ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
そうして、私達は行動を始めた。
お昼が過ぎるまで、まずはオレンジぷらねっとの資料室探り。灯里さんと藍華さんは、自分たちの仕事を片付けた後、先輩達から話を伺った後で合流することになっている。
もちろん目的は、『コッコロ』の旋律や歌詞探し。ついでに、トリアンゴーレについて書いてある本を探したのだけど、教本以上の情報がある本は見あたらなかった。
「しょうがないです。トリアンゴーレはここ数年で作られた方式ですから」
そうアリスちゃんが言う。そう、そもそもこの方式は、かの《鋼鉄の魔女》アレサ・カニンガム管理部長が作り出した方式だ。そんなに資料が沢山あるとも思えない。
「まあ、こっちは教本があればいいよね。でも……」
「でっかい問題は、歌の方ですね」
私とアリスちゃんが、そっくり同じタイミングで、ため息を吐き出した。そう、資料室の本を片っ端から引っ繰り返しても、『コッコロ』はおろか、アテナさんの舟謳の資料の欠片すら見つからなかったんだ。
「……アテナさんのファンブックみたいなのは見つかったけど……これじゃあね」
資料室のデータファイルの中にあった、恐らくは週刊ネオ・ヴェネツィアの別冊付録か増刊号だろう雑誌。《水の三大妖精》を特集していた時期らしく、この号ではアテナさんを中心に特集が組まれている。
データ形式になっているのが残念だけど、その分取材班が実際にアテナさんの舟でネオ・ヴェネツィアを巡った時のビデオが収録されているらしい。まあ、デジタルデータも善し悪しってことで。
「時間があったらゆっくり見ておきたいところだけど……」
「アニーさん、言うまでもないと思いますけど」
「わかってますって。今は急ぎだもんね」
アリスちゃんが言うとおり、釘を刺されるまでもなく、今は『コッコロ』の歌詞を捜すのが先決。
先決……なんだけれど。今のところ、手がかりのとっかかりすら手に入っていないのが実情な訳で。
「……どうしてないんだろうね」
「あるはずのものがないということは、そこには何らかの意味があるはずです。これだけ捜しても見つからないということは……」
「……最初から本がないものなのか、そうでなければ普通の形で見る事ができないものだってこと、かな?」
思いつくのはそのくらい。本がないというのは、まず考えられるのがアテナさんのオリジナルの歌である場合。そして、文章化されてない形で伝えられてきたものである場合。普通の形で見る事ができないというのも、この後者にあたると思う。
「アテナさんオリジナルだと、大変だなあ……」
頭が痛くなってくる。今、アテナさんは声を出す事ができないから、歌詞を聴く事ができない。例え文章化された歌詞を手に入れたとしても、現代語でないとしたら、発音などの指導をして貰わないと、完璧な『コッコロ』にはならない。
「どうしよう。灯里さん達と合流する前に、アテナさんに聞いてみる?」
それは、本来なら最初にやって然るべきことだ。下手に私達が調べて回るより、おそらく一番『コッコロ』に詳しいであろうアテナさんに聞くのが、一番手っ取り早いに決まっている。
でも、それをやらなかったのは、つまるところ……。
「……もう少し、私達で頑張ってみませんか? アテナ先輩はまだ療養中ですし……どうせならアテナ先輩には秘密で頑張りたいです」
という、案の定当初と変わらない、アリスちゃんの希望故のことだったりするのだ。
「うん、わかった。じゃあ、ひとまずカフェ・フロリアンだね」
ぱたんと開いていた資料を閉じて、私が腰を上げると、アリスちゃんも黙したままそれに追従した。
……その顔に、わずかな焦りの色が浮かんでいるように見えたのは、多分私の気のせいじゃないだろう。
※
「つまり、そっちも収穫はなし、ってことね」
カフェ・フロリアンのオープンカフェ。その白い椅子をとん、と石畳の上に降ろしながら、藍華さんがそうため息をついた。
「私もアリシアさんに話を聞いてみたけど、詳しい歌詞は知らないって」
こちらも、白い椅子をすとんと石畳に置く灯里さん。
「そうですか……だとするといよいよ八方塞がりですね」
「……でっかい、ピンチです」
そしてそれに続いて、私とアリスちゃんの二人がかりで運んできたテーブルを、よいしょ、という掛け声と一緒に石畳に降ろした。
周囲を見ると、同じようにしてウェイターさんやお客さんまでもが一緒になって、運んできたテーブルの並びを整えている。
『影追い』だ。カンパニーレの影を求めてオープンカフェが移動して行く、ネオ・ヴェネツィアのカフェ・フロリアンの名物。
そして、それぞれが椅子を並べ終わって一息ついたタイミングで、すっと差し込まれた逞しい手によって、カフェ・フロリアン一番の名物がテーブルに並べられた。
「お手伝いありがとう、ウンディーネのお嬢さん方」
そう、器用にウインクして見せるのは、今代のカフェ・フロリアンの店長さん。恰幅の良い紳士で、灯里さんと仲が良いものだから、私達もすっかり顔見知りだ。
「あ、えーと……おかわりは注文してなかったと思いますけど」
「何、お手伝いのお礼と、午前中に先程と、今日は何度も御贔屓にして戴いておりますからなあ。ここは私からのサービスということで」
また、妙に愛嬌のあるウインク。一見気難しそうな方なのに、実際に話して見ると、こういう茶目っ気も多い素敵な紳士だったりする。それは茶目っ気を見せて良いような、そんなほんわかとした空気がこの場所に満ちているからだろうか。
「だとしたら、それはきっと半分くらいは灯里さんの素敵な魔法のおかげかなあ……」
「ほへ?」
「アニー、恥ずかしい独り言禁止っ!」
「へ? 声に出てました?」
「はい、でっかいはっきりと」
そんなとんちんかんなやりとりに、ほっほっほと笑う店長さん。そして自分も、近くのテーブルに腰を下ろして、自前の名物……つまりは元祖カフェ・ラテを片手で傾ける。その様は、さすがに自称『サン・マルコ広場を楽しむ達人』。実に様になっている……と思うのは私だけだろうか。
私の視線に気づいたのか、店長さんは口ひげの下でにこっと笑うと、私が目の前に広げた資料に目を向けた。
「ふむ……
感慨深げに、そう言って顎を撫でる。
「ここで三社のパンフレットを眺めてうんうんと悩んでいたのが、もう半年も前の事ですか」
「え? ああ、そうか……そうですね。もう半年です」
そう、火星暦で半年……地球暦で一年以上前のこと。ここから私のウンディーネが始まったと言っても過言じゃない。ここで私は道を探って、そして……ここで、そうとは知らないままにアンジェさんに出会って、また道を探す手伝いをしてもらった。
そういえば、アンジェさんはネオ・ヴェネツィアの生き字引と呼ばれる程の博識だった……らしい。確かにお手紙をやりとりしていた頃、マンホームの私から見ると、アンジェさんの手紙はネオ・大英図書館に繋がってるんじゃないかと思えるほどだった。
……アンジェさん、どうしてるかなあ。メールで見る限りでは、頑張っているとは言うのだけど。もし余裕があるようだったら、アテナさんの歌について聞いて見るのもいいかも知れない。
そう思った矢先に、店長さんがさらりと口にした。
「
「え?」
ぴたりと、カフェ・ラテをあおる皆の手が止まった。
もちろん、それは私も例外じゃない。みんな固唾を飲んで、店長さんの言葉を待っている。しかし店長はそんな私達の様子を気づいてか気づかずか、どこか遠くを見るような目をして話を続ける。
「元々彼女は勉強家でしてな。うちで働いている間にも、暇を見つけては図書館に通い詰めていました。
その時に、しばしば図書館でアテナさんと会う、と話していた事があるのですよ」
ネオ・ヴェネツィアで図書館といえば、あの紙媒体の書籍が山ほど集められている、ある意味でネオ・大英図書館と対をなす図書館だ。大量にある書籍は検索性が良くないし、あまり頻繁に利用されると本が痛んでしまうので、必要がなければあまり触れないようにするのが暗黙の了解な場所。
私達の顔が、知らず見合わされた。
「……どうしよう?」
灯里さんが、口火を切った。たった一言だけど、言いたいことはわかる。
アテナさんがしばしば、滅多に人が訪れないような図書館に通っていた。それならば、もしかしたらそこにこそ、アテナさんの歌のルーツが眠っているかもしれない。
そう、私達四人全員が例外なく思い至ったようで。
「……時間、あまり良くないですね」
アリスちゃんの言葉に、それぞれが時計を確認する。もう夕方が近い。図書館で調べ物をするには少し足りないし……トリアンゴーレの練習をするにしても、そろそろぎりぎりのところだ。
「四人が揃って動ける時間を優先しましょう。
藍華さんのそんな提案。そう言いつつも、藍華さん自身、いますぐ図書館に駆け込みたいという顔をしている。
でも、私とアリスちゃんには責任がある。正しい操船はその前提中の前提。その練習を欠かしたら、
そんな覚悟がアリスちゃんにも伝わったようで、ぐっと気合を込めるように、両手に拳を作って見せた彼女は、
「わかりました。でっかい頑張って、今日中に基本の立ち回りをマスターしましょう」
と、でっかく宣誓してみせた。
「わーひ、アリスちゃん、アニーちゃん、頑張れー」
「あんたも頑張るのよ。絶対将来の身につくことなんだから」
「うん、そうだねー。それじゃ早速れっつらゴーだよー」
「ほっほっほ、健闘を祈りますぞ、お嬢さん方」
