ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Silent Seiren 07 暗闇を拭う歌

「……このコースも駄目、今からだとこの橋で詰まっちゃう」

 

 水路に沿ってペンを走らせていた私ことアニエス・デュマなのだけど、今度こそと思った進路が赤い×印に衝突し、思わず唸り声を上げてしまった。

 

 急用ができたというお客様を宇宙港に送り届けるために、私達は地図を開いて、最短コースの選別を始めた。

 

 アレサ管理部長が言うように、今日、今の時間帯はとびきりの満潮だった。もちろんアクア・アルタには到底及ばない(らしい)けれど、これほど水位が上がると、水路のあちこちで、アーチ橋などが通行不能になる。

 

 以前の経験(晃さんに指導をもらった際、水位の上がった水路に閉じ込められた件)の反省から、水位に応じて通行が難しくなる橋にはチェックを入れてある。水性ペンで今使えないであろう水路をチェックしながら、宇宙港への最短コースを探るのだけど……。

 

「……でっかい駄目です、大運河に出るだけでも、北回りで島を大回りしないと」

 

 アリスちゃんが呻いた。アマランタさんお勧め(あれはどう考えてもお勧めされてる。何処に連れて行ってもワンランク上の素敵要素を見せられちゃシャッポを脱ぐしかない!)のスポットを巡っているうちに、随分厄介なところに入り込んでいたらしい。

 

 潮のピークはまだしばらく続くし、回り道をするしかないんだろうか。

 

「……お急ぎだっていうのに」

 

 唇を噛む。なんて間の悪い。さっきまでの浮ついた気分が霧散していくようだ。私達が緊張しているのがわかるのだろう、アーサー君も表情を曇らせているし、アテナさんも声を出せないままにおろおろしている。

 

 その時、《鋼鉄の魔女》が出陣した。

 

「仕方ないわ、アニエス・デュマ。このルートを通りなさい」

 

 水性ペンを私の手から奪って、アレサ管理部長は地図に水路を書き込んだ。

 

「…………え?」

「……そ、そんな!?」

 

 書き込まれたルートに、私は目を見開いた。アリスちゃんも戸惑いを隠せず、裏返った声を上げる。

 

 何しろ、アレサ管理部長が書き込んだルートは、一般の地図よりずっと詳しく水路が描かれたウンディーネ用の水路図でも省略されているような、細い細い水路を辿るルートだったのだから。

 

「管理部長、その水路は確か……」

「でっかい進入禁止、でしたよね?」

「私の責任の上で、特別に許可するわ。アニエス・デュマ、アリス・キャロル。私達は私達のできる限りで、役割を全うしましょう」

 

 そう言われては、私達に頷く以外は考えられなかった。

 

 

 

 

「…………こ、これを抜けるんですか!?」

 

 目の前の水路を覗き込んで、私は思わず裏返った声を上げてしまった。

 

 普段は進入禁止のその水路は、想像以上に狭く、薄暗かった。対向船との離合どころか、まっすぐ舟を進めるだけでもぎりぎり。空間の余裕は櫂一本分あるかどうかだ。

 

 これまで入ろうとも思わなかったからじっくり眺めなかったけど、これは本当に大変な水路だ。しかも地図を見るかぎり、途中に直角に水路が曲がっているところがある。ほとんどタイトロープを渡るようなコースだ。

 

 こんな水路、プリマでも青息吐息なんじゃないだろうか。

 

「でっかい、腕が鳴ります」

 

 操船ではプリマ級の腕前であるアリスちゃんは、冒険心を刺激されたようだけど、アリスちゃん、今私達はお客様を乗せてるんだから、あまり無茶はしないようにね。いや、もちろんわかってるとは思うんだけど。

 

「うぉー、すっげー、これがプリマのしょ……もがっ」

「ウンディーネさん、頑張ってくださいね」

 

 妙にはしゃいでいるアーサー君を抑えて、アリスちゃんに声援を送るアルバート氏。アーサー君が何か喋っていたような気はするけど、ひとまずよく聞こえなかったし、目の前の水路に集中することにする。

 

「すみませんね、ウンディーネさん。無理をさせてしまって」

「いえ、お客様のお役に立つのが私達ウンディーネですからっ!」

 

