ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Sola 02 予期せぬ来客

 それから次の日。

 

 今日も灯里さんの指名で先輩方は船上実習。昨日頑張った分今日の事務仕事はミスの修正だけで済み、私は一人の時のセオリー通り、お弁当を片手に練習に向かった。

 

 もちろん、いつものようにシレーヌも一緒。彼女の視線が注がれると、格好いいところを見せるぞ、というような気になってくる。

 

 櫂を踊らせる。いつもより軽い。半年前の自分からは信じられないくらい、櫂の動きが体に馴染んでいる。

 

 毎日毎日繰り返してきた動きを、またトレースする。水の流れに逆らわず、その旋律めいた力の行く先に体を、腕を、指先を合わせる。

 

 櫂と水面が奏でるリズム。それがとても心地よい。少しアリシアさんを真似て、くるり、と櫂を踊らせてみる。舟の進路に対して円を描くように櫂を回してみれば、水のアーチがきらきらと煌めく。

 

 その櫂の軌跡を、客席にちょこんと座ったシレーヌが目線で追いかける。黄色い瞳の中で、水のアーチがきらきらと光を返している。

 

 うん、今日は絶好調。私の機嫌がいいのがわかるのか、シレーヌも長くてスマートな尻尾をゆーらゆーらと揺らしている。

 

「よぉし、もう一度です」

 

 今度は逆から、櫂をくるりと回転させる。舟の軌道から逆へ、体をくるりと捻らせ、櫂の先が宙に円を描く……はずだったのだけど。

 

「あっ」

 

 ずる、と片足が滑った。

 

 とっさに体を捻って、船底の方に体を向ける。びたん、と尻餅をついた瞬間、ばしゃ、と水面が弾かれて、王冠のような白い波飛沫が舟を縁取る。

 

「……あはは、やっちゃいましたね」

 

 船底に仰向けになったまま、なんだか気恥ずかしくなって苦笑する私。見上げる空は今日も真っ青で、遠く、高く、どこまでも続いていそうなその様は、まさしくイル・チェーロ(Il Cielo)の名前そのままのよう。

 

 その青空に、黒い尻尾がにゅっと突き出してきた。

 

 私が倒れ込んできても慌てず動じず。客席にお座りしたままのシレーヌの尻尾だった。

 

 仰向けの私の見上げる空に、まるで私のドジをからかうかのように、ゆらゆらと尻尾が踊る。

 

「あはは……恥ずかしいなあ」

 

 シレーヌに突っ込まれるなんて、まったく私もまだまだドジだ。照れ臭さを弄びながら身を起こした。

 

「今度は失敗しませんよ。見ててください、シレーヌ」

 

 櫂を握り直してしゃんと背筋を伸ばし、シレーヌに再挑戦の意気を込めて櫂を小さく掲げて見せる。

 

 しかしそんな私の言葉を、シレーヌはまるで聞こえていないかのようにそっぽを向いて、大きく欠伸をして見せた。

 

 まったくもう、シレーヌは意地悪だ。だけどだからこそ、鼻を明かしてやりたい……というか、良いところを見せてやりたいと思う。

 

 そんなことをしていたからだろう。

 

 私たちは、いつの間にか側まで近寄っていた人影に、気づく事ができなかった。

 

 

 

「……その制服」

 

 その女の子は、そんな台詞と一緒に、私達の頭上に姿を現した。

 

「えっ!?」

 

 上擦った声を上げて半身を起こし、声の主に目を凝らす。シレーヌもうっかりした、という顔で、私と同じ方を見上げている。

 

 最初に目に飛び込んできたのは、大きな赤いリボンだった。

 

 そこにあったのは、小路の岸からこちらを見下ろす女の子の姿だった。

 

 背丈は、アリスちゃんより更に小さい。成長期の女の子特有の、まだ成長した自分の体が馴染んでいない感じの装いを、黒いワンピースに包んでいる。いくら半袖とはいっても、夏の入りの日差しにこの黒い生地は暑くないだろうか……と心配になるくらいの黒さ。年の頃は、私より二つか三つ小さいくらいだろうか。

 

「……その制服、ARIAカンパニーの、ですよね」

 

 赤いリボンの女の子は、尋ねると言うよりも確かめるという方が正しそうなニュアンスで問いかけてきた。

 

 誰だろうか。見た事のない娘……だと思う。どことなく、その黒髪と、その上で目を惹く赤いリボンに見覚えがある気がするのだけど。

 

「ええ……そうですけど」

 

 戸惑いながらも私が答えると、女の子は「そうですか、やっぱり」と一人で納得したように頷いて、そして。

 

「じゃあ、貴女がアニーさんですね」

 

 こともなげに、私の名前を言い当てた。

 

 

 

「簡単な推理です。ARIAカンパニーの制服を着るのは社員だけ。そして今、ARIAカンパニーの社員は、灯里さんと、アリシアさんと、アニーさんだけです」

 

 そう言って、岸辺に横付けした舟の側、水路端に腰掛けた女の子は、自分をアイと名乗った。

 

 私は、その名前に覚えがあった。そう、灯里さんといつもメールのやりとりをしている女の子だ。見覚えがあったのは、灯里さんのビデオメールや写真で目にしたことがあったからだろう。

 

 確か私や灯里さん同様マンホームの生まれで、普段はマンホームで学校に通っているはずの子なのだけど。

 

「…………」

 

 なのだけ……ど……。

 

「…………」

 

 アイちゃんの視線が、私の頭上から足下までを往復する。値踏みするような、絡みつくような、何というか、じっとりとした視線。

 

「ええと……私、どこか変ですか?」

 

 居心地の悪さに思わず半身を退けて問いかけるけど、アイちゃんはふいっとそっぽを向いた。

 

 まるで、私と顔を合わせたくない、という感じに。

 

 ……はて、まあ人には相性の善し悪しというものがあるけど、アイちゃんと私はそんなに相性が悪いだろうか。

 

 生まれた地方は違う(と思う)けど、同じマンホーム出身。私より先にARIAカンパニーに関わり、灯里さんとも長い間メル友をやってきた子。メールの内容をちらりと見せて貰った限りでは、灯里さんが大好きということでは私に勝るとも劣らないと思う。

 

 だとしたら、原因は何だろう。私が個人的に嫌いだと言うことだろうか。嫌われる理由に身に覚えは……まあ、色々やっちゃってるし、ないこともないか。サイレン事件とか、その前にも、雪虫くんの件とか、両親の件とか。このあたりが知れていたら、灯里さんやアリシアさんに心配をかけ続けたってことで、悪印象を持たれていても不思議はない……と思う。

 

 でも、たとえそうだとしてもめげてはいられない。第一印象が悪くても、二度目三度目の印象で払拭すればいい。お客様をもてなす仕事である以上、私たちはできるかぎりの全てでお客様をもてなす義務がある。

 

 ……まあ、それ以前に。そもそも、灯里さんのお友達であるアイちゃんに嫌われたままだなんて、悔しいじゃないか。

 

「それにしても、こんなところでどうしたんですか?」

 

 気分を変えるために、私はそう問いかけてみた。アイちゃんはマンホームの人。アクアで偶然通りがかった、なんてことはあり得ない。

 

 私がそう問いかけると、アイちゃんのつんつん顔が覿面に曇った。

 

「パパのお仕事に付いて来ました。でも、ARIAカンパニーに行っても誰もいなくて……」

「灯里さんにメールとかは入れておかなかったんですか?」

 

 私も灯里さんも半熟なれど仕事の身。予め話を通しておかないと、予定が合わないということもあり得る。

 

 ……のだけど、私がそれを尋ねると、アイちゃんはしょんぼりと項垂れた。どうやら突然の旅程だったこともさることながら、灯里さんをびっくりさせようと思って、わざと連絡を入れなかったらしい。完全に裏目に出た感じだ。

 

「困りましたね……。今日は灯里さんもアリシアさんも、夜まで一日中お仕事の予定ですし」

「藍華さんやアリスさんは?」

「皆さんも今はとても忙しいんですよ。いつもの早朝練習も、この所滅多に集まれないんです」

 

 ざっと経緯を説明する。マンホームを含む全系誌『週刊ネオ・ヴェネツィア』で紹介された灯里さんと藍華さんは予約が殺到し、アリスちゃんも学校の卒業を控え、色々多忙になっている。

 

 私の時の経験からすると、そろそろ予約も下火になっていてもおかしくない時期なのだけど、そこはそれ私と灯里さんや藍華さんでは色々とレベルが違う。アリスちゃんの方もペア・ウンディーネであるアリスちゃんを直接指名できないものだから、アテナさんの方の予約が(アリスちゃんの添乗を希望したものが)常日頃の倍近くも押し寄せているらしい。

 

 うーん、ちょっと複雑な気分。……ちょっとだけ、ね。

 

「……そんな中、アニーさんだけが暇してるんですね」

「失敬な。自主練習に熱心と言ってください」

 

 ちょっと意地悪く口を尖らせるアイちゃんに、私も腰に手を当てて憤慨する振りをする。まあ、こちらが未熟なのはまったく言い訳できる事じゃないし、一人で暇しているのも確かにその通り。せめて私がプリマ・ウンディーネなら、一人でお客を案内して回れるのだけど、悲しいかな、我らARIAカンパニーの実働社員はアリシアさんただ一人だ。

 

 ……そして会話が途切れた。今日は夏待ちの観光日和。観光客はいつもより一回り多く、小路をゆく人々の喧噪も一割増しといったところ。波の音もいつになくはっきり聞こえる気がするのは、青い季節が間近に迫っているからだろうか。

 

 でも、隣に座るアイちゃんの表情は暗い。一番会いたい人はおらず、顔見知りの友達もおらず、異郷の川辺で一人でぽつんと腰掛ける。たまらないくらい寂しい、気がする。

 

 一方で、今日のネオ・ヴェネツィアはいつもより数割増しで素敵だと思う。だとすれば、折角ここまで来たのに何もせず、ぼんやり時間を過ごすのはいささかもったいなさ過ぎる。

 

 よく見れば、川岸に腰を下ろしたアイちゃんの目は、さっきからちらちらと水路と舟とを行ったり来たりしている。

 

 彼女は退屈なんだ。でも迷っている。灯里さんも藍華さんもアリスちゃんも、親しい人たちは一緒にいれば楽しいとわかっているのに、出会ったウンディーネは、まだ見知らぬ新米の私。退屈でも、こうして灯里さん達を待つべきなのか、それとも私を言いくるめて一緒の舟で街を巡るべきなのか。

 

 迷っているんだ。怯えていると言ってもいいかもしれない。

 

 だから、私はそっと、アイちゃんに手を差し出した。

 

「…………え?」

 

 手袋のない右手。素肌で過ごすようになって数ヶ月になるのにまだ馴染んでいなくて、所々擦り傷や吸針傷が散らばった、あまり綺麗とはいえない指先。そんな私の手をまじまじと眺めて、アイちゃんがきょとんと目を丸くする。

 

「退屈そうですし……良ければ、練習につきあって貰えませんか?」

 

 差し出された私の提案。アイちゃんはしばしぱちぱちと両目をしばたたかせていたのだけど、ふんっと急に仏頂面を繕って、ぷいとそっぽを向いてしまった。

 

「……シングルはお客を乗せられないんですよ」

「ええ、だから練習につきあって貰うんです」

 

 練習なら、お客を乗せたことにはならない。友達作戦と並んで見習いウンディーネの間で定番として使われるインチキ手法だ。

 

 にっこりと悪びれず笑顔を向ける私に、アイちゃんはむぅっと仏頂面を膨らませていたのだけど。

 

 まるでおいでおいでをするような、蒼穹に白を散らした空と、白い波間をゆらゆらと揺らす水面の輝きに呼び寄せられたのか、ついにこっくりと首を振った。

 

 

 

 私の伸ばした手を取って、舟に足をかけたアイちゃんだったのだけど。

 

「あれ……?」

 

 アイちゃんは船縁に体重をかけようとした時、何かに気がついたようだった。

 

 舟の中をのぞき込んで、怪訝な声を漏らす。

 

「どうかしましたか?」

「猫…………?」

 

 アイちゃんの視線を追いかけると、そこには私の足下で、小さく隅っこに蹲ったシレーヌの姿があった。

 

「あ、シレーヌ、まだいたんですね」

 

 思わず、薄情なセリフがこぼれてしまった。

 

 いや、シレーヌの事を忘れていた訳じゃない。アイちゃんと出会ったあたりで姿が見えなくなったので、いつものようにどこかに行ってしまったのかと思っていたんだ。ほら、誰かと出会うと、シレーヌはふっと姿を隠してしまうから。

 

 船底の暗がりに溶け込むように蹲っているシレーヌは、私の位置からでははっきりと姿を見ることができない。もしかしたら、これまでシレーヌがいなくなったと思った時も、彼女はこうやって隅っこに身を隠していただけだったのかも知れない。そうだとしたら、これまで私は気づかないままに彼女を無視していた事になる。

 

「ごめんなさい、シレーヌ」

 

 忘れててごめんなさい。もしかしたらこれまでも気づかなくてごめんなさい。そんな気持ちを込めて私が謝罪すると、私を見上げるシレーヌは、「気にするな」とでも言うかのようにふりふりと尻尾を揺らした。

 

「えっと……?」

「あ、ごめんなさい、アイちゃん」

 

 戸惑いを口にするアイちゃんに、意識を現実に引き戻す。アイちゃんをいつまでも船縁にいさせる訳にはいかない。気を取り直してアイちゃんの手を引いて、舟のお客様席へと案内する。

 

「シレーヌ……っていうんですか? 火星猫、ですよね」

 

 アイちゃんが腰掛けた場所の正面に、シレーヌが丸まっていた。アイちゃんの視線が怖いのか、シレーヌは私の足下に身を隠して、じっとアイちゃんの方を見つめるだけだ。少しくらい愛想良くしても罰は当たらないだろうに、そういう無愛想なところは相変わらず。

 

「うん、最近お友達になった猫さんです」

「目は青くないから、社長さんにはなれませんね」

 

 じっとシレーヌを見返してそう言うアイちゃん。なるほど、確かにシレーヌの瞳は青ではなく、ちょっと魔的な黄色。ウンディーネの会社の社長を務めるには向いていない。

 

 でもまあ、そもそもシレーヌはシレーヌ。社長になれるかどうかはこの際関係ない。まあ、例えば私や灯里さんが独立して会社を興すなんてことになれば別だけど……ちょっとこれは考えにくいし。

 

 そんな事を考えていると、アイちゃんは身を屈め、遠慮なくシレーヌに手を伸ばしていた。

 

「はじめまして、シレーヌ」

 

 そう言って微笑むアイちゃんに、シレーヌは不承不承といった感じでゆらりと尻尾を振って応えた。


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