした。
※
「でっかい大変なのはわかっています。それでも、私はアテナ先輩の歌がいいんです」
「大変だ、やめたほうがいい」という私達の説得も、アリスちゃんの決心を揺るがせるには十分ではないようだった。こうなると、アリスちゃんは梃子でも動かない。
「でも、舟謳本に載ってないんだよ?」
灯里さんが心配げに問う。そう、とにかくそこが問題だ。例えば『バルカローレ』を歌うにしても、まずはその歌詞と旋律が必要。それが見つからない以上、練習を始めることも難しい。
「メロディはでっかい大丈夫です。いつもアテナ先輩が歌っているのを聞いていますから、ほとんどの曲の旋律は覚えています」
そう言って、アリスちゃんは鼻歌で『バルカローレ』の旋律を諳じてみせる。なるほど、そういうことならば、ハードルはぐっと下がるかも知れない。私も、アテナさんの曲全ては無理でも、一部ならば結構覚えている……と思う。
「でも、歌詞はどうするのよ。アテナさんの十八番って、どれも意味が分からない言葉でできてるじゃない?」
「え、あれってイタリア語じゃなかったの?」
「タイトルやところどころの単語はイタリア語みたいだけど、ほとんどが知らない言葉でできてるわ。もしかしたら言語ですらないかも……」
昔から、歌詞に複数の言語が入り交じる事は珍しくないし、歌のためだけに言語らしきものを作るものすらあったという。そう考えると、アテナさんの十八番の数々も、同じようにあの歌のためだけに用意されたものなのかも知れない。
だとすると大変だ。その歌を歌おうと思えば、歌詞を見つけてくるだけでなく、発音から練習していく必要がある。
「それでも、それでも出来る限り頑張りたいです」
それでも。『それでも』を繰り返して、アリスちゃんがぐっと両手を握る。そこまで彼女を突き動かす理由は何なのだろうか。視線で問いかけてみると、アリスちゃんは少し気恥ずかしそうに頬を染めて、自分の想いを語り始めた。
「私、今まで何度もアテナ先輩の歌に助けられてきました。……何度も、何度もです。今度もそう、私のせいで、アテナ先輩は喉を悪くしてしまったのですから、私が何とかしないと。アニーさんだけに任せられません。私が、私がやらないといけないんです」
それが、アリスちゃんが自らに課したルールなのだろうか。自分が犯した罪なのだから、自分がそれを拭わなければならない。毅然として潔癖なアリスちゃんらしいといえばその通りだけれど……。
「でも、失敗できないことなんでしょ? 安全策を採った方が良くない?」
「…………う」
藍華さんの言葉に、思わず言葉に詰まるアリスちゃん。確かにそうなのだ。今回の件は、お客様をもてなすというのが第一。自分自身の矜恃よりも、もっと優先すべきは、お客様を満足させるという事。それを忘れたら、本末が逆転してしまう。
……でも。
「……アテナさんは以前言っていましたよ。歌は想いを伝えるものだって。心からの歌とそうでない歌なら、絶対に心を込められた歌の方が、人の心に響くって」
私の言葉に、灯里さんと藍華さん、そしてアリスちゃんが目を丸くした。
「悪かったのはアリスちゃんだけじゃない。私も悪かったんだから、私も頑張らないとだよ。だから……一緒に頑張ろう。そして、一緒に頑張るなら、心が一つになるような歌を捜して、それを歌いたい……よね?」
口にしている間はすらすらと言葉が出てきたのに、みんなの視線がこちらに集まると、何だか頭が沸騰してくる。思わず、語尾が確認するように上向きになってしまった私に、灯里さんがにっこり微笑んで、藍華さんが『やれやれ』と言わんばかりに肩を竦めて見せた。
「……あー、もう。この姉妹ときたら」
「姉妹……ですか?」
「そうだね。二人はアテナさんの姉弟子と妹弟子。それだけじゃなく、心も姉妹みたいに一緒なんだね」
「そこ、恥ずかしい台詞禁止!」
びしいっと、いつもの切れ味で灯里さんを禁止する藍華さん。そのやりとりがおかしくて、私はアリスちゃんと顔を見合わせ、くすっと笑いを漏らしてしまった。
そんな私達の様子を伺って、満足そうな笑みを浮かべた藍華さんが、居住まいを正してびっと人差し指を立てて見せた。
「それで、結局どうする? 一本に絞って練習をするのは変わらないと思うけど」
「え? あ、そうですね……」
藍華さんの問いは、どの歌に絞って練習をするのか、ということを意味している。私は少し思案する。どの歌が一番相応しいのか。歌の旋律が、歌詞が、曲名が頭の中をぐるぐると巡る。
ちらりと、アリスちゃんの方に『どうしよう』の視線を送る。アリスちゃんもこちらを見返す。そうすると、なんだか答えが一つ、ぽっかりと浮かび上がってきた気がした。
元気を出して欲しい人へ。元気の出るような歌を。リズムに乗って、誰もを楽しくするような、あの歌。
「……『コッコロ』かな」
「……『コッコロ』がいいです」
そうやって呟いた私達の言葉は、寸分違わず重なった。
「……本当に息合いすぎでしょ、あんたたち」
藍華さんが呆れ気味に息を吐き出して、私達は揃って赤面した。
▼「足りない物があれば足せばいいのよ」
本来は藍華が晃の心を動かした大切な言葉だが、大変残念なことながら、今回のこれは藍華が自ら紡いだ言葉ではなく、直前くらいに晃から聞かされた思い出話からの引用。
▼「神か悪魔が乗り移ったかのような」
ARIAネタではなく花澤香菜ネタ。アニメ「かんなぎ」の一幕をモチーフにした話。
本作は花澤病をこじらせた筆者により、ちょくちょくバレにくい程度にゼーガペインネタなどが差し込まれている。