ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

24 / 44
Silent Seiren 08 ピクニックの日

 さて、そんな訳で、私ことアニエス・デュマとアリスちゃん、そしてアテナさんによるトリアンゴーレが幕を下ろして一カ月近くが過ぎ去った。

 

 

 アテナさんの喉は、例の大声が原因で、回復まで予定より更に一週間を要した。

 

 後に、治りかけの所に無理をさせてしまったということを知ったアリスちゃんは、アテナさんにぺこぺこと平謝りした。そして彼女はアテナさんのフォローに更に熱心になり、私とアリスちゃんの二人でアテナさんを助けながらお仕事をする事も、以前以上に増えてきた。

 

 アテナさんは、私達に舟謳の指導をすることが多くなってきた。

 

 あのトリアンゴーレの時に歌った『コッコロ』は、たまたま聞いた人達の間でも語り草になっていて、私が水上実習をしている時などに、舟謳を頼まれることが増えてきたからだった。

 

 口伝でしか残っていないというあの謳の数々を直接伝授してもらう他、最近アリスちゃんは、何か波長が合ったのか、『ひまわり』に掲載されていた原版の『ルーミス・エテルネ』を熱心に勉強している。

 

 

 この一カ月の間に、あの《海との結婚式》が執り行われた。

 

 綿密な練習を経ての、数年に一度の大祭典。プリマも、シングルも、ペアですらも動員して、舳先を並べる。

 

 総督船の荘厳さ、《水の三大妖精》の美しさは言うに及ばず。特に私達が驚いたのは、海に指輪を投げ込む総督役に、あの《グランドマザー》が任じられていたということだろう。

 

 ちらりと私達の方を見たその小さな瞳が茶目っ気たっぷりにウインクした瞬間、私は以前お会いした時に『そのうち会える』と言っていた理由がこれなのだと理解した。

 

 ――そんな素敵なイベントを経て、ネオ・ヴェネツィアの春が盛りを迎える頃のこと。

 

 アリスちゃんが、ついにミドルスクールを卒業した。

 

 

 

 

 アリスちゃんのミドルスクール卒業を記念してのパーティで、大騒ぎしたその夜のことだった。

 

「アニーちゃん、ちょっといい?」

 

 夜半が過ぎた頃、アテナさんが私の部屋のドアを叩いた。

 

「はい、どうかしましたか? アテナさん」

 

 荷物をまとめる手を休めて、私はドアを開いた。一際散らかった部屋にアテナさんを招き入れ、差し向かいで話す。

 

 何でこんなに部屋が散らかっているのかというと、私に部屋割り変更のお達しが下されたからだった。

 

 なんでも、ミドルスクール卒業に合わせて入社してくる娘とかが結構いるらしい。そんな娘達が入寮するにあたり、二人部屋を一人で占拠している私をそのままにしておくわけにはいかない。

 

 そんな訳で、最低でも私の部屋にはルームメイトが割り当てられる。もしかしたら、私自身が他の部屋に移る可能性もあるらしい。そんなわけで、いつでも移動できるよう準備を整えているというわけ。

 

 そんな事情はアテナさんも百も承知で、散らかり具合については一切言及せず、用件から切り出した。

 

「明日、アリスちゃんをピクニックに連れて行くわ」

「ああ、いいですね。いいお天気になりそうですし、いいなあ。私も着いて行っちゃ駄目ですか?」

 

 そこまで言ってしまってから、私は私達ウンディーネが、特別に『ピクニックに行く』事の意味を思い出した。

 

「……あ、ごめんなさい、それはつまり」

「ええ。いよいよ、よ」

 

 アテナさんはこっくりと頷いた。心がじわじわと沸き立つのを感じる。

 

 私達ウンディーネにとって、ペアがプリマと一緒にピクニックに行くというのは、多くの場合がシングル昇格試験を意味している。

 

 ずっと、この日を心待ちにしていた。努力家の彼女が、ついに報われるべき日がやってきたんだ。

 

「じゃあ、私は用事を作っておかないといけませんね。んー、どうしようかな……」

 

 シングル昇格試験は、ペアとプリマの一対一で行われるのが常。最初はペアには試験であることを教えないのも定石。私の時はアリスちゃんが学校に行ってしまったタイミングを見計らって誘われたし、今回私もうまく参加できない理由を作らないといけない。

 

「ええ。そこで、アニーちゃんには色々準備をして貰いたいの」

「準備……ですか?」

 

 アテナさんの言葉に、私は目をしばたたかせた。

 

 

 

 

「それでは、午後三時頃に、サン・マルコ広場桟橋でお待ちしております。はい、宜しくお伝えください」

 

 受話器にぺこぺこと頭を下げて、私は電話を切った。

 

 相手は、ゴンドラ協会の受付さん。何でもアテナさんの言うところには、アリスちゃんの昇格試験には是非立ち会いたいと、ゴンドラ協会の理事さんが名乗りを上げていたのだという。そこで、私がお二人に先回りして、理事さんたちを『希望の丘』へとお招きする役割を仰せつかったんだ。

 

 アテナさんの言う準備というのは、アリスちゃんの昇格試験の会場準備だった。

 

 アリスちゃんの昇格試験は様々な理由で延び延びになってしまった。その代償として、ちょっとやり過ぎなくらい盛大に昇格を祝おう、というのがアテナさんの言う趣旨。それについては私も同感で、どうせならこうぱーっと盛大に行きたい、と思っていたんだ。

 

 そんなわけで、協会の理事さんたちを『希望の丘』にお連れするのも、あの丘で寒くないように、そしてお祝いができるように準備をしてくれ、というのがアテナさんの要望。

 

 他ならぬアテナさんの頼みで、アリスちゃんの昇格を祝うための大事なイベント。ここは頑張らない訳にはいきません。

 

 アテナさんの方では、灯里さんや藍華さんを招待するよう手配すると聞いている。つまり私がやるべきことは、第一にアリスちゃんたちに先回りして、ゴンドラ協会の人達をおもてなしする準備を整えること。そして第二に、例によって祝賀パーティの会場に、いつものレストラン・ウィネバーを予約しておく事。

 

 予め『希望の丘』の管理人でもある水上エレベータのおじさんに連絡を入れた上で、全速力で簡単な食材と飲み物を抱えて一路、丘へ。そしておじさんに荷物を預けたら、またとんぼ返り。今度はお客様を乗せて、再び一路『希望の丘』へ。

 

 ……と、行くはずだったんだけど。

 

「まずまずの時間ね、アニエス・デュマ」

 

 予定時刻の三十分前に辿り着いたサン・マルコ広場には、既に予定外のお客が待ち構えていた。

 

 予定外ではあるけど、予想外ではない、そんな人。

 

 それはもちろん、我らオレンジぷらねっとが擁する《鋼鉄の女》、アレサ・カニンガム管理部長その人だった。

 

 

 まるでそれが当たり前の事であるかのように、アレサ管理部長は私のゴンドラに腰掛けた。

 

「え、えっと…………」

 

 顔が引きつるのが抑えられない。どう対応すればいいんだろう。どちらまで? というのはどう考えても愚問。どうやってこの場所と時間を? というのもやっぱり愚問。アレサ管理部長なら、私の計画と行動くらい見透かせて当然だ。

 

「……アニエス・デュマ。舟を出してちょうだい」

 

 困惑する私を見上げて、アレサ管理部長がそう言った。

 

 舟を出せ、と言われても困る。私はゴンドラ協会の方々をお迎えに来た身の上であり、お客様をお迎えするからには、時間までにこの場所にいなければならない訳で。

 

「え、ええと、その……」

 

