ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
『私』は、まだ夢の中にいる。
時々、こういうことがある。夢の中にいながら、『私』の意識が目覚めて、夢の中の私……アニエス・デュマというウンディーネを、すぐ近くから……ただし本人ではあり得ない場所から眺めている感覚。
「ウンディーネに、なりたいんです」
「ARIAカンパニーのウンディーネに?」
「はい」
藤の樹の根元に腰掛けて、言葉を交わすアイちゃんと私……いや、夢の中の私、アニエス。
こうして見ると、『私』とは随分違う。『私』は病院から外に出ようともしないから、肌は不健康に白いし筋肉も全然ない。でも、夢の中のアニエスはウンディーネとして日々鍛えているだけあって、手足はすらりとしていながらカモシカのようにしなやかだ。
『私』と彼女は、よく似た道を歩んでいるけど、ある一点で大きく道を違えている。それはきっと、最初は素敵な出会いがきっかけだったんだろう。だけど。
「大丈夫ですよ。アイちゃんは今でも健康で、灯里さんと仲良しで、何度もウンディーネと一緒に過ごしてきたんですから、私よりずっと条件はいいと思います」
にこやかに太鼓判を押すアニエス。そうだろうな、と思う。
最初、私はアイちゃんを、つんつんしていて可愛くない娘だと思った。でも、アニエスが心を触れ合わせていくうちに、単に寂しいだけ、そして迷いに心を曇らせていただけなのだとわかってくると、俄然彼女の魅力が見えてくるようになってきた。少し人見知りするところはあるけれど、そうかと思うとびっくりするような行動力があって、誰もを笑顔にするように明るい。そんな素敵な女の子。
人を識るには、NOではなくYESをもって触れ合うこと。少し考えれば当然のことだけど、それを実践するのは難しい。
でもアニエスは、NOを突きつけられ続けても、まったくめげずに彼女を励まし、そしてついには心を通じ合わせた。
凄いな、と思う。あんな風に心を通じ合わせられたらどんなに良いだろう。私にはどうやっても手の届かない場所。手の届かない世界。
……本当に、そうだろうか。
思い起こす。自分の手が誰のところにも届かなかったのは、私が差し伸べられる手を拒絶していたからじゃなかっただろうか。
変わっていくことにもっと大事なことは、一歩を踏み出すこと。
私がアニエスと違う――別人である由縁は、きっとその一点にある。私は全てに背を向けて、夢の中だけに身を沈めて、決して現実の前を向こうとしなかった。
だから、私の居場所は小さな病室。そこから抜け出すことはできず、そこから出て行くこともしない。
確かに、私は重い病気にかかっている。だけどそれでも、手を伸ばして行動していったら、私の世界はこんなにも小さな箱の中に閉ざされることはなかったんじゃないだろうか。
やってもできないかもしれない。でも、やらなきゃ何もできない。
私は彼女たちにはなれない。でも彼女たちに憧れて、彼女たちになるのではなく、『彼女たちのようになること』は目指せると思う。
私が、自分を大好きになれるように。誇りをもって、理想の彼女たちに相対できるように。
――ふと、視線を感じた。
見下ろすと、黒猫のシレーヌが、私の方を見つめている。
今の私には、彼女の正体がわかる。二重写しのようにして、喪服姿で毛皮のコートを羽織った、顔の見えない女性の姿が見える。
≪サイレンの悪魔≫と呼ばれていたもの。それが彼女、黒猫シレーヌの正体。
そんな妖精とか悪魔とか、そういう類のものであるからだろうか。シレーヌには私が見えているようだった。
彼女からは、私はどのように見えているんだろう。猫は時々、何もないはずの場所をじっと見つめていることがあるらしい。そんな時彼らはもしかしたら、私のように夢現の境を彷徨う何かの姿を捉えているのかもしれない。
彼女は、どうしてそこにいるんだろう。元々、彼女はアニエス達をどこかに連れ去ろうとしていたはず。つい先日もアニエスに手を出そうとして拒絶されたし、その前には確かアリスちゃんにも手を出そうとした……ああ、あれは別の夢だったっけ。
<会いに来て下さい。水の妖精は、いつでも、誰でも、ネオ・ヴェネツィアを愛する全ての人を、歓迎していますから!>
そんな言葉が思い起こされる。それはアニエスが以前、≪サイレンの悪魔≫に呼びかけた言葉。
会いに来てほしい、とアニエスは言った。そして今≪サイレンの悪魔≫がそこにいる。
≪サイレンの悪魔≫もまた、伸ばされた手を握って、アニエス達と共にいることを選んだんだろうか。
一緒にいても、どうしていいのかわからない。ただ、少しずつ相手を理解して、どうしたらお互いが嬉しいのかを学んでいく。そんな苦しいけれど楽しい道程を、彼女は選び取ったということなんだろうか。
それとも、これもまた罠で、アニエス達をどこか遠くへ連れ出そうという企みの一つだというだけなんだろうか……。
「ひゃっ!?」
その時、アイちゃんの小さな悲鳴が響き渡って。
確かな答えを得られないままに、私の意識は一気にアニエスの中へと吸い込まれていった。
※
最初に異変に気づいたのは、アイちゃんだった。
「ひゃっ!?」
広場の藤の幹に背中を預けて、ちょっとうとうととしていた私は、そんなアイちゃんの小さな悲鳴に意識を引き戻された。
「アイちゃん、どうかしましたか?」
少し霞のかかった目を片手でこすりつつ、手袋をした方の手を支えにして立ち上がる。
そして一歩、二歩と歩みを進めたとき、さすがの私も異変に気がついた。
「え……!?」
思わず声が上擦る。戸惑いが頭をいっぱいに満たして、何が起きているのかを理解できない。
最初に頭が理解したのは、足元ひたひたまで迫った水面だった。
「アニーさん、水が」
「は、はい。一体どうして……」
不安そうにそう言うアイちゃんのお陰で、私は泡を食うのをどうにか押しとどめられた。大きく息を吸い込んで、吐き出す。うん、新鮮な空気が、私の頭をクリアにしてくれる。
考えてみる。さすがに職業柄、私たちウンディーネは水面には気を遣う。だいたい苔の生え方などから、満ち潮の時にどのあたりまで水位が上がるのかわかる。私たちウンディーネはそういった満ち潮、引き潮の範囲をほとんど無意識に確認して、安全なところにしか踏み込まないようにしている。
今回も、入り込んだのは仮にも廃棄された修道院。危険な場所であることには変わりはない。私もそのあたりは心得ているから、最大まで潮が満ちたとしても、舟の出入りに支障がない事を確認してから舟を進めた。そのことには間違いはない。
なのに、今。
水面が、足元にまで迫っている。
異常だった。水の中を覗き込んでみると、苔でできた満ち潮の境界線が、水面のずっと下に沈んでいるのが見て取れる。つまり、今目の前に広がっている水面は、私が予想していた水面の最大を大きく超えて満ち溢れている訳で。
こんなことは初めてだった。とみに急激な満ち潮が来たとしても、ここまで劇的に水位が上がることはない。教本にも『境界線よりいくらかの余裕を見て、安全かどうかを見極めるべし』と書いてある。このセオリーを守っていれば、水位上昇で水路の出入りができなくなるということも少ない。そう、例えばアクア・アルタのような極端な水位上昇が起きない限りは。
――
「あ、ああーーーーっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
そうだ、そうだった。
”もうすぐ、アクア・アルタが来る頃ね”
そう、アリシアさんが呟いていたのが今更ながら思い起こされる。
夏の先触れ、アクア・アルタ。ネオ・ヴェネツィア全域を、サン・マルコ広場と水路の区別がつかなくなる程に水で満たす、とびっきりの高潮現象。
私はまだ見た事がなかったけれど、そろそろだとは聞いていた。
でもまさか、こんな急に水面が上がってしまうなんて。しかも、こんな所に踏み込んでいるタイミングで。
「アイちゃん、早くここから出ましょう」
「は、はい」
幸い、簡単ながらもやいを結んでいた私たちの舟は、急激な水面上昇にもかかわらずそこにあった。舟が流されて二進も三進もいかないという最悪の事態だけは逃れられたと思う。
でも、私たちの受難は、まだまだここからだったんだ。
水面上昇によって、もやいと大樹の間に水の回廊が出来上がってしまっていた。
幸い、軽くジャンプするだけで舟に乗り移ることはできた。ちょっと靴先が濡れたけど我慢する。そんな細かいことを気にしてる場合じゃない。
「アイちゃん、こっちへ」
「は、はい」
両手を広げて、飛び移るアイちゃんを受け止めた。ぎゅっと抱きしめて、とんと舟上に降ろす。
気づけばいつの間にか、シレーヌも舟に飛び乗って、じっと私の方を見上げていた。いつも通りのポーカーフェイスだけど、今は『大丈夫なの?』と心配されているような気がする。
「大丈夫、すぐに出られますよ」
そう気休めの言葉をかけるけれど、それがそんなに簡単な話でないことは、他ならぬ私が一番よく理解していた。
舟を進めると、早速難所に行き当たった。
「天井が……」
アイちゃんが困ったように呟く。行きにはちょっと頭に気をつければ普通に通り抜けられる通路だったのだけど。
今は、座ったままのアイちