ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Silent Seiren 04 オルガンの記憶

「『コッコロ』ですか?」

「『コッコロ』ねえ……」

 

 今日も今日とて運河の上。先輩たちを伴っての午前の練習なのだけれど。

 

 そう異口同音に思案げな声を漏らしたのは、先輩は先輩でも、いつものARIAカンパニーや姫屋の制服ではない、同じオレンジぷらねっとの先輩方だった。

 

「そもそも、私はその曲を聴いたことがないわ」

 

 そう申し訳なさそうな顔で言うのは、ふわふわの髪をポニーにまとめた先輩のアトラさん。そしてそれにうんうんと頷くのは、同じく我が社の先輩の杏さんだ。

 

「ごめんなさい、二人とも。力になれたら良かったのだけど」

「いえ、そんなことは……」

 

 ぶんぶんと手を振って、アトラさんたちの謝罪を振り払う。申し訳ないなどと思われる理由はない。そもそも、こちらが勝手に尋ねてみただけのことなのだから。

 

 

 そもそも、いつもなら灯里さん、藍華さんの二人と一緒に練習しているはずの私達が、これまたいつもなら姫屋のあゆみさんと一緒に居る事の多いアトラさん、杏さんと一緒にいるのは、これまた理由がある。

 

 昨夜までの調査で確たる成果を得られなかった私達二人は、灯里さんたちと合流する前に、もう一つくらい調べて行こうと話し合って決めた。

 

 昨夜から燻っていた焦燥感は、カレンダーの日数が一つ削れたことで、明らかに熱く燃え上がり始めた。あと二日しかない。練習時間の事を考えれば、今日中に何とか結論を出さなければ、全てが間に合わなくなってしまう。

 

 そこで私達は、早朝練習の前に、もう一度寮内を調べて回る事にした。具体的には、アテナさんや……その直接の師匠だというアレサ管理部長に話を聞いてみようと思ったんだ。

 

 ところが、アテナさんとアレサ管理部長は、私達が訪れた時には既に遅く、どこかに出かけていた(その事を知って、アリスちゃんは酷く憤慨していた。同室の私にも教えてくれないなんて! だそうだ)。

 

 日頃から多忙を極めるアレサ管理部長だけならまだしも、病み上がりで完調ではないアテナさんまでがいないとは思わなかった。

 

 そんな訳で、行き場を失って途方にくれていた私達を、練習に出掛けようとしていたアトラさんたちが拾ってくれた、というわけだ。

 

 

「それにしても、アテナさんの舟謳(カンツォーネ)に挑戦するなんて、二人とも頑張るわね」

 

 早朝練習に向かう途上、アトラさんが、心底感心した風でため息を吐き出した。

 

「そんな驚くような事ですか?」

「驚くようなことです。上手い人の歌を真似るということは、上手い人との技量の差を一番はっきり突き付けられるって事ですから」

 

 杏さんが、ぎくりとするような事を言う。確かにそうだ。私達が挑もうとしているのは、アクア一の歌い手の、それも十八番。聴けば劣化コピーの度合いは歴然だろうし、しかも今回の場合、歌うとしたらコピー元の目の前で、ということになる。

 

「そもそも、アテナさんの舟謳(カンツォーネ)は、他の人が歌っているのを聞いた事がないです」

「アニーちゃんが言うとおり、楽譜がそもそも存在しないのかも知れないわね」

「……なんでしょうか」

 

 気が滅入ってくる。私達は、無謀な賭けに出ようとしているのだろうか。今からでも、もっと上手くやれるような、無難な曲に変更するべきなのだろうか……。

 

 そんな事を考えているうちに、櫂から伝わる水の流れが変わった。目に刺さる低い太陽の輝き。ざわざわと騒ぐ、せせらぎの大合唱。気が付けば、舟は大運河にたどり着いていた。

 

 そして、広い運河に出てきて程なく、岸辺から溌剌とした声が聞こえてきた。

 

「おーい、アトラ、杏!」

「あ、あゆみちゃん」

 

 それは、姫屋の制服に身を包んだ、赤毛のショートカットが鮮やかな女性だった。聖ソフィア桟橋のアーチの側で、手を元気よく振り回す彼女に、杏さんが同じく手を振り返す。アトラさんも小さく笑顔を返すあたり、かなり親しい間柄なのだろう。

 

「アトラ、そっちの娘たちは、オレンジぷらねっとの後輩かい?」

「天才少女のアリスちゃんと、マンホーム生まれのアニーちゃんよ。二人とも、灯里ちゃんの友達なの」

「へぇ、灯里ちゃんの友達なんだ。あたしはあゆみ。よろしくねっ!」

 

 灯里さんの名前を中心に挙げるということは、あゆみさんも灯里さんと友達なのだろう。まあ、このネオ・ヴェネツィアで、灯里さんの名前は知らずとも、あの特徴的に長いもみあげ(暁さん談)を知らない人はそうはいないだろうけれど。

 

 ともあれ、アリスちゃんと私は、あゆみさんにそれぞれ簡単に自己紹介をした。

 

「アリス・キャロスです……どうも」

「アニエス・デュマです。アニーと呼んでください」

「アリスちゃんに、アニーちゃんだね。……あれ?」

 

 あゆみさんは私達の顔を交互に眺めて、何かに思い至ったのか、うーんと眉を寄せた。そしてしばらく考え込んでいたのだけれど、不意に顔を上げて、ぽんと手を打ち鳴らす。

 

「……ああ、思い出した。アニーちゃん、キミ確か以前、運河の真ん中で『イル・チェーロ』歌ってたろ? そういえば、あの時一緒にいたのはアリスちゃんだったような気がするな」

「……うぁ」

 

 顔がかっと熱くなった。そんなにはっきりと覚えられてるなんて。

 

 確かにあの時……私の家出騒動の時、私は運河の真ん中で、全身全霊の思いを込めて、あの歌を歌った。それはたまたまアテナさんが操るお母さんたちの舟に届いていたけど、それ以上に、沿岸や行き交う舟の人々の耳に届いていたんだ。

 

 あの時の暖かな拍手は、私が舟謳(カンツォーネ)を歌う時の、一番の原動力になっていると思う。

 

 でも、それを面と向かって話されると、さすがに恥ずかしい。

 

「よく覚えてますね。私、あの一回だけしか運河では歌ってないんですけど」

「んー、トラゲットずっとやってるとね。景色とか水の流れがあまり変わらない分、人の声とか顔とか、そういうのを覚えやすくなるんだよ」

 

 あゆみさんが自信ありげに”にまっ”と笑顔を浮かべる。なるほど、トラゲットを繰り返すという事は、いつも同じ道を行き来するだけに、日常の変化について敏感になるのだろう。

 

 観光案内が主のウンディーネの中ではやや異端である、トラゲットを専門とする、特別なシングル。そういうありかたもあるんだな、と、感心するし、憧れるところもある。

 

「……ああそうだ、あゆみ。貴女《天上の謳声(セイレーン)》のアテナさんの舟謳(カンツォーネ)、彼女以外の人が歌ってるの聴いたことがある?」

 

 挨拶が終わったと見て、アトラさんがそう割り込んできた。

 

「え? 特別にアテナさんの歌っていうと、あの何語かわかんない奴かな? んー……他の誰かが歌ってるのは聴いたことがないけど……」

「……そう、まあ、そうよね」

 

 思わず、アトラさん、杏さんと一緒にため息を吐き出す。まあ、そう簡単に答えが出るはずもない。

 

 なのに、あゆみさんはちっちっと指先を少し芝居がかって振って見せると。

 

「まあ待って。確か、伴奏を聴いたことはあるよ」

 

 そう、聞き捨てならないことを言った。

 

