ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Silent Seiren 05 幻想郷の人形芝居

 聞き込みをしてみると、人形師さんを知っている人は、想像以上に多かった。

 

 昨年見た人、五年前に見た人、十年前に見た人。人それぞれ、時期もまちまちだったけれど、話を聞いてみると、三人に一人は、そんな人の人形劇を見たことがあると言うんだ。

 

 覚えている人だけで三割強なのだから、実際にはもっと多くの人が目にしているんだろう。それだけ、彼はこのネオ・ヴェネツィアを頻繁に訪れていたんだ。

 

 だけど、肝心の彼の足取りになると、さっぱりだった。

 

 「いつの間にかいなくなっていた」……聞く人聞く人が、揃ってそう言った。誰も彼もが、幼いころに人形師の劇に見入られた記憶は持っていても、彼がどのようにして消えていったのかまでは覚えていなかったんだ。

 

「確かに、焼き芋屋さんとかがいつ帰っちゃうかとか、なかなか覚えてないよね」

 

 灯里さんがそう呟く。そういうものかも知れない。行きずりの旅人の足取りを、人はそうそう覚えているものじゃない。観光客をもてなすのが仕事の私達ウンディーネですら、お客様を見送るのは岸辺まで。そこから先の足取りなんて、特別な事情がなければそうそう追いかけることもしない……と思う。

 

 それでも。それでもを繰り返して、私達は聞き込みを続けた。

 

 一人、また一人。空振りを繰り返すうちに、太陽は中天を極め、そして地平の向こうへ傾いていった。

 

 そして、また世界がオレンジに染め上げられたころ、私達は……。

 

 

 私達は、ついに、諦めた。

 

 

 

 

「さっきも言ったけど、失敗しないのは前提条件。アテナさんの歌は、またじっくり練習してからにしましょう。いい? 後輩ちゃん、アニーも」

「残念だけど、もう時間もないし、ね。明日の練習、頑張ろう?」

 

 そんな言葉を残して、灯里さんと藍華さんの船が、水路の向こうに流れていった。

 

 明かりが点くほど暗くはなく、明かりなしでは見通せない、そんな夕闇の中に消えて行く白い影。それらを見送って、私は深々とため息を吐き出した。

 

 徒労感は拭えない。ほぼ丸一日を費やしての聞き込みの成果はなく、得られたと言えば、舟を意識的にトリアンゴーレ的に近づけて漕ぎ続けたことで、操船にそれなりの自信がついたことくらい。もちろんそれも得難い成果ではあるのだけど……。

 

 俯いたまま、舟の上で膝を丸めているアリスちゃんを見ていれば、そんなことを喜ぶ気に、なれるはずもない。

 

「しょうがないよね。明日が最後なんだもの。一緒に頑張ろう?」

「……ごめんなさい、アニーさん」

 

 気休めにもならないような私の言葉を遮るように、アリスちゃんの口から謝罪の言葉が漏れた。

 

「……アリスちゃんが悪いことは何もないよ。私も気持ちは同じだったんだから」

 

 櫂を繰りながら、考える。そう、気持ちは同じだった。アテナさんのあの歌を、私達がアテナさんに、そして多くの人達に伝えたい。歌は想いを伝えるものだから。誰かを想う心を込めるなら、それに相応しい歌がある。

 

 そう思ったからこそ、私はアリスちゃんと同じように『コッコロ』を捜し求めたし、それがわかるから、灯里さんや藍華さんも手を貸してくれたのだと思う。

 

 だから、アリスちゃんが一人で背負い込む理由はどこにもない。

 

 なのに。

 

「私、でっかい悪い子です。アテナ先輩の喉を壊しちゃったのも私のせい。アニーさんたちを振り回して、練習の時間を奪ったのも私のせい。……私のせい、なんです」

「……アリスちゃん」

 

 私がそう名を呼んでも、アリスちゃんは答えなかった。

 

 ただ、俯いて、自分に心配そうに足をかけるまぁ社長の事にも、まるで気づいていないようだった。

 

 遠くで、嫌な声の猫が鳴いていた。

 

 不吉で、心がざわめく声。なんだろう。聞き覚えがある。

 

 黒くて冷たい網が、体中に絡み付いていくような感覚。

 

 ――そう、それは、私が『サイレンの悪魔』に囚われてしまったあの時と、感じがよく似ている。

 

 いけない。そう思った。このままではいけない。

 

 このままだと、アリスちゃんが取り返しのつかないところまで落ち込んでしまう。

 

 陰鬱な、呼んでいるようなあの猫の声。絡み付くようで、心がざわめくあの声。

 

 あんなものを聞き続けていたら、心が参ってしまう。

 

 だから、私は振り払いたいと思った。

 

 大事な大事な年下の先輩を、守りたいと思った。

 

 だから、息を吸い込んだ。

 

 不吉な声を、塗り替えてしまうために。

 

 伴奏もなく、楽譜もなく。記憶に残ったあのメロディーと、記憶に残ったあのフレーズに、ありったけの思いを塗り込めて。

 

「――――――」

 

 私は……そのメロディを口ずさんだ。

 

 

 

 

 軽やかで、弾むようなメロディ。

 

 友愛と親愛、信頼と激励。そんないろんな感情を織り混ぜた、不確かな詩。

 

 ――『コッコロ』の歌。

 

 歌詞なんてわからない。何度か聞いたものを真似ているだけ。きっとあちこち間違っている。

 

 だけど。

 

”親愛なる小さなあなたへ”

 

 そう心に思い描くと、間違っているはずの詩が、どんどんメロディにフィットしていく気がする。

 

「……アニーさん?」

 

 落ち込んでいたアリスちゃんが、顔を上げる。

 

 一体何事なのかと、私の顔を見上げている。

 

(大丈夫)

 

 そう顔に映し出して、笑ってみせた。

 

 何も心配することはないのだと、元気づけた。

 

 だってこの歌は『コッコロ』。

 

”親愛なる小さなあなたへ”

 

 その気持ちだけは、絶対に変わらないんだから。

 

 

 歌い終わると、アリスちゃんがぱちぱちと手を叩いた。

 

「でっかい凄いです、アニーさん」

「そ、そんなことないよ」

 

 そう素直に褒められると気恥ずかしい。耳コピーで、わからないところはハミングでごまかすような、そんな拙い『コッコロ』だったのだけれど。

 

「そんなことはないです。もちろんアテナ先輩と比べれば段違いですけど、それでも……なんだか、その、元気が出て来ました」

 

 俯いてぼそぼそっと言うアリスちゃん。

 

 正直、凄く嬉しい。『コッコロ』を歌って元気になったなら、それは最高の褒め言葉だ。胸の奥がじーんと熱くなる。

 

「ところで……ここはどこなんでしょうか」

 

 周囲を見回すアリスちゃんの言葉が、私の浮ついた心に冷や水を浴びせた。

 

 気が付くと、舟はどんどん水路の奥へと流されていた。

 

 ここは、どこだろう。知らない水路の奥。

 

 辺りはすっかり闇が立ち込め、街頭がぽっぽっと光を投げかけていた。

 

「暗くなっちゃったね」

 

 そう呟きながら耳を澄ましても、あの不吉な猫の声は聞こえない。

 

 ……何だったんだろう、あの声は。どこかで聞いたような、酷く心を不安にさせる声だったけれど。

 

「とりあえず、水の流れに沿って行けば、大運河には出るよね……」

 

 そう呟いて、櫂を繰り始めた、その時だった。

 

「まぁ!」

 

 どこか脅えるように鋭く鳴いて、まあ社長がアリスちゃんに飛びついた時、私はそれに気づいた。

 

 水路の脇、細い小道が奥へと続いているそんな角に、一匹の黒猫が座っている事に。

 

 じっと、こちらの方を見つめる、黒い猫。

 

 闇色の毛皮が艶やかにきらめき、形よく丸い双眸は、感情を伺わせない光で、私達を見つめている。

 

 凄く奇麗な毛並みなのに、どこかそら恐ろしさを感じさせるのは何故なのだろう。

 

「……あなたは」

 

 そして、私はその猫に見覚えがあった。

 

 最近では、グランマの家の庭先で。

 

 そして古くは、このネオ・ヴェネツィアのあちこちで、私はこの猫に出会っていた。

 

 グランマの庭先では、普通の猫だと思った。

 

 だけど今は、纏う気配が違う。これは普通の猫じゃない。火星猫だからという訳でもない。

 

 どうして忘れていたんだろう。

 

 この猫は……この猫こそは……!

 

「え、この音……?」

 

 その時、アリスちゃんの呟きが、私の思考を寸断した。

 

 舟から立ち上がり、黒猫を……いや、もっとその先、小道の闇の更に奥を見つめている。

 

 何かを聞くように、耳を澄ませて。

 

 私には聞こえない何かを、聞き取ろうとして。

 

「アリスちゃん、何を……?」

「聞こえないんですか、『コッコロ』のオルガンです!」

 

 そう言うアリスちゃんなのだけど、実際私にはまったく聞こえていない。

 

 また岸辺に目を向ける。そこにいたはずのあの黒猫は、僅かな間に忽然と姿を消していた。

 

「行きます、アニーさん!」

 

 船縁を蹴って、アリスちゃんが飛び出した。恐らく、私には聞こえない音を頼りに駆けだしていったのだろう。

 

 明らかな異常事態。私には聞こえないのに、アリスちゃんには聞こえている。しかも、あの黒猫。誘う声。

 

 間違いない。

 

 これは、《サイレンの悪魔》の呼び声――!!

 

「アリスちゃん、待って!!」

 

 舟をもやいに結ばなくては。ちらりとそんな思考が脳裏を過ぎったのだけれど。

 

 アリスちゃんを連れ戻すのが、絶対に先。

 

 迷っている暇はない。だから私も船縁を蹴って、小道の奥へと駆けだしたんだ。

 

 

 

 

 小道の奥は、古い広場になっていた。

 

 外に通じる道があるのだろうか。手入れも十分でないようで、方々で石畳の隙間から、雑草が背を伸ばしている。

 

 広場を照らす光は、中天から照らすルナツーだけ。

 

 第二の月が照らす淡い光の中に、合計三つの影が見えた。

 

 一つは、もちろんアリスちゃん。

 

 そしてもう二つ。それは広場の真ん中、かつて彫像が建っていたのだろう、そんな台座の上と、そのすぐ側。

 

 そこに、大きな鞄を片手にした、初老くらいの男性の姿と。

 

 台座の上に、喪服の上に毛皮のコートを纏った、女性の姿が見えた。

 

「《サイレンの悪魔》……!!」

 

 思わず言葉の端が震える。かつて、私を惑わせ、何処かに連れ去ろうとした魔物。私の心を読み、惑わせ、歪ませた張本人。

 

 それが今、アリスちゃんの前にいる。

 

 アリスちゃんを連れ去ろうというのだろうか。

 

 私と同じように、何処かに連れて行こうというのだろうか。

 

 許せない。それだけは絶対に認められない。

 

 だから、私は駆けだした。

 

(アリスちゃんを連れて、逃げる!)

 

 そう思って、立ち尽くすアリスちゃんの手を握って、引っ張って逃げようとしたのだけれど。

 

 その時、どこからか声がした。

 

”まあ、待ちなよ。折角だから少し話をしよう”

 

 弾かれるように、私は視線をその『声』の主に向けた。

 

 それは、男性の声だった。

 

 子供のようにも聞こえた。

 

 初老の男性のようにも聞こえた。

 

 そして、その『声』の主と思われたのは……。

 

 《サイレンの悪魔》の側に腰掛ける、大きな鞄の男性……ではなく。

 

 その開かれた大きな鞄の側、男性の手から吊された人形。

 

 長靴を履いた猫の人形から、聞こえていた。

 

”よくここまで辿り着いたね、アニエス・デュマ”

 

 男性の手が動き、優雅に礼をしてみせた猫人形が、そう語りかけてきた。

 

 

 どうやって喋っているのかはよくわからないのだけれど、あの人形が喋っているのだと、どういうわけか私には確信できた。

 

 そして……どういうわけか、その猫人形さんに、敵意がないということも、わかってしまったんだ。

 

 だから、私も問いを返した。

 

「……あなたは、誰ですか? 《サイレンの悪魔》の仲間?」

”仲間、かな。よくわからない。何しろ僕は、操り人形だから”

 

 男性の手の下で、人形さんが踊る。でも、そうは言うのだけど……男性が人形さんを操っているのか、それとも人形さんの方が男性を操っているのか、見た限りではどちらなのか判然としない。普通に考えれば、人形が人を操るなんてことはあり得ないのだけれど……。

 

 何しろ、この人形さんは《サイレンの悪魔》と一緒にいるのだし。

 

 操られているというには、余りにも生き生きと動きすぎている。

 

「どうして、私達を誘い出したんですか? また何処かに連れて行く気ですか?」

 

 問いに険が混じるのはしょうがない。今目の前にいる猫人形さんに敵意がないのはわかるのだけれど、その側にいて、じっと立ち尽くしたままの《サイレンの悪魔》の存在が、私達を狙っているようで、不安で仕方がない。

 

”うん。……歌がね。歌って欲しいと願っていたから”

 

 私の問いかけに、猫人形さんは、そうよくわからない言葉で応えた。

 

”君たちが捜した。歌が歌われたがっていた。だから、僕が取り持とうと思ったんだ”

 

 よくわからない。何を言っているのだろう。

 

「あの、仰っていることがわからないんですけれど」

”君たちが歌を捜しているように、歌もまた君たちを捜していたということさ”

 

 そう言って、猫人形さんはくるりと一回転して見せた。

 

「歌が……私たちを?」

”そう。受け継ぐものがいなければ、歌は消えてしまう。歌に乗せられた想いも。それは、歌自身にとっても悲しいことだからね”

 

 そうなのだろうか。そうかもしれない。歌は誰かに聞いてもらうものだと、アテナさんも言っていた。だとしたら、誰からも忘れられ、誰にも歌われないとしたら、それはとても歌にとって寂しく、悲しいことだろうと思う。

 

”だから、僕が仲立ちをしようと思う。だから、君達には約束をしてほしい”

「約束……?」

”そう。簡単なことだよ。君達があの歌を引き継いで、未来に伝えてくれればいい。あの歌の、一番正しい歌い方と、そこに込められた想いを”

 

 猫人形さんはそう言って、くるりと回って見せた。

 

「でも、そう言われても……どうやって引き継いだらいいのか」

”大丈夫、聞いてくれるだけでいい。大丈夫、聞けば、どういうことなのかはすぐにわかるよ”

 

 自信たっぷりに胸を張るような仕草を見せる、猫人形さん。そう言われては、私も頷くしかない。隣を見れば、アリスちゃん同じようにこくりと頷いて見せている。

 

 ……それに、何故だろう。その時の私には、猫人形さんの頼みにノーを言うなんて、最初から思いつきもしなかった。

 

 それは、何故なのかと言えば……きっと。

 

 彼には、恩を返さないといけない。そんな想いが、心のどこかから沸き上がってきたから、なのだと思う。

 

”じゃあ、聞いておくれ。これが……一番古い『コッコロ』の歌だよ”

 

 そう言って、猫人形さんが上に手を差し上げると。

 

 紳士の腕が、鞄のハンドルに手を伸ばして、くるくると回す。

 

 すると、その腕のリズムに合わせるように、鞄が前奏を奏で始めた。

 

