ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Fenice 02 サイレンの呼び声

「大丈夫、アニー?」

 

 目を覚ますと、目の前に藍華さんの顔があった。

 

「あ……藍華さん」

 

 ぼんやりとした頭を、柔らかい何かが抱き留めているのがわかる。それが藍華さんの膝の感触で、私が藍華さんに膝枕をされていると理解するのに、大体一分くらいが必要だった。

 

「ご、ごめんなさい藍華さん、私、また」

 

 身体を起こして、藍華さんに頭を下げる。そして周囲を見回して、今が夕方で、灯里さん達との合同練習の帰り道であったことに気がついた。

 

 ――また、眠ってしまったんだ。

 

「良いのよ、アニーが目覚めてくれる方が、何倍も大事だもの」

 

 そう藍華さんが笑って見せるけど、私はそれに、堅い笑顔を返すことしかできない。作り笑いなのは一目で分かるだろう。だって、藍華さんにも、晃さんにも、私が無理して作った笑顔を、飽きるほど見せつけてきたのだから。

 

 だからだろう、藍華さんの笑顔に、少し困ったような……晃さんと良く似た色が覗く。困らせている。それがわかっているのに、私は満足な笑顔を浮かべることができない。

 

 何しろ、私がこうやって眠りこけてしまうのは、今日だけでもう三回目なのだ。

 

 『眠り病』……そう言い出したのは誰だったのか。そんなささいな事はもう思い出せないくらい、私の意識は失われ続けた。

 

 症状はいつも同じだった。前触れもなく、スイッチを切り替えるように、私の意識が途切れる。意識を失う直前、身体が浮き上がるような感覚の中で、かすかに耳に残る、歌声めいた音だけを残して。

 

 いつ起きるか。どのくらいの長さなのか。まったくわからない。起きない日もあれば、今日のように一日に何度も起きることもある。

 

 練習中、ゴンドラを漕いでいる最中に倒れたことも、既に五回。皆も慣れたもので、私が漕ぐ番の時は、さりげなく椅子を漕ぎ手の近くに寄せてくれる。私が倒れそうになったら、いつでも受け止められるように、という配慮だ。

 

 お陰で、最初のあの一回以来、一度も私は海に落ちていない。それはとても有り難いことだし、嫌な顔ひとつ見せず、私の練習に付き合ってくれる先輩方には、本当にどれほど感謝してもし足りない。

 

 だけど……先輩方の手を借りなければ、もう何度海に落ちていたかわからない。それは、つまり…………。

 

「アニー、アンジェさんからの返事はあったの?」

 

 努めて考えないように、考えないようにと自分に言い聞かせていた事に意識が向きかけた瞬間、藍華さんが聞いてきた。

 

 少しほっとして、頭を藍華さんの方に切り替える。

 

「はい、まだみたいです。アンジェさんも忙しい時ですし……」

 

 藍華さんが言うのは、先日私がアンジェさんに送ったメールについてだった。

 

 私の病気『眠り病』。それが三度目に発症した時、晃さんは何も言わずに私を捕まえ、病院に連れて行った。

 

 病院の先生は、私の身体を隅々まで調べた。そしてわかったことは、私の身体がすこぶる健康だということだけだった……『眠り病』を除いて。

 

 その結果に当たり前のように不満を表した私達は、次の策を練った。もし私の眠り病が病気であるなら、過去に同じような症例があるのではないか。それを知っている人がいるならば、それは誰だろうか……そう首を捻って唸る私達に、アテナさんがぽつりと呟いたのだ。

 

「アンジェさんなら、色んな伝承に詳しいし、何か知っているかも」

 

 アンジェさんは、ネオ・ヴェネツィアの生き字引とすら呼ばれるほどの博識だ。図書館で古い資料を掘り返している姿をアテナさんも頻繁に目にしていたという。彼女なら、誰も知らないような病気の事を知っているかも知れないし、そうでなくても何かのヒントを持っているかも知れない。

 