 アゼルさんの申し訳無さそうな謝罪に、そう自分を奮い立たせる。そうだ、やれることで、やりたいことで、やらなければいけないことなら、やり遂げる以外、選択肢はない。

 

「では、アニーさん。私が先に」

「う、うん、頑張って、アリスちゃん」

 

 アリスちゃんのプリマ船が水路に進入するのを見送る。私が深く深呼吸をすると、アマランタさんがこちらを見上げ、元気づけるようににこりと微笑んだ。一方アゼルさんの方は、熱心にカメラでプリマ船の方を撮影している。私は彼のカメラが揺れないように気をつけつつ、船にアリスちゃんの後を追わせた。

 

 

 

 

 アテナ・グローリィが期待する以上に、アリスは見事に操船して見せていた。

 

 まるで水の一部となったように、するりと船を水路に滑り込ませる。水の流れを感じ取り、揺らがず、乱さず、真っすぐに水路を進む舟。数センチしかない隙間を確実に維持し、近づけば軽く岸を蹴り、遠ければ櫂で引き寄せる。その流れにはほとんど乱れがない。

 

(やっぱり、アリスちゃんは凄いわね)

 

 このような無茶な見極めを行うことには不安もあったが、今のところアリスはアテナの期待を数段上回る技量を発揮していた。自分がプリマに昇格したころ、今のアリスほどの操船技術を持っていただろうか。正直、及んでいなかったような気がする。

 

 そもそも、アテナから見れば、アリスは今でもとても優秀なウンディーネだ。今まで数人のペア・ウンディーネの昇格試験を受け持ってきたが、師匠としての贔屓目を別としても、彼女たちの誰よりも、今のアリスは優秀であると思っている。

 

 だが、優秀であるということは、彼女にかかる期待が大きいということでもある。そもそも今こうやってペアの身でありながらトリアンゴーレで、しかもプリマ役を割り当てているのも、結局のところその大きすぎる期待が故のことだった。

 

 今のアリスは感じ取っているだろう。オレンジぷらねっとの人間、いやそれ以外の人々も含めてが、アリス・キャロルに抱いている期待を。

 

 水先案内人の歴史に燦然と輝く、《白き妖精》アリシア・フローレンスの持つ伝説、史上最年少プリマ昇格。アリス・キャロルに求められているのは、その伝説の継承、あるいはその凌駕。

 

 このまま鍛え続ければ、きっとアリスはアリシアの伝説を継承するだろう。アテナとしては、それで十分過ぎるほどだった。アリスの才能と努力が正当に評価されることは、アテナにとっても喜びだ。

 

 だが、アテナは同時に知っている。グランドマザーの伝説を受け継ぎ、新たな伝説をも紡ぎ出したアリシアが、未だ幼い身でどれほどの苦難を背負ってきたのかを。

 

 プリマへの昇格とともに師であるグランドマザーが姿を消し、たった一人でネオ・ヴェネツィアの青と白を背負った生ける伝説。孤独と重圧の井戸の底で、必死にもがきながら、まさに雪渓に埋もれながら芽を開く白雪花のように、強くしなやかに微笑んでいた親友の姿を、アテナはずっと見つめていたのだ。

 

 そんな苦難を、アリスに背負わせる。それは果たして正しいことなのか。自分たち大人は、一人の幼い無垢な才能に、どれほど重い十字架を背負わせようとしているのか。そう考えると、アテナはまだ、前に進む勇気を絞り出せないでいるのだ。

 

 ――前方、プリマ舟の進路から見て後方から、どすんという音が聞こえた。

 

「……あっ」

 

 切羽詰まった呻きを漏らし、シングル舟のアニエスが岸を蹴る。すると舟は反動ですすすと対岸にすり寄り、またどすんと鈍い悲鳴を響かせる。

 

 アリスと比べれば普通のシングルであるアニエスにとって、この水路はまだまだ苛酷だろう。精神的理由で足踏みをしていた時期もあるし、シングルとしての経験はまだ三ヶ月程度。そんな彼女がこの水路に挑むのは、まだまだ無謀と言わざるを得ない。

 