 でも、そんな当たり前の事を、アレサ管理部長がわかっていないとは思えない。真意を伺うように、じっとアレサ管理部長の顔を見つめる。眼鏡の奥の目が、鋭く私を見据えている。

 

「ほんの少しでいいわ。待ち合わせまでの三十分を私に頂戴。遅れても責任は取るし、多少の遅れは考慮したスケジュールになっているでしょう?」

 

 確かにその通り。私は協会の方々が丘の上でくつろぐ時間も加味して、だいぶ予定時間より早めに到着するようスケジュールを立てている。そのあたりまですべて見越した上で、アレサ管理部長はここで私を待ち伏せていたのか。

 

「わかりました。サン・マルコ広場周辺遊覧コースでご案内致します」

 

 アレサ管理部長に楯突こうなどと、考えるだけ無駄というものだ。

 

「アニエス・デュマ、行きます!」

 

 私はひとつ深呼吸をして、舟を発進させた。

 

 

 

 

「こちらは、通称ため息橋と呼ばれる史跡です。かつてマンホームのヴェネツィア共和国にて……」

「観光案内はいいわ、アニエス」

 

 出端をくじく、管理部長のお言葉。(折角の練習の成果なんだから聞いてくれてもいいじゃないか)と思うのだけれど、考えてみれば、アレサ管理部長がわざわざ私の練習成果を見にくるとも思えない。

 

 だから、私は黙って舟を漕ぐことにした。欲しいのは静かな時間かも知れない。ほんの少しの、穏やかな時間が欲しいのだとすれば、私の観光案内はむしろお邪魔だ。揺れを少なく、リズムを均等に、お客様がリラックスできるように最善を尽くした漕ぎ方に切り替える。

 

「……良い漕ぎ方ね。アテナに教わったの?」

 

 目を閉じて、波と櫂のリズムに耳を澄ませているかのような佇まいで、アレサ管理部長が尋ねた。

 

「アテナさんがオリジナルなのはそうですけど、これは見よう見まねです」

 

 正直に答える。アテナさんは操船の腕前も一級品だけど、それで他人を指導するということはあまりしない。理由はよくわからないけれど、アリスちゃんはアリスちゃんらしく、私は私らしく伸びて行く事を望んでいる、そう感じている。

 

 実のところ、私の操船の基礎は、アリスちゃんや藍華さん、そして灯里さんの指導で身についたもの、というところが大きい。つまるところは、彼女たちを通してアリシアさんや晃さんの技術を盗んでいた、ということもできる。

 

「……あなたを引き取ったのは正解だったわね」

 

 唐突に、アレサ管理部長がそう呟いた。

 

「今だから言うとね。私はあなたの引き取りには賛成しかねていたのよ。マンホーム生まれで基礎も知らない、性格も実力もわからない。完治しているとはいえ、重い病歴がある……それならば、これまでふるい落として来た娘達の中に、アニエス・デュマ以上のライトスタッフはいくらでもいたわ」

「あはは……確かに、そうでしょうね」

 

 容赦のない裁定に思わず苦笑する。それはそうだろう、と思う。私はお世辞にも優秀な新人じゃなかった。アレサ管理部長がスカウトしてくるのは、ミドルスクールでゴンドラ部に所属しているとか、他ジャンルで格別な才能を発揮した娘などが対象だ。憧れだけで飛び込んで来た私みたいなのより、優秀な人は沢山いたことだろう。

 

「でも……受け入れて下さったんですよね?」

「そうね。ゴンドラ協会からの直々のお願いだったし、姫屋に貸しも作れるし、何よりやる気になってる娘を門前払いにしたとあっては、ネオ・ヴェネツィアの名折れだものね」

 

 いろいろ理由を並べてるけど、結局のところ、甘い裁定をしたことに自分で理屈を付けてるだけ、という気がする。

 

 こういうのを、偽悪って言うんだっけ。思わず口元が綻んでしまった。

 

「……何を笑ってるの」

 