 なるほど、あの鞄は自動オルガンなんだろう。

 

 そして、あの時の岸辺で奏でられていたのは、この鞄のオルガンから紡がれたものだったのだろう。

 

 だって、自動オルガンが奏でるその音は、あのビデオで聞いた旋律、まるでそのものだったのだから。

 

 そして、前奏が終わった時。

 

 あの、《サイレンの悪魔》が。

 

 透き通るように涼やかな声で、『コッコロ』のメロディを紡ぎ始めたんだ。

 

 

 それは、アテナさんが歌うものと、少し違うようだった。

 

 いくつかのイントネーション、いくつかの単語が、アテナさんが歌うものと微妙に違っているように思える。

 

 弾むようなメロディ。転がるようなテンポ。それは、アテナさんの『コッコロ』と何もかもが同じように思えた。

 

 けれど。

 

 同時に私は思った。

 

 これは違う、と。

 

 歌詞は正しいかも知れない。

 

 旋律も正しいかも知れない。

 

 だけど……これは違う。

 

 『コッコロ』を『コッコロ』たらしめる、一番大切なものが欠けている。

 

 その思いは、歌が紡がれれば紡がれるほど、確かなものになっていった。

 

 そして、伸びやかに、《サイレンの魔女》の歌が、溶けて消える。

 

 きっとそれは、素晴らしい腕前だったろう。

 

 それは、多分《天上の謳声》であるアテナさんと比べても遜色無い。

 

 だけど。

 

”……どうだい?”

 

 そう、猫人形さんが問いかけるのに、私はある種の確信を持って……首を振った。

 

 そして、私の確信が正しかった事を証明するように……。

 

 猫人形さんは、おどけるようにくるりと回って見せたんだ。

 

 ――急に、周囲の闇が深くなった気がした。

 

 いや、気のせいじゃない。ルナツーの光が遠くなっている。建物の背が伸びたように、光が遠く、闇がどんどん深く、濃くなってゆく。

 

 幻覚だろうか。目の前の猫人形さんや、《サイレンの悪魔》が見せているのだろうか。

 

 そして、猫人形さんは、くるりと振り向くと、男性が開いた鞄の中に飛び込んでしまう。

 

 まるで、もう話は終わりだ、とでも言わんばかりに。

 

 いや、きっとそうなんだろう。彼らが伝えたいことは、きっともう伝え終わってしまったんだ。

 

 だから、彼らは帰ろうとしている。本来居るべき場所に。

 

「ま、待って、まだ聞きたいことが」

”もっと詳しいことを知りたければ、図書館の稀書棚から、『ひまわり』という本を探すといいよ”

 

 鞄の中から手を振る猫人形さん。その手を覆い隠すように、鞄の口が閉められる。

 

 そして、男性は私達の方に頭をぺこりと下げると、《サイレンの悪魔》と一緒にくるりと振り向き、闇の中に溶けるように遠ざかっていった。

 

 それを、私たちは見送ることしかできなかった。

 

 それは、身体が思うように動かなかったのも一因ではあったけれど、それ以上に。

 

 ――これ以上追いかけたら、多分還ってこられなくなる。

 

 そんな予感がしていたから、私達は追いかけなかったんだと思う。

 

 そのかわり……私は、一つ問いを投げかけた。

 

「……ねえ、《サイレンの悪魔》さん?」

 

 闇の中に溶け消える寸前、《サイレンの悪魔》は驚いたようにこちらを振り返った。

 

 その表情は、暗いヴェールに包まれていてよくわからなかったけれど。

 

「あなたは、どうして私達に関わるんですか?」

 

 そう、私は問いかけた。

 

 どうして、私達を連れ去ろうとするのか。

 

 どうして、それに失敗していながら、また姿を表したのか。

 

 どうして、私達を助けてくれるのか……。

 

 《サイレンの悪魔》は、結局何も答えず、闇の中にすっと姿を消した。

 

 その様を見送って、私はふと気が付いた。

 

 それは、《サイレンの悪魔》の背中が、不思議なくらい小さく感じられたからかも知れない。

 

 もしかしたら、彼女は。

 

「――寂しいだけ、なのかも」

 

 そう、呟いた私の声が。

 

 その不思議な体験の、私の最後の記憶だった。

 

 

 

 

「……ニーさん、アニーさん」

 

 ゆさゆさと世界が揺れて、私の意識はまどろみの中から浮かび上がった。

 

「おかあさん、もうちょっと、あと五分……」

「何を寝ぼけてるんですかアニーさん、風邪ひきますよ!」

 

 ぐにっと頬を引っ張られる痛みで私の意識は覚醒し、驚き見開いた目の前には、ぶんむくれたアリスちゃんの顔があった。

 

「……あれ、アリスちゃん? ……ふ、ふぇっ」

 

 言葉を出そうとして、一緒にくしゃみが飛び出しそうになるのを無理やり飲み干した。寒い。身体が冷えきっている。

 

 周囲を見回して、自分が舟の上に横たわっている事に気づいて、慌てて跳び起きた。一体いつの間に眠っていたんだろう。

 

「やっと起きました。でっかい寝坊助ですね」

 

 アリスちゃんが呆れのため息を吐き出す。いやはや、面目ない。我ながら、どうしてこんな所で寝入っていたんだろう。

 

 そう思って周囲を見回す。空はすっかり闇に閉ざされていて、ルナツーの周囲にきらきらと星が瞬いている。その月明かりと少しばかりの街灯に照らし出されるその建物は……。

 

「……家?」

「……ですね」

 

 私の呟きにアリスちゃんが同意する。そう、目の前に見える古めかしい建物は、紛れも無くオレンジぷらねっとの社屋。複雑怪奇な水路の果てにある、私達の家だった。

 

「……アリスちゃんが漕いできたの?」

「……アニーさんではないんですか?」

 

 そのやりとりで、お互いが漕いできたのではないのがわかる。つまり、私達は眠ったまま誰かにここまで運び込まれたということで。

 

「ひえぇ……」

「いろんな意味で危ない所でした」

 

 こんな無防備で、何か事件に巻き込まれたらどうすればいいのか。まったくとんでもない。私達はお互い顔を見合わせ、一斉に安堵の息を吐き出した。

 

 

 ともあれ、私達は自分たちの幸運に感謝しつつ、舟を片付け、部屋に戻ることにしたのだけれど。

 

「……そうだ、『ひまわり』!」

 

 アリスちゃんに舟を任せ、二人分の櫂をスタンドに戻した所で、私は記憶を取り戻した。

 

 あの猫人形さんに聞かされた、重大なヒントを。

 

”もっと詳しいことを知りたければ、図書館の稀書棚から、『ひまわり』という本を探すといいよ”

 

「……でっかい具体的ですね。夢にしては」

 

 その事をアリスちゃんに話すと、彼女もまたいつものでっかい真剣な顔を見せた。

 

「今からなら……まだ図書館は開いています。急げば間に合うかも知れません」

「うん……どうする?」

「でっかい話してる時間が惜しいです。行きましょう、アニーさん!」

「……う、うわわっ」

 

 ぐいっと手を引かれて、私はアリスちゃんに合わせて駆け出した。

 

 そう、アリスちゃんが必死になるのもわかる。

 

 だって、これはきっと、『コッコロ』に繋がる最後のヒント。これを逃したら、もう二度とあの歌に手が届かないかも知れないのだから。

 

 だから、私達は走った。夜のネオ・ヴェネツィアの町を。

 

 

 ――そして、私達はその本を手に入れた。

 

 

 

 

「それで、結論としてどうするの?」

 

 三日目の早朝。いつもの明け方、いつもの待ち合わせ場所に揃った私たち。藍華さんが、早速そう問いかけてきた。

 

