ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Silent Seiren 06 不思議なお客様

 ところで私はひとつ、気になることがあった。

 

 それは、トリアンゴーレ実習のシステムについての、一つの大きな疑問だ。

 

 トリアンゴーレは二槽の舟を駆り出し、多くのお客を一度に捌く団体向けのサービス。プリマの舟とシングルの舟を一対で使用するのが特徴だ。

 

 一応制度上は、プリマがシングルの指導やフォローをするということで、これだけでも成立しなくもない。

 

 でも実際は、プリマは自分の舟が手一杯で、シングルの指導にまでは手が回らないのが実情……らしい。

 

 じゃあ、シングルを指導するのは誰なのか、といえば……そこには専門の指導員が割り当てられる。

 

 指導員には体力的、年齢的に現役を退いたウンディーネが就くことが多く、オレンジぷらねっとでは座学や技能講習を行う役割として、専任指導員が数名常勤している……のだけど。

 

 私の疑問は、その指導員に、誰が来るのかということだった。

 

 だった……んだけど。

 

 トリアンゴーレ実習の朝、桟橋に集まった私、アリスちゃん、アテナ先輩は、揃って複雑な表情を浮かべていた。

 

 呆気に取られているのが、アリスちゃん。私も多分似たようなものだろう。一応事情を知っていたらしいアテナ先輩は、困ったようなおかしいような、微妙な苦笑いを浮かべている。

 

 そして、それらの困惑の視線の先には。

 

「さて、今日の実習には、指導員として私が乗船します」

 

 そう、オレンジぷらねっとの指導員用制服に身を包んで、きりっと眼鏡を直しながら。

 

 《鋼鉄の魔女》アレサ・カニンガム管理部長が、そこに立っていたんだ。

 

 

 

 

「では、アニエス・デュマはこちらに。アテナ・グローリィはそちら、アリス・キャロルはアテナの補佐に回りなさい。良いですね?」

 

 きびきびと指示を下すアレサ管理部長。さすがは事実上オレンジぷらねっとのウンディーネを牛耳る鋼の女。指示の素早さもさることながら、有無を言わせぬ説得力というか、威圧感は別格だ。

 

 ……いや、問題はそういうところではなくて。

 

 アレサ管理部長は確かに飛び抜けて優秀なウンディーネだったと聞いている。指導員としての経験も豊富で、そもそもトリアンゴーレの発案者。彼女をおいて、トリアンゴーレの指導員に相応しい人はいないだろう。……だろうけど。

 

「ア、アテナさん、どういうことなんですか、これ」

 

 小声で、白い舟に足をかけたアテナさんに耳打ちする。一体何がどうして、アレサ管理部長が出張って来ることになったのか。知っていそうなのは本人を除けばアテナさんくらいだ。

 

「…………」

 

 ……なんだけど、アテナさんは困ったように笑うだけ。ああそうか、まだアテナさんの声は戻っていないんだ。

 

「アテナ先輩、喉の様子はまだ……?」

 

 アリスちゃんがそう尋ねるけど、アテナさんは目を閉じてふるふると首を振るばかり。《天上の謳声》の復活までは、まだしばらく時間が必要なようだ。

 

「アリス・キャロル、アニエス・デュマ。二人とも無駄話はやめなさい。元々アテナが担うべき仕事をこんな形に変えてしまったのだから、お客様に最大限誠意を尽くすのが当然。この上遅刻でもしたら、いよいよ申し訳が立たなくなるわよ」

 

 私達を一喝しつつ、状況の説明もこなすアレサ管理部長。なるほど、予定をこちらの都合で変更してしまったお侘びの意味も込めて、現在のオレンジぷらねっとの可能な限り最高の面々でおもてなしする、ということなのか。

 

 ……そう考えると、要であるシングルが私で、プリマのアテナさんが喋れないというのは、不安要素としてこの上ない。

 

「でっかい責任重大です、アニーさん。精一杯頑張りましょう」

 

 よしっと拳を握って気合を入れるアリスちゃん。しかし、その気合が空元気であることは、声の端々が震えている事からも明らかだ。

 

 ――アリスちゃんは何だかんだ言ってもペア。後輩とは言え、シングルである私が頑張らなきゃ。

 

 そう考えると、自然と肩に力が入ってしまう。――よくないとわかってはいるのだけれど、どうしても緊張するのは避けられない。

 

 そんな、あまりよろしくない気負い方をする私達を、アレサさんとアテナさんが、穏やかな目で見つめていた。

 

 

 

 

 

 お客様は、時間どおりにやってきた。

 

「オレンジぷらねっとのウンディーネさんですね。今日は宜しくお願いしますよ」

 

