ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Fenice 03 迷い猫

 ゴンドラなしで巡るネオ・ヴェネツィアは、どこまでも続いているかのように感じられた。

 

 さんさんと輝く太陽は、冬の面影をすっかり背中に覆い隠して、爽やかな詩歌を青く高く奏でている。

 

 空ってこんなに高かったんだ。そんな間の抜けた感想が漏れ出して、私は苦笑した。なんだ、まだ結構余裕あるじゃないか。

 

 あれから……私の解雇宣言から、二つ夜が明けた。

 

 今月が終わるまで、あと五日。私がウンディーネでいられるのも……このままなら、あと五日。

 

 晃さんは、じっくり考えろと言った。自分が本当はどうしたいのか、ぎりぎりまで考え続けろ、と言った。そうでなければ、絶対に後悔すると言った。

 

 でも、残された大切な時間なのに、私は、どうしたらいいのかわからない。ゴンドラに乗れないから合同練習に顔を出す訳にもいかず、寮に居座っていても、陰鬱な感情が溢れて溺れそうになる。かといって外出したとしても、行くところも思いつかない。

 

 だから、私はただ、小道を歩いていた。

 

 ウンディーネは、休暇の私用でもゴンドラを持ち出すことが多い。私もその例に漏れず、町に出掛ける時はいつも水路の上だった。

 

 だから、道の上から町を見回すのは本当に久しぶりで……そして、酷い違和感を感じた。

 

「ああ……そうか」

 

 原因はすぐにわかった。私が知っているネオ・ヴェネツィアは水路が中心で、陸路の道の繋がりは、あまりはっきりとは覚えていなかったんだ。

 

 だから私は、複雑怪奇な小道に惑わされ、気が付いた時には今いる場所を見失ってしまっていた。

 

「参ったなあ……」

 

 と口には出してみるけれど、実のところ私としては、道に迷ったのはむしろ好都合だった。

 

 迷っている間は、歩き続けることができるから。

 

 答えの見えない問いから目を背け、あてどもなく彷徨うことができるから。

 

 広場に出る度に、適当に道を選んで進んで行く。足がきりきりと疲労を訴え始めても、まだ歩き続ける。

 

(どうして、こんなことをしているのだろう)

 

 そう、私の中の誰かが問いかける。

 

(何も理由なんてないよ)

 

 と、誰かの中の私が答える。

 

 何も理由なんてない。目的もない。義務もない。ないない尽くしの道行き。

 

 敢えて理由を探すとしたら。

 

(――それは、いつものように、逃げ出しているだけだよね)

 

 そう、私の中の誰かが囁いて……私の足は、止まった。

 

 目の前には、水路があった。静かに水を湛えたそこには、空と、壁と、そして酷く陰鬱な顔が映っていた。

 

「あは……これじゃ、駄目だよね。私は約束したんだから」

 

 無理に、笑顔を作ってみた。水面の私は、ぎりぎりと軋む音がしそうなくらいに歪な笑顔を浮かべていた。

 

 アンジェさんや皆さんに助けられたその後、私は心に決めた。決して心を閉ざさないと。

 

 背を向けて逃げないと約束した。自分の殻に閉じこもらないと誓った。だってこんなにも大切な人たちが、私の事を見てくれているのだから。だから……。

 

「約束……したもん。強くなるって、お父さんと、お母さんと、アンジェさんに……」

 

 大切な人の名前を一つ一つ唱えると、だんだん笑顔がそれっぽくなってきた気がした。

 

 どうにか渾身の空元気を絞り出し、顔を上げる。そうだ、こんなことで負けていられない。絶対負けるもんか。私だって変わっている。一人で全部背負い込んで、圧し殺していた私は、もういなくなった。今の私は、私を思ってくれる人たちを、信じることができる。だから……きっと大丈夫。

 

 さあ、まずは先に進もう。そうすれば、何かが変わるかも知れない。立ち止まっていても何にもならないのだから。

 

 まず一歩、更に一歩。その角を曲がれば、きっと新しい世界が広がっている。そうやって自分に言い聞かせながら、私は、その角を、曲がって。

 

 

 ぱぁっと、視界に青が飛び込んできた。

 

 大好きな、ネオ・ヴェネツィアの姿が見えた。

 

 青い海と、高い空と、浮島と、カンパニーレと、そして広い広い運河。

 

 そこには、本当に大好きなものが溢れていた。

 

 ゴンドラと、ウンディーネと、大好きな友達。

 