 

 

 

「伴奏って……だって基本的に舟謳(カンツォーネ)はアカペラですよね?」

 

 アリスちゃんが首を傾げた。私達ウンディーネの舟謳は、大抵は伴奏なしで歌う。中には携帯音楽プレイヤーを使って伴奏を交ぜる人もいるようだけれど、少なくとも船上では『らしくない』という理由で敬遠されがちだ。

 

 だけど、生音となれば話が違ってくる。舟謳(カンツォーネ)の得意なウンディーネと組んで演奏をする音楽家もいる……らしい。私は遭った事がないけれど。

 

「うん。だけどあれは間違いなく伴奏だったなあ。オルガンの音が聞こえてきたんだけど、それと通りがかったアテナさんの声が奇麗に重なってたし」

 

 あゆみさんが難しい顔で腕を組みながら唸る。そうまで言うからには、確かな記憶なんだろう。

 

 伴奏を知っている誰かがいた。それはとても重要なことだ。

 

 それはつまり、アテナさんの得意とする舟謳(カンツォーネ)が、アテナさんオリジナルのものではなく、少なくとも誰かがその曲を知っている……少なくともその可能性が高いという事なのだから。

 

「それじゃあ、一体どんな人が伴奏していたか、覚えてはいませんか?」

「んー……さあねえ。あたしは舟の上からしか見てなかったから、誰が演奏してたかまでは見てないや。ごめんよ」

 

 申し訳なさそうに肩を竦めるあゆみさん。まあ、トラゲットの最中に演奏者の顔をじっくり眺めていたら、むしろよろしくない。

 

「それじゃあ、一体いつ頃、どのあたりで聞いたのかはわかりませんか?」

「そうだねぇ……場所はこの桟橋の近く、そう、あっちの広場だった。時期は……確かあれは、去年の秋くらいだったかな。日陰がこう長くなって来たくらいで……そうそう、あの時は確かアテナさんの舟に、雑誌社の腕章付けた人が乗ってたよ」

 

 雑誌の取材。それはものすごく具体的な情報だ。

 

 アテナさんは《水の三大妖精》だけあって、しばしば雑誌社などから取材の依頼を受ける。私が知っている限りでも数回の取材があったけれど、それでも一カ月に一度以上の周期ではなかなかない。『去年の秋口』『雑誌の取材があった頃』『広場でオルガンを演奏していた人』という条件がそろえば、演奏者をかなり特定できる。

 

「…………」

 

 屋外でオルガンの音がするということは、音源は携帯音楽プレーヤーか、携帯オルガンのどちらか。後者を屋外で奏でていれば、相当に目立っていた事だろう。聖ソフィア桟橋近くに住んでいる人に聞き込めば、結構目撃証言は得られそうだ。

 

 ……でもまあ、私達にはそう時間に余裕がある訳でもなくて。

 

「アニーさん、そろそろひとまず早朝練習に行きましょう」

 

 黙り込んでしまった私に、アリスちゃんがせかすように袖を引いた。

 

 時計を見る。まずい。待ち合わせ時間をもう過ぎている。急がないと、藍華さんに「遅刻禁止!」とか言ってまたおごらされてしまう。

 

「そうだね……それじゃああゆみさん、アトラさん、杏さん、お先に失礼します」

 

 ぺこりと頭を下げて、私達は三人と別れ、待ち合わせ場所へと櫂を押し出した。

 

「頑張りなよ。二人とも。灯里ちゃんによろしく」

「また夕方にね、アリスちゃん、アニーちゃん」

「アリスちゃん、今度一緒にムッくんグッズ探しに行きましょう」

 

 そう口々に言いながら手を振る先輩三方に、手を振り返す私たちだったのだけれど。

 

「……オルガン……ですか」

 

 三方が見えなくなり、手を振るのをやめてから少しの沈黙を経て。アリスちゃんが小さく、何か思わしげに呟いた。

 

 

 

 

 アトラさん、杏さん、あゆみさんと別れてからしばし。

 

 合同練習のために集まった舟の上で、私達は例によって作戦会議を繰り広げていた訳なのだけど。

 

 私達が仕入れてきたオルガン弾きさんの話は、特に藍華さんの興味を惹いたようだった。

 

「なるほど、そういうことなら二手に別れた方がいいわね」

 

 私が櫂を動かしながらオルガン弾きの顛末を話すと、藍華さんは少し眉をひそめて迷ったようだったけれど、いざ口を開くときっぱり宣言した。

 

「そうだねえ、もうあまり時間もないし、できることは手分けしていかなきゃ」

 

 その傍ら、アリスちゃんが漕ぐ舟の上で、灯里さんが手持ちのパソコンで私達が借りてきた『週刊ネオ・ヴェネツィア』のデータ版を眺めながら相づちを打つ。マンホームでは当たり前に使われているデータ版の情報誌だけど、アクアでは……少なくともネオ・ヴェネツィアでは『風情がない』という理由からか、あまり好まれない。

 

 オレンジぷらねっとの資料室に残っていたのも『週刊ネオ・ヴェネツィア』が全系誌だったためだろうと思う。さすがに、冊子を星間連絡船に乗せて運ぶ訳にはいかないし。

 

 藍華さんはそんな灯里さんの様子に、少し呆れたような様子を滲ませつつ、私達……つまりアリスちゃんと私に真剣な顔を向けた。

 

「まずはその取材があった時期を特定しましょう。これは多分、オレンジぷらねっとの資料室とか事務の人に当たらないと無理だわ。だから、ここはアニーと後輩ちゃんに任せる。アニーはスマート持ってるわよね。何か分かったら灯里にメールを送って」

 

 ぴっと指を二本盾ながら、そうてきぱきと指示を下す藍華さん。この所、なんだか最近、指揮官というか、統率者としての貫禄が出て来たような気がするのは、私の気のせいだろうか。さすがは姫屋の跡取り娘。

 

 ……などと感心していたら、藍華さんの声が急激にトーンを落とした。

 

「でも正直、今日中に結論が出せなかったら、もう諦めて普通の曲に変えた方がいいわね。練習もできてない曲で無茶するより、確実に歌える曲でおもてなしする方が、ウンディーネとしては大切なんだから……」

「……はい」

「そうですね……」

 

 藍華さんの提案ももっともだ。私達ウンディーネはお客様をもてなすのが仕事。そこで自信のない舟謳(カンツォーネ)を歌っても、それはきっとお客様の心に届かない。それでは駄目なんだ。

 

 だけど、時間がないということを突きつけられると、やはり気が滅入る。間違った選択をしているのではないか、このままだと失敗してしまうのではないか、そんな不安がむくむくと頭をもたげ始める。

 

 せめて、アテナさんが『コッコロ』を歌える状況であれば、歌い聞かせて貰う事もできるのだろうけど……。

 

「……あれ?」

 

 その時、じっとパソコンを眺めていた灯里さんが声を上げた。

 

「ぷいにゅぷぃ?」

「どうかしましたか、灯里先輩?」

 

 櫂を手にしたアリスちゃんが、アリア社長の頭越しに、足元に腰掛けた灯里さんの手元を覗き込む。灯里さんはそんなアリスちゃんの顔をちらりと見やると、手元のパソコンの画面を指さした。

 

「ここの記事見て、アリスちゃん」

「何ですか? ええと……我々はインタビューの途中、幸運にも《天上の謳声》が奏でる舟謳の中でも、滅多に聞けない秘蔵の一曲を聞くことができた……」

 

 

『大運河を航行中、その秘蔵の曲に重ね合わせるように、オルガンの音が聞こえて来た。その二つは予め約束されていたかのように響き合い、耳にしているだけで心が踊りだすような軽やかなメロディを奏でていた。