 そう言う紳士は、アルバート氏と名乗った。今回のツアーの代表で、幹事さんらしい。今回集まった面々は、同好の志とその親戚筋で集まったものなのだという。

 

「うわー、火星猫の子供だ!」

 

 まぁ社長を見て快哉を上げているのが、アルバート氏の息子のアーサー君。ジュニアスクールの上級生くらいの子で、耳の形がアルバート氏にそっくりだ。そして、そのアーサー君の後ろで、アルバート氏の奥さんであるアイリーンさんが、今にも駆け出しそうな息子の肩を掴んで押し止どめている。

 

「またお世話になるのを楽しみにしていたの。宜しくお願いするわね、可愛いウンディーネさん」

 

 奥さんの隣でそう言ってににこにこと微笑んでいるのは、アマランタさんという老婦人。こちらはアルバート氏の一家ではなく、同好の志で集まっている人らしい。もう一人、ビデオカメラを片手にした恰幅のいい男性アゼルさんも、同じ経緯でご一緒しているのだという。

 

 ……以上の五名が、今回私達がおもてなしするお客様というわけだ。

 

 トリアンゴーレで捌くには、ちょっと少なめのお客様かな、と思う。プリマ舟には八人までは軽く乗れるのだし、プリマ舟に私達とお客様が乗り合って、まだ余裕がある……と思うのだけど。シングルが櫂を握る舟に、限界までお客様を乗せると危険だから、とかそんなところだろうか。

 

 しかし、アルバートさん一家はともかく、アマランタさんとアゼルさんが加わると、ちょっと不思議な顔触れになる。一体どういう経緯でこの面々が集まったのだろう。

 

 それに……何だろう。アルバートさんの顔を見ていると、どうも引っ掛かる。どこかで会ったことがあるような、ないような……?

 

「では、アルバートさんと奥様、それから息子さんはあちらの白い舟へ、アマランタさんとアゼルさんは、そちらの黒い舟にご乗船ください」

 

 そんなことを考えた瞬間、私の顔を眺めていたアレサ管理部長が、さっとメンバーを二つに分けてしまった。

 

 まあ、私の考えていた編成と大体同じだったから特に不満はないのだけど……もうちょっとウンディーネの自主性を尊ぶべきじゃないのかなあ?

 

「それじゃ、良いかしら?」

「あ……は、はい。お待たせいたしました。お客様、お手をどうぞ」

 

 穏やかに微笑むアマランタさんに、私は慌てて手を差し伸べる。見苦しくないように下半身で舟を安定させ、片手は桟橋の柱へ。そして手はお客様の手を柔らかく、でも決して手放さないようぎゅっと握る。藍華さんと一緒に、晃さんにみっちり仕込まれた心得のお陰で、自然に身体が動いてくれた……と思うのだけど。

 

「…………」

 

 背後から突き刺さる視線。出来る限り気配を抑えてはいるようだけど、それでも滲み出る圧倒的な威圧感は、同乗するアレサ管理部長のものだ。

 

 ……うう、想像以上にやりにくい。冷や汗がじんわりと滲んでくる。

 

「で……ではお客様、お手をどうぞ」

 

 私の方がアゼル氏の手を取っている向こうで、アリスちゃんの方の舟も乗船を始めていた。イントネーションからして思わず『でっかい』の『で』がこぼれ出てしまったんだろう。とっさに言い直して、少し緊張気味の笑顔でアルバート氏の家族を船上に誘う。

 

「あれ、ウンディーネのお姉ちゃん、ペアなのにプリマの舟漕ぐの?」

 

 そして最後に、そっと立ち上がったアテナさんに手を取られ、クッション敷きの椅子に腰掛けたアーサー君が、そうアリスちゃんに問いかけた。

 

「今日は特別に、私が御世話することになりました。どうぞ宜しくお願いします。……でも、お詳しいんですね?」

「あったり前だよ、だってうちは……もが」

「ははは、息子が失礼しました」

 

 自慢げにするアーサー君の口を押さえて、アルバート氏が苦笑いする。……何か、アーサー君がまずいことを言いかけたんだろうか。

 

「アニエス・デュマ、それでは行きましょうか」

 

 そんな戸惑いを遮るように、アレサ管理部長が宣言した。そうだ。お客様の時間を無駄にする訳にはいかない。

 

 さあ、覚悟を決めよう。ここからが勝負だ。アリスちゃんに目配せをするのは、「お互い頑張ろう」の暗黙のサイン。更にアリスちゃんのゴンドラで、まぁ社長を抱いて座るアテナさんが、無言のままに「頑張って」と微笑んでくれた。

