ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Graceful Way 02 トリニティ・マスケッターズ

「おかえりなさい、灯里ちゃん、アニーちゃん」

 

 舟を桟橋に係留して上がると、そこには今日はお休みのはずのアリシアさんが待っていた。

 

「遅いわよ、灯里、アニー」

「でっかいどこまで出掛けていたんですか?」

 

 更に、アリシアさん特製のココア(そろそろ終わりの時期だと言っていたから、多分今年最後の)を片手に、口々に抗議の声を上げる藍華さんたち。

 

「あれ、アリシアさん?」

「あー! 藍華ちゃんにアリスちゃんも、どうしたの?」

 

 買い出しの荷物をテーブルに置いて、予想外の珍客に首をかしげる。アリシアさんは久々のオフだったはずだし、藍華さんやアリスちゃんは、今日もお仕事だったはずなんだけど。

 

「ついさっき帰って来たんだけど、途中で藍華ちゃんたちにばったり会っちゃったの」

 

 と、私服姿のアリシアさんが微笑む。なるほど、アリシアさんが先輩方を連れて来たというのはわかった。だけど……。

 

「藍華ちゃんたちはどうして?」

 

 私の疑問は、灯里さんが尋ねていた。テーブルの上に肘を突いた藍華さんが、ぴっと指を左右に振って見せる。

 

「この間、週刊ネオ・ヴェネツィアの取材が来たじゃない」

「ああ、期待の新人特集のあれですね」

 

 その件なら覚えていた。例のサイレン事件が終わってすぐくらいの頃に、全系誌の週刊ネオ・ヴェネツィアから、灯里さんを始めとする先輩方に取材があったんだ。何でも、ウンディーネ業界の次世代を担う新人の代表として、《水の三大妖精》の直弟子にスポットを当てた特集を組むんだそうで、灯里さんのみならず、藍華さん、アリスちゃんにも取材の人が押しかけていた。

 

 ……ちなみに、以前に記事が掲載されたことがある私は、今回はお預け。

 

「あれの見本紙が、各社に届いてるはずなのよ。各社一冊」

 

 そう言って、藍華さんはテーブルの上の封筒を指さした。風追配達人(シルフ)の配送証明印がどんと押されたそれは、発送元が『週刊ネオ・ヴェネツィア編集部』と書かれている。

 

「オレンジぷらねっとでは、先輩方が見るからとどこかに持ち出されてしまいました」

 

「姫屋の方は、その気になれば抑えられるんだけど、当の私ががっついたり、社内から持ち出すのは何だし……ねえ?」

 

 藍華さんが少し照れたように目尻を緩ませながら、アリスちゃんに目配せする。アリスちゃんはアリスちゃんで、困ったように頬を少し赤くして「でっかい恥ずかしいです」と、こくんと頷いた。

 

「それで、見る人が少ないARIAカンパニーに来たって訳。灯里たちが戻るのをずっと待ってたんだから、感謝しなさいよ?」

 

 私に関してなら、別に先に見ていてもらっても一向に構わなかったのだけど、こういう気遣いは単純に嬉しい。

 

「わーひっ。じゃあみんな、アリシアさんも一緒に見ましょうー」

「あらあら、私は後でいいから、ゆっくりみんなで読むといいわ」

 

 今年最後の生クリーム乗せココアを運んで来ながらの、相変わらずの《白き妖精》なアリシアさんの笑顔。私達はそんなアリシアさんの遠慮と心遣いを有り難く受け取りながら、雑誌の封を開いた。

 

 

 週刊ネオ・ヴェネツィアは、私のお父さんの友人が編集者をしている雑誌だ。私達ウンディーネを特集する月刊ウンディーネに比べて、週刊誌であることと、表題の通りネオ・ヴェネツィア全体を取り扱う事が特徴。地下世界や浮島についての記事も多い。

 

 先日発売された、マンホーム生まれのウンディーネ(つまり私)の記事は、思いのほか読者の反響が大きかったみたいで、続編としてのウンディーネ特集を希望する声が相次いだらしい。

 

 そこで、彼らは私を取材した時にできたツテを辿って、私と同じくマンホーム生まれのウンディーネである灯里さんと、更に灯里さんと仲がよい藍華さんとアリスちゃんの三人組にスポットを当てた。

 