 憮然とするアレサ管理部長。あわてて真剣な顔を取り繕う私に、アレサ管理部長はじーっと不審げな目を向けて、ちょっと意地悪な顔を浮かべる。

 

「あの家出事件とか連れ戻し事件とかが起きた頃には、よっぽどクビにするべきなんじゃないかと思ったけれど」

 

 これまた、しれっとそら恐ろしい事を言って下さる管理部長。あの頃の自分には何かと反省しきりなのだけど、まさか上の方ではそんな事が検討されていたとは。春の陽気が暖かく私達を包み込んでいるはずなのに、冷たい汗がじんわりと背筋を冷やす。

 

「それでも……今は貴女を受け入れて良かったと思っているわ」

 

 そんな恐れおののく私の気分を一新させるようにふっと息を吐き出すと、アレサ管理部長は薄く微笑んだ。

 

「だって、貴女はアリス・キャロルのパートナーとして、想像できなかったくらいに彼女を支えてくれたのだから」

 

 冷や汗に震えている中の、突然の言葉。想像もしなかったというのはこちらのことで、思わず櫂を手繰る手が止まった。

 

「……流されているわよ、アニエス・デュマ」

「は、はいっ!」

 

 慌てて櫂を握り直して、舟を進路に戻す。対面を行く黒い荷物舟のおじさんに頭を下げると、おじさんは煙草をくわえた口元を揺らして目を細めた。

 

 気を取り直し、アレサ管理部長の話に戻る。

 

「……でも、私がしたことなんて」

「誰かの大切になっているということを、当人が一番気づかないものよ」

 

 私の反駁を一蹴して、アレサ管理部長は続けた。

 

「アリス・キャロルは漕ぎ手としてはまさに天才的だったわ。でも、その一方で精神はひどく脆かった。脆さを補うために頑なになって、回りの全てから目を背けていた。それこそは、アリス・キャロルが花開くための最大の障害だったわ」

 

 私は、灯里さんたちがアリスちゃんと出会ったころを知らない。私が知っているのは、無表情で、でも優しくて、強くて、子供っぽくて、時々ちょっぴり意地悪なアリスちゃん。

 

 私にとっては、アリスちゃんはずっとそんな存在だった。今と何も変わらない。

 

「――そんな殻を打ち壊す切っ掛けを作ったのが、水無灯里と、藍華・グランチェスタ。……そして半年前現れた貴女よ。アニエス・デュマ」

 

 じっと私の目を見て言うアレサ管理部長。と言われても、灯里さんたちについてはともかく、私がどれだけ役に立ったのかと言われると、ちょっと疑問があるのだけど。何しろ、一緒に歩いてきただけだったわけで。

 

 むしろ、アリスちゃんには何度も助けられた。お母さんに連れ戻されそうになった時も、あのサイレン事件の時も、この間のトリアンゴーレの時も。

 

 私が、私の殻を打ち壊すのに、アリスちゃんは力を貸してくれた。彼女がいたから、私はここにいられる。私は彼女に感謝こそすれ、自分が彼女の力になれたなどと考えるのはいささか傲慢だと思う。

 

 そんな私の答えに、アレサ管理部長は「謙遜も過ぎると害悪よ」と目を細めた。

 

 ……でも、それでも素直に思う。

 

「……私がいなかったとしても、きっとアリスちゃんは強くなってましたよ。強くて、素敵なウンディーネになってたと思います」

 

 掛け値なしに、そう思う。だってアリスちゃんには元々、かけがえの無い親友が二人もいたのだから。

 

 例えば私がアンジェさんに手紙を出さなければ、私は此処に来ることもなかった。たった一つの切っ掛けで、私はここからいなくなる。それでも、きっとアリスちゃんは変わらない。素敵な二人の先輩たちと、素敵なウンディーネに育って行く事だろう。もしかしたら、正当な歴史はそちらの方で、私がいるこの歴史の方が異端なのかもしれない。

 