 

 うん、元気が出てきた。私なら、私達なら絶対やれる。

 

 そんな意気を込めて、私は櫂を掲げた。

 

「それでは皆様、ゴンドラ発進いたします」

「発進いたします」

 

 私の宣言に続いて、アリスちゃんが櫂を水に差し込んだ。

 

 ゆっくりと、白い舟が水面を切り裂いて行く。

 

 それに続いて、私もゆっくりと舟を進めた。

 

 

 白と黒のゴンドラが、大運河を滑り出す。

 

 私とアリスちゃんのトリアンゴーレが、今、始まったんだ。

 

 

 

 

 初めてのトリアンゴーレは、アリス・キャロルが想像していた以上に何事もなく、穏やかに進行していった。

 

 最初はぎこちなかった二船の軌跡は、数分で普段の呼吸を取り戻した。主にアリスの手によるプリマ舟が前を、アニエスの手によるシングル舟が後ろを漕ぐ形だ。

 

 お客の希望でやや難易度の高いコースを進むこともあったが、それも事前の特訓が功を奏し、さほど詰まる事もなくクリアすることができた……アニエスが一度、岸に舟の横腹を掠めるという顛末はあったものの。

 

「どっちがシングルかわかんないね」

 

 とは、アーサー少年の無邪気な感想である。「いえ、そんな、私なんてまだまだ……」と言い繕ってはみたものの、恐らく背後のアニエスはしょんぼり顔を見せていたことだろう、と思う。

 

 ……実際は、アニエスは自分への恥ずかしさと、優秀な年下の先輩に対する誇らしさが入り交じった笑顔を浮かべていたのだが、前方を行くプリマ舟の漕ぎ手であるアリスに、それを知る由はない。ただ、アテナがどこか嬉しげに微笑んでいるのが見えたばかりだ。

 

 しかし。アリスは複雑な思考を覗かせる。一体どうして、自分が始終漕ぎ続けているのだろうか。もちろんアリスの性格上練習には一切手を抜いてはいなかったが、本当ならばプリマ舟はアテナが漕ぎ、アリスは観光案内や漕ぎのフォローを担当するものだと思っていたのだが。

 

 アレサが極めて自然にアリスに櫂を押し付けた上、アテナも当たり前のように助手席に腰を降ろしてしまったのだから仕方がない。

 

 もちろん、任されたからには全力を尽くすのがアリスの主義だ。迷うのも悩むのも、お客様を笑顔で送り出してからでいい。

 

 ただ、もう一つ、アリスには気になることがあった。

 

 それは、今アニエスの船上でにこにこと微笑んでいる、アマランタという女性の事だ。

 

 アリスは、彼女を知っていた。それはつい先日、ARIAカンパニーに現れたお客だった。それも、わざわざシングルである灯里を指名して、だ。

 

 見習いウンディーネの間には、いくつかの伝説がある。例えば『冬の先触れであるヴォガ・ロンガは、その成績がプリマ昇格試験の一環として評価される』とか『昇格試験を《水の三大妖精》のようなエースが担当するときは、事実上のクビ勧告である』などという話だ。

 

 その伝説の一つに、『プリマ昇格試験の直前、抜き打ち試験官が、シングルを指名して査定を行う』というものがある。突如入った灯里への指名に、藍華とアリスはまさしくそのお客が抜き打ち試験官なのではないかと騒いだことがあるのだ。

 

 結局アリス達の心配を余所に、灯里は自分なりにその抜き打ち試験官(と思われる人物)をもてなした。それをこっそりつけ回していたアリス達は、あちこち飛び回る意味不明な灯里の舟の挙動に首を傾げるだけで、そのお客が抜き打ち試験官であるか否かを見極めることはできなかったのだが。

 

 その時の抜き打ち試験官(と思われるお客)こそが、このアマランタという女性だった。あの時、灯里の舟を連れ回していた人物に間違いない(ちなみに、アニエスはその頃雑誌掲載の関係で多忙を極めており、抜き打ち試験事件についてはほとんど知らないはずである)。

 

 灯里は、アリスと藍華の追及に「楽しかったよ」と答えるだけで、肝心なところはぼかして語ろうとしなかった。そもそも灯里はかつて、同じく昇格試験絡みと噂されるヴォガ・ロンガで、夕方までたっぷり時間をかけてゴールするという大ボケをやってのけた娘である。灯里の感想はあてにならないし、未だアマランタの抜き打ち試験官疑惑は晴れていない。

 