 マンホームにいるアンジェさんの手を患わせるのは不本意だったけれど、今は少しでも手掛かりが欲しかった。「何か思い当たることがあったら教えて欲しい」と書いたメールを送ってから、もう一週間くらいになる。研修で忙しい時期だろうに、その日の夜には「なんとか調べてみる」と返信があったのだけれど。

 

 いつもなら、バッグにこっそりPDAを隠し持っているのだけど、今はいつ倒れて壊してしまうかわからないので、持ち歩いていない。だから、メールの確認は部屋に帰ってからになる。

 

 もしかしたら、アンジェさんが何か掴んでいるかもしれない。知れないのだけど……。

 

「藍華さん。私、今日は図書館に寄って帰ります。先に戻っていてくれませんか?」

 

 他の人が頑張ってくれているのに、私自身がぼんやりしている訳にはいかない。図書館の本で、私の病気について何か分からないか調べてみるつもりだった。

 

「え? 何言ってるのよ。そういうことなら手伝うに決まってるでしょ? いい加減にアニーは遠慮癖直しなさいよね」

「ありがとうございます、藍華さん」

 

 これもすっかりいつものやりとり。藍華さんだって、もうすぐプリマ昇格試験の噂が聞こえてくる身分、時間が有り余っている訳ではない筈なのに、いつも私を手伝ってくれる。本当に、どんなに感謝してもし足りない。藍華さんと晃さんに出会えたことは、私が姫屋に来て最も幸運な事だったと、今なら迷いなく言い切れる。

 

 そして、私達は図書館に向かい、いつも通り収穫なしで帰途に就いた。

 

 

 その時、水面下で、私にとって大変な事が起きていたのだけれど。

 

 私は、まだその事実を知る由もなく、ただただ自分の幸福に酔いしれていただけだったんだ。

 

 

 

 

 晃・E・フェラーリは、目の前に積み上げた資料に、低く唸り声を漏らした。

 

 物量としては、いつもの事務仕事の半分にも満たない。そもそも姫屋は老舗の水先案内人企業として、事務と実務で労務区分がはっきりしている。流石に新鋭のオレンジぷらねっと程システマチックではないにしても、超小人数主義のARIAカンパニーなどに比べれば、プリマ・ウンディーネにかかる事務処理の労務は物の数ではない。《白き妖精》アリシアの、そしてそれを補佐する灯里の労務内容の多様性は推して知るべしだ。

 

 一度藍華もあちらに派遣し、現場のみならぬ経営そのものの経験を積ませるべきだろうか、などという思考もちらついてくるが……ともあれ、今目の前の書類は、そういう類いのものではない。

 

「……アンジェさんには、本当に手間をかけさせているな」

 

 それは、医療書の抜粋だった。マンホームにかつて存在したドイツ語……現在では医療語として使われることが多い言語で書かれた原文を、機械が自動で翻訳したものだ。ドイツ語にまでは造詣が及ばない晃にとって、抜粋者アンジェリカの配慮はとても有り難い。

 

 それは今日、地球から晃宛てに送られて来た資料だった。

 

 内容は、地球の資料館から取得した、医術資料の抜粋。今やほとんど存在すら知られていない奇病、アキュラ・シンドロームの資料だった。

 

 アキュラ・シンドローム。アキュラはイタリア語で鷹を意味する言葉だが、病気の名前には最初に発見された患者や発見者の名前が与えられる事が多く、病の内容と直接には関係ないだろう。自分の名前と響きが似ているのはいささか気に入らないところだが、言っても始まらない。

 

 アンジェリカが調査した資料によれば、その症状は突発的かつ深刻な意識の途絶。ウイルス性であり、同じく眠り病の類であるナルコレプシーと現象が似ているために混同されやすく、また症例が少ないために、誰にも知られる事なく資料の山に埋もれていた病である。

 

「……日常生活には深刻な影響はなく、命にかかわる事もない、か。ひとまずは安心だが」

 

 ほっと息を吐き出す。もしかしたらあのまま目覚めなくなるなんて……という漠然とした恐怖に苛まれていた晃としては、それがはっきりしただけでも随分気が楽になる。

 

 だが、問題はそれに続く一文だった。

 

『現状において、根本的な治療の手段なし』

 

 そこだけ浮き上がるように、淡々とした一文。これを書く時の、アンジェリカの躊躇いと苦悩が手に取るように伝わってくる。

 

 アンジェリカの苦悩の理由。それは、晃が恐れていたもう一つの事柄そのものだった。命に別状はないとはいえ、治療の見込みなし、という事実は、ある冷酷な結果をアニエスに突き付けることになる。

 

 アンジェリカが、頼りを送ったアニエスではなく晃に伝えることを選んだ理由。それは、晃に全ての苦悩を押し付けようとしたのだろうか。いや違う。アンジェリカ自身、恐らくどうしていいのかわからなかったのだ。だから、晃を頼った。事実を知らせない訳には行かないから。だが……。

 

「……恨みますよ、アンジェさん」

 

 嘆きの息を吐き出す。口では恨み言を吐き出しつつも、これは確かに自分の役割だ。一人前になって、他人に責任を持つということは、こういうことなのだ。

 

「……どんな顔をして言えっていうんだ。こんなことを」

 

 端正な顔を歪ませながら、晃は資料の最後の一文を睨みつけた。

 

『この症例は、意識途絶時に患者に歌声に似た幻聴をもたらすため、伝承にちなみ、通称《サイレンの呼び声》と呼ばれている』

 

 サイレン。偶然の一致なのだろうが……あの悪魔は、まだアニエスの夢を切り裂こうというのだろうか。

 

 

 

 

「アニー。今日からお前がゴンドラに乗ることを禁止する」

 

 朝食前の私達の部屋に顔を出した晃さんが、色のない顔でそう宣言した。

 

「!!」

 

 テーブルを拭く私の手が止まった。息が詰まり、頭からさっと血の気が引いて行くのがはっきりとわかる。

 

 でも、私以上に激しいリアクションを見せる人がいた。

 

 かしゃぁん、と陶器が砕ける音。藍華さんが手にしたカップを取り落としたのだろう。

 

「どっ、どうしてですか晃さん! いきなりそんな!!」

「藍華っ! 話より先に破片を片付けろ!」

 

 一喝で、台所から飛び出そうとする藍華さんを制する晃さん。不承不承という風で引き下がった藍華さんは、いつにない手早さで砕けたカップ(ああ、あれは藍華さんのお気に入りだった筈なのに)を片付けて、三分の後には三人そろってテーブルを囲んでいた。

 

 全員が揃ったものの、晃さんはタイミングを逸してしまったのか、暫く唇を重く閉ざしたままだった。どう切り出していいのか思案しているようで、沈黙が居座る時間に比例して、部屋の空気もどんどん重さを増しているような気がする。

 

 ゆらりと立ちのぼるカップの湯気が、晃さんのため息で切り裂かれた。

 

「……会社の決定だ。理由はわかるな、アニー?」

「あ…………はい……」

 

 晃さんが言う「理由」はわかっていた。多分、いずれはこうなるだろうと、頭のどこかで理解していた。

 

 合同練習で。普段の練習で。私は何度も気を失った。そしてその度に、誰かの助けを借りていた。そして目を覚ます度に、私は背筋を凍らせていたんだ。

 

”もし、誰も助けてくれなかったら”

 

 今はいい。側にはいつでも誰かがいる。だけど、もし一人前のプリマ・ウンディーネになったら、私の側には誰もいない。舟から落ちても誰も助けられない。更に、お客様を巻き添えにしてしまう可能性すらあり得る。

 

 そんな私を、ゴンドラに乗せ続ける事はできない。

 

「…………はい、わかります。お客様を危険に晒すことだけは、絶対にできませんから」

「そんなこと、わかっていたことじゃないですか! 晃さん、どうして今になってそんなこと!」

 

 藍華さんが食ってかかる。

 

「……アニーの病気がわかったんだ。マンホームのデータベースの奥の方にあった。……アキュラ・シンドローム。ウイルスのせいでバランス器官の機能が飛んで、気を失ってしまう病気らしい」