……今日中かあ。大丈夫かなあ。
そんな冷や汗交じりの私をよそに、アリスちゃんを含む先輩方が和気藹々と盛り上がり、店長さんは楽しげに髭を揺らしていたのだった。
※
数時間の練習の結果。
「ふむ、多分これで九分通り大丈夫ですね」
と、アリスちゃんは手ごたえ十分という顔をしてみせて。
「……ううう」
と、疲れ果てた私は、ぐったりと机に突っ伏して、瀕死のカエルみたいな声で唸っていた。
トリアンゴーレ形式の操船は、基本的に二つの舟の距離を、舟三艘分以内に近づけて行われる。シングルとプリマ、両方の声がお互いの舟に届かなければいけないからだ。
そして、舟が近いということは、水の流れが前の舟によって大きく乱されているという事でもある。普通に漕ぐだけならば大した影響はないのだけれど、お客様を乗せていることを前提と考えるならば、舟の揺れは可能な限り小さく、安定させておかなければならない。
というわけで、未だに水の流れに乗り切れない私は、前の舟によって変幻自在にうねる水流に翻弄され、身体の芯まで疲れ果ててしまった。
もちろん、こちらが難しい方の舟をやっている、というのはあるけど、それも言い訳にはならない。時々舟の前後を交替したり、指導員役で同乗する灯里さんと漕ぎ手を交替してみたりすれば、皆は難無く水の流れを捉えて、奇麗な二本の軌跡を描いてしまうのだから。
「こういうのは慣れよ、慣れ」
「アニーちゃん、ちょっと肩の力が入り過ぎかな。もっと水と一体になる感じというか」
という心温まるアドバイスを戴いて、目下アニエス・デュマは絶賛自信喪失中なのでありました。
「ま、まあまだあと二日あるし! これから頑張って取り戻せばいいよねっ! うんっ!」
そう、空元気を絞り出して自分をごまかそうとする私だけど、司書カウンターのおじいさんにじろりと睨みつけられ、思わず縮こまってしまった。
そう、ここは静謐を尊ぶ神聖なる図書館。ネオ・ヴェネツィアが誇る、紙媒体大図書館だ。
日が落ちて、舟の練習をするにはいささか危なくなってしまった頃。私達は、素直に練習を解散することにした。
そして、いつもならばそのまま寮に戻るところなのだけど、自炊しなければならない姫屋とARIAカンパニーと違って、社員食堂のあるオレンジぷらねっとの子である私達は、夕食時もある程度自由に調節できる。そんなわけで私達は、寮に戻る前の下準備として、図書館に足を向けてみた、という訳だ。
……しかし。
「この分量相手じゃ、調べ終わるまで何日かかるかわからないね」
思わず弱気の虫が騒ぎだす。一応ジャンル別に区分されている蔵書は、詩歌関係だけで見繕ってみても、ざっと数百、もしかしたら数千冊。しかも表題からは内容を想像できないような本も多くて、片っ端から調べただけでは、一年かかっても目当ては見つかりそうにない。
「まずは、どの本が”それっぽい”かを確かめましょう。タイトルの意味がわかれば良いんですけど」
「藍華さんは、イタリア語っぽいって言ってたね」
藍華さんの言葉を思い起こす。そもそも『バルカローレ』にしても、この町には旧ヴェネツィア時代から、まさしくバルカローレ通りという地名がある。その流れから考えれば、『コッコロ』もイタリア語である可能性は高い。
「スペリングは……"Coccolo"でしょうか」
「そうだね……あ、あった」
イタリア語辞書をぺらぺらとめくっていたアリスちゃんがそう呟く。その手元を覗き込んでいた私は、早速目当ての単語を見かけて声を上げた。
「"Coccolo"……意味は、”親愛なる小さなあなた”」
私とアリスちゃんは顔を見合わせた。
親愛なるあなた。小さなあなた。元気に、健やかに育って行くあなたへ。私はあなたを見守りましょう。元気なあなたは私の喜びです。だから伸びやかに。だから健やかに。親愛なるあなたよ、私は歌いましょう。どうかあなたの道行きが、素敵で幸せでありますようにと。
そんな詩が、心の中にふと浮かび上がった。
それは、決して『コッコロ』の詩ではないだろうけど。
でも、アテナさんの歌声を思い起こし、それに与えられた名が、"Coccolo"であるのならば。
きっと、歌に込められた願い、その想いは、そう大きく外れたものじゃない。
――そう、信じられたんだ。
結局、その日の図書館では、それ以上の成果は得られなかった。
もちろん、精々一時間くらいの調査だし、目だった成果が得られる訳もない。それは理解しているけど。
「…………」
無口に運河を眺めるアリスちゃんも、同じものを感じている事だろう。
穏やかな、静かに頭上でルナツーが見下ろし、ルナスリーが駆け抜ける夜。そんな光の下で、私達は堪えようのない焦燥感に苛まれていたんだ。
そして、一日目が終わった。