 そんな訳で、週刊ネオ・ヴェネツィアの記者さんたちは、『水の妖精の次世代を担う、三銃士特集』などと銘打って、先輩方を取材した。

 

 その成果として出来上がったのが、この雑誌というわけだ。

 

「えへへ……なんだか照れるね」

 

 緊張半分、照れ半分くらいの笑顔でページをめくる灯里さん。その紙面の写真には、今とそっくりの笑顔で櫂を握る灯里さんの姿が映っている。

 

 グランドマザーから連綿と続くARIAカンパニーの歴史を受け継ぐ、《白き妖精》の一番弟子。ネオ・ヴェネツィアで、彼女の名前は知らなくとも、その特徴的な髪形と、そのとびっきりの笑顔を知らない者はいないだろう。

 

 同門の贔屓は否めないものの、私が知ってるウンディーネの中で、もっともアリシアさんに近い、大きくて柔らかな心を持つ人。それが、親愛なる水無灯里先輩だ。

 

「あー、アル君が写ってるじゃない、灯里!」

「うん、取材の途中でばったり会っちゃって」

「こっちにはムッくんがいますね」

「ムッくんって……ああ、ウッディーさんですね」

 

 灯里さんを撮影した写真には、他の誰かが一緒に写っていることが多い。それはアリシアさんや藍華さんたちはもちろん、暁さんやウッディーさん、アルさんなど、様々な人々だ。雑誌に掲載されている一番大きな写真にも、隅っこに郵便屋の庵野さんの姿が見える。

 

 本来なら、こういう写真からは余計な人の姿が写らないようにするものだと思うのだけど、そこは灯里さん、誰かと出会った直後が一番素敵な表情になる。記者さんもそのあたりがわかるのだろう。セオリーを破ってでも、一番素敵な姿をピックアップしている。

 

「どれどれ、次のページは私ね」

 

 ページをめくると、次の写真は藍華さんだった。

 

 写真の中の藍華さんは、今と同じ白地に赤の制服を纏い、櫂を後ろ手に不敵な笑みでこちらを見返してくる。どことなく晃さんを彷彿とさせるのは、さすが師弟というところだろうか。

 

 髪を留めるヘアピンは、いつものものと違って、装飾の奇麗なお洒落品。藍華さんは、よほど気合が入っている時でないと、このヘアピンは付けてこない。

 

「あ~~~~っ! ピンがちょっとずれてる!?」

 

 藍華さんが、写真の自分のヘアピンを見とがめ、悲鳴を上げた。

 

「……え、藍華ちゃんどこ?」

「でっかい、見た目ではわかりませんね」

 

 気合が入っているだけに、ヘアピンの角度などにもこだわりがあるらしい。灯里さんにもアリスちゃんにも、もちろん私にもわからない些細な違いが、藍華さんには見えたようだった。

 

 実のところ、私を含んだ四人の中では、藍華さんが一番お洒落に気を配っていると思う。それは師匠の晃さんも同じで、何気なく、しかし手抜かりなく様々な工夫をしているのが、藍華さん達流なんだろう。

 

 見た目の華やかさでも、灯里さんの写真に比べて藍華さんのものの方が上回っているように見える。カメラさんも、そのあたりを気遣って撮影の仕方を変えたんじゃないだろうか。背景の建物も、灯里さんの時よりも印象的なものが選び出されているという感じだ。

 

「次は、アリスちゃんだね」

「……でっかい緊張します」

 

 台詞の通り、がちがちに体を強ばらせたアリスちゃん.ページをめくると、またまた今のアリスちゃんにそっくりな、強ばった笑顔でカメラを見返す彼女の姿があった。

 

 アリスちゃん自身は、オレンジぷらねっとに入社して間もない頃に、何度か雑誌の取材を受けたことがあるらしい。ならば取材慣れしているのかと言えばそういうわけでもなく、当時はわからなかった自分の問題が理解できるようになった分、逆に以前よりカメラの前で緊張してしまうようになったのだという。

 

 そのせいなんだろう。この特集のアリスちゃんは、以前私が灯里さんから見せてもらった月刊ウンディーネの写真(灯里さんたちがアリスちゃんと出会う前のものらしい)より、自然さがなくなり、戸惑いの色が濃くなっている。

 

