ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Graceful Way 04 現実と幻想の狭間より

「……え」

 

 戸惑いの声が、思わずこぼれ落ちた。

 

 右を見る。誰もいない。

 

 左を見る。闇ばかりだ。

 

 背後を見る。木がざわつく。

 

 そして、正面に向き直ったとき、そこには喪服姿の女性の姿があった。

 

「…………!!」

 

 息を呑んだ。忘れもしない、その装い。顔をヴェールで隠して、毛皮のコートを羽織った、たぶん……とびっきりの美女。

 

 そう、間違いない、彼女こそは……《サイレンの悪魔》。

 

「どうして……!?」

 

 思わず問いかけてしまう。なぜ、今更現れたのだろう。あの時、《サイレンの悪魔》は猫妖精に追い払われたはずだ。

 

 でも、考えてみる。そうだ、まだあれからせいぜい二ヶ月。私は半年近く《サイレンの悪魔》に付きまとわれていた訳で、二ヶ月くらいのインターバルは、その間にもあった。

 

 つまり、この平穏な時間は、つかの間のものでしかなかったということなんだろうか。まだ私は、《サイレンの悪魔》に苦しめられる日々から逃れられないんだろうか。

 

 ……いや、違う。

 

 そんなことであってたまるもんか。

 

 私は、あの憂鬱な日々を乗り越えたはずだ。

 

 確かに、《サイレンの魔女》に惑わされたのは確かだ。だけど、魔女が狙い撃った私の心の闇は、元々私の心に巣くって薫っていたもの。そのままでは隠したまま気づかずにいたかもしれない、そんな心の影の部分。

 

 だけど、私はそれを乗り越えた。灯里さんたちの支えのお陰ではあるけど、それでも、私の心にあった闇を、一度は振り切ったんだ。

 

 同じ手では……もう、惑わされたりはしない。

 

”あなたは……どうしてそこにいるの?”

 

 そう、《サイレンの魔女》は問いかけてきた。

 

 心に直接響くような声だった。堅く結んだはずの心を揺さぶるような声だった。

 

”どうして、あなたは自分の姿を残そうとするの? それは、あなたが一番嫌っていた事じゃなかったの?”

 

 心に染み透る、サイレンの呼び声。それは、私の心の奥底に、ちくりと針を突き立てた。

 

「それ、は……」

 

 そうだ。そう……かもしれない。私は……アニエス・デュマは、誰かの思い出に残る事が嫌で嫌で仕方がなかった。

 

 以前の私は、誰かに好きになって貰えるような人間じゃなかった。優しさに包まれていることを知っていても、心の中ではいつでも怯えている。私はその優しさに相応しい人間じゃない。間違いが露わになったとき、誰もが私から離れて行ってしまうだろう。

 

 だから私は、私を誰にも見られたくなかった。記憶に残して欲しいとも思わなかった。取り繕った笑顔の向こうを見抜かれるかもしれないと思ったから、化けの皮が剥がれたときの自分を見たくなかったから……そんなところだと思う。

 

 だから、自然と写真から身を退けていた。私の写真がないのも当たり前だ。私は、ウンディーネになった今でも、無意識にカメラのレンズから逃げだそうとしてしまう。撮影されて、誰かの思い出になることを、心のどこかで恐れている。

 

 それは私が、私の事を嫌いだったから。

 

 私が、私を覚えていたくなかったから、なのだと思う。

 

 だけど、思い出す。あのARIAカンパニーの社屋で映した一枚の写真を。

 

 ポシェットに入れたままの携帯電話(スマート)を、ぐっと外から握りしめる。この中に、私の大切な思い出が収まっている。

 

 笑顔の灯里さん。笑顔のアリシアさん。笑顔の藍華さん。笑顔のアリスちゃん。そして笑顔の私。

 

 あの暖かな記憶。決して忘れ得ない、宝石よりも大切な記憶。

 

 その中に、私は確かに存在していて、みんなと一緒に笑い合っていた。

 

 その思い出を決して手放したくないと思ったし、みんなにも私の事を覚えておいて欲しいと思った。

 

 それはきっと、私が私を――今の自分を、好きになれているからなのだと思う。

 

 昔の膝を抱えていた私ではない、この水の惑星に飛び込んで、無我夢中で前に歩いて、転んで、立ち上がって。多くの素敵な人達に支えられて、変わっていった私を。

 

 だからだろう。こんなに胸が温かいのは。

 

 私を取り巻くみんなを愛して、そしてみんなに愛されている自分を感じられるからこそ、こんなにも胸が温かい。

 

 だから、私は思い出を残したいと思う。

 

 この輝かしい日々を切り取って、心に刻む。私の心の宝石箱にそんな思い出を詰め込んで、写した写真はその鍵束。

 

 だから、私はもう恐れない。恐れてはいない。

 

「だから、それはきっと」

 

 私が、写真から逃げ出さなくなったのは。私が、誰かの思い出になることを望むようになれたのは。

 

「私が、誰かに愛されて、誰かを愛することを、怖がらなくなったから……だと思います」

 

 優しさの重みに縛られて、前が見えなくなっていた、あの日々。

 

 その軛を、大切な人達が、一つ一つ解いてくれた。

 

 そして、夢で見たいくつもの可能性。私が選ばなかったけれど、私がなりたいと思っていた自分の姿を観て。

 

 私は、自分を信じられるようになった。

 

 信じられなかったとしても、信じられるように自分を高めていこうと思えた。

 

 だから、今私はここにいる。

 

 ネオ・ヴェネツィアのシングル・ウンディーネとして、私はここに立っている。

 

 その今を――。

 

「その今を、残したいと、思えたんですよ」

 

 ふわり、と微笑みが溢れた。

 

 心に溢れる喜びの欠片が、口元から溢れ出る。

 

 そんな私の微笑みに、《サイレンの魔女》はたじろいだように見えた。

 

 言葉を探すように、指先がさまよう。私をたぶらかすための道具を探しているのだろうか。

 

 だけどその言葉は、まるで光に照らされた闇のように、手を伸ばす端から消えていってしまうようで。

 

「…………」

 

 三度も指先が胸元と口元を往復させるけれど、私に繰り出す決め手となる一撃が見つからない。

 

 だからだろうか。

 

 やがて、諦めたように顔を隠すヴェールを小さく揺らして、《サイレンの魔女》はくるりと私に背を向けた。

 

 

 ――その瞬間だった。

 

 

 ばちっと、私の頭の奥で閃光が駆け抜け、私の目が眩んだ。

 

 ふと、その背中が……どこか記憶の底の底にある像と、重なって見えたんだ。

 

 寂しそうな、背中。どんなに手を伸ばしても、誰も自分を受け入れてくれない、そんな孤独を滲ませた背中。

 

”寂しいだけ、なのかも”

 

 そんな私自身の呟きが、どこからか沸き上がってくる。

 

 何だろう、これは。

 

 そんな記憶、私にあるはずないのに。

 

 そう、多分これは、夢の向こうの記憶。

 

 無数にある可能性の中でも、私が心からたどり着きたいと思う世界。その一つの中にあった記憶。

 

 その世界で、私の心に浮かび上がった疑問のかけら。

 

 その記憶が、どうして私の中にあるのか、それはわからないけれど。

 

 夢現の幻らしく、その幻想は手を伸ばす端から消えていってしまうけれど。

 

 その記憶の想いだけは、私の中に残った。

 

 だから、私は……声を上げた。

 

「待ってください!」

 

 ぱた、と立ち去る《サイレンの魔女》の足が止まった。

 

 

「どうして……貴女は私を連れていこうとしたんですか?」

 

 立ち止まった背中に、私は問いを連ねた。

 

 《サイレンの魔女》は答えず、ただそこに足を止めたままだった。でも、それだけでも意味はある。《サイレンの魔女》は立ち去ろうとしていない。背中越しでも、私の言葉を聞くために立ち止まっている。

 

 私は、《サイレンの悪魔》に問いただしたいことがあった。

 

 灯里さんが《噂の君》と出会ったとき、彼女は『友達になれる』と言ったのだという。『ずっと一緒にいたい』とも。

 

 それは、灯里さんを連れ出す方便だったかも知れない。悪魔はそういう方便をよく使うとは聞いたことがある。

 

 だけど、もしも。

 

「あ、あの、もしも」

 

 もしも、あのイメージが間違っていないとしたら。

 

 単に、その方法を間違えているだけで、本当に《サイレンの悪魔》は、友達が欲しいだけなのだとしたら。

 