 そう、今日が分水嶺。『コッコロ』を諦めるか、それとも初志を貫徹するか。その瀬戸際なんだから、それも当然だ。

 

 灯里さんも、どこか心配そうにこちらを見ている。諦めるのが嫌いなアリスちゃんと私であるから、『コッコロ』を諦めるとしたらそれは酷く落ち込むことに繋がる。昨夜別れる前、すっかり憔悴しきった私達の姿を目にしていた事でもあるし、心配されるのも無理はない。

 

 だけど、私達は今、自信満々だった。

 

 アリスちゃんがこちらを見る。私は目配せをして、アリスちゃんに言うよう促す。こういうのは、やはり彼女が言う方が似合う気がするんだ。

 

「はい、私達は、このまま『コッコロ』を練習します」

 

 きっぱりとしたアリスちゃんの答え。それは予想外だったのか、藍華さんと灯里さんが目を丸くする。

 

「ええっ!?」

「はへっ? でも歌詞は見つからなかったんでしょう?」

「はい、でっかい見つかりませんでした」

「じゃあ……」

「でも、わかったんです。あの歌の正体が!」

 

 興奮気味に、私は一冊の本を取り出して見せた。

 

 それは、随分と古い本だった。保存処理が施されていなければ、とっくに風化して読めなくなっていただろう。本来なら持ちだし厳禁、図書館の倉庫の奥で眠っているべき書物だったし……実際あと数日で、倉庫の奥、保管庫行きの予定だったのだという。

 

 それは、『ひまわり』という題名の本で……そこには、『コッコロ』や、アテナさんが歌う様々な舟謳についての謎の答えが記されていたんだ。

 

 

 その本は、とても古い時代、一人の歌姫を懐かしんで書かれたものだった。

 

 その人は、歴史に名を残す程有名ではなかった。自然が大好きで、自然や風景、それに包まれる喜びや優しさを歌に乗せる、そんな普通の歌い手だった。

 

 その人……彼女が特別なのは、今私達ウンディーネが歌っている舟謳……その中でも有名な幾つかを、最初に歌っていたのが彼女だった、ということ。

 

 『コッコロ』『バルカローレ』『ルーミス・エテルネ』。そして……私達を象徴する『ウンディーネ』ですら、最初の歌い手は彼女だった。

 

 彼女は、それらの歌のため、言葉を作った。歌のための言葉。歌うためだけの言葉。意味が通じなくても、歌い手の思いを届けるための、不思議な言葉を。

 

 そして、彼女はその言葉の歌詞を、誰にも明かさなかった。彼女はそんな造語の歌の歌詞を誰にも見せずにいた。

 

 誰かに『どんな歌詞が正しいのか』と聞かれた時、彼女はこう答えたのだという。

 

「――聞いた人が、そうだと思ったものが、この歌の歌詞です」と。

 

 後に、彼女は若くして病に倒れ、多くの人に惜しまれながらこの世を去った。

 

 もちろん、彼女は結局自分のいくつかの歌の歌詞を明らかにしないままだったので……つまり、それらの歌の歌詞は、永遠に失われたままになってしまったんだ。

 

 だけど、彼女の死後、彼女の歌が失われる事を悼んだ人達が、彼女の歌の記録を集めて、音楽データとして歌集をまとめ上げた。

 

 それを引き継いだのが、この『ひまわり』という名の本。それは彼女の死を悼んで作られた音楽集の名前でもあったのだという。

 

 

「じゃあ、『コッコロ』の歌詞って……」

「はい。結局耳コピーするしかないんです」

「ほぼ唯一の歌い手のアテナ先輩が声を出せない以上、昨日のあのビデオが頼りです」

 

 私が頷く。傍目にも力強さを感じられるものになったと思う。前途は危ういけれど、それでも前に進むことに確かな標が手に入ったのだから。

 

「いいの? 耳コピーだけで、曲の完成度は……」

「はい、でっかい大丈夫。私達は、素敵な『コッコロ』と、正しいのに素敵じゃない『コッコロ』の両方を聞き比べてきましたから」

 