 もちろん、凡庸という訳ではない。全体的な精神面の脆ささえ克服できれば、アニエスの技量は決して水準を下回ってはいない。彼女の心を支える誰かがいれば、努力家であるアニエスは、アテナも驚くほどの成長ぶりを見せつけてきた。

 

 だが、絶対的な経験不足はいかんともし難い。トラブルに陥ったときにパニックを起こすのは、以前よりは随分ましになったものの、まだまだアニエスの才能に影を落としている。今がまさしくそれで、極度に狭い水路で玉突きのように船をぶつけ続けたことで、彼女はすっかり冷静さを失ってしまっているようだ。

 

 声をかけられればよいのだが。声を出せない自分が恨めしい。そんなアテナの視線に気づいたのか、アリスもちらりと背後を見やり、心配そうな表情を浮かべる。

 

 そして、水路が直角のカーブを迎えた。旋回に使える幅はほとんど最低限。途中で引っ掛かってしまえば、そのまま立ち往生の可能性すらある、この水路における最高難度のポイントだ。

 

 今のアニエスに、このカーブを乗り越えられるだろうか。恐らく難しいだろう。アレサが手を貸せばどうにかなるかも知れないが、アレサはアテナに背を向けているために表情は見えず、じっと席に腰を下ろしたままだ。

 

 アレサは、アニエスについてはどうでも良いと思っているのだろうか。アリスはともかく、アニエスがこの水路に挑むのはまだまだ早い。

 

 もしここで立ち往生などをしてしまえば、アニエスの自信は再び瓦解し、サイレン事件以前の暗黒の時代が再来することになりかねない。それでもなお、アニエスをアリスに付いて来させるような計画を立てたのは、まさかアニエスを最初から切り捨てるつもりだったからなのか。

 

 その時、アリスの肩が、リズムを刻むように揺れた。

 

 

 

 

 どうしたらいいのかわからなかった。

 

 私の力では無理だ、と思った。

 

 やらなければならないのに。やりたいのに。私の力では、やれない。

 

 どうして。

 

 どうして私はこんなに無力なんだろう。

 

 いつでもそうだ。どんなに高く駆け上がろうとしても、壁にぶつかって跳ね返り、たたき落とされて、どん底で蹲る。

 

 もっと高く跳ばないといけないのに、私はいつでもそこに届かない。あと少しで届くと思っても、最後のあと少しが余りにも遠い。

 

 そして、あのカーブが迫ってくる。あそこでは、わずかなミスも許されない。

 

 駄目だ、と思った。

 

 私では無理だ、と思った。

 

 失敗したときのイメージばかりが浮かび上がる。角に引っ掛かって動かなくなるかも知れない。そのまま転覆する事すらあり得る。櫂が言うことを聞かない。うまく潜り抜けられるイメージが、全く浮かんでこない。

 

 アレサ管理部長に頼ろうと思った。現役を引退したとしても、かつては最高のウンディーネの一人だったという《鋼鉄の魔女》なら、きっとこの窮地も簡単に潜り抜けてくれる。そう思ったのだけど。

 

 アレサ管理部長は、目をじっと閉じて、まるで彫像のように動かなかった。

 

 まるで、教会のマリア像のように、静かに。

 

 願いを受け止める事はあっても、それを自ら叶えることはない、石造りの偶像のように、動かない。

 

 助けて。助けて欲しい。そう思ったのに。

 

 私を助けてくれる人は、どこにもいない。

 

 涙が溢れそうになった。絶望が心を満たしていた。

 

 

 その時だった。

 

 前方のプリマ舟のアリスちゃんが、こちらを見ていた。

 

 そして、アリスちゃんの肩が、リズムを刻むように揺れて。

 

 息を、すぅっと深く深く吸い込む。

 

「……はぁっ」

 

 息を、声を交えて深く深く吐き出す。

 

 そして、きっと顔を引き締めて、背筋をぴしりと正すと。

 

 鈴の音のような声が、旋律を紡ぎ始めた。

 

 

 ――『コッコロ』の歌だ。

 

 

 あの軽やかなリズム。あの優しい想いと、それを紡ぎ唱える旋律。

 

 それを、アリスちゃんが歌っている。

 