 何の偶然なのだろう。ただ、道に迷っただけなのに。

 

 運河岸に飛び出した私は、偶然にも。

 

「さあ、お手をどうぞ」

「後輩ちゃん、また顔が怖い!」

「アリスちゃん、リラックスリラックス」

 

 ……皆が練習している河岸に、出くわしていた。

 

 

 

 

 三人は、いつものように練習を繰り返している。

 

 灯里さんが、ついついどこかに気を散らしたり。

 

 アリスちゃんが、仏頂面でぼそぼそ喋りだしたり。

 

 藍華さんが、それを細々と叱ったり、からかわれたり。

 

 

 ――ふと、考えたことがある。

 

 私が来る前から、藍華さん、灯里さん、アリスちゃんは一緒に練習を続けていた。

 

 彼女たちと私が一緒にいられるのは、私がアクアに来たあの日、最初に出会ったのが、アリア社長だったから。

 

 アリア社長が、灯里さんと巡り合わせてくれた。灯里さんが、アリシアさんを。アリシアさんが、晃さんを。晃さんが、藍華さんと、そしてアテナさんとアリスちゃんと巡り合わせてくれた。

 

 だから、今の私がある。藍華さんと同じ部屋で暮らし、彼女たちといつも一緒にいる私がいる。

 

 だけど……私がもし、普通に姫屋の門を叩いていたならば。

 

 手違いとは言え、実際姫屋の新人枠に空きはなかったのだから、私はきっと、他の小さな会社に回されていたのではないか。

 

 たとえ、そうなっていたとしても、私はウンディーネになることを諦めはしなかっただろうけど。

 

 少なくとも、私は藍華さん達と、こんなにも親しくなることはなかっただろう。

 

 ……そして、たとえそうだったとしても、きっと。

 

 私とみんなが出会わなかった世界でも、藍華さん、灯里さん、アリスちゃんの三人は、こうして楽しげに合同練習をしていることだろう。

 

 ……異物なんだ、私は。

 

 私がいなくても、皆の輪は、何事もなかったように回り続けるんだ。

 

 だから。

 

 きっと、私がいなくなっても、きっと。

 

 皆は、何事もなかったように、楽しく日々を過ごして行くだろう。

 

(――あ)

 

 ふと、視界がぼやけた。

 

 ぎりりり、と胸が痛む。

 

 何か、熱いものが溢れる。

 

 ぽろり、ぽろりと零れ落ちるのは、私の涙。

 

 ――私、泣いている。

 

「あ……れ?」

 

 ぽろぽろ、ぽろぽろ。

 

 何故だろう、涙が止まらない。

 

 ううん、理由はわかっている。

 

 ――怖い。

 

 ――悔しい。

 

 あの場所に、戻らなくてもいいことが。

 

 あの場所から、消えてしまうことが。

 

 あの場所から、消えなくてはならないことが。

 

 どうしょうもなく――怖くて、苦しい。

 

「…………アニーちゃん?」

 

 気が付くと、灯里さんが私を見上げていた。

 

 いつの間に気づかれていたのだろう。本当に灯里さんは”何か”を見つける天才じゃないんだろうか。

 

「灯里さん……っ、ご、めんなさい……」

 

 「大丈夫」と答えるつもりだったのに、ぐしぐしと涙を袖で拭いながら私が紡げたのは、そんな謝罪の言葉だった。

 

 そんなつもりはなかったのに。灯里さんの顔に、陰を落としたいなんて思ってもいなかったのに。

 

「うん。大丈夫だよ。ほら、みんなも来るから」

 

 にこりと、普段なら見るだけで元気になる笑みを湛えて、灯里さんが目配せする。それにタイミングを合わせた訳ではないだろうけど、その先は丁度、アリスちゃんと藍華さんが駆け寄ってくるところだった。

 

「灯里先輩、何を……あっ」

「ちょっとアニー、大丈夫!?」

 

 二人も、灯里さんの側に私がいることに気づいたのだろう。更に足を速めてこちらに駆け出す。

 

「藍華さん……アリスちゃん。……ごめんなさい」

 

 また、私の口から出るのは、謝罪の言葉。灯里さんの隣に辿り着いて、息を荒げる藍華さんとアリスちゃんが、それぞれ目を丸くする。

 

「なぁにいきなり謝ってるのよ、この娘は」

「でっかい唐突です、アニーさん」

「でも……だって」

 

 何故と言われても言葉に詰まる。折角楽しく練習していたみんなの輪を崩してしまったこととか、心配かけてしまってることとか、色々な感情と事情がないまぜになっていて、考えがまとまらない。

 

「だから……ごめんなさ」

「はい謝るの禁止!」

「あうっ」

 

 ぽこん、と藍華さんのチョップが入る。目を丸くする私に、向けられる藍華さんの表情は、いつもの凜とした笑顔。それが苦笑交じりに小さくため息を吐き出して、

 

「まあ、あんたのことだから、そんな事じゃないかと思ったわ。だから言ったでしょう、アニーみたいな娘は、一人でいたら駄目なんだって」

 

 と、また軽くぺん、とチョップを飛ばした。

 

「ふふ、藍華ちゃんはアニーちゃんのこと、本当によくわかってるんだねー」

「そりゃまあ……半年も四六時中一緒に過ごしてれば、色々わかるわよ」

「でっかいいいコンビです。最初は灯里さんが増えたみたいだ、とかツッコミ半分受け持ってくれ、とか言ってましたけど」

「はい古い話蒸し返すの禁止。……とにかく、こういう気分の時はプリンね、生クリームどーんと乗せたプリン」

 

 唐突に、藍華さんがそう言い出した。

 

「プリン……ですか?」

「……あ、なるほどぉ。そうだね、ふふふ」

 

 あんまりに強引な話。小首を傾げるアリスちゃんだけど、灯里さんは何やら得心しているようで、にこにこ笑っている。

 

「何よ灯里、意味ありげな笑いなんて似合わないわよ」

「だって…………ねえ、アリスちゃん」

「あ……そっか、そうですね。ある意味藍華さんらしいです」

 

 見透かしたような微笑みの灯里さん。その表情は、なんだかどことなく、アリシアさんを彷彿とさせる。そのせいなのか、それとも何か照れる事でもあるのか、藍華さんはツンと顔を背けた。

 

「うっさいわね。とにかくプリン買いにいきましょ。それからまた一緒に練習。アニー、反論は許可しないわよ」

「え、でも私、ゴンドラは禁止……」

「漕がなきゃ大丈夫よ。漕ぐだけがウンディーネじゃないでしょ。観光案内とか、舟謳とか、練習できることはいくらでもあるんだし、一週間もサボるなんて、時間が勿体ないわよ」

 

 私の反論に畳み掛けるように、藍華さんがまた私ににじり寄って、ぴっと指先で鼻の頭をつつく。いささか強引な話だし、そもそもウンディーネ不適格の私が、今更どんなに練習しても意味はないと思うのだけれど。

 

「うふふ、アニーちゃん。藍華ちゃんは、アニーちゃんと一緒に練習したいんだよ」

 

 灯里さんの言葉が、私の”でも”を振り払った。

 

「こら灯里、勝手に決めつけるの禁止!!」

「でもでっかい事実です。それに私も、アニーさんがいないとちょっとつまらないです」

「うんうん、私も、藍華ちゃんと、アリスちゃんと、アニーちゃんとで一緒に練習するのが好きー」

 

 ……また、目の奥の泣き虫が騒ぎ始めた。

 

 胸が熱い。心臓が早鐘を打つ。体中が踊りだしたいくらい嬉しいのに、目尻は熱く涙を溢れさせる。

 

 どうして、こんな人達と出会ったのだろう。

 

 どうして、こんなにもすばらしい人達と、共にいることができたのだろう。

 

「……もう、しょうがないわね」

 

 いつしか泣きじゃくっていた私を、藍華さんがそっと抱き寄せてくれた。

 

 ……どうしたらいいのか。

 

 ……どうするのが正しいのか。

 

 わからない。わからなくなってしまった。

 

 だけど……私は。

 

 私が望むことが許されるのならば。

 

 私は……皆と、肩を並べて歩みたい。

 

 どうすれば、そうであれるのか、わからないままだったけれど。

 

 全てを見通すように微笑む灯里さんと、僅かに戸惑いを交えつつも親愛の笑みを浮かべるアリスちゃん、そして私の背中を優しくさすってくれる藍華さんに囲まれて。

 

 私はそう願いを確かにして……。

 

 

 またあの歌声を、聞いた。

 

 

 

 

 そして、また目を覚ました私の耳に、とんでもない言葉が飛び込んできたんだ。

 

「おい、アニー! 見つかったぞ、治療法!!」

 


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