ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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ARIAカンパニー編 Sola
Sola 01 新しい友達


 夢の向こうのアクアでは、春が終わりに近づいているようだった。

 

 けれど、私の病室の窓から見える景色は、いつも通りの灰色だった。

 

 徹底した合理化によって作り出された鳥籠。空は確かに青いかもしれない。植樹された町並みは目を突き刺さない緑や白かもしれない。でも、私に見える景色は、色を失って、変化しないままの世界。

 

 変わらない病室。変わらない日常。季節すら変わってくれない。自分で変える環境も、自分で設定できるからこそ……飽きる。

 

 だから、私は手元の本に目を向けた。

 

 両親が、そして友達が。持ち込んでくれた雑誌や写真集。表紙には、白の衣を纏った少女達が、蒼穹と蒼海の狭間を優雅に揺れる様が映されている。紅、橙、そして青。白に様々な色を散らしたウンディーネ達を取り上げた書籍の数々。

 

 最初は母さんが持って来てくれた。そして父さんも捜して来てくれた。そのうちに、随分久しぶりに顔を見る、幼なじみやクラスメイト達が顔を見せて、また本を置いて行ってくれた。

 

 私に、こんなに人との繋がりがあるなんて、つい先月には想像もできなかった。

 

 手を伸ばさなければなにも変わらない。でも伸ばすだけでも変わらない。手を伸ばして、そして伸ばされた手を受け入れる。そうして初めて、世界は広がっていくんだろう。

 

 そのことを、夢の向こうの私が教えてくれた。

 

 あちらの私は、今はどうしているのだろう。もっと素敵に変わっているだろうか。

 

 空想の翼を広げていると、くらり、と世界が暗くなった。

 

 いつもの発作だ。また現実が消えていく。

 

 耳の奥で遠く聞こえる歌声めいた幻聴の中、私は願った。

 

 もし夢を見られるなら、またあの蒼い惑星の夢を見たい、と。

 

 

 

 

 拝啓、アンジェさん。アニーです。

 

 ≪海との結婚式≫の写真を送って以来ですけど、ご機嫌いかがでしょうか?

 

 ネオ・ヴェネツィアは、一足早く夏模様です。一応暦の上では春なのですけど、暁さんたち火炎之番人さん達が頑張りすぎているのか、外に出ると太陽が高く、部屋の暗さにはっとすることもしばしばです。

 

 先日お送りした写真撮影ツアー以来、先輩方も大先輩方も、大変多忙な日々が続いています。

 

 灯里さんと藍華さんのシングル二人は雑誌記事の効果で指名予約が殺到しているし、ペアのアリスちゃんもミドルスクール卒業を間近に控えて様々な手続きやイベントに追い回されているようで、合同練習もすっかりまばらになってしまいました。

 

 アリシアさんの多忙は更にそれに輪をかけています。何しろシングルの船上実習にはプリマの指導が必須である上、先日までの≪海との結婚式≫の花形としての練習や、それに加えての様々な事務処理にてんてこ舞いという状況。先日ようやく≪海との結婚式≫が終わって一息つけるようにはなったものの、その間にたまっていた様々な仕事を片付けるのに、まだまだアリシアさんの多忙な日々は終わりそうにありません。

 

 特に、あの写真撮影ツアーの直後はもう壮絶でした。アリシアさんは早朝に出てきて深夜遅くまで働き続ける感じで、あのツアーの日がまるで何かの幻だったんじゃないかというほどの有様。今では、あの日アリシアさんは、相当に無理をしてあの一日を捻り出したのだろうと思っています。あの日のアリシアさんの笑顔が不思議に輝いて見えたのも、その貴重な一日を、精一杯に楽しもうと思ったからこそのものだったのかも知れません。

 

 もっとも……なぜアリシアさんがそこまでして時間を作ろうとしたのか、私にはよくわからないままなんですけどね。

 

 

 

 最近では私もいくつか事務仕事を覚えて、アリシアさんと灯里さんが船上実習の間、私が会社で事務処理をしながらお留守番、というパターンが増えてきています。(その傍ら、出納帳の記録などを眺めると、早く一人前にならねばと思うことしきりです。何しろ、灯里さんが入社した前後と私が入社した前後で、それぞれ収支グラフが大きく下向きに傾いでしまっているのですから!)

 

 灯里さんは最近操船も接客もめきめきと腕を上げています。アリシアさんの灯里さんを見る目も少し変わってきている気がするし、もしかしたら『そろそろ』なんじゃないかと感じる今日この頃です。

 

 そんな、夏を間近に控え、もうすぐアクア・アルタが押し寄せてきそうなネオ・ヴェネツィアで、私は新しい友達に出会ったんです――。

 

 

 

「それじゃアニーちゃん、行ってくるねー」

「ぷいぷいにゅー!」

「後はお願いね、アニーちゃん」

「はい、行ってらっしゃい!」

 

 灯里さんを指名のお客様を出迎えるべく、黒いゴンドラが出発する。

 

 手を振る灯里さんとアリア社長、そしてアリシアさんを見送って、私は小さく息を吐き出した。

 

 私が指名で忙しかったとき、灯里さんも同じような気分でいたんだろうか。どこかに取り残されるような、そんな寂寥感に。

 

「よしっ」

 

 声に出して、気力を充填する。今日もこれから書類仕事だ。

 

 机に向かって、パソコンを立ち上げる。灯里さんと相談して導入した事務用のものだ。古式ゆかしいタワーモデル。今時マンホームでもほとんど見かけないものだけど、そこはそれ骨董品も現役なのがここアクア。こういう愛想のない機械があると、いかにも机が「仕事をする場所ですよ」という感じに引き締まるから不思議だ。

 

 ぱたぱたと事務処理を片づける。今日のお仕事は収支記録とゴンドラ協会に提出する業務報告書。今は本文はアリシアさんに任せているけど、少しずつ私だけでもやれるようにしたいところだ。だって私ができるようになれば、その分先輩方の負担が軽くなるのだから。

 

 そんなこんなで、まだ不慣れなパソコンで書類を作り、一通りの仕事が終わったのはお昼が過ぎた頃だった。

 

「それじゃ、行きますかっ」

 

 強ばった肩を叩いて気合いを入れる。事務仕事が終わったら、次はお弁当を食べるついでの自主練習だ。

 

 電話番を機械に任せて、私は予備の舟を引っ張り出す。

 

 いつも灯里さんと使っている奴は出払っているので、こういう時のために姫屋から借りているものだ。修繕の跡だらけ、舳先の天使像は色はくすんで翼が片方折れてしまっているなど、まさしく満身創痍という感じの装い。「見ての通り、お客を乗せるには失礼にあたるレベルのものだが、練習用と割り切ればまだまだ使える(晃さん談)」ということで、姫屋の倉庫に眠っていたものらしい。(それを聞いたとき、灯里さんは複雑な顔をしていた。アリシアさんや灯里さんが以前使っていた黒い舟は、同じような経緯で荷役用に払い下げられた事があるらしい。大所帯の姫屋だからこそ、練習用の予備が活きる機会もある……ということだけど、それを平然と貸し出せるということは、使用頻度はお察しのレベルだということだ)

 

 まあ、どんな理由であれ、舟があるのはありがたいし、あれば使うべきだと思う。おんぼろの舟は、私が乗り込むと久々の出番に張り切っているかのようにぐらぐらと揺れ、私は櫂でそれを窘める。波と陽光に照らされた舳先の天使像が、鈍くきらりと光を返した。

 

「それじゃ、アニエス・デュマ、行きます!」

 

 誰が聞いている訳でもないけど、そう宣言して、私は舟を漕ぎ出した。

 

 

 

 会社を離れて。岸沿いに東へ。途中の小運河に入り込み、更に奥へと進むのが、いつもの私のルートだった。

 

 お弁当を食べるだけなら、こんな複雑なルートを行く必要はない。練習をするにしては、このルートは簡単すぎる。

 

 それでも私がこのルートを進むのには、理由があった。

 

「今日はいるかな……」

 

 目的地に向かう最後の角を曲がったところで、私は周囲を見回した。

 

 特別な場所じゃない。小さな広場があって、そこから小路が建物の隙間から奥へと延びているだけの場所。その先にはまた小さな広場があって、背の高い草が茂る中に、朽ちて半ばまで崩れ落ちた女神の彫像が立っているだけ。

 

 特別な場所じゃないそこを特別にしているのは、『彼女』の存在だった。

 

「シレーヌ、いますか?」

 

 私は目当ての姿が見つからないので、声に出して『彼女』を呼んでみた。

 

 ……返事はない。返事があるとも思っていない。何しろ、私は『彼女』の声を聞いたことがない。

 

 では、なぜ呼びかけるのかといえば……こうやって呼びかけると、『彼女』は無言のままに姿を見せるんだ。

 

 そう、ちょうど今のように。数秒前には、確かにそこには誰もいなかったのに。

 

 視線を巡らせて真正面に戻したとき、岸辺にはちょこんと座った『彼女』の姿があった。

 

 そこにいたのは一匹の黒猫だった。とても綺麗な、ヒメ社長と勝負できるくらいに滑らかな毛並みの、多分アクア猫の女の子。

 

 一体いつの間に姿を見せたんだろう、といつも思う。一瞬目を離した隙に、『彼女』はそこに姿を現す。

 

「こんにちは、シレーヌ。相変わらずどこから出てきてるんですか?」

 

 ニンジャのように音もなく忍び寄るシレーヌ……つまりその黒猫に手を差し伸べてみる。アリア社長やヒメ社長ならばじゃれついてきたりぺろぺろ舐めてくれたりするところだけど、シレーヌは顔色一つ変えずじっとこちらを見つめるばかり。撫でようとしたり触れようとするとその分だけ遠ざかり、だけど追い回したりしなければ決してそこから逃げだそうとしない、不思議な子だ。

 

 十秒くらい黙って手を差し出して、私は苦笑した。シレーヌは本当に相変わらずだ。

 

「シレーヌ、これから私は御飯を食べに行きますけど、ついてきますか?」

 

 私がそう声をかけると、シレーヌはひょいとゴンドラの上に飛び乗り、そのままちょこんと座り込んでしまった。

 

 これも、相変わらず。ポーカーフェイスの達人なシレーヌと一緒に、お昼と午後の練習をするのが、最近一人になった時の定番コースだった。

 

 

 

 シレーヌと私が出会ったのは、ほんの偶然だった。

 

 皆が急に多忙になって、一人で手持ち無沙汰な時間を持て余していた私。適当に舟を漕いでいた私が迷い込んだ広場で、彼女はちょこんと……まるで精緻な彫像のような美しさを纏って、じっと座っていた。

 

 そんな彼女から、私は何故か目を離すことができなかった。それは、彼女の視線が、私に降り注いでいたからかも知れない。まっすぐに、じっと。まるで私をずっとそこで待っていたかのように。

 

 だから、私は試しに誘ってみた。「よかったら、一緒に行きませんか?」と。

 

 彼女は、答えるかわりに黙って私の舟に乗り込むと、お客席のところで丸くなってしまった。

 

 そうして、私たちの奇妙な友達関係が始まった。不思議と他の人がいるときにはシレーヌは姿を見せないので、自然と私が一人の時に彼女を迎えに行って、お昼を一緒に食べて、夕暮れとともに別れる……というパターンができあがった。

 

 シレーヌという名前は、三度目に遭ったときに私がつけた。何となく、そんな名前が似合うような気がしたんだ。彼女がその名前を気に入っているかどうは、お得意のポーカーフェイスでわからない。でも私がそう呼ぶと近づいてくるから、少なくとも認めてくれてはいるみたい。

 

 ともあれ、そんな訳で、今日も私とシレーヌの操船練習が始まった。

 

 見晴らしの良いところでお弁当を食べて、気力充填、のち練習。

 

 以前、藍華さんあたりが立案したコースをたどり、航跡を見直して、今日の出来映えを確かめる。

 

 ――うん、今日はまずまず。もちろんアリシアさんには比べるだけ失礼、灯里さんに対してもまだ全然及ばない腕前だけど、それでも先週よりは少し進歩している。

 

「昨日より今日、今日より明日上達すればいい、だよね」

 

 確かめるように、一歩ずつ。天才でも秀才でもない私にできるのは、たったのそれだけなのだから。

 

 ふと、隣で丸くなっているシレーヌを見ると、彼女は退屈そうに大きく欠伸をして見せた。

 

 

 

「それじゃあ、また一緒しましょうね。シレーヌ」

 

 遠ざかる黒い影に小さく手を振りながらそう語りかけると、当のシレーヌは形よく長い尻尾をふいっと一つ振って、路地裏に飛び込んで消えてしまった。

 

 前触れなく船から消えるのも、いつものシレーヌだ。日が傾くくらいの時間帯になると、ふっと船から陸に飛び移って、そのまま物陰に消えていく。

 

 シレーヌが一体何処に住んでいて、どんな風に暮らしているのか。私は全然知らない。そもそも、アクア猫の生態には謎が多く、高度な知性も手伝って、彼らは人間の調査の目を巧妙にかいくぐり続けているらしい。

 

 一体、シレーヌはどんな暮らしをしているのだろう。アリア社長も、グランドマザーと一緒に暮らすようになる前は、どんな暮らしをしていたのだろう。猫の集会や。灯里さんが語るカルナヴァーレのカサノヴァの例を考えて見ても、想像の翼は際限なく広がって行く。

 

 そして、想像の空に飛んで行きかけた私の意識を、真っ白い何かが埋め尽くした。

 

「……ひぇっ!?」

「ぷ、ぷいにゅ?」

 

 もちろん、すぐに私はそれが、我らがアリア社長のもちもちぽんぽんであることに気がついた。なんでそれが目の前に迫っているのかも、多分いつものようにアリア社長がこっちに飛びついてきただけなのだとわかった。

 

 ただ問題なのは、足場が高かったせいか、ちょっと社長が高く飛びすぎて、私の顔に直撃しようとしていることと。

 

 そして何より、それだけの事を理解したからといって、身体がついて行くとは限らない、ということで。

 

「もぎゅっ……」

「ぷいにゅううううっ!?」

「はひぃーーーっ!? 大丈夫アニーちゃん!? アリアしゃちょーーーー!」

 

 どこからか聞こえる、灯里さんの悲鳴をBGMに。

 

 舟の上にずってんどうと転んだ私とアリア社長に、舞い上がった水しぶきがばらばらっと降り注いだ。

 

 

 

「お疲れ様でした、アリシアさん、灯里さん、アリア社長」

 

 黒い舟で併走する灯里さんとアリシアさん、それからこっちに飛び移ってお客様席に鎮座するアリア社長に、私は労いの言葉を贈った。

 

 本日最後のお客をサンタルチア駅に送り届けて、アリシアさん達は会社に戻る途中だったらしい。その途中、水路の途中でぼんやりしている私をアリア社長が見つけ、こう飛びついてきたという訳だ。

 

 まあ、転んだのはともかく、だ。何しろアリア社長がこうやって飛びつく人は、アリシアさん、灯里さん、それからグランドマザーくらいしか知らない。そんなアリア社長の大好きリストとでも言える面々に私の名前があるというのは、何というか、とても誇らしい気分になれる。本当の意味で、私がARIAカンパニーの一員として認められたような、そんな気がして。

 

「アニーちゃんもお疲れ様。今日も一人で自主練だったの?」

「ええ、藍華さんもアリスちゃんも忙しいみたいですし……今日も、です」

「そっか……ごめんねアニーちゃん。このところいつも一人にさせちゃって」

「平気ですよ。前の私の時には灯里さんたちに迷惑をかけ通しでしたし」

 

 気遣わしげな顔のアリシアさんと灯里さんに、私はにぱっと笑顔を閃かせて見せた。

 

「それに、いつも一人って訳じゃないですしね」

 

 そう、私は一人じゃない。一人の時は一人の時で、その時にしか会えない友達がいる。だから、一人の時も悪いことばかりじゃない。

 

「それって、前に言ってたシレーヌちゃん?」

 

 灯里さんが櫂を手繰りながらそう問いかける。私はこくんと櫂の動きに合わせて頷いた。

 

「ええ、今日も一緒に練習してました」

「にゅ……」

 

 私の言葉に、アリア社長がどこか居心地悪そうに表情を曇らせる。ふんふんと自分の座っていた場所……丁度さっきまでシレーヌが寝転がっていた場所だ……の匂いを嗅いで、複雑そうに声を上げる。

 

 アリア社長は、シレーヌが苦手のようだった。まあ、猫にも相性というものがあると思う。すこぶるフレンドリーなアリア社長と、ともすればヒメ社長をも凌駕する”おすましシレーヌ”では、何かと相性が悪いということもあるだろう。だから、私はそのことを気にしないことにしている。

 

「いいなあ。私もシレーヌちゃんに会ってみたいよ」

「あはは……シレーヌってもの凄い人見知りですからね」

 

 前に、シレーヌと一緒に練習していたときのこと。学校帰りのアリスちゃんと偶然出会った時、シレーヌはいつの間にかその場から姿を消していた。その日は結局シレーヌは戻ってこなかったし、どうやら知らない人がいると、彼女は姿を隠してしまうみたい。

 

「私ももったいないなあ、と思うんですけどね」

 

 シレーヌみたいな綺麗な子だ。灯里さんも藍華さんもアリスちゃんも、みんな放っておかないだろうに。皆と仲良くなれば、きっとシレーヌの世界もぐっと大きく素敵に広がって行くと思うのに。

 

 そんな私達に、アリシアさんがやんわりと釘を刺した。

 

「でも、広がった世界を受け入れるにも、心に余裕がないといけないから。無理に他人が広げようとしても、痛みばかりで心を閉じ込めてしまう事もあるの。ゆっくり、彼女のペースで、ね」

 

 ……ああ、確かにそうだ。

 

 私がこのネオ・ヴェネツィアを訪れてしばしの頃。萎縮してしまった私の心を、皆の優しさは空しく上滑りするばかりだった。それは誰かのせいじゃない。私が、優しさを受け入れられる心の余裕がなかっただけ。心のドアを閉ざすことでしか、私は私を守ることができなかった。

 

 シレーヌもそうなのかもしれない。どうしてかわからないけど、私の伸ばした手を受け入れるのが精一杯で、それ以上を受け止める余力がないのかもしれない。だったら……。

 

「シレーヌちゃんが受け入れられるくらいに馴染んでくるまで、待ちの一手ってことかな」

「そうですね、すみません、灯里さん」

「ふふふ、楽しみにしてるね」

 

 灯里さんのほんわかとした笑顔に、私もつられて顔を綻ばせる。アリア社長もぷいにゅ、と両手を上げて賛同してくれる。

 

 そんな私達の様子を、にこにこ笑顔で見守ってくれていたアリシアさんだったのだけど。

 

 ふい、と風が街路の隙間から吹き込んで、はらりと金色の前髪を揺らしたのを感じてか、ふっと顔を水面に向けた。

 

「……そろそろ、アクア・アルタが来るころね」

 

 指先を水面に浸して、そんなことを呟くアリシアさん。

 

 アクア・アルタ。かつてのマンホームのヴェネツィアを海底に飲み込んだ、急激な海面上昇現象。マンホームのヴェネツィアでは年に十回ばかりも街を襲っていたというけれど、ここネオ・ヴェネツィアでは年一回、本格的な夏の訪れの先触れとして訪れているらしい。

 

 もちろん、昨年秋からネオ・ヴェネツィアにやってきた私は未体験。故に前兆がわかる筈もなく、一方経験者の灯里さんならわかるのか、というと。

 

「はひ、アリシアさん、わかるんですか?」

 

 と、アリシアさんに尋ねる始末。

 

「長くこの街で暮らしているとね。なんとなく、風の様子でわかるようになるのよ」

 

 そんな新人二人の様子に、アリシアさんは乱れた前髪を整えながら、そんな風に言って微笑んだ。

 

 もちろん、風に手を梳かしてみても、鼻をひくつかせてみても、マンホーム生まれの私たちにそんな風の違いがわかるはずもなかったのだけど。

 


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