 ばちり、とまた脳裏で光が弾ける。

 

 思い起こされるのは、私の過去。覚えている中で、一番忌まわしい記憶。

 

 病院に閉じこめられたまま、お父さんにもお母さんにも友達にも我が儘を言って、当たり散らしていた、そんな私の記憶。

 

 誰かを拒絶していた訳じゃない。むしろその逆。一緒にいて欲しいから、自分を見て欲しいから、必死に声を張り上げていた。

 

 もちろん、それは間違い。そんなことをしても、みんなの心は離れて行くばかり。でも、あの時の私はそんなことも理解できず、ただこれが正しいのだと信じて……当たり散らしていた。

 

 もしかして、《サイレンの悪魔》も同じだったとしたら。

 

 寂しいあまりに、方法を間違ってしまっているだけだとしたら。

 

 だから、私は問いかけた。

 

「もしも、貴女が友達になりたいというのが本当だったら」

 

 本当だったとしたら……私は。

 

 私は、彼女の友達になってみたい。

 

 だって彼女がかつての私と同じだとしたら。

 

 私の心を溶かしてくれた優しい風を、彼女に届けてあげたいと思う。

 

「私は、貴女の世界に行くことはできないから」

 

 私は、あちら側に行ってしまったら、多分戻ってこれない。幻想に踏み込むという事は、多分そう言うことだ。

 

 だけど、幻想は現実に紛れ込む。誰にも気づかれないうちに、ひっそりと。

 

 それができるのなら……答えは簡単。

 

「だから、会いに、来てください。ネオ・ヴェネツィアへ。ARIAカンパニーへ!」

 

 ふるり、とヴェールが揺れた。

 

 そこには顔がないはずだった。でも、顔を揺らす心はあるはずだった。

 

 だから、私はいつものように……お客様を、そして大切な友達を迎えるときの、一番とびっきりの笑顔を浮かべて、右手を差し出した。

 

「水の妖精は、いつでも、誰でも、ネオ・ヴェネツィアを愛する全ての人を、歓迎していますから!」

 

 

 

 

 ――ざわ、と風が吹き抜けて。

 

 気がつくと、私はアリシアさんに抱き抱えられていた。

 

「……あれ?」

 

 ふわり、と香る、アリシアさんの髪の匂い。通信販売で買ったというお気に入りのシャンプーに、アリシアさんのそれ自身が優しさを運んでいるような香りが入り交じっている。

 

 ずっとこうやって、この香りに包まれていられたらいいのに――そんな事を考えている不埒な私に、アリシアさんが心配げに声をかけた。

 

「大丈夫、アニーちゃん?」

「……あ、アリシアさん。私……?」

 

 見ると、私を見下ろすアリシアさんの顔の向こうに、同じように不安そうな顔をした灯里さんの顔があった。私の足下に感じるふにふにぺたぺたとした感触は、多分アリア社長だろう。

 

「アニーちゃん、急に倒れちゃったんだよ。……覚えてない?」

 

 灯里さんが顛末を教えてくれた。一陣の風が舞った瞬間、私はぐらりと意識を失ったように倒れ込み、とっさに振り返ったアリシアさんに受け止めてもらったらしい。

 

 ちなみに、気を失っていたのはほんの三十秒くらいだったらしい。

 

「アリア社長が気づいてくれたのよ。お手柄ですね、アリア社長」

「ぷいにゅっ!」

 

 頭を撫でるアリシアさんに、アリア社長は誇らしげにぷいっと前足を上げる。

 

 ……確か、私が気を失う寸前まで、アリシアさんの腕の中にはアリア社長がいたはず。そんなアリシアさんが私を抱き留めたという事は、アリア社長はとっさに場所を空けてくれたということになる。

 

「ありがとうございます、アリア社長」

 

 感謝の気持ちを込めて、社長をぎゅむーっと抱きしめる。「ぷ、ぷいにゅぅ」とちょっと苦しそうに声を上げる社長の頭越しに、灯里さんが疑問を示した。

 

「でも、アニーちゃんどうしたの? 立ちくらみ?」

 

 灯里さんの問いに、私は少し思案した。あの出会いは夢だったのだろうか。だけど、夢と現実が等価であるなら、あの夢はきっと大きな意味がある。

 

 だから、私はちょっと悪戯っぽく舌を出して答えた。

 