 偶然だろうが、何という幸運だろうか。しかも幸運はそれだけではなく、その素晴らしいセッションの様子を、特別に本誌付録に掲載する事を許諾戴ける事となったのだ。

 取材用カメラのマイクによる収録であるため、音質が低い事が恐縮であるが、この貴重な映像が、読者の皆々様方に届き、あの感動の万分の一でも送り届けることができたならば幸いである』

 

 

 ……そこまで読み上げて、アリスちゃんは言葉もなくパソコンの画面を見つめていた。

 

 藍華さんも、目を丸くしていた。私も、何と言っていいかわからなかった。

 

「……どう思う?」

 

 そう灯里さんが言うけど、返す言葉が見つからない。時間が凍りついたように、なにもかもが動きを止めている。

 

 そして。

 

「……ぷいにゅ?」

 

 小首を傾げたアリア社長の声が聞こえた瞬間、私達の時間は一斉に動き出した。

 

「付録っ! ちゃんと付録はついてるの灯里っ!?」

「灯里先輩、どうなんですか!?」

「私にも見せてください灯里さーんっ!!」

「は、はひーーっ!?」

「ぷいにゅーーっ!?」

 

 

 

 

 

 『週刊ネオ・ヴェネツィア』アテナさん特集号には、ありがたいことに付録のデータもちゃんと添付されていた。

 

 ビデオを再生すると、インタビュアーが舟を進めるアテナさんに話しかけていた。インタビュアーさんのさまざまな質問に営業スマイルで答えるアテナさんだったのだけれど、ふと岸辺に何かを認めたようで、ぱちくりと目を丸くする。

 

 さすがに職業人、インタビュアーさんもアテナさんの様子が変わった事に気づいたようで、アテナさんの視線を追いかけるようにカメラを巡らせる。

 

 すると、そこに映し出されたのは……。

 

「……あ、後輩ちゃんが跳ねてった」

 

 藍華さんの言うとおり、そこに映っていたのは、ミドルスクールの制服を着た女の子だった。顔は角度が悪くてよくわからないけれど、その光の加減で鮮やかなエメラルドグリーンにも見える長くて奇麗な髪は、アリスちゃんのものに間違いない。

 

 ぴょんぴょんと跳ねるように……というか明らかにジャンプしながらどこかの路地に消えて行くアリスちゃん。カメラの人も何事かと、跳ね踊る髪が路地裏に消えてしまうまで、その様子を追い続けている。

 

「アリスちゃん、もしかしてこれって自分ルール?」

「はい、多分影のあるところだけ歩くルールの時だと思います」

 

 そう顔を見合わる灯里さんとアリスちゃん。なるほど、アリスちゃんの自分ルールならば、多少不思議なふるまいを見せていても不思議じゃない。

 

 それは、映像の中のアテナさんもよくわかっていたのだろう。カメラがアテナさんの方に向き直った時浮かべた表情を、私は見逃さなかった。

 

 アテナさんの顔に浮かぶ、とてもとても優しい、まるで可愛い我が子を見守る母親のような、慈愛に溢れた表情を。

 

 アテナさんはインタビュアーさんに小さく礼をすると、大きく息を吸い込んで。

 

 そして、歌い始めた。

 

 『コッコロ』の歌を。

 

 

 優しい歌だった。

 

 転がるような、春の風のような、軽やかで、活力に満ちた歌声。

 

 健やかに育って行く我が子を見守るように、元気づけるように、『コッコロ』の歌声が響いて行く。

 

 インタビュアーさんたちもその予期せぬ天上の歌声に、聞き惚れるしかなかったことだろう。その間、カメラはじっとアテナさんの歌う姿を映し続け、質問の手も止まったままだったのだから。

 

 

 それに変化が訪れたのは、カメラに映る映像が、大運河に差しかかったあたりだった。

 