「ウイルス? だったらワクチンとか血清とかそういうので治療できないんですか?」

 

 藍華さんの問いに、晃さんは悲しげにかぶりを振った。

 

「それが駄目なんだ。症例が少なすぎて、治療できた例が記録されていないらしい」

 

 空気がずんと重くなった。部屋に漂うスクランブルエッグの匂いも白々しい。

 

「…………それって、つまり」

 

 藍華さんが、強ばった目で私を見る。きっと、私も同じような目をしているのだろう。藍華さんの言葉に続いた私の声は、自分でもびっくりするくらい平坦だった。

 

「……治らない……ってこと、ですよね」

 

 

 

 

 それから、晃さんは色々と事情を説明してくれた。

 

 華やかなようでも、姫屋は観光サービス企業、つまり営利企業だ。

 

 ペアは完全な扶養社員だし、シングルにしてもお客を取るにはプリマの添乗が必要だから、先行投資の意味合いを除けば、未熟なウンディーネは会社にとって負担になる。特に姫屋やオレンジぷらねっとは社員を巨大な寮で養っているから、出て行く費用は更に膨れ上がる。

 

 つまり、姫屋には、ゴンドラに乗れない人間を養うことはできない。プリマになれるウンディーネは限られていることもあって、ライトスタッフのふるい分けは頻繁に行われている。そのなかには、健康上の理由からゴンドラを降りる娘も珍しくない。別に私が特殊な訳ではないし、特例を認められる理由もない、ということだ。

 

 姫屋の事務スタッフに回せないかと、晃さんが提案してくれたらしい。でも、会社の事務職などの多くは既に定員を満たしているし、そうでなくとも引退したプリマ・ウンディーネの転職先として、非現場社員の席は多くが予約されているらしい。

 

 だから、私は姫屋を去らなければならない。

 

 晃さんの尽力で、来月の頭まではいられることにして貰えたけれど、そこが限界。もし、それまでにこの病気が完治でもしない限り、私の姫屋での日々は終わりを告げる。

 

「だから、アニー。お前には二つの選択肢がある」

 

 晃はさんは、指を一本一本折りながら、その選択肢を提示して見せた。

 

 一つは、マンホームに帰り、じっくり病気を治すこと。

 

 もう一つは……姫屋を辞め、このネオ・ヴェネツィアのどこかに転職すること。

 

「どうしても水先案内人業界に残りたいなら、アリシアに話をつけてきた。あそこは小人数主義だが、事務専門の社員を一人抱えるくらいはなんとかできるそうだ」

 

 流石は晃さん、見事な手回しだった。きっとずっと前から……病気が発症してからすぐに、私の解雇の話は持ち上がっていたんだろう。それを今まで食い止めていてくれたのも、万が一に備えてアリシアさんに話を通しておいてくれたのも、晃さんの尽力故のことに違いない。

 

(でも、これ以上迷惑はかけられないよね……)

 

 すぐに結論は出た。とても悲しかったけれど、それが避けられないなら仕方がない。目許が熱くなるのを感じながら、私は返事を……マンホームに帰ることを口にしようとしたのだけれど。

 

「待て。お前の事だから、また”迷惑をかけたくない”とか言って、マンホームに帰るつもりだろう?」

 

 あっさりと、先手を打たれてしまった。

 

「えっと、その……」

「ちょっとアニー! そんなこと簡単に決めないでよ!」

 

 藍華さんがばんっと机を叩いた。憤激に顔を真っ赤にして、目元がふるふると震えている。

 

 ああ、迷惑をかけている。そう感じると、私の心はきりきりと痛む。この一年の間に、何度も私を蝕んだ呪縛が、またぞろ鎌首をもたげているのがわかる。

 

 そんな私の様子を見透かしたように、晃さんが言い含めるように言った。

 

「まだ時間はある。今月はまだ一週間残ってる。その間、じっくり考えるんだ。いいなアニー?」

 

 真摯に覗き込む瞳に射竦められ、私は是を返すしかなかった。

 


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