ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
サン・マルコ広場に戻ると、そこには既に、ゴンドラ協会の方々がお待ちだった。
話に聞いていた通り、人数は二人だった。一人はアルバートさん。もう一人は、カイゼル髭が特徴的な、小柄な紳士。私と面識は(多分)ないけれど、この方が協会理事のアイザックさんだった。
挨拶を交わすアレサ管理部長とアルバートさん達を載せて、私の舟は『希望の丘』を目指して発進した。
舟を進める途上、アレサ管理部長とゴンドラ協会のお二方は、なにやら声を潜めて密談していた。
耳をそばだてればその内容を聞くこともできたのだけど、私は敢えてそれをしなかった。密談をするということは、聞かれない方が望ましい事を話しているという事だろうから。お客様のプライバシーを守るのも、ウンディーネの務めの一つだ。
ただ、丘に続く陸橋水路に差し掛かったあたりで、私はさっきの質問が愚問だったことに思い至った。
結局何の試験だったのかはわからないままだけど――もしアリスちゃんが不合格だったなら、今ここにアレサ管理部長や、ゴンドラ協会の方々が乗り込んでいる訳がないじゃないか。
特別な事をするのは、特別な事を起こすため。少し考えればわかりそうな事に、今に至るまで気づかなかった。あまりといえばあまりな鈍さに、私はこっそり自分の頭をこつんと叩いた。
丘に到着すると、そこでは既に灯里さんと藍華さんがパーティの準備を進めていた。
「あ、アニーちゃーん!」
「遅かったわね、アニー!」
手を振って呼びかける灯里さんと藍華さん。私も負けじと振り返そうかと思ったのだけど、アレサ管理部長とゴンドラ協会のお歴々の手前、自粛する。
パーティと言っても、ささやかなものだ。簡単なバーベキューに、寒くないように暖かい飲み物。野外グリルは朝方に水上エレベータのおじさんに預けておいたものを、灯里さんたちが気を利かせてセッティングしてくれていた。
「それにーく、ほれにーく、どっこいにーく♪」
「にーく、やっほいにーく♪」
「ぷいにゅっぷーい、ぷーい、ぷいにゅっぷーい♪」
私達の到着に合わせて、グリルに食材を並べてゆく先輩方。謎のお肉コールを合唱しているあたり、随分と御機嫌のようだ。
まあ、当然かもしれない。私自身も、浮ついた気分がなかなか抜けてくれない。
何しろ、今日はいよいよ、アリスちゃんがペアから昇格する日なのだから。
アリスちゃんたちが丘にたどり着いたのは、太陽が赤く燃え、世界がオレンジに染め上げられた頃だった。
私はちょうど、水上エレベータの管理小屋に、飲み物の補充を取りに来ているところだった。
そろそろアリスちゃん達が到着する頃。飲み物や食べ物が残ってないなんてことになったら寂しいことこの上ない……そんな事を考えて駆け出した私だったのだけど、少し裏目に出てしまったみたい。
途中ですれ違った水上エレベータの管理人のおじさんに「さっきあの子達が上がったよ」と言われ、私は全速力で走った。
エレベータ小屋まで最短記録を更新し、食材と飲み物を掴んでバッグにほうり込み、折り返す。
ビールとか炭酸とか、振ると危ないものが交じってるんだけど、構っていられない。自己最高記録を更に更新する勢いで、はしたなくスカートがひらめくけど、これまた構わず疾走する。
丘に続く道を駆け上がる途中、風に乗って歌声が聞こえた。
風車の羽根と踊るような、鈴のような、清らかな声。
『ルーミス・エテルネ』の音色だ。
そして、この声。間違えようがない。
アリスちゃんが、歌っている。
ここ一番の時のために練習していた、あの歌を。
「こっそり練習して、いつかアテナ先輩をでっかいびっくりさせてやります」と息巻いていた、『ルーミス・エテルネ』を。
水路沿いに丘を駆け抜けて、ようやくアリスちゃん達の姿が見えた時。
「「ええーーーーっ!?」」
灯里さんと藍華さんの、声を重ねての驚きの声が、私の耳朶を引っぱたいた。
私が皆の側まで駆け寄った時には、アリスちゃんは灯里さんと藍華さんに肩を抱かれて泣きじゃくっていた。
理由はわからない。私には見えなかった。
でも、灯里さん、藍華さん、アテナさん。更にはアレサ管理部長にアルバートさんとアイザックさんの顔を見れば。
それが、決して悪いことではない事が、手に取るようにわかった。
いつの間にか、バッグはアテナさんの手に渡っていた。一体いつの間に取られたのかわからなかったけど、その時の私は息を整えるのに精一杯で、周囲に気を配る余裕なんて全然なかったんだ。
だって、一刻も早く。
アリスちゃんを祝福したい、と思ったのだから。
「アニーさん――っ!!!」
泣きじゃくりながら、息を整えたばかりの私に飛びついて来るアリスちゃんを、私はしっかりと抱きとめた。
私の制服をくしゃりと握る、素肌の両手。
左手だけじゃない、素肌の右手が、ぎゅっと握り締められている。
それを目にした時、私は全ての疑問が氷解するのを感じた。
あの、異常に難しい水路で行われた秘密試験の理由。
特別であることの意味。
特別であることの重み。
今まで霞のように漂い、形を成していなかったそれらが、ついにアリスちゃんの両手に舞い降りた。
それは、素敵な未来のはじまりかもしれない。
それは、苦しい未来のはじまりかもしれない。
だけど、《
『素敵なものを握り締めて、ゆっくり前に進んで行けばいい』
素肌の両手に、大事なもの、なくしたくないものを握り締めて、行けばいい。
だから、私はアリスちゃんの両手をぐっと握り締めて、そして。
「プリマ昇格おめでとう、アリスちゃんっ!!」
心からの笑顔で、彼女の栄光と前途を祝福した。
※
「御苦労様。長かったわね、アテナ」
未だぼろぼろと涙を溢れさせるアリスと、彼女を取り囲んだシングル三人娘。そんな四人を少し離れた場所から見つめるアテナ・グローリィに、アレサが労いの言葉をかけた。
……苦労? そうだろうか、とアテナは心で呟く。そんなに苦労した覚えはない。自分はずっと、才能溢れるアリスの側にいて、その成長してゆく様を見守って来ただけだ。
アリスが灯里と藍華の二人と出会い、それぞれがアテナの親友であるアリシアと晃の弟子であると知ったときの驚愕。そして彼女たちと一緒に過ごすようになってからの、アリスの健やかな成長。日増しに心と技を磨き上げてゆくアリスの姿に、アテナは心から、親友達とその弟子達に感謝したものだった。
半年前からは、その面々にアニエスが加わり、更に世界は色鮮やかになった。しなやかだけど頼りない、頼りないけど逞しい。そんな矛盾に矛盾を重ねながらもまっすぐに育っていくアニエスに、アリスも少なからぬ影響を受けていった。
そんな日々は、アテナにとって幸いだった。飄々としているとよく言われるが、何が起きても平気な訳ではない。いつかのように、落ち込んでいるのをアリスに救われる事だってある。
別に望んだわけではないのに、いつの間にか《水の三大妖精》などと呼ばれるようになった。その名声の重圧に、膝を突きたくなった事だってある。そんなとき、アリスとアニエスの存在は、アテナにとって大きな救いだったのだ。
だから、苦労なんてものは何処にもなかった。あったものは、奇跡のように幸せな日々だけ。
でも、もし苦労があったとしたら、それはアリスの願いをずっと棚上げにしたままにしていた事だろう。
アリスのミドルスクール卒業。それが一つの目安だったのは間違いない。その日を境に一斉に動き出せるよう、アレサもアテナも、オレンジぷらねっとの人々やゴンドラ協会の人々も、皆が肩を並べて準備を進めてきたのだ。
それを隠し続けること、アリスの願いを棚上げにして、先に進めないもどかしい日々を繰り重ねてきた。
だが、それももう終わりだ。
アリスが、そしてアテナがずっと待ち焦がれていた日。それがようやく訪れたのだから。
「……はい」
――だから、アテナは是を返した。
そう答えてみると、何だか身体にどっと疲労感が沸き上がってきた。何のかんの言って、アリスの試験にアテナも緊張していたのだろう。今になって自覚するというのも間抜けな話だが、まあ、アテナ・グローリィというのはそういう女ではある。
「……ふふ、それじゃ私は協会の方々と今後の話を進めておくわ。貴女は今はゆっくりなさい」
そう微笑んで立ち去るアレサを見送り、アテナはほっと一息を吐き出した。喉が渇いた。考えてみれば、何かを飲んだのはお昼が最後だ。
アニエスから受け取ったバッグには、バーベキューの食材の他、数本のワインやジュースが入っていた。この重さを抱えて走ってきたアニエスの体力に感心しつつ、アテナは折角なので一本を戴くことにした。
酒類はアリシアの専売特許だが、アテナも全く飲めない訳ではない。アリシアや晃に付き合った成果もあって、ワインならばそれなりに味もわかる。アテナは適当にバッグから一本を……ラベルにはスプマンテ(発泡性のイタリアワイン)と書いてあったのだが、「甘口」と書いてあること以外は特に深く考えず、選び出した。
普段はあまり積極的に酒を嗜む事はないが、今日は特別だ。
何しろ、嬉しいのだ。
アリスが、ようやく念願叶って昇格を果たしたこと。
それを、何一つこだわりなく祝福してくれる、素晴らしい親友達の存在。
アリスが、想像以上に素晴らしい成長を遂げていたこと。
そして、何よりも嬉しいのは。
アリスとアニエスが、『彼女』の歌を、引き継ごうとしてくれているということ。
アテナに歌う力を吹き込んでくれた、まさに歌姫と言うに相応しかった、『彼女』。もう彼女しか知らないという、不思議な歌を教えてくれた『彼女』。
……もう、ずっと前に、この世を去ってしまった『彼女』。
不甲斐ない自分では、引き継がせる事など難しいだろうと思っていた『彼女』の歌を、いつの間にかアリス達が引き継いでくれていた。
技術はまだまだだ。声量もまだやや足りない。だが、そんなことよりも一番大切な事を……『彼女』の遺してくれた想いを、これ以上ないほどに引き継いだ形で。
どういう経緯で二人が『彼女』の歌に触れたのかはわからない。どうして二人が『彼女』の歌を歌おうと想ったのかもよくわからない。だけど。
――こんなに、こんなにも嬉しいことがあるだろうか。
「二人とも、きっと素晴らしいウンディーネになるわね」
アレサがそう囁く。アテナも同じ気持ちだった。
今なら、迷いなく信じられる。どんな大きな重荷を背負ったとしても、今のアリスならば、きっと乗り越えてゆける。
だって、彼女にはあんなにも素晴らしい親友と。
あんなにも素晴らしい相棒がいるのだから。
きっと、灯里も、藍華も、遠からず一人前に昇格することだろう。アリスが見せつけた素晴らしい成長は、彼女たちの薫陶の成果に相違ない。ならば、彼女たちの成長に疑う余地はない。
そして、アニエスもまた。
アニエスはまだまだ未熟であるものの、未熟であるがこそ、素晴らしい先達たちの薫陶を受け、さらに美しく、さらに軽やかに成長してゆくことだろう。
そして、いつの日か。三銃士に憧れた青年が、いつしか彼らと肩を並べるようになったように。
綺羅星が四つ、このネオ・ヴェネツィアを輝き照らすようになる。
(それは、きっと素晴らしい未来に違いないわ)
願いと、夢と、確信がないまぜになった、そんな想いを込めて。
「新たなプリマ・ウンディーネと、未来のプリマ・ウンディーネに」
乾杯、と瓶を掲げ、アテナは栓を引き抜いた――。
以上で、オレンジぷらねっと編は終了となります。
本作にしては珍しい、原作のエピソードに完全に寄り添ったシーンがあるのが特徴です。アニメを繰り返し見て、カメラのこのあたりにアニエスがいて、このタイミングではここにいるから画面には出てこない……というロケーション設定をかなり厳密に整えたのを覚えています。
ちなみに次のエピソードで触れますが、アニエスはゲーム中でもびっくりするほどスチルやイラストがありません。本作の原作ゲームのマテリアルコレクションがあるのですが、その中ですらイベントスチルは極端に少ない。主題歌シングルにいたっては、挿入歌は自分(花澤香菜)が歌っているにもかかわらず、レーベルケースのディスクトレー箱の裏にしかいないという有様(表面は灯里)。
あまりにあまりな有様から、アニエスはカメラに映りたがらないという設定が生まれました。
次のエピソードからはARIAカンパニー編。ちょっと驚く展開かもしれませんが、どうぞご容赦の上、ご覧頂けますように。