 誰のためだろう。何のためだろう。少し考えて、私は気づいた。

 

 応援してくれている。

 

 一緒に頑張って練習した歌で、私に『頑張れ』と叫んでいる。

 

 ――そうか。

 

 改めて思い出す。アリスちゃんと一緒に、操船の練習をしたこの日々を。

 

 アリスちゃんが先で、私が後。一列に並んで、いくつもの難しいポイントをこなしていった。

 

 そうだ、私。その時の感覚を思い出せ。アリスちゃんの駆け抜けた水の流れを追いかけろ。

 

 櫂に心を委ねれば、水の流れを感じられる。指先から、背筋を流れて過ぎていくように。水が奏でる旋律が感じられる。

 

 知らずに、唇が動いていた。気がつけば、喉が自然に動いていた。

 

 私の声が、アリスちゃんの『コッコロ』に合流する。

 

 重なり、幾重にも響き合う「親愛なる、小さなあなたへ」という想い。

 

 想いが重なり、櫂の動きも重なってゆく。

 

 まるで、歌が道を作り上げているかのように。

 

 いつの間にか、私の舟は、ふらふら揺れるのをやめていた。

 

 

 

 

(…………えっ)

 

 そのメロディに、アテナは目を見開いた。

 

 それは、今となってはアテナしか知らないはずの。

 

 今となってはアテナしか紡ぎ手がいないはずの……『コッコロ』のメロディだったのだ。

 

 そして、更に驚くべき事に。

 

 その歌声を耳にしたアニエスも、すうと息を吸い込む。

 

 アテナは「まさか」と思ったのだが、そのまさかだった。

 

 アニエスの透き通った声が、アリスの旋律に合流した。

 

 

 明るく、転がるようなリズム。

 

 優しく、慈しむような旋律。

 

 それは、技量的には拙い、音域も目指すところに所々で届いていないような歌声だった。

 

 だが、その歌声には、不思議な力があった。アルバート一家も、アマランタも、アゼルも、アレサすらも聞き惚れる程の力を宿していた。

 

 その歌が、誰かを慈しむ、励ます歌だから、というだけではない。そもそもアテナはその歌の歌詞が造語であることを知っている。言葉の意味を知らない人に、歌詞が秘める意味はわかろうはずもない。

 

 なのに、力がある。本来力のない歌に力を与えるものがあるとすれば、それは歌い手の想いに他ならない。

 

 歌い手と歌い手が、お互いを思いやる想い。

 

 歌い手たちが、誰かに送り届けたい想い。

 

 本来歌が持っていたベクトルに、歌い手達の想いの力が重なったからこそ、その歌には力がある。

 

 

 アテナもかつて、同じ想いでこの歌を歌った。

 

 大切な、年下の親友たちへ。辛い事や、苦しい事で心が濁ってしまった親友たちを、元気づけたい一心で覚えたあの歌の数々。

 

 あの時計塔の上で、アテナはとびっきりの一番として、この歌を贈った。

 

 ネオ・ヴェネツィアの白と青を一身に背負って、苦しんでいた大切な友達のために。

 

 あの時見せてくれた二人の親友の笑顔は、今でもはっきりと思い起こすことができる。

 

 

「……でっかい、大丈夫ですか? アテナ先輩」

 

 瞼に浮かんだ笑顔の向こう。目を見開いたアテナは、『コッコロ』を歌い終えたアリスが、心配そうに自分の顔を覗き込んでいる事に気がついた。

 

(……?)

 

 何かあったのだろうか。小首を傾げたアテナは、頬から手の甲に落ちた水滴の冷たさを知った。

 

 いつの間か、アテナは涙を流していたのだ。

 

(……あ)

 

 アリスが心配そうに様子を伺っている理由もわかる。これは失態だ。別に悲しくて泣いているわけではないし、余計な心配はかけたくない。それを説明できれば良いのだが、今の《天上の歌声》は声を失ったサイレント・セイレーンである。大丈夫の一言が言えれば良いのに、それができないのがもどかしい。

 

 そこで、瞼の裏に浮かんだ、親友たちの笑顔を思い出した。

 

(ああ……そうか)

 

