ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
どれだけの年月をはぐれたまま過ごしたのかもわからないだけに、翼はそのままでは天使像に繋ぐ事はできそうになかった。
おそらく、断面を磨いてから接着剤で繋がないとダメだろう、とアニエスは語った。アイもそのあたりはよくわからないが、たぶんそんなものだろう、と思った。
ずっと離れていたものが一つに繋がるには、何かしらのきっかけが必要なもの。小説かコミックで誰かが語っていた言葉だが、アイのさほど豊富でない人生の経験からしても、それはなんとなくわかる話だ。
考えてみれば、かつて初めて出会ったときの灯里とアイもまた、そういうものだったかもしれない。心を錆び付かせたアイは、アクアを、そしてネオ・ヴェネツィアを否定しようとして灯里に出会った。そして、心の錆を灯里の優しさによって磨かれ、輝く心の欠片を触れ合わせることができた。
今のアイもまた、心を錆び付かせている。以前のアイと、灯里と出会ったときのアイと同じだ。誰かを――もっぱらアニエスを、今のアイの心は認めることができない。
(どうしてだろう。どうして私は、心を錆び付かせているんだろう)
自問する。こんな自分は嫌だ。
少なくとも、アイがアニエスを嫌う理由はどこにもないはずなのだ。灯里のメールで語られた人柄も、そのマンホーム生まれの新人という立ち位置も、今目の前にいる彼女の振る舞いも、皆好意を持ちこそすれ、嫌う理由はどこにもあり得ない。
水面に顔を出した小さな岩場に腰掛け、瞑目して気分良さげに小さく舟歌(いや、リズムからしてこれは流行歌だろうか)を口ずさむ彼女の姿は、側でゆらゆらと尻尾でリズムを刻むシレーヌの存在も手伝い、まるで神話に語られるセイレーンを想起させる。もちろん、歌声も気品も≪
(こんなに素敵な人なのに、どうして)
どうして、アイの心を錆び付かせてしまうのか。また自問を繰り返す。だけど、わからない。何度繰り返してもわからない。
「……どうかしましたか?」
気づけば、アニエスが不思議そうに自分の方をのぞき込んでいた。
アイよりは少し短めにまとめられた髪は、ちょうどアイが成長してウンディーネになったらこんな具合になるだろうか。憧れの青と白の制服に身を包んだ――
アイが憧れる――なりたいと願う未来の姿、ほぼそのもの。
(あ――――)
その瞬間、アイの脳裏でぱちっと光が閃いた。
(私、悔しいんだ)
そんな気持ちが、ぽろりとこぼれ落ちる。
アニエスが素敵であればあるほど。
自分の理想に近ければ近いほど。
悔しさが、こみあげてくる。
どうして、自分はそうでないのか。どうしてそこにいるのが自分ではないのか。
将来の夢、という言葉が、現実味を増してきた今。一番なりたいものを捜してアイが瞼を閉じれば、そこには必ずあの華やかな妖精達の姿がある。
いつからだろう。初めてARIAカンパニーの制服に袖を通した時からだろうか。それとも、カルナヴァーレの時からだろうか。もしかすると、初めて灯里の舟に乗ったあの日からかもしれない。
いつの頃からか、アイの心の中には「いつか灯里さん達と一緒にウンディーネになりたい」という願いが芽生えていた。
その願いがはっきり形になった頃だった。灯里のメールに「私に後輩ができました!」という表題が踊ったのは。
心のわくわくを抑えきれていないのが、簡素な電子文書の向こうからでも伝わってくるような、そんな文面。
いつもならば、一緒に心から喜ぶことができた。灯里の喜びは、アイの喜びでもある。そうやって心を重ねるのがこの上ない幸せだったのに。
アイに去来したのは、心に小さな穴があいたような、そんな空虚さだった。
どうしてなのか、わからなった。それにそれはほんの小さな穴だ。見ないようにすれば気にする必要もない。実際、アイは気にしないこととした。
だけど、そんな空虚さは無くなったわけではない。目を背け、見ないようにしているだけで、そこからすうすうと冷たい風が吹き込んでいる。
それを、アイはアニエスを目にした瞬間、目の当たりにすることになった。
自分が、一番望んでいた場所に。
自分が、一番望んでいた形で。
自分が、一番望んでいた姿をして。
アニエス・ディマが、そこにいた。
それは嫉妬だったかも知れない。もしかしたらもっと卑俗な感情だったかもしれない。だがアイにとって一番重要なのは。
……一番憧れる場所に辿り着くには、自分が幼すぎるという厳然たる事実。
アニエスがいる場所こそが、アイが求めていた場所そのもの。マンホーム生まれのウンディーネが、ARIAカンパニーの制服を纏って、灯里や藍華やアリス、アリシアに晃にアテナ――尊敬する、大好きな彼女らに囲まれて、優しく穏やかに、輝くような日々を過ごす。それが、アイが望んでいた未来の姿。
だけど、現実はそうはいかない。確かにアイは成長した。手足もすらりと伸びて、以前は届かなかった戸棚の上のおやつに手が伸びるようになった。
でも、一番届かせたい場所には、どうやっても届かない。なぜなら、アイが走るのと同じ早さで、灯里達もまた遠ざかっていくから。
わかっていた。アイは灯里たちを追いかけることはできる。だけど、決して追いつくことはない。
だから、悔しかった。自分とよく似た立ち位置で、自分が一番望む場所に、相応しい心と体を持って立つアニエス・デュマ。どうして、自分は彼女のようでいられないのか。どうしてこの体は子供なのか。もっと早く大きくなれば、もっと早く生まれていれば、アニエス・デュマがそうであるように、自分もまた灯里達と舳先を並べていられたのではないか。そんな悔しさが拭えない。どうやっても、拭うことができない。
それがどうしょうもないことだとわかるからこそ、悔しさだけは抑えることができない――。
「――アイちゃん?」
そんなアニエスの呼びかけが、まるで灯里のものであるように感じて、アイは再び顔を上げた。
そこにあるのは、心配そうにアイを覗き込む、マンホーム生まれのウンディーネの顔。アリシアの慈愛と灯里の感受性を少しずつ受け継ぎ、己もまた一人のウンディーネとして櫂を手繰る少女の顔。
ふっと、心が緩んだ。彼女になら甘えていいような気がした。
「…………ずるいです」
その訴えが理不尽だとわかっていても、口にせずにいられなかった。
「ずるい?」
きょとんとするアニエス。それはそうだろう。こんな理不尽な心をいきなりさらけ出されて、驚かない訳がない。
「どうして、私は子供なんでしょう。どうして、アニーさんくらいに大きくなかったんでしょう」
「アイちゃんくらいの女の子は、すぐに背丈も大きくなりますよ。私も、そうでしたから」
「でも、今、大きくなくちゃダメなんですっ」
ぴしゃりと反駁するアイに、アニエスは目を丸くして言葉を飲み込んだ。
一瞬の逡巡。しかし、アニエスはじっとアイを見つめた。その目が、アイの言葉の続きを待っているのだと無言のうちに語りかけていた。
だから、アイは甘えることとした。
「……だって、私が大きくなるまで、灯里さん達は待ってくれません」
アイが今の彼女たちに届く程成長する時、おそらく彼女たちはもっと先に進んでいる。だって、マンホーム歴で一年前に出会ったときに比べて、さっき目にした灯里の姿は、明確に大きく成長していた。技量も、物腰も、初めて出会った頃とは比べものにならない。
だとしたら、アイがこの場所に辿り着いた時には、きっと灯里達はプリマ・ウンディーネとなっている。そうなったら、今のようにのんびりと語り合う事はできないだろう。
アイの危惧は結局のところそれだった。宝島を追い求めても、そこに辿り着いた時、本当にそこに宝物は残っているのか。自分が成長する間に、宝物はどこかに消えてしまっているのではないか。それが恐ろしくてたまらないのだ。
「…………」
そんなアイの姿を目前にして、アニエスは何も語らなかった。ただ俯いたままのアイをじっと見つめていたが、「……ああ」と小さく吐息を漏らしたかと思うと。
そっと、その両腕で、アイの身体を包み込んだ。
「…………え?」
「わかりますよ、アイちゃん。――私も、そうでしたから」
きょとんとするアイを抱き寄せて、アニエスは小さく囁いた。
その言葉は先ほどのものと同じでありながら、ずっと柔らかく、心に染み通る響きを宿していた。どうしてだろうか。ただの同情からの言葉ではないからだろうか。
――アニエスもまた、かつてよく似た痛みに苦しんだからだろうか。
「私もね。一番憧れたウンディーネの人がいたんです」
少しその瞳は遠く。大樹に身を寄せて、隙間から覗く空を見上げる。
「私はその人と一緒に、その人に教えて貰いながら、その人みたいなウンディーネになりたいと思って、アクアに来たんですよ」
「……アンジェリカさん、でしたっけ」
アイが記憶の棚を掘り起こし、灯里のメールに記載されていた名前を口にする。アイが即答するとは予想外だったのか、アニエスは目を丸くしつつも微笑んで「はい、その人です」と頷いた。
「でも、私がアクアに来たときには、もうアンジェさんはウンディーネを引退しちゃっていました」
アイは記憶の棚を更に掘り起こす。当時の灯里のメールでは詳細は省かれていたが、後々になって「今ではツアーコンダクターを目指してマンホームで勉強をしている」というようなことが書かれていた。多分それがアンジェリカのことなのだろう。
「アンジェさんが別の夢を追いかけて、そのためにウンディーネをやめたんだって、私が理解できるまでは随分かかりました。目の前が真っ暗になって、大切な心の宝石箱が、全部石ころに変わっちゃったみたいな、そんな辛くて苦しい日々が続きました。どうして待っていてくれなかったんだろう。どうして私はもっと早くアクアに来られなかったんだろう、そんなことばかり考えていたんです」
心がきゅんとなる。それはアイの危惧する未来に限りなく近い。そしてそれは本当に苦しい日々だったのだろう。アイを抱きしめるアニエスの腕に、わずかな強ばりが感じられた。
だが、その強ばりも、すぐにふっと緩んだ。アニエスの言葉が続けられるとともに。心の枷が取り払われたかのように。
「でも、色んな事があって、色んな人たちに支えられているうちに、わかったんです。アンジェさんが、もっと素敵な夢に手を伸ばすために、変わっていこうとしたんだということを。仕事は変わっても、アンジェさんが素敵な人だって事には変わりがなかったってことを。そして――」
視線だけで振り仰ぐと、そこにあるのはアニエスの湛える、空のように透き通った柔らかな微笑み。
「アンジェさんが、ただ手紙を交わしただけの私のことを、本当に大切に思っていてくれた……そのことは何一つだって、かわりは無かったんだってことを」
己の手にしていた幸福に気づいて、それを大事に握りしめ、育てていこうとしている者ならではの、柔らかな微笑みが、そこにある。
「確かに、人は変わっていくかも知れません。同じ場所にずっと居続けることはできないかも知れない。嫌なことだけど、もしかしたら病気になったり、死んじゃったりすることだってあるでしょう。でも」
言葉を切る。変化が、あるいは悲しみがいずれ訪れたとしても、それでも。
「たとえ形が変わってしまっても、それを大事だと思った一番な所は、心の宝石箱の奥底で、ずっと輝き続けているんだと思います」
たとえ別れが訪れたとしても、交わした思い出は色あせない。たとえ失われてしまったとしても、それを愛していた心は胸の奥にある。
「大事なことは、その一番大事なことを、ずっと離さないように、言葉を交わしてそこにあることをずっと確かめ続けること……なんじゃないかな。怖がって目を塞いだら、見えなくなった大事なものは、どんどん色あせて消えてしまいそうになるから。
私たちに必要だったのは、変わってしまったことを恐れないで、言葉と想いを交わすことだったんだと思う。そうすれば、誤解することも遠くなることもなかった。だから……」
だから、アニエスはまっすぐにアイを見返した。
「だから、アイちゃん。変わってしまうことを恐れなくていいんですよ。だって、アイちゃんが灯里さんを大好きなことは変わらなくて、灯里さんがアイちゃんを大好きなことも、絶対変わるはずがないんですから。不安に思ったなら、言葉を交わして確かめ合えばいいですし。そこさえ変わらなければ、どんな未来が待っていたとしても、きっとそれは素敵な未来です」
確信を持った瞳。まるで、アイの悩みを真っ向から貫いていくような。
そしてその確信の槍が、微笑みとともに華開き、アイの心の澱を散らしていった。
「だって、私も、そうでしたからね?」
「……アニーさんも?」
三度目の、同じ言葉。
不思議と、アイにもまた、笑顔が零れてきた。
そして、心の錆が吹き散らされるとともに、素直に認める心が生まれたのを、アイは感じた。
ああ、アニエス・デュマは、紛れもない、ARIAカンパニーのウンディーネなのだと。
この人は、自分と同じ、ウンディーネに憧れる一人の少女であり、そして同時に、アイが目指す理想の自分の姿の一つであることを、認めることができた。
だから、その気持ちを素直に口に出した。
「じゃあ、私とおんなじです」
「……うん、おんなじですっ!」
そう応えるアニエスの笑顔は、アイには少しどきりとするくらいに輝いて見えた。
「ウンディーネに、なりたいんです」
二人並んで腰掛けて、午後の時間をゆらゆらとたゆたうアイは、改めて自らの願いを口にした。
「ARIAカンパニーのウンディーネに?」
「はい」
迷いなくアイは答えた。だって、一番大好きなウンディーネが、そこにいるのだから。灯里も、アリシアも、そして……アニエスをそこに加えてもいい。
「でも、なれるでしょうか?」
不安がこみ上げてきて、恐る恐る問いかける。
「大丈夫ですよ。アイちゃんは今でも健康で、灯里さんと仲良しで、他にも素敵なウンディーネの先輩方と一緒に過ごしてきたんですから、私よりずっと条件はいいと思います」
そうだ。アニエスにはアンジェリカ以外のウンディーネとの繋がりはなく、更に重い病気で苦しんだ経歴がある。それに比べれば、アイは本当に多くのウンディーネと知り合い、その心に触れてきた経験がある。それを裏付けにしたマンホーム生まれのアニエスの保証は、アイを激励するのにこの上なく確かな力を持っていた。
「でも、そうなったら私が先輩ですね。ふふ、びっしびし指導しちゃいますよ」
そう言って戯けるアニエスに、アイはちょっと口を尖らせて見せた。
「後輩じゃありません。ARIAカンパニーの制服を着たのは私の方が先です」
「おやや……それじゃその時はよろしくご指導お願いします、先輩?」
アイの強がりに、アニエスは鯱張って敬礼の真似事などをしてみせる。
一瞬の沈黙。それが何とも可笑しくて。
「……ふふっ」
「……あはははっ」
どちらからともなく零れ出た笑い声が、回廊を幾重にも響き渡る。
そんな様子を、寡黙な黒猫が静かに見つめていた。
どことなく、楽しそうに目を細めながら。