 あの騒ぎから、せいぜい二ヶ月ほどしか過ぎていない。なのに再び、今度はアニエスの舟に彼女が乗り込んだ。それはつまり、仮にアマランタが抜き打ち試験官であるとすれば、彼女はアニエスの技量の査定のために舟に乗り込んでいるのではないのか。

 

 だとしたら大変だ。いきなりアニエスがプリマ昇格試験にリーチをかけているというのも驚きだが、何よりこの査定に失敗すれば、アニエスがウンディーネ失格の烙印を押されてしまう事すら考えられる。

 

 もちろん、冷静に考えれば思い過ごしであるとわかりそうなことだったが、元々アリスは思考が暴走しがちな娘である。疑念は瞬く間に確信となり、このトリアンゴーレは事実上、アニエスのプリマ昇格予備試験である、という思い込みへと発展した。

 

 ――それなら、私がでっかいアニーさんをフォローしないと!

 

 自分のためではなく、誰かのために。そう思って櫂を動かすと、不思議と肩の力が抜けて行く気がした。

 

 

 

 

「……思い出したっ!」

 

 そして一方で、アニエスもまた、ある事実に思い至っていた。

 

 それは、アリスの舟に乗るお客の一人、アルバート氏の素性である。

 

 アニエスは、そもそも特殊な経緯でオレンジぷらねっとに入社したウンディーネである。当初。姫屋に入社しようとしてアクアにやってきたアニエスだったが、書類の手違いで姫屋に新人を受け入れる空きがない、というトラブルに見舞われた。ゴンドラ協会にて対策を講じ、その結果、アニエスは入社先としてARIAカンパニー、姫屋、オレンジぷらねっとの三社を選択するという破格の幸運を手にする事ができたのだ。

 

 その時、アニエスはゴンドラ協会に顔を出し、様々な手続きを踏んだ。それはほとんどがコンピュータ処理ではない人力で、その過程で多くの協会理事や役員と顔を合わせる事になった。

 

 その多くの協会役員の中に、アルバート氏の顔があったのだ。

 

 なるほど、アルバート氏が協会役員ならば、「日頃からオレンジぷらねっとを贔屓にしてくれている」お客に違いない。

 

 そしてそんなアルバート氏が、アリスのゴンドラに乗っている。それは重要な意味を持っている。ゴンドラ協会のお偉方が、アリスについて何か査定をしようとしているのではないのか。例えばシングル昇格の予備試験、もしくはもっと重大な何かへの布石なのではないか……。

 

 ――それなら、私がアリスちゃんをフォローしないと!

 

 自分のためではなく、大好きなアリスのために。そう思って櫂を動かすと、もうミスなんてしないというような、不思議な安心感が心に広がっていった。

 

 

 

 

(……なんともはや、ね)

 

 そして、そんな弟子二人の様子を見比べて、アテナ・グローリィは吹き出したいのを必死に堪えていた。

 

 先行するプリマ舟で、漕ぎ手の対面に据わっているがために、アテナにはアリスの様子も、アニエスの様子も手に取るように眺める事ができた。

 

 だから、その視線や挙動から、一体何を気にしているのかは大体想像がついたし、それが一体どんな顛末で自らを奮い立たせるに至ったかも、概ね理解することができたのだ。

 

 そもそも今回のトリアンゴーレは、最初から仕組まれたものだった。

 

 仕組んだのはもちろん、アレサ・カニンガム。《鋼鉄の魔女》などとウンディーネ達から恐れられる彼女だが、実はアテナの細やかな気配りの半分ほどは、アレサの緻密な計画性の薫陶を受けて培われたものなのだ。

 

 アレサにもてなされた観光客は、しばしば『まるで魔法にかけられたよう』と形容した。お客を理解し、求めていることを分析し、それを縦糸にイベントや気配りの横糸を張り巡らせていく。その魔法じみた芸術性に、彼女はしばしば本来の二つ名をさしおいて、こう呼ばれていた。《鋼鉄の魔女》と。

 

 グランドマザーが無限の包容力ならば、アレサこそは究極のサービスを売り物とした最高のウンディーネの一人だった。

 

 あくまで自然体で全てを包み込んで行くグランドマザーに比べ、その方法論ゆえに費やすエネルギーが大きかったのは否めず、アレサはグランドマザーの記録に及ばぬままに現役を引退することになった。だが、それでもその知略とすら表現できる術的なもてなしは、間違いなくウンディーネの歴史に深く深く名を刻みこんでいる。

 

 その彼女が、数年ぶりに辣腕を奮った。それが、今回のトリアンゴーレだったのだ。

 

 お客の配置と選別は、アリスやアニーの接客履歴はもちろん、杏やアトラといった友人や、灯里や藍華といった同業他社の労務状況から人間関係までをも織り込んで行われた。

 