 そう、考えてみれば簡単なことだった。何も迷う事はない。言葉なども必要ない。たったひとつだけで、全て解決するじゃないか。

 

 だから、アテナはたったひとつだけ、涙の跡も拭わぬままに、輝くようなとびっきりの笑顔を見せたのだ。

 

 

 気が付けば、舟は水路を抜け、大運河に飛び出していた。

 

 白い舟に続いて、黒い舟。

 

 アリスの舟はもちろん、それに続いて澱みなく飛び出す、アニエスの舟。

 

 夕闇のオレンジに染め上げられた世界を切り裂く、二艘の舟。

 

 その二艘を、どういう訳か拍手が包み込んだ。

 

 何事かと見回せば、それは岸辺や窓辺の人々、大運河を征く舟、たまたま通りがかったトラゲットの上などが、一斉に手を打ち合わせていたのだ。

 

 アテナ達は知る由もなかったが、細くて狭い隘路の壁が共鳴管の役割を果たし、大運河や周辺に住む人々の元へと歌声を送り届けていたのである。

 

 拍手の渦の中、オレンジの世界が綻び、空に先触れの星が瞬き始める。

 

 プリマ舟の白がオレンジを映し、シングル舟の黒は光を返し、星のように一点を輝かせる。

 

 オレンジの姫君を先触れに、宵闇の明星が後を追う。

 

 その光景が、アテナの心に不思議と焼き付いて残った。

 

 

 

 

 そんな運河上の光景を、ある建物の上から一匹の黒猫が見つめていた。

 

 舟の周囲からはもちろん、舟の上からも拍手の喝采を浴びた二人の見習ウンディーネが、真っ赤になって照れている様を、黒猫はじっと見つめ、そしてふいっと面を逸らした。

 

 ひらり、と物陰に舞い降りる。

 

 そこは、猫だけが知っている道。人には決して道に見えない、猫達だけのための道を歩いて行く。

 

 その途上、少し開けた場所に差し掛かった時、黒猫はぴたりと歩みを止めた。

 

 広場には、巨大な毛むくじゃらの影が腰を下ろし、じっと黒猫を見下ろしていたのだ。

 

 まるで『残念だったね』と、友人を……困った奴だけど放っておけない、そんなニュアンスの友情を感じさせる視線で見下ろしている影。

 

 黒猫はしばし巨大な毛むくじゃらの影を見上げていたが、やがて拗ねるようにふいっと顔を背けると、そのまま闇の中に消えていった。

 

 そして、いつしか毛むくじゃらの影もまた、かき消すように消えてしまった。

 

 

 

 

「さあ、お手をどうぞ」

 

 パリーナを片手に握って身を乗り出し、アリス・キャロルは舟上へと空いた手を差し出した。

 

「ありがとう、可愛いウンディーネさん。今日は本当に素敵な思い出をありがとう」

 

 アルバート氏がアリスの手を取り、そう言って微笑む。思わず顔を真っ赤に染めたアリスを余所に、手を引かれるまでもなく、慣れた足取りでひょいっと陸に上がるアルバート氏。そんな彼を、アレサがやや厳しい目線で睨み付ける。『ここに至って馬脚を表してもらっては困る』という趣旨なのだが、アリスがそれを知る由もないし、アルバート氏は肩を竦めて苦笑するばかりだ。

 

 アゼル氏は一足先に舟を降り、アマランタもついでに陸に上がってしばし。無事に予定のコースを終えた一行は、別れの時を迎えようとしていた。

 

 シングル舟の面々は既に舟を桟橋に係留し、アニエスはアイリーンの手を取って陸に引き上げているし、アレサは陸側でアルバート一家の降船を見守っている。

 

 アニエスが、お客に見えないようにこっそりと、ため息を吐き出した。

 

「なんとか、終わりました……」

「アニエス・デュマ。お客様をお見送りするまでがウンディーネの仕事よ」

 

 気の抜けた様子のアニエスに、ぐっさりと釘を刺すアレサ。「はひっ!?」と灯里めいた悲鳴を上げて、たちまちびしりと背筋を正すアニエスに、アルバート氏がこっそり忍び笑いを漏らす。

 

 そんな硬く強ばったアニエスの様子に、アレサも愛用の鋼鉄の面を外し、苦笑めいた笑みを浮かべた。

 

「でも、よくやったわ。ほとんど最高難度の水路もどうにかクリアしたし、あの舟謳も素晴らしかった。もちろん、まだまだ練習は必要だけど……良くやったわね、アニー」

「え、あ、そ、そんな……凄いのは全部アリスちゃんです。私は……」

「そうね。アリス・キャロルは確かに優秀だわ。でも、その優秀さも、それを支える者がいてのことよ」

 

 珍しく優しい物言いのアレサにどう反応していいかわからず、目を白黒させるアニエス。それはさておいて、アレサは視線を舟の上に向ける。

 

 そこには、最後まで舟の上に残り、舟のそこここを覗き込んではアリスやアテナに矢継ぎ早に話しかける、アーサー少年の姿があった。

 

「お客様、ご両親がお待ちですよ?」

 

 最後に興味深そうにプリマの舟を眺めていたアーサーだったが、アテナにちょんちょんと肩を突かれ、アリスにそう声をかけられては、舟を降りない訳にはいかなかった。

 

 ちぇ~っとわざとらしく口先を尖らせるアーサー。名残惜しげに舟をぐるりと見回して、そして船縁に足をかける。

 

 その時、アーサーの表情が変わったのを、アレサは見逃さなかった。

 

 子供らしい、稚気に溢れた表情。とびっきりの悪戯を思いついて、それを今しも実行しようとするかのような、そんな笑み。

 

 アレサが静止しようと動いたが、いささか彼女は遠すぎた。

 

「……っ」

「……ていっ!」

 

 誰かの手が届く前に。

 

 アーサー少年は、父親がそうしたように、アリスの差し出された手を握らないままに船縁を蹴ったのである。

 

「いけない!?」

 

 アニエスが悲鳴を上げたときには、もう遅かった。

 

 舟が、ぐらりと揺らいだ。少年のジャンプの反動をもろに受けて、大きく水の中に身を傾け、そして反動で大きく身を跳ね上げる。

 

 完全に虚を突かれた形となって、舟の上で人知れずバランスを取っていたアテナですら対応できない。舟がぐらぐらと左右に揺れ、その上に立つものの世界を揺るがせる。

 

「う、わぁ……」

 

 そして、その原因となったアーサー少年もまた、大きくバランスを崩し、目を丸く見開きながら運河へと身を躍らせた。

 

 桟橋の近くには、岸壁やパリーナといった、ぶつかっただけで大変なことになりかねないものが溢れている。

 

 そのパリーナと岸壁の合間に、アーサー少年の身体は吸い込まれてゆく。

 

「…………ッ!!」

 

 その時、空中のアーサー少年の胴に、細い腕が絡みついた。

 

 少年の身体を抱き留め、くるりと空中で半回転し、そして、突き放す。

 

 街灯の光をきらきらと映す透明な髪の中を飛び出して、少年の身体が陸へと放り出される。

 

「わわっ!?」

 

 突き放された少年が飛び込む先は、駆け込んできたアニエス。とっさに身を乗り出し、抱き留めた。

 

 そして、少年を抱き留め、突き放したアリスが、反動で舟から放り出されそうになるのを。

 

「――――アリスちゃん!!」

 

 鋭い声で、アリスの名を呼びながら。

 

 驚くべき素早さで手を伸ばしたアテナが、ぎゅっとアリスを抱き留めた。

 

 どすんと、ひとかたまりになって舟底に落ちる。大きく舟が沈み、そして跳ねて、ゆらゆら、ぐらぐらと暴れ回る。

 

 その間、アテナはアリスをぎゅっと抱きしめたままだった。振り落とされないように、怪我をしないように、と。

 

 そして、ぐらぐら、ぐらぐら……舟の揺れが徐々に収まり、桟橋が静けさを取り戻した頃。

 

「アーサー、なんてことを!」

 

 ごちん、とアイリーンが息子を叱る声が、息を呑むような沈黙を吹き払った。

 

 少年が、半泣きで肩を落とす。更に母の怒りの矛先が、つまらない稚気で息子に無茶をさせた父親の方に差し向けられるのを余所に見ながら、アリスは口を開いた。

 

「……アテナ先輩」

 

 下敷きになる形で、ぎゅっと自分を抱き留めるアテナに、アリスは恐る恐る声をかけた。

 

 そんなアリスにアテナは少し咳き込むと、無言のままに「大丈夫?」とでも言いたげな笑みを浮かべて見せたのだ。

 

 

 

 

 そんな一幕はあったものの、どうにか無事にアリスとアニエスのトリアンゴーレは幕を下ろした。

 

 幸い、アリスやアテナ、更にアーサー少年にも怪我はなく、ぺこぺこと頭を下げるアルバート氏一家と笑顔で別れ、アテナ達は寮への帰途についた。

 

 アレサは仕事が山積みだと言って、一足先に社屋に戻ってしまった。そんなに多忙ならば無理をしなければいいのに、と言いたげな顔が二つ並び、思わずアテナは吹き出しそうになり、必死に飲み下す羽目になった。(陰謀を練るのも大変ですね)と、内心で今ここにはいない師匠にささやかな労いの言葉を送る。

 

 そして、三人が寮に戻る途上で、アテナは妙に自分に向けられるアリスの視線が冷たいような気がしていた。

 

 先程から、アリスはじっと押し黙り、アテナの後ろを歩くばかりだった。そんなアリスに付き添うアニエスは、今日のトリアンゴーレの感想などをアリスに話しかけていたが、適当な生返事しか返さないアリスに、徐々に顔に不安げな色を滲ませつつあった。

 

 そして、アテナがそんなアリスの気配の奇妙さに気づいた頃、急にアリスが立ち止まり、そしてアテナに問いかけた。

 

「……アテナ先輩。一つ良いですか?」

「…………?」

 

 小首をかしげる。はて、何か問題があっただろうか。細い水路の抜け方だろうか。『コッコロ』の正しい歌い方についてだろうか。しかしアリスの声音はアテナが考えるような事を聞くにしては強ばり過ぎている。

 

「……さっき、喋りましたよね、アテナ先輩」

 

 その問いを耳にした瞬間、ぎくり、とアテナの背筋が凍りついた。

 

「……そういえば、確かに」

 

 と、アニエスもじっとアテナの方を見つめる。

 

 あまりよくない兆候だった。

 

「……まさかとは思いますけど、実は喉なんて全然壊れてなくて、わたしたちにトリアンゴーレ実習をさせるために嘘をついてた、なんてことは……ないですよね?」

 

 ずいっと、アリスの半眼が迫る。思わず「え、えっと、そのね……」と弁明の言葉がこぼれ出る。

 

 もちろん嘘をついていたつもりはなく、慎重に慎重を重ねたアテナが一切声を出さないように努めていたために、自分の喉が回復していることに気づかなかった、というのが真相なのだが、それを説明できる程お互い冷静でもなくて。

 

「…………『また』ですかアテナ先輩」

 

 また、とアリスが言った。それはつい最近アテナがやらかした、記憶喪失騒ぎの事だろう。むっつりと拗ねた顔。今のアリスの顔は、確かにあの騒ぎの時の……それが発覚した直後の憤怒顔によく似ている。

 

 ああ、誤解されている、とアテナは嘆いた。そんな嘘をつくつもりなどはなかったし、騙すつもりもなかったのだ。だが、それならばなぜこんな手の込んだことを考えたのか、それを説明することは、アレサどころかゴンドラ協会すらからも固く禁じられている。

 

 だから、何も弁明できないアテナに、アリスの誤解は加速した。

 

「アテナ先輩、前も言いましたけど……」

 

 すぅ、と大きく息を吸い込んで。

 

「アテナ先輩のそういうところ、私でっかい大嫌いです!!」

 

 大嫌いを叩きつけて、アリスはぷんむくれた顔をそのままに、つかつかと寮に入って行った。

 

 アニエスはどう対応していいかわからずおろおろするばかりで、アテナに一つ頭を下げて、アリスの後を追いかける。

 

 そんな愛弟子たちを見送るアテナの顔は、悲しいような、情けないような、何とも味わい深い表情を見せつけていたのだった。

 


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