 背景を見る限り、ちょうど聖ソフィア桟橋の近く。あゆみさんが『コッコロ』の伴奏を聞いたという場所、まさしくそのものだ。

 

「……あれ」

 

 ふと、藍華さんが小さく首を傾げた。

 

「どうかしましたか? 藍華さん」

「んー、なんかね、そういえばあの時、どこかで……」

 

 そう藍華さんが何かを思い出しかけた、その時。

 

 近くの岸辺からだろうか、オルガンの音が聞こえて来た。

 

 その旋律に、アテナさんも少々面食らったようだった。まるで町角で、二度と遭えないと思っていた古い友達に出会ったような、そんな複雑な笑みを浮かべていた。

 

 そして、旋律が唱和した。

 

 ぴったりと重なるメロディ。疑いようもない。欠けたパズルのピースがぴったりと重なったような、完全な調和のメロディ。

 

 本当に、どこの言葉なのだろう。イタリア語らしい単語がちょこちょこと聞き取れるけれど、それ以外の所は全然。意味もよくわからないけれど、だけど。

 

 ……想いは、わかる。

 

 大切な誰かの、幸せを願う歌。

 

 大切な誰かと、喜びを分かち合う歌。

 

 ――”親愛なる、小さなあなたへ”。

 

 そんなタイトルの意味にふさわしい、弾むようなリズム。

 

 それなら、きっと言葉の意味なんて必要ない。

 

 もしかしたら――最初からこの歌には

 

「思い出した!」

「はい、でっかい思い出しました!!」

 

 ぽっかりと浮かび上がった、私の考えを押し流すように。

 

 藍華さんとアリスちゃんが、口をそろえてユリイカを唱えた。

 

「え、えー? 藍華ちゃん、アリスちゃん、何を?」 

 

 私と同じように、『コッコロ』のメロディに心を浸していた灯里さんが、びっくりしたように目を見開いた。

 

「このオルガンの音よ! 私達、この曲聞いたことがあったのよ!」

「はい。これはでっかい小さいころ、町に来た人形師のおじさんが奏でていた曲です」

 

 勢い込んで言う二人。私は戸惑いながらも聞き返すことしかできない。

 

「人形師……?」

「えーと……もしかして、いつかの広場で劇をしてた、あのカバンのおじさん?」

「そう、そうよ! 灯里と水上バスで一緒になってたあのおじさん!」

「……はれ、なんで藍華ちゃん、バスで遭ったこと知ってるの?」

 

 うっと言葉に詰まった藍華さん。何やらよくわからないけれど、どうやら先輩方は、私の知らないころにこのオルガンの主と出会ったことがあるらしい。

 

 なるほど。それはものすごいミラクルな偶然だ。だけど……正体がわかったとしても、その居場所がわからなければどうにもならない。

 

「それで……その方はどこに?」

 

 私の質問に、藍華さんたちが興奮に水をひっかけられたように、しんと静まり返った。

 

「……旅の人形師さんだっけ?」

「世界中を巡って人形劇を続けてるって言ってたね」

「ネオ・ヴェネツィアどころか、アクアにすらいないかも知れませんね……」

 

 空気がだんだんと沈んで行く。折角見つけた希望も、無為に終わってしまうんだろうか。そんな不安が、重く心に立ち込める。

 

 ……なのだけど、私は実の所、あまり不安に思っていなかった。

 

 それは多分……アテナさんの歌の記録を耳にして、何か重大な手掛かりを得ていたからだったんだと思う。

 

 その手掛かりの正体は、まだその時にはよくわかっていなかったのだけど。

 

「まずは、その人形師さんが立ち寄ってた場所を調べてみましょうよ。もしかしたら、その人のオルガンの曲について、もっと詳しい人に行き当たるかもしれませんし」

 

 私のそんな提案に、先輩たちは顔を見合わせ、そして揃ってこっくりと首を縦に振って見せた。

 


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