ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
「……あんまり上手じゃないですね」
船出して数分。水路をゆっくりと流れる舟の上で、アイちゃんの最初の一言は、ぐっさりと心を突き刺すナイフのようだった。
「……あ、あはは……まあ、アリシアさんや灯里さんと比べたら、私はまだまだですからねー」
「ペアのアリスさんと比べてもびみょーです」
「……ア、アリスちゃんは操船プリマ級ですから」
とまあ、こんな感じで、船出した後もアイちゃんの敵意は相変わらずだった。
なぜ、こんなに不機嫌そうなんだろう。灯里さん達に会えていない事もさることながら、むしろアイちゃんには、私個人に対して何か引っかかりがあるように見える。
では、その引っかかりが一体何なのか、それが問題。それがわかれば改善できるのだろうけど、今のところは見当もつかない。思い当たることがあるのは、さっき挙げた通りではあるのだけど。
と、足首を、ぺしん、とシレーヌの尻尾が叩いた。まるで「しっかりしなさいよ」と励ましているかのように。
うん、大丈夫。まだまだ始まったばかり。挽回はここからだ。
ちょっと憂鬱になりそうな気分を、灯里さんっぽくしゃんと伸ばして、私は櫂を手繰った。
街を巡れば、必ずどこかで知っている顔に出会う、それがネオ・ヴェネツィアという街だ。
何しろ、人口密度が飛び抜けている。決して広くはないネオ・ヴェネツィア島に建物がひしめいているし、空には浮島、地下には地重制御区画、周囲のネオ・ムラーノ島などの小島に、リベルタ橋を隔てての大島など、人の暮らす場所には事欠かない。さらにネオ・ヴェネツィアは観光地であることはもちろん、商店街に宇宙港があることも手伝って、周辺の住人が集まってくる場所でもある。
だから、ネオ・ヴェネツィアは出会いの街。いつでもどこでも、知っている人も知らない人も、誰もが新しい何かに出会う街だ。
特に、ARIAカンパニーの人間は有名人が多い。≪白き妖精≫たるアリシアさんは言うに及ばず、アリア社長もベテラン猫社長として名を知られているらしいし、灯里さんも顔の広さでは、ことによってはアリシアさんに勝るとも劣らないかもしれない程だ。
そんな人達と一緒に暮らしている訳だから、新人の私もそこそこに顔が知られるようになっている。「アリシアさんのところの子」「灯里ちゃんの妹弟子」というような付属品扱いではあるけど、道で顔を合わせれば挨拶して貰えるくらいには顔なじみの人も増えた。
そんな訳で、私とアイちゃん、そしてシレーヌを乗せた舟が運河に漕ぎ出すと、程なくして知り合いとすれ違う事になった。
「おっれは~~炎の~サラマンダー~、あ・か・つ・きっ!」
「あれ、あの人は……」
そうアイちゃんが指さすのは、やりすぎってくらいにぴんと伸ばした背筋に、大きく炎をあしらったエンブレムのコートを羽織る姿。そして彼が口ずさむ、調子っぱずれのテーマソング。
「ん? ……おお、そこにいるのはボクッ子ではないか!」
櫂の音に気がついたのだろうか、振り仰いで大声でそう喋るのは、見紛うはずもない、
「こんにちは暁さん。今日はお休みですか?」
舟を岸に寄せ、聞いてみる。暁さんは普段は浮島で働いているはずの人だ。
「そうとも! 買い物と、兄貴と待ち合わせだ! ボクッ子は今日は一人……む、そこにいるのは確かもみ子の友達の!」
「……アイです」
「うむ! 覚えていたとも! 久しぶりだなアイアイ!」
「ア……アイアイ?」
まるでお猿さんのような渾名を口にする暁さんに、露骨に嫌そうな顔をするアイちゃん。まあ、気持ちはわからなくもない。
「ふむ、珍しい取り合わせだな! もみ子は今日はどうした!」
「今日は予約でお仕事です。このところずっとですね」
すべての台詞に感嘆符がついているかのような、元気溢れる口調。それが暁さんのトレードマークのようなものだけど、アイちゃんにはいささか怖いものに感じられたようだった。さっきから身を隠すように小さくなって、恐る恐るという感じで私と暁さんの間で視線を行き来させている。
かくいう私も、暁さんは最初はちょっと苦手だった。初めて会った時、その時点では私の先輩になる見通しだった姫屋の晃さんの事を、自己中心的だのなんだのと悪口を言っていたのもあるだろう……まあ、晃さんの(あくまで)一面を捉えていたと言えばその通りではあったんだけど。
「なぁにぃ! もみ子のくせに生意気な! だが俺様が見習い卒業間近なのだ。もみ子が仕事をしても何の不思議もないな!!」
かんらかんらと笑う暁さん。口では何のかんの言うものの、注意深く聞いていれば、灯里さんの事はしっかり認めているのがわかる。
「それにしても最近暑いですね。浮島はもう夏モードなんですか?」
「うむ! 夏が来る前にはちょっと気温の調整をしないといけないのでな。今年は早めに温度を上げているらしいぞ!」
らしい、というのはつまり、暁さんがまだまだ見習いだということなんだろう。さすがに気候そのものを操作するのに、見習いがちょいちょいと弄ってどうにかなってしまっては、真夏に雪が降ってしまう。
「まあ、見ているがいい。そろそろ夏の本番だ。ボクッ娘はまだネオ・ヴェネツィアの夏は未体験だったな?」
「ええ、私が来たのは秋口でしたから」
宇宙港から外に飛び出したその瞬間のことは、今でもはっきり思い出せる。今から考えると少し肌寒さを感じさせる風がいっぱいに私を包み込んだあの時、私のウンディーネとしての日々が始まったんだ。
私が頷いて答えると、暁さんは満足げに腕組みをしたまま何度も頷いた。
「うむ! ならば楽しみにしているがいい。今日あたりから、食料の買い込みは忘れてはならんぞ!」
「ほへ?」
意味がわからず、きょとんとする私とアイちゃん。どういうことなのか聞き返したのだけど、暁さんはかんらかんらと笑うばかりで答えてくれない。
そんな感じで岸辺に腰を下ろし、舟上の私達としばしお話をしていた暁さんだけど、やがて時計を見て眉を顰めた。
「……むむ!? いかん、もうすぐ時間ではないか!」
すっくと立ち上がる暁さん。私達もさぼるのは程々にして、練習を再開することにした。
「それじゃ暁さん、また」
「うむ! ボクッ子よ、もみ子に置いて行かれないよう精進するのだぞ! アイアイも、また会おう!」
「アイアイはやめてください……」
大きく手を振り、例のテーマソングと共に私達に背を向ける暁さん。そんな彼に、私は苦笑混じりに手を振り返し、アイちゃんもこっそり小さく抗議しつつ、私に倣った。
そして舟を漕ぎ出して、暁さんが見えなくなった頃を見計らって、私はアイちゃんに秘密を囁いた。
「あの人、灯里さんの事が好きなんですよ」
「……そうなんですか? 灯里さんのメールでは、アリシアさんが好きなんだって」
「ふふ、きっと気づいてないのは暁さんと灯里さんだけですよ」
目をびっくりに見開くアイちゃんに、私は何だか楽しくなって、鼻歌交じりに櫂を動かした。
気づけば、曲目が暁さんのテーマソングをなぞっていた。
※
「それじゃお疲れ様でした、庵野さん」
「おう、嬢ちゃんたちもまたなー。帰り道に気をつけンだぞー」
郵便局の建物に消えていく郵便屋の庵野波平の背中を、アニエスは笑顔と共に手を振って見送った。
それに合わせて手を振るアイは、内心で小さく溜息を吐き出した。
(これで何人目だっけ?)
アニエスが櫂を握る舟がネオ・ヴェネツィアの水路を進む。すると程なくして暁に出会った。そして彼と歓談して別れた後も、子供連れの主婦や見知らぬウンディーネ、エアバイクの運送屋……確か見覚えがある。ウッディーと言ったか……など、様々な人々と出会っては、アニエスはにこやかに笑顔で手を振り、楽しげに歓談する。
話題は主に、灯里のこと、アリシアのこと、日常の何気ないこと、そしてアイのこと。アイが来ている事以外は取り立てて特別な話ではなく、そんなに格別楽しい話でもないと思うのだが。しかしアニエスと出会った人々は、そんな何気ない日々について言葉を、そして春の小さな草花のような笑顔を交わす。
(まるで、灯里さんみたいだ)
ぽつりと頭に浮かんだそんな言葉を、アイは頭を振って思考から追い払った。
灯里は灯里。唯一無二だ。アイにとって、アクアで一番の友達。素直でなくて、すぐに拗ねてしまうアイ自身とは違う、まっすぐぴんと背を伸ばし、だけど大好きな太陽を見つけては、そちらに顔を向け続ける向日葵のような女性。
同じく素敵な人々とともに、いつか肩を並べて歩んでいきたいと……その望みはまだ漠然としたままだけれど……そう思う女性。
(そんな素敵な灯里さんと、アニーさんが同じだなんて、ありえない)
ありえない。だけど、どうしてありえないんだろう。
アニエスの楽しげな笑顔、透き通る空のような微笑みを見る度に、アイの心がどきりと弾む。
アイが尊敬する素敵な女性像を、アニエスもまた纏っているような気がして。
わからない。アニエスはきっと素敵な女性だと思う。でも、それを素直に受け入れることができない。その理由がわからない。
だから、郵便屋の庵野の背中が郵便局に消えたのを見計らって、アイはアニエスに問いかけた。
「なんだか、灯里さんみたいです」
「え?」
戸惑いを顔に浮かべて、アイを見下ろすアニエス。櫂を手繰る手が止まり、表情をはにかんだような笑みに換える。
「あはは、そう言ってくれると嬉しいです」
「嬉しい、ですか?」
「はい。だって、灯里さんは私が尊敬する素敵な先輩の一人ですから」
その表情には言葉を裏切るような色はなく、心から先達を敬愛しているのがわかった。そして、その片鱗を受け継ぐことができていることが嬉しいのだとも。
アイの胸が、きゅんと疼いた。
どうしてだろうか。アニエスの笑顔を見ていると、何だか心が落ち着かない。
彼女に対して冷たい態度をとってしまうのも、その疼きのせいだ。真っ向から見るのが辛い。斜に構えていないと、心が苦しい。
そして、そんな態度をとってしまう自分の子供っぽさも、悔しい。
(どうして、私はこんなに子供なんだろう)
どうしてだろう。灯里のような笑顔。大好きなはずの笑顔。なのに、それが灯里のものでないというだけで、こんなにも辛い。
灯里も、アリシアも、藍華も晃もアリスもアテナも。誰を見ても感じなかった、この苦しさ。白と青の衣をひらめかせ、風に髪を揺らし、櫂を手繰って運河を巡る。それは、今となってはアイにとって一番の、憧れの姿だというのに。
(灯里さんに、会いたいなあ)
心から思った。別にアニエスと一緒にいるのが嫌だという訳ではないのだが、やはり普段からメールを交わしている灯里とでは安心感が違うし、それに。
(灯里さんなら、きっと……)
灯里なら、今アイが持て余している感情の答えを知っているかもしれない。そうでなくても、灯里ならば絶対、一緒に悩んでくれるだろう。
会いたい。会いたいと思った。この惑星でもっとも親しい、暖かなあのウンディーネに。
「アイちゃん」
その時、アニエスがそう呼びかけた。
視線を抱えられた膝から、後ろで櫂を握るアニエスに差し向ける。
じっと見つめる瞳。どうしたのだろう。何かまずかったのだろうか。もしかすると、舟を降りろと言われるのかもしれない。
しかし、アニエスはふっと柔らかく微笑んだ。すっと傷の目立つ素肌の手を差し上げて、水路の向こうを指さして。
「一緒に……灯里さんたちを探しに行きましょうか」
その瞬間、アイにはアニエスが、灯里のようにも、アリシアのようにも見えた。