 自信満々で、アリスちゃんも頷く。そう。私達は聞き比べてきた。二つの『コッコロ』を。そして、あの歌を歌うときに必要なものが何であるのか、はっきりと掴んできたと思う。

 

 そんな私達の様子を見ても、まだどこか不安そうな藍華さんが唸った。

 

「でもねえ……」

「いいじゃない、藍華ちゃん」

「灯里?」

「歌は想いを引き継ぐもの。紡ぐ言葉が不確かなものだったとしても、紡ぐ想いが確かであれば、それはきっと心に届く……そういうことなんだよね?」

 

 そう言って灯里さんは、アリシアさんを彷彿とさせる笑みを見せてくれた。包み込むような、凪の海そのもののように、大きくて優しい笑みを。

 

 そんな笑顔の前で、私とアリスちゃんは顔を見合わせて、

 

「はいっ!」

「でっかい、大丈夫です」

 

 そう、呼吸を合わせて是を返した。

 

「……やれやれ、まったくもう。それじゃ、今日は『コッコロ』を集中的に練習するわよ。折角だから姫屋の施設を使いましょう」

「え、良いんですか? 藍華さん」

「一日中歌の練習をするのに、こんな肌寒い外でやったら一発で喉が潰れるわよ。明日が本番なのに、喉を大事にしないでどうするの。私の練習も兼ねるんだから、姫屋の私が姫屋の施設を使って何も悪いことはないわよ」

 

 ぷいっと顔を背ける藍華さん。そんな様子に、灯里さん、アリスちゃん、私の三人は、揃ってぷっと吹き出した。

 

「それじゃ、れっつらゴー!」

「おー!」

「でっかいゴーです」

「ところで灯里、恥ずかしい台詞禁止!」

「えぇ~~~」

 

 

 

 

 そして私達は、姫屋のウンディーネが発声練習などに使っているという建物で、猛練習を開始した。

 

 幸い今日は他のウンディーネは使う予定がなかったようで、時折姫屋のシングルやプリマが顔を出すのを除いては、ほぼ貸し切り状態で練習をすることができた。

 

 ちなみに、この建物を借りる時、許可を取るために藍華さんが晃さんに頼み込んでいたのだけれど。

 

「晃さん、発声練習場使いたいんですけど」

「何だ薮から棒に……ああ、そういえば聞いたぞ。皆でアテナの舟謳を練習してるんだってな?」

「あ、はい。そうですけど」

「……そうか。よし、難しい話だが大いに頑張れ。後で私にも練習の成果を聞かせるように」

「……えー」

 

 なんてやりとりがあったとか。つくづく、噂の広まるのは早い。特に女の子所帯のウンディーネ業界では、噂のネットワークは光より早いと言われる。

 

 そうして考えると、競合他店の姫屋に噂が届くということは、我らがオレンジぷらねっとはそれ以上に情報が広まってるんじゃないだろうか。何しろ私はともかくアリスちゃんは有名人だ。注目度はほかのウンディーネとは比較にならない。

 

 すると、もう既にアテナさんには、私達が『コッコロ』を練習しているという話が伝わっているのが自然だと思う。だとしたら、私達の秘密の大作戦は……。

 

「すわっ、アニー! ぼっとするの禁止!」

「わひっ……ご、ごめんなさい!」

「謝る前に次行くわよ! 今日中に形にしないといけないんだから!」

「でっかい頑張りましょう、アニーさん! 灯里先輩もしゃんとしましょう!」

「ひぇ~~~~っ」

「はひぃ~~~~っ」

 

 ……とまあ、こんなあんばいで。

 

 朝からの練習は、太陽が中天に上り、地平に沈むまで続いた。

 

 

 そして、三日目の夜が明けて。

 

 準備不足も、覚悟不足も一顧だにしない感じで。

 

 なんの情け容赦もなく、トリアンゴーレ実習当日の朝がやってきた。

 


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