ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
ゴンドラなしで巡るネオ・ヴェネツィアは、どこまでも続いているかのように感じられた。
さんさんと輝く太陽は、冬の面影をすっかり背中に覆い隠して、爽やかな詩歌を青く高く奏でている。
空ってこんなに高かったんだ。そんな間の抜けた感想が漏れ出して、私は苦笑した。なんだ、まだ結構余裕あるじゃないか。
あれから……私の解雇宣言から、二つ夜が明けた。
今月が終わるまで、あと五日。私がウンディーネでいられるのも……このままなら、あと五日。
晃さんは、じっくり考えろと言った。自分が本当はどうしたいのか、ぎりぎりまで考え続けろ、と言った。そうでなければ、絶対に後悔すると言った。
でも、残された大切な時間なのに、私は、どうしたらいいのかわからない。ゴンドラに乗れないから合同練習に顔を出す訳にもいかず、寮に居座っていても、陰鬱な感情が溢れて溺れそうになる。かといって外出したとしても、行くところも思いつかない。
だから、私はただ、小道を歩いていた。
ウンディーネは、休暇の私用でもゴンドラを持ち出すことが多い。私もその例に漏れず、町に出掛ける時はいつも水路の上だった。
だから、道の上から町を見回すのは本当に久しぶりで……そして、酷い違和感を感じた。
「ああ……そうか」
原因はすぐにわかった。私が知っているネオ・ヴェネツィアは水路が中心で、陸路の道の繋がりは、あまりはっきりとは覚えていなかったんだ。
だから私は、複雑怪奇な小道に惑わされ、気が付いた時には今いる場所を見失ってしまっていた。
「参ったなあ……」
と口には出してみるけれど、実のところ私としては、道に迷ったのはむしろ好都合だった。
迷っている間は、歩き続けることができるから。
答えの見えない問いから目を背け、あてどもなく彷徨うことができるから。
広場に出る度に、適当に道を選んで進んで行く。足がきりきりと疲労を訴え始めても、まだ歩き続ける。
(どうして、こんなことをしているのだろう)
そう、私の中の誰かが問いかける。
(何も理由なんてないよ)
と、誰かの中の私が答える。
何も理由なんてない。目的もない。義務もない。ないない尽くしの道行き。
敢えて理由を探すとしたら。
(――それは、いつものように、逃げ出しているだけだよね)
そう、私の中の誰かが囁いて……私の足は、止まった。
目の前には、水路があった。静かに水を湛えたそこには、空と、壁と、そして酷く陰鬱な顔が映っていた。
「あは……これじゃ、駄目だよね。私は約束したんだから」
無理に、笑顔を作ってみた。水面の私は、ぎりぎりと軋む音がしそうなくらいに歪な笑顔を浮かべていた。
アンジェさんや皆さんに助けられたその後、私は心に決めた。決して心を閉ざさないと。
背を向けて逃げないと約束した。自分の殻に閉じこもらないと誓った。だってこんなにも大切な人たちが、私の事を見てくれているのだから。だから……。
「約束……したもん。強くなるって、お父さんと、お母さんと、アンジェさんに……」
大切な人の名前を一つ一つ唱えると、だんだん笑顔がそれっぽくなってきた気がした。
どうにか渾身の空元気を絞り出し、顔を上げる。そうだ、こんなことで負けていられない。絶対負けるもんか。私だって変わっている。一人で全部背負い込んで、圧し殺していた私は、もういなくなった。今の私は、私を思ってくれる人たちを、信じることができる。だから……きっと大丈夫。
さあ、まずは先に進もう。そうすれば、何かが変わるかも知れない。立ち止まっていても何にもならないのだから。
まず一歩、更に一歩。その角を曲がれば、きっと新しい世界が広がっている。そうやって自分に言い聞かせながら、私は、その角を、曲がって。
ぱぁっと、視界に青が飛び込んできた。