 だから、私がやったことなんて大した事じゃない。私がいなくても、誰かがアリスちゃんの助けになって、アリスちゃんは強く素敵なウンディーネとして駆け上がっていく事だろう。

 

 私のそんな答えに、アレサ管理部長は「そうかも知れないわね」と認めた。

 

「でも、今このネオ・ヴェネツィアで、一番アリスに近い所にいるのは、アニエス・デュマ、貴女でしょう?」

 

 そして、こう続けた。戸惑う私に畳みかけるように、私の心得違いを正そうとするかのように。

 

「可能性はいくらでもあるわ。でも、今私達の目の前にある今と、そしてここから繋がる未来は、貴女がここにいて、アリス・キャロルと一緒に歩んできた過去からしかあり得ない。そして、その過去から現在に至るまで、貴女が触れてきた全てのものが貴女に影響を受け、貴女が触れてきた全てのものが、貴女を育んできたのよ」

 

 ……そうか。そうかも知れない。

 

 可能性の話はさておいても、この半年以上の間、アテナさんと争えるほどにアリスちゃんの一番近くにいて、彼女の見ているものを見て、彼女の目指すものへと一緒に歩いてきた。そうやって形作られたのが、今の私、アニエス・デュマ。他の道を歩んだ私ではない、オレンジぷらねっとのウンディーネである、私。

 

「その歴史は、誇るべきものだわ」

 

 ちょうど建物の隙間から差し込んだ光が、舟上を照らし出す。

 

 そんな溢れる春の光の中で、まるで私が考えていることがわかるかのように、アレサ管理部長は微笑んだ。

 

 

 

 

 ため息橋を北に抜け、大運河を岸沿いに西へ。

 

 リアルト橋を過ぎてしばらくのところ、パラッツォ・グリマーニの角を南下するする途上。アニエス・デュマが櫂を握る舟に揺られながら、アレサ・カニンガムはゆっくり流れる景色を眺めていた。

 

 快適な道行きと言って良い。穏やかなリズムで手繰られる櫂は、揺り籠のようにアレサを優しく揺らす。陸上の喧噪とは運河を一筋隔て、ここだけ静かに時間が流れる、ウンディーネの舟。

 

 先日のトリアンゴーレではアリス・キャロルの操船にばかり目が向いていたが、改めて櫂を任せてみれば、アニエスの成長ぶりもなかなかのものだった。

 

 もちろん一人前と認めるにはまだまだ未熟だが、いつでも冷静にお客の望みを見極め、最適のサービスを提供する、そんな気配りの精神は、プリマ・ウンディーネに求められる絶対不可欠の資質だ。その点については、今のアニエスはなかなかどうして立派なものである。

 

 実の所、アレサには一つの負い目があった。それはアリス・キャロルの成長を見極めようとするあまり、アニエスを幾度も操り、弄んだという自覚である。

 

 陰謀というものは、関わる多くの人間の思考を誘導し、指揮者の望む方向に導いて行くもの。アニエスはその思考パターンが単純であり、アリスと極端に距離が近いということもあって、アレサの誘導に実に素直に反応した。その結果、アニエスはアレサの目論見以上に、アリスを励まし、支え合い、高め合ってきた。

 

 しかし、ことがここに至って、アレサは思う。自分たちはアリス・キャロルに期待するあまり、アニエスの存在を余りにもないがしろにしては来なかったか。

 

 少なくとも、アニエスをアテナに師事させ、アリスと肩を並べさせたこと、それ自体は全く間違っていたとは思わない。アリスはアニエスを支えとして、アレサの目論見どおり大きく成長したし、アニエスもまたアリスと彼女の友人たちと触れ合う中で、誰に師事するよりも健やかに、そしてしなやかに成長したと確信できる。

 

 これが他の……例えば夢野杏やアトラ・モンテヴェルディを指導するプリマに任せていたら、アニエスは今頃アテナのシングル昇格試験を受ける羽目(クビ)になっていたのではなかろうか。