 アニエスの舟にアマランタを、アリスの舟にアルバートを配置したのもアレサの計略だった。あの二人は、お互いを支えようと思った時にこそ、最大の能力を発揮できる。そのため、見習い達の間で『抜き打ちシングル試験官』と噂されているアマランタと、ゴンドラ協会の人事課の人間であるアルバートを配置し、このトリアンゴーレがお互いの抜き打ち試験だ、という思考誘導を施したのだ。

 

 アリスはアニエスのために。アニエスはアリスのために頑張ろうと思う。そうやって、お互いの心にかかる負担を見かけ上分散させ、二人の、特にアリスの実力を最大限発揮させようと試みた訳だ。

 

 そして、それは今、確かに有効に作用しているようだった。アリスもアニエスも、当初からは考えられないほどに自然に周囲に視線を向け、お互いの足りない能力をフォローし合っている。

 

 引退して久しいアレサが現場に顔を出したのは、今回の計画を現場でコントロールするためだったのだが、もうそんな必要もないようだった。アリスとアニエスは、アテナやアレサが手を引かなくても、立派にやっていけている……もちろん、まだまだ完璧とは言い難いが。

 

(《鋼鉄の魔女》は健在ね)

 

 誰が言い出したのかも定かではないが、本来の二つ名は忘れ去られ、気が付けばこの徒名ばかりが一人歩きしてしまった。本人はこの名を唱えられると覿面に不機嫌になるのだが、彼女の機械仕掛けじみた緻密さと、それでいて魔法のように心を和ませるその仕掛けの巧みさは、確かに鋼鉄製の魔女というに相応しい。

 

(そういえば、彼女の本当の二つ名ってどうだったかしら……)

 

 直弟子ですらこの体たらくである。

 

 ともあれ、このままならば大きな問題もなく、トリアンゴーレを終えることができそうだった。アリスの適性についても、操船はもちろん、思った以上に接客や心遣いも堂に入ったものになっている。アニエスについては……まあ、シングルとしては及第点といったところか。

 

 だが、アテナは忘れていた。

 

 このトリアンゴーレの本当の目的が何であったのかを。

 

 

 

 

 

 アマランタの希望でいくつかの秘密スポットを巡り、日が傾きかけた頃。

 

 アテナは、アニエスの舟に乗るカメラマンのアゼルが、少し前から頻繁に時計に目を配るようになった事に気が付いた。

 

 アテナも時間を伺う。まだ予約時間の終わりには早い。気ぜわしく時計を見るには、まだ時間が早いのではないだろうか。

 

 そうして、アテナは気が付いた。アルバート一家とアマランタは、明らかにアレサが仕込んで選別した客だ。ならば、最後の一人であるアゼルにも、アレサがなんらかの役割を割り当てていないはずがないではないか。

 

 そう、アテナが思い至った瞬間だった。

 

 突如、アニエスの舟の上から、電子合成の呼び出し音が鳴り響いたのだ。

 

「……っ!?」

「ああ、すみません、電話のようです」

「はい、では舟を寄せますね」

 

 アゼルは懐から携帯電話を取り出し、頭をぺこぺこと下げる。アニエスがアリスに目配せをして、舟をなるべく騒がしくない岸に寄せる。

 

 その間もアゼルは、電話越しの相手と何やら話していた。内容は想像するしかないが、時間が過ぎるにつれ、アゼルの顔が緊張の色を濃くしてゆく。

 

「……わかりました、すぐに戻ります」

 

 そうしめくくって、アゼルは電話を懐に戻した。

 

「…………どうかなさいましたか?」

 

 概ね順調に行っていた観光案内に、突如舞い降りたトラブルの気配。こちらも緊張して、アニエスが問いかける。

 

「ええ、申し訳ないのですが……ちょっと仕事でトラブルが起きたみたいで、急いで宇宙港に戻らないといけなくなってしまって」

「ええっ!?」

 

 アゼルの申し出に、アニエスの声がうわずった。アリスの顔からも表情が消える。ここから宇宙港へは、普段でも少なく見積もっても二十分は堅いし、それに……。

 

「……今の時間だと、ここから宇宙港への直行水路は水位が上がってて使えないわね」

 

 アレサが、まるで予め用意していた台詞を述べるように口を挟んだ。

 

 その瞬間、アテナは理解した。これもまた、アレサの仕込みなのだと。

 

 アリス・キャロルに求められているものがなんであったのかを考えれば。

 

 ――彼女が、ただのトリアンゴーレを成し遂げるだけで終わるはずがなかったのだ。

 


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