大好きな、ネオ・ヴェネツィアの姿が見えた。
青い海と、高い空と、浮島と、カンパニーレと、そして広い広い運河。
そこには、本当に大好きなものが溢れていた。
ゴンドラと、ウンディーネと、大好きな友達。
何の偶然なのだろう。ただ、道に迷っただけなのに。
運河岸に飛び出した私は、偶然にも。
「さあ、お手をどうぞ」
「後輩ちゃん、また顔が怖い!」
「アリスちゃん、リラックスリラックス」
……皆が練習している河岸に、出くわしていた。
※
三人は、いつものように練習を繰り返している。
灯里さんが、ついついどこかに気を散らしたり。
アリスちゃんが、仏頂面でぼそぼそ喋りだしたり。
藍華さんが、それを細々と叱ったり、からかわれたり。
――ふと、考えたことがある。
私が来る前から、藍華さん、灯里さん、アリスちゃんは一緒に練習を続けていた。
彼女たちと私が一緒にいられるのは、私がアクアに来たあの日、最初に出会ったのが、アリア社長だったから。
アリア社長が、灯里さんと巡り合わせてくれた。灯里さんが、アリシアさんを。アリシアさんが、晃さんを。晃さんが、藍華さんと、そしてアテナさんとアリスちゃんと巡り合わせてくれた。
だから、今の私がある。藍華さんと同じ部屋で暮らし、彼女たちといつも一緒にいる私がいる。
だけど……私がもし、普通に姫屋の門を叩いていたならば。
手違いとは言え、実際姫屋の新人枠に空きはなかったのだから、私はきっと、他の小さな会社に回されていたのではないか。
たとえ、そうなっていたとしても、私はウンディーネになることを諦めはしなかっただろうけど。
少なくとも、私は藍華さん達と、こんなにも親しくなることはなかっただろう。
……そして、たとえそうだったとしても、きっと。
私とみんなが出会わなかった世界でも、藍華さん、灯里さん、アリスちゃんの三人は、こうして楽しげに合同練習をしていることだろう。
……異物なんだ、私は。
私がいなくても、皆の輪は、何事もなかったように回り続けるんだ。
だから。
きっと、私がいなくなっても、きっと。
皆は、何事もなかったように、楽しく日々を過ごして行くだろう。
(――あ)
ふと、視界がぼやけた。
ぎりりり、と胸が痛む。
何か、熱いものが溢れる。
ぽろり、ぽろりと零れ落ちるのは、私の涙。
――私、泣いている。
「あ……れ?」
ぽろぽろ、ぽろぽろ。
何故だろう、涙が止まらない。
ううん、理由はわかっている。
――怖い。
――悔しい。
あの場所に、戻らなくてもいいことが。
あの場所から、消えてしまうことが。
あの場所から、消えなくてはならないことが。
どうしょうもなく――怖くて、苦しい。
「…………アニーちゃん?」
気が付くと、灯里さんが私を見上げていた。
いつの間に気づかれていたのだろう。本当に灯里さんは”何か”を見つける天才じゃないんだろうか。
「灯里さん……っ、ご、めんなさい……」
「大丈夫」と答えるつもりだったのに、ぐしぐしと涙を袖で拭いながら私が紡げたのは、そんな謝罪の言葉だった。
そんなつもりはなかったのに。灯里さんの顔に、陰を落としたいなんて思ってもいなかったのに。
「うん。大丈夫だよ。ほら、みんなも来るから」
にこりと、普段なら見るだけで元気になる笑みを湛えて、灯里さんが目配せする。それにタイミングを合わせた訳ではないだろうけど、その先は丁度、アリスちゃんと藍華さんが駆け寄ってくるところだった。
「灯里先輩、何を……あっ」
「ちょっとアニー、大丈夫!?」
二人も、灯里さんの側に私がいることに気づいたのだろう。更に足を速めてこちらに駆け出す。
「藍華さん……アリスちゃん。……ごめんなさい」
また、私の口から出るのは、謝罪の言葉。灯里さんの隣に辿り着いて、息を荒げる藍華さんとアリスちゃんが、それぞれ目を丸くする。
「なぁにいきなり謝ってるのよ、この娘は」
「でっかい唐突です、アニーさん」
「でも……だって」
何故と言われても言葉に詰まる。折角楽しく練習していたみんなの輪を崩してしまったこととか、心配かけてしまってることとか、色々な感情と事情がないまぜになっていて、考えがまとまらない。
「だから……ごめんなさ」
「はい謝るの禁止!」
「あうっ」
ぽこん、と藍華さんのチョップが入る。目を丸くする私に、向けられる藍華さんの表情は、いつもの凜とした笑顔。それが苦笑交じりに小さくため息を吐き出して、
「まあ、あんたのことだから、そんな事じゃないかと思ったわ。だから言ったでしょう、アニーみたいな娘は、一人でいたら駄目なんだって」
と、また軽くぺん、とチョップを飛ばした。
「ふふ、藍華ちゃんはアニーちゃんのこと、本当によくわかってるんだねー」
「そりゃまあ……半年も四六時中一緒に過ごしてれば、色々わかるわよ」
「でっかいいいコンビです。最初は灯里さんが増えたみたいだ、とかツッコミ半分受け持ってくれ、とか言ってましたけど」
「はい古い話蒸し返すの禁止。……とにかく、こういう気分の時はプリンね、生クリームどーんと乗せたプリン」
唐突に、藍華さんがそう言い出した。
「プリン……ですか?」
「……あ、なるほどぉ。そうだね、ふふふ」
あんまりに強引な話。小首を傾げるアリスちゃんだけど、灯里さんは何やら得心しているようで、にこにこ笑っている。
「何よ灯里、意味ありげな笑いなんて似合わないわよ」
「だって…………ねえ、アリスちゃん」
「あ……そっか、そうですね。ある意味藍華さんらしいです」
見透かしたような微笑みの灯里さん。その表情は、なんだかどことなく、アリシアさんを彷彿とさせる。そのせいなのか、それとも何か照れる事でもあるのか、藍華さんはツンと顔を背けた。
「うっさいわね。とにかくプリン買いにいきましょ。それからまた一緒に練習。アニー、反論は許可しないわよ」
「え、でも私、ゴンドラは禁止……」
「漕がなきゃ大丈夫よ。漕ぐだけがウンディーネじゃないでしょ。観光案内とか、舟謳とか、練習できることはいくらでもあるんだし、一週間もサボるなんて、時間が勿体ないわよ」
私の反論に畳み掛けるように、藍華さんがまた私ににじり寄って、ぴっと指先で鼻の頭をつつく。いささか強引な話だし、そもそもウンディーネ不適格の私が、今更どんなに練習しても意味はないと思うのだけれど。
「うふふ、アニーちゃん。藍華ちゃんは、アニーちゃんと一緒に練習したいんだよ」
灯里さんの言葉が、私の”でも”を振り払った。
「こら灯里、勝手に決めつけるの禁止!!」
「でもでっかい事実です。それに私も、アニーさんがいないとちょっとつまらないです」
「うんうん、私も、藍華ちゃんと、アリスちゃんと、アニーちゃんとで一緒に練習するのが好きー」
……また、目の奥の泣き虫が騒ぎ始めた。
胸が熱い。心臓が早鐘を打つ。体中が踊りだしたいくらい嬉しいのに、目尻は熱く涙を溢れさせる。
どうして、こんな人達と出会ったのだろう。
どうして、こんなにもすばらしい人達と、共にいることができたのだろう。
「……もう、しょうがないわね」
いつしか泣きじゃくっていた私を、藍華さんがそっと抱き寄せてくれた。
……どうしたらいいのか。
……どうするのが正しいのか。
わからない。わからなくなってしまった。
だけど……私は。
私が望むことが許されるのならば。
私は……皆と、肩を並べて歩みたい。
どうすれば、そうであれるのか、わからないままだったけれど。
全てを見通すように微笑む灯里さんと、僅かに戸惑いを交えつつも親愛の笑みを浮かべるアリスちゃん、そして私の背中を優しくさすってくれる藍華さんに囲まれて。
私はそう願いを確かにして……。
またあの歌声を、聞いた。
※
そして、また目を覚ました私の耳に、とんでもない言葉が飛び込んできたんだ。
「おい、アニー! 見つかったぞ、治療法!!」