「……ちょっと、《サイレンの魔女》と会ってました」

「え…………ええ~~~っ!?」

 

 夕闇のサン・ミケーレ島に、灯里さんの声が轟き渡った。

 

 

 

 

「……はぁ」

 

 ARIAカンパニー社屋の二階。そのテラスの手すりに上体を預けながら、水無灯里は小さくため息を吐き出した。

 

 三人と一匹が揃っての夕食を終え、食休みの時間。洗い物担当の灯里は一足先に仕事を終え、お風呂当番のアニエスは現在ブラシ片手にバスタブと格闘中である。

 

「灯里ちゃん、どうかした?」

 

 月明かりを映した水平線を見つめる灯里に、そんなアリシアの声がかけられた。

 

「あ、アリシアさん。今からお帰りですか?」

「うん。……何か気になることでもあった?」

 

 灯里の隣から優雅に顔をのぞき込む。アリシアの穏やかな微笑みが、灯里の心に少しだけわだかまったため息の欠片を溶かしていくような気がする。

 

「いえ……今日は本当に楽しかったですから、終わっちゃうのがなんだか勿体なくて」

「あらあら……そうね。今日は本当に楽しかったわ」

 

 にこにこと微笑むアリシア。グランドマザーから受け継がれた極上の笑顔だ。どこまでも広く大きく包み込んでくれるようで……同時に、どんな小さな心の染みでも、見透かしてしまうような力を秘めている。

 

 つまるところ、アリシアはお見通しなのだ。灯里が、楽しさの残滓だけで水平線を見つめていたわけではない、ということを。

 

「……アニーちゃん、《サイレンの魔女》に会ったそうですね」

 

 灯里の言葉に、そうねとアリシアは頷く。それは食事時、アニエスが語ったことだ。

 

 普通ならば、会いたいと思う相手ではない。アニエスとしても予想外のことだったようだが、その割に、彼女は何かを掴んでいたようでもある。何かを成し遂げたように自信を帯びた彼女の笑顔は、灯里が少しどきりとするほどの力強さを宿していた。

 

「……私も、猫妖精さんに会えないかと、思ったんですけどね」

 

 先日の夢のような出来事以来、すっかり灯里の周囲から『不思議なこと』が姿を消した。猫妖精自身からも、もう会えないと肯定された。その時は『来るべき時が来たのだ』と思ったし、いつでも心の中で一緒だとも思ったが……会えそうだなと思ったならば、試してみたいと思うくらいには、灯里も諦めが悪い。

 

 悪い、のだが。

 

 アリシアはしばし、そんな灯里を見つめていた。そしてふぅっと小さく息を漏らすと、無言のままに灯里の隣で、同じように月明かりで浮かび上がる水平線に視線を向ける。

 

 灯里が見上げると、そこにはアリシアの優しげな横顔と、まるで灯里を迎えるかのように差し出された肩があった。

 

 一瞬だけ逡巡して、灯里はアリシアの優しさに甘えることにした。

 

 肩を寄せて、ことん、と頭を預ける灯里。そんな愛すべき一番弟子を見下ろすアリシアが浮かべるのは、やっぱりいつも通りの包み込むような微笑みだった

 

 

 

 

 ――そして、私は目を覚ました。

 

 視界に飛び込んでくるのは、横倒しになった部屋。いつも見慣れた病室。誰もいない、私に与えられた場所。

 

 まだ、目を覚ますには少し早い時間だった。私にしては、だけれど。病室から外に出ることもない私は、元々朝に弱い事もあって、日頃から存分に朝寝坊を満喫している。

 

 だから看護士の人も、私に構わず部屋に忍び込んで、部屋を整えていくのが常だったし。

 

「……あら、早いのね」

 

 控えめなノックの後、返事も待たずに開かれた扉。その向こうから顔を覗かせた母も、起きているとは思っていなかったという様子で、顔に小さな驚きを貼り付けていた。

 

「…………」

 

 私は、何も答えなかった。ベッドの上で膝を丸めて、ぼんやりと中空を見つめる。母も私のそんな反応にはもうすっかり慣れてしまっていて、ほんの少し頬から溜息を吐き出すと、散らかしたままの古い雑誌や着替えを回収し、新しいものに交換していく。

 