 でも、この照れが交じった表情を見る限り……今のアリスちゃんの方が、魅力的になっていると思う。でも、そんなことを言うとアリスちゃんが拗ねてしまうので、私は黙っていることにした。

 

「それにしても、さすがはプロのカメラマンさんですねー。素敵な写真ばっかりです」

 

 紙面に散りばめられた写真の数々を眺めて、私はほぅっと息を漏らした。灯里さんも、藍華さんも、アリスちゃんも。皆の最高の瞬間を切り取って、紙面一杯に溢れさせている。何枚かに一緒に映っているアリシアさん、晃さん、アテナさんも、自分の一番弟子を誇るように笑顔を浮かべている。

 

「これは、ARIAカンパニーの本棚に永久保存しないといけませんね」

「ぷいにゅ!」

 

 私の提案に、アリア社長が元気よく腕を上げて同意してくれた。

 

 この本は、きっと将来、先輩方が今を思い出す時に紐解かれるんだろう。アリシアさん達が時折、シングルだった頃を懐かしむように話をしているように、きっといつか、プリマになって……。

 

「まさしく、《水の妖精三銃士》なんて呼ばれるようになった頃に、きっと素敵な過去を呼び覚ます鍵になってくれるんでしょうね……」

「アニー、恥ずかしい称号とモノローグ禁止」

「えぇ~っ」

 

 うっかり声に出してしまった私に、いつも通りの突っ込みが入った。

 

「でも、写真が過去を呼び起こしてくれるのは確かだよね。楽しかった事も、苦しかったことも、その写真を見る度に、心から思い出があふれ出して来るんだもの」

「んなっ……」

「古来、宝石箱の鍵には美しい彫刻が施されていたといいます。アルバムというのは、まるで思い出の宝石箱の鍵束のようですね」

「はぅっ……も、もうあんたたち! 三人揃って恥ずかしい台詞禁止!」

 

 突っ込む方が真っ赤になって、禁止禁止と指先を突き付ける。私と灯里さんとアリスちゃんは、最近こういう風に、三人揃って恥ずかしい台詞を重ねて藍華さんを困らせて遊ぶ悪い癖がついている。……いや、多分灯里さんは素だと思うし、私も狙ってそういうことが言えるほど器用でもないのだけど。

 

「……でも、鍵束と言うには、ちょっと足りませんね」

 

 なんてことを考えていると、唐突にアリスちゃんがそう言った。

 

「足りないってどういうこと? アリスちゃん」

 

 開いた雑誌を不満げに眺めながら言うアリスちゃんに、灯里さんが首を伸ばして手元を覗き込む。

 

 はて、何のことだろう。写真には、灯里さん、藍華さん、アリスちゃんはもちろん、アリシアさん、晃さん、アテナさん、更には暁さんやアルさんにウッディーさん、果ては郵便屋の庵野さんまで写っているというのに。

 

 だけど、アリスちゃんは、心底不満そうな顔をして、週刊ネオ・ヴェネツィアを指さした。

 

「この雑誌の写真……アニーさんの写真が一枚もないんです」

 

 

「そう言えばそうね。アニーなんて、暇を持て余して私の取材の時にも一緒にいたのに、なんでかしら」

「私のこの写真撮った時、確かカメラさんの舟を漕いでたのはアニーちゃんだったよね」

 

 藍華さんの指摘に、灯里さんも同意した。といってもそれには理由があって、お父さんの友人である週刊ネオ・ヴェネツィア編集者の人と、その人お付きのカメラマンさんを乗せるのに、『お友達』である私の舟を使うのが、色々と都合が良かったから……なんだけど。

 

 改めて考えると、これって立派なただ乗りだし、メディアの人ってなんかずるい、と思わなくもない。

 

「それにしても、アル君はともかくポニ夫まで隅っこに写ってるのに、どうしてほとんど全部現場にいたはずのアニーが写ってないのよ。なにかおかしくない?」

 

 藍華さんがちょっと憤慨したように頬を膨らませる。私としては別にたいしたことじゃないのだけど……そうやって私のために怒ってくれているのだと思うと、罰当たりかもしれないけど、ちょっと嬉しい。

 

「そういえば……アニーちゃんが写ってる写真って、ほとんどないよね?」

 

 灯里さんが、眉を潜めた。

 

 私は自慢じゃないけど写真を撮るのはちょっと自信があるし、携帯電話(スマート)を持ち歩いているので、いざって時に写真を撮るのは大抵私の仕事だ。

 

 そして撮影する側だってことは、写真に写らないということでもある。セルフタイマーで撮影することもできるけど、そのためにはカメラを立てるスタンドが必要だし、舟にいつもそんなものを乗せておく訳にもいかない。

 

 だから必然的に、私を写した写真は少なくなる。多分私を写した写真は、この間のサイレン事件の前の、雑誌取材の時のものが最後だ。そんな訳だから、私の写真がないのは別におかしなことじゃない。

 

 それだけの……ことなんだけど。

 

「駄目だよアニーちゃん。写真は確かに思い出の切れ端だけど、とびきり素敵な瞬間を残しておけるものなんだから」

 

 そういう灯里さんの眼差しが、何故か心にちくりと針を立てた。

 

「そうね。心の奥底にしまい込んだ思い出は、その時の心の持ちようで、くすんだり色あせたりもするわ。だけど、残しておいた写真は、まるで呼び水のように、素敵な思い出を蘇らせてくれるのよ」

 

 いつの間にか私の背後に立っていたアリシアさんが、そう言いながら私の肩にそっと触れた。

 

「だって、笑顔の写真は、一番楽しかった瞬間を焼き付けたものだから」

「そうです。過ぎてしまった時は、もう後から楽しみ直す事はできませんけど、一緒に過ごした思い出を懐かしむ事も、でっかい楽しいことです。その時、笑顔の写真があるのとないのとでは、きっと楽しさはでっかい段違いです」

 

 アリスちゃんまでが、アリシアさんに続いてそう言う。そうやって集中砲火を浴びていると、自分がものすごく損をしてきたように思えてくる。

 

「そうかも……知れませんね」

「そうよ」

 

 妙に自信たっぷりに、藍華さんも同意する。なるほど、どうやら私の全面敗北みたいだ。

 

「そう言われると、なんだか皆さんと一緒に、記念写真とかを撮っておきたくなりますね~」

 

 我ながら影響を受けやすいことだと思うけど、そんな気分にもなってくる。そんな私の様子に、ぽん、と、何か素敵なアイデアが思い浮かんだかのように、灯里さんが両手を打ち合わせた。

 

「じゃあ、明日みんなでアニーちゃんと写真を撮って回らない? お気に入りの場所とかを巡って、思い出を一緒に写真に焼き付けていくの」

「それはでっかいビッグアイデアですね」

「そうね。観光案内のおさらいとかもできそうだし」

「ぷーいにゅっ!」

 

 灯里さんの提案に、アリスちゃんも藍華さんも賛同の声を上げる。アリア社長もクローゼットから何やらお洒落を引っ張り出して、撮影会に参加する気満々みたい。

 

「あらあら、それは本当に素敵なアイデアね」

 

 更に、スフレを盛ったお皿を手にしたアリシアさんが、にこにこ笑顔で会話に参加した。

 

「あ、アリシアさん。ご都合が良いようだったら、アリシアさんも一緒にいかがですか?」

 

 藍華さんが早速アリシアさんに水を向ける。あわよくばアリシアさんと一緒に記念写真、とか思っているのだろう。でも、確かアリシアさんの明日は……。

 

「ごめんなさいね、藍華ちゃん。明日はゴンドラ協会の会合なの」

 

 申し訳無さそうな顔で、私の記憶通りのスケジュールを述べるアリシアさん。さすが、ARIAカンパニーの収入を一手に担う《白き妖精》、スケジュールはいつも一杯だ。

 

 ……いや、まあ私も灯里さんも、早く何とかしたいと思ってはいるんですけどね。

 

「そっかぁ。残念です」

「まあまあ藍華ちゃん。またチャンスはあるよ」

 

 口調の割にそんな落ち込んだ様子もない藍華さん。そもそも駄目元のつもりだったのだろう。宥める灯里さんも、大体いつもの事、という風情だ。

 

 その時、アリスちゃんがほそっと呟いた。

 

「なら、いっそ今撮ってしまったらどうですか?」

 

 その一瞬、全員がきょとんと動きをとめた。

 

「あ……そっか! アリスちゃんナイスアイディア!」

「なるほどね。アニーにとっては、ARIAカンパニーこそは、一番の思い出の場所だものね。ここを外すことは考えられないわ」

 

 ぱんっと両手を打ち鳴らす灯里さん。うんうんと頷く藍華さん。なるほど。記念写真を撮影するなら、確かにここを外すことはできない。

 

「あらあら、そういうことならちょっと待ってて」

 

 すごく楽しそうな顔のアリシアさんが、そう言って上の部屋に駆け上がって行く。アリシアさんが上がって行くとしたら、それは私と灯里さんの寝室の更に奥、いろんなものが積み上がって魔窟と化した倉庫だろう。

 

 何でもグランドマザーから連綿と受け継がれる秘密グッズや資料のほか、アリシアさんの通販グッズや、灯里さんが衝動的に買ってきた素敵グッズなどが混然一体となった空間らしいのだけど……私にはいまだに恐ろしくて触れることのできない領域だ。

 

 そんな魔窟から、アリシアさんは迷いなく何かの小箱と、細長い袋を持って降りてきた。

 

「ぷいにゅ?」

「アリシアさん、それは何ですか?」

「うふふ、じゃーん」

 

 効果音を口で唱えて、アリシアさんはテーブルの上に置かれた小箱の封を開く。丁寧に緩衝材で覆われたそれは、アリシアさんの手によってその姿を現した……大きなレンズの、古めかしい流儀のカメラだ。

 

「あ、凄ーい。一眼レフに、レンズセットもありますね?」

 

 藍華さんが感嘆の声を上げる。お客様の写真を撮影することも多いので、ウンディーネはカメラの扱いも少しは心得ている。アリシアさんが取り出して見せたのは、私達が普段使っているポケットカメラや携帯電話(スマート)内蔵のものと違って、大人数や大きな景色を撮影するのに向いた、ちょっと本格的なものだった。

 

「するとそちらは……三脚ですか?」

 

 アリスちゃんの問いかけに、アリシアさんは微笑んで然りを返す。果たして細長い袋から姿を見せたのは、足の長さを調節できるカメラ用の三脚だった。

 

「どうしたんですか、これ?」

 

 私が問いかけると、アリシアさんは少し恥ずかしそうにした。何でも、プリマになった直後くらいに、仕事で使おうと思って通販番組お勧めのカメラ一式を揃えたものの、大仰すぎて取り回しが悪いのでお蔵入りしていたものだという。

 

「そういえば、ゴンドラさんお疲れさまツアーの時に貸してくださったカメラですね」

 

 灯里さんがぽんと手を打った。私の知らない時期、ARIAカンパニーの黒い舟が代がわりした事があり、灯里さんが古い舟の思い出探索ツアーをやったことがあるのだそうだ。その時にもアリシアさんがこれを引っ張り出してきたのだという。

 

「じゃあ早速使ってみましょう。えーと……」

 

 バッテリー、よし。絞りとか焦点調整はセミオートで大体勝手にやってくれる。メモリーカードもOK。シャッターボタンはここ。

 

「じゃ、そっちに集まってください。撮りますからー」

 

 カメラを構えて、そう皆さんに声をかける。

 

「…………」

「……えーと」

「……ぷいにゅ?」

「…………あれ?」

 

 何だろう、この微妙な空気は。灯里さんもアリスちゃんも、アリア社長やアリシアさんまでもが微妙な笑顔を浮かべている。

 

 私が戸惑っていると、藍華さんがつかつかとこっちに歩み寄り、こつん、と軽く私の頭を叩いて、カメラを奪ってしまった。

 

「いたっ、何するんですか、藍華さん」

「速攻で忘れてるんじゃないわよ。あんたの写真撮影会でしょうが!」

「……あ」

 

 我ながらそら恐ろしい事に、藍華さんに指摘されるまで、私は完全完璧に、当初の目的を忘れていたのだった。

 

 

 

 

 真ん中に、私。

 

 その右に、灯里さん。その左に、アリスちゃん。藍華さんは私の右後ろで、アリシアさんは左後ろ。アリア社長は、私の前。

 

 みんな揃って、ファインダーの中にいた。

 

 カンパニーレ、の掛け声と共に切られたシャッターが、ARIAカンパニーの一夜を切り取った。

 

 いつもの、天真爛漫な笑顔の灯里さん。『もう、しょうがないなあ』とでも聞こえてきそうな表情の藍華さん。少しぎこちないけど、親愛の情を込めた笑顔のアリスちゃん。慈母のような、あるいは女神のような微笑みのアリシアさん。何を考えてるのかよくわからないけど、とりあえず楽しそうなアリア社長。

 

 そして、満面の笑顔の、私アニエス・デュマ。

 

「……ん、ふふふふ」

 

 今夜だけで何度目だろう。ベッドの上の私は、携帯電話(スマート)に転送したさっきの写真を繰り返し繰り返し呼び出しては、まじまじと見つめて、透かすように見つめて、そして真似するように笑っていた。

 

 こんないい笑顔の私を、私は見たことがあっただろうか。

 

 やる気に満ちた私。落ち込んだ私。鏡に、あるいは水面に映し出された自分の姿はいつでも目にしている。だけど、そんなものを見る時は、いつでも私は私の前にいる。どうしても構えてしまうし、笑顔を……笑顔の自分を取り繕ってしまう。

 

 こんな自然な笑顔を、私は浮かべることができるものだったのか。

 

「……どう? アニーちゃん」

 

 隣のベッドから、灯里さんが微笑んだ。カメラの写真を一足先に携帯電話(スマート)に取り込んでおいたらどうか……そんな提案をしてくれたのは灯里さんだった。お陰で、普通だったらメモリーを写真屋さんに持ち込まないと見られないところを、今私はベッドの上で眺めることができている。

 

「……なんだか、すごく、くすぐったいです」

 

 照れ半分、嬉しさ半分くらいの笑顔を返す私。嬉しくて、いろんな人に大きな声でこの感動を伝えたい気分なのに、一方でそれが気恥ずかしくて、誰にも見せない大切な秘密にしてしまいたいような、そんな矛盾した感情に右往左往している。

 

 まったく、ついさっきまで、写真に撮られることに気後れしていたなんて、信じられない。

 

 あの時、アリシアさんが手にしたカメラのレンズが私を捉えた瞬間、私は両脚が震えるのを感じた。

 

 そこにいてはいけない。そのままではいけないと、私の中で誰かが叫んでいる。じっとしていられない。その場から逃げたくてたまらない。

 

「あ、あの、アリシアさん」

 

 そんな衝動に耐えられず、思わず私は拒絶の言葉を口に出そうとした。そうしなければ、耐えられない。その場で泣き出してしまいそうな、そんな不安定さが私の喉からせり上がってくる。

 

 そんな気が、したのだけど。

 

「大丈夫だよ、アニーちゃん」

 

 そっと、右の手を、灯里さんの手が包み込んだ。

 

 暖かかった。優しかった。軽く、力も込められていない手のひらなのに、まるでその手に押しとどめられているかのように、私の体の震えが止まった。

 

 左の手のひらに、小さな手が絡みつく。アリスちゃんだ。仏頂面にふんわりと優しい微笑みを浮かべて私を見上げている。

 

 右の肩に、手のひらが触れた。藍華さんだ。私の肩をぞんざいに掴む手は、だけど勇気づけるような力強さは一番。そんな彼女が浮かべて見下ろすのは、しゃきっとしなさいよ、と言わんばかりの笑み。

 

「ぷいにゅっ!」

 

 そして、アリア社長が、私の膝の上に飛び込んできて。

 

 セルフタイマーをセットして、ばたばたと駆け寄るアリシアさんが私の左の肩に触れたときには、私の怯えはどこかに消えてしまっていた。

 

「じゃあ、せぇの……」

『カンパニーレ!!』

 

 そして、ARIAカンパニーの、最高の夜が、ここに切り取られた。

 

「本当に、写真は素敵な思い出の鍵なんですね」

 

 写真を眺めて、瞼を閉じれば、あの時の居間の様子が手に取るように思い出せる。

 

「明日はもっと一杯、素敵な写真を撮れるよ」

 

 何かの確信があるように、灯里さんが笑った。

 

 

 夜も更けて、隣のベッドの灯里さんが寝息を立て始めた頃、私はふと、ベッドから這いだした。

 

 写真を上から下からと眺めていた結果、携帯電話(スマート)のバッテリーが危険信号を発し始めたからだった。

 

 マンホームではどこにでもあった充電器も、アクアでは限られた場所にしかない。我らがARIAカンパニーでは、一階の電話の側にあるだけだ。

 

 寝間着のまま階下に降りると、そこには小さな灯りが点っていた。

 

「あれ、アリシアさん?」

「……あら、アニーちゃん。まだ起きてたの?」

 

 テーブルに向かって眼鏡をかけて、何かを熱心に眺めていた様子のアリシアさんが、私に気づいてそう声をかけてきた。

 

 何か仕事をしていたのか、テーブルの上には会社経営関係の書類や本が並んでいる。しかしそれらは綺麗に閉じられており、今は作業が一段落して、何かの雑誌に目を落としているようだった。

 

 携帯電話(スマート)を充電マットの上に置いて、問い返す。

 

「私は充電に。アリシアさんはお仕事を?」

「ええ。ちょっと早めにやっておきたい事があって。でももう終わったから、片づけたら帰るわね」

 

 ぱたん、と雑誌を閉じ、眼鏡をケースに片づけるアリシアさん。そしてテーブルに並んだ資料を片づけようと手をかけるのだけど、それを私が制した。

 

「あ、アリシアさん。その片づけは私がやっておきます。もう遅いですから、早く帰って休んでください」

 

 アリシアさんは、会社からそう離れていないものの、会社とは別の所に住んでいる。今から帰って着替えて……と考えると、できるだけ早く家に帰った方がいいに決まっている。幸い、私はもう寝るだけだし、少しくらい夜更かししても大丈夫。

 

「そう? ……ありがとう、アニーちゃん。それじゃ、お願いするわね」

「はい、お疲れさまでした、アリシアさん」

 

 アリシアさんの笑顔を見送って、テーブルの上を片づけにかかった。

 

 テーブルの上にあったのは、会社の出納帳や企業年鑑などといった、会社を運営していくために必要な資料だった。普段はあまり本棚から出てこないようなものが多く、アリシアさんは何か大変な仕事をしていたのだろうと思える。

 

 そんな重たい本を本棚に戻して、私はつい先ほどまでアリシアさんが見ていた雑誌を手に取った。……先輩方の記事が掲載されたくだんの週刊ネオ・ヴェネツィアだ。

 

 アリシアさんは、仕事が終わって一息ついていたのだろうか。もしそうだとしたら悪いことをしたと思う。

 反省しつつ雑誌を閉じて、書架に収めようとする私だったのだけれど、その途中、うっかり雑誌を取り落としてしまった。

 

「あ、いけない……」

 

 床に落ちて、ばさりと広がる雑誌。

 

 癖がついていたのだろうか。図らずも開いたそのページは、先輩方の記事の末尾、記者さんから見た、現在のウンディーネ業界を総括したものだった。

 

 

『ウンディーネ業界は、職業の性質上、女性ばかりの職場で、かつ入れ替わりが激しい。しかも、新人として参入する若者の中でも、一人前のプリマになれないままに消えて行く娘も珍しくない。

 更に、古都ネオ・ヴェネツィアを紹介するという役割上、どうしてもそのシステムは硬直化の傾向を否めず、オレンジぷらねっとのような新鋭の企業を除くと、いささか発展が停滞していると言わざるを得ない。

 それを打破するためには、本稿で紹介した、綺羅星たる次世代の三銃士たちのような新人の成長はもちろん、それらを統括するゴンドラ協会そのものも、現場を熟知しつつ、業界を俯瞰できるような人材の積極的な取り入れを進めて行く必要がある、と筆者には感じられた』

 

 

「停滞、か……」

 

 いつもいつもウンディーネを取り扱っている訳ではないだけに、その意見はちょっと実情に即していないんじゃないか、と思える。

 

 ウンディーネに求められているのは、揺らめく水のように、素敵で穏やかな今の繰り返し。マンホーム的にがむしゃらに進歩していくのは、アクアには相応しくないんじゃないだろうか。

 

 だけどその一方で、確かにそうかもしれない、とも思う。私が変わっていったように、街も、アクアも、みな少しずつ変わってゆく。今が大切なのは間違いない。でも、その今を維持するために、変わっていく方向を見失ってしまうのも、また間違っているような気がする。

 

(アリシアさんはどう思ったんだろう)

 

 私と同じだろうか。それとも、《水の三大妖精》に相応しい、もっとはっきりとした考えを持っているんだろうか。

 

 そんな事を考えながら、私は雑誌を書架に収め、ベッドに潜り込んだ。


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