 

 だから、自分の行いは正しかったのだと、それ自体は確信できる。

 

 しかし、アレサにとっての正しさと、アニエスにとっての正しさは違うのだ。アレサの独善で行った措置が、相手にとっても快適であるとは限らない。むしろ逆であることの方が多い。善かれと思って施した措置によって、恨みを買う事とて珍しくはない。それが上に立つ者の勤めだとはわかっているが……。

 

 問題は、アレサ達オレンジぷらねっとの上層部が、アニエスはアリスの補助役、悪く言ってしまえば踏み台のような認識でいるということだ。それをアニエスが感じ取っていない筈がない。

 

 そんな状態を、アニエスはどう思っているのだろうか。そんな冷たい空気の中で、アニエスはこれからも健やかに育つことができるだろうか。そんな危惧は《鋼鉄の魔女》とても、拭い去ることは難しい。

 

 そんな思考を弄んでいた時だった。

 

「……アレサ管理部長、一つ、聞いても良いでしょうか?」

 

 ぽつり、と。櫂を手繰るアニエスが呟くように問いかけたのだ。

 

「何かしら?」

 

 内心の動揺を、いつもの鉄面皮に覆い隠す。

 

 そんなアレサの顔を、ちらりとアニエスが見やる。どんな言葉で問うべきかを悩むように。そして櫂が三度水を掻き分ける音を挟んで、アニエスはその問いを発した。

 

「アリスちゃんは、合格でしたか?」

 

 シンプルな、要点のみの問いかけだった。

 

 だが、そこに含まれる意味はシンプルではない。今、このタイミングで発せられる問いであるということは。

 

 『アリスの昇格試験は合格だろうか』ではない。それならば、問いは『合格でしょうか』と未来を指す表現のはずだ。まだ、試験は終わっていない。今ちょうど、このネオ・ヴェネツィアのどこかで、あの二人は試験の真っ最中なのだから。

 

 『合格でしたか』という過去形の疑問。だとすれば、その意味は。

 

 『アリスに行われた、秘密の試験は合格だったのか』という趣旨になる。

 

 そして、その問いを向ける先がアレサであるのならば。

 

 アニエスは、先日のトリアンゴーレがアレサの企みによるものであり、アリスのための試験であったと確信しているという事になるのだ。

 

 特別な試験が行われたのだから、特別な事が起きる。そう確信しているかのように。

 

 自分に向けた試験だったとは、露ほども思わず。あるいは、そんなことより大事なことがあるとでも言うかのように。

 

 アレサは、アニエスの姿を見上げた。傾きかけた太陽に照らされる、黒髪の少女。初めて出会った時に感じた頼りなさ、浮ついた感覚は拭い去られ、櫂を手繰る様はいつの間にかどこかしら大人びた気配すら感じさせる。

 

 そして、その眼差しは。

 

 まるで遠くを見るように。

 

 この街の何処かにいる、一番大切な友達を慈しむように。

 

 町並みの向こうに佇む、風車の丘へと注ぎ込まれていた。

 

 なるほど、とアレサは苦笑した。

 

 どうやら、アニエス・デュマもまた、アレサ達と同じ種の人間だったらしい。

 

 利用されている、とか。操られている、とか。そんな陰鬱な感情とはとんと無縁に、ただひたすらに、愛すべき年下の先輩の栄光を願っている。

 

 だったら、こちらもそれに応えてやればいい。

 

「……もうすぐわかるわ」

 

 そう、ちょっと突っぱねるように、冷たく言うアレサだったのだが。

 

 口元の小さな微笑みを、アニエスは目ざとく捉えていたようで。

 

 満面の笑顔を、浮かべたのだ。

 

 

 気が付けば、舟を取り囲む喧噪が、一際大きなものに変わっていた。

 

 サン・マルコ広場はもうすぐそこだった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。