 ぱたん、ぱたん。戸棚が開かれ、閉じられる。衣服が折りたたまれる音。雑誌が束ねられる音。母と私がここにいるのに、ひとつの言葉も交わされない病室。

 

 どうして、こうなってしまったんだろう。

 

 いや、理由はわかっている。それは私だ。原因は、私以外の何者でもない。口を開けば憎まれ口しか叩かない、そんなささくれた私。憎まれ口を叩かれる度に、母の顔に影が落ちる。それが苛立たしくて、また悪意が口を突く。

 

 そんな顔を見たくないのに。

 

 自分が重荷になっているなんて、思いたくないのに。

 

 だけど、私が口を開く度に、悪意が世界に広がっていく。

 

 だから、私は口を噤む。だから、私は目を閉じる。そうやって、現実から自分を閉ざしていれば、それ以上心が傷つくこともない。

 

 そう思っているのに。

 

 それならば――どうしてこんなに寂しいんだろう。

 

 そこに誰かが、一番大好きだったはずの人がいるのに、私は何も言わず、何も聞かず、ただ蹲るばかり。

 

 寂しいなら、どうして声をかけないの。

 

 寂しいなら、どうして拒絶するの。

 

”――もしも、その方法を間違えているだけだとしたら”

 

 ぱちっと、瞼の奥でそんな言葉がスパークを散らす。

 

 そう、間違っているのは私のほう。それはわかっている。

 

 じゃあ、どうするのが正しいの。私はそもそも、何を望んでいるの。

 

 わからない。何がしたくて、何が欲しくて、どうありたいのか。

 

 ――ああ、そうだ。

 

 私がなりたいもの。欲しいもの。それはきっと。

 

 あの、夢の向こうの、私。

 

 あんな風になれたら。

 

 あんな風に笑えたら、いいな、と思う。

 

 なら、どうしたらいいだろう。

 

 夢の向こうの私は、どうやって、笑っている?

 

 …………わからない。

 

 どうしてだろう。

 

 この私と、夢の向こうの私は、ほんの少ししか違っていなかったはずなのに。

 

 同じように、病に苦しんで、心を彷徨わせていたというのに。

 

 知りたい、と思った。

 

 この私と、夢の向こうの私は、何が違うのか。

 

 どうしたら、あんな私になれるのか。

 

 わからない。まだわからない。

 

”わからないなら、試せばいいんだよ”

 

 そんな声が、また弾けて消える。

 

 ……そうだ、わからないなら。

 

 わからないなら、知ろう。彼女のことを。彼女を取り巻く世界のことを。

 

「…………母さん」

 

 そう、声を発したのは、いったいどのくらいぶりのことだったろうか。

 

 母さん、なんて呼びかけたのは、どれくらいぶりのことだったろうか。

 

 寝間着を畳む手を止めて、びっくりしたように目を丸くする……母さん。

 

 そんな母さんに、私は少し気後れするような感情を持て余しつつ、問いかけた。

 

「……アクアについての本、ない?」

 

 それは、私にとっては、ただの要望だった。

 

 だけど、母さんにとっては、そうでなかったらしい。

 

 ぱっと、母さんの顔が、明るくきらめいた、気がした。

 

「え、ええ。欲しかったら、いくらでも捜してくるわよ」

 

 いつになく勢い込んで「データと紙どっちがいい?」とか「図書館から借りてくるかしら」などと騒ぐ。

 

 戸惑う私を余所にひとしきり一人で騒いで、母さんはふと、怪訝な顔を取り戻した。

 

「でも、どうしたの。急に?」

 

 そう疑問に思うのも無理もない。私にもよくわからないんだから。

 

 だけど、私は、よくわからないなりに、答えを持っている。

 

「……なりたい私が、いるんだ」

 

 我ながら、わけがわからない答え。

 

 でも、母さんは、私がもう前にいつ見たのか覚えていないような明るさで相好を崩して、私の両手を握りしめた。

 




 ARIAカンパニー編前章、早いですが終了です。

 灯里の側にいたことにより感受性が強まっていることもありますが、本章のアニーは全体的にレベルアップしています。何故他のシナリオの経験値が反映されているのかと言えば、だいたい中継した人のせい、ということですね。

 投げっぱなしのフラグがいくつも残っていますが、それは後章の講釈にて。

 エルシエロ・アフターの終章『Sola』、よろしければ引き続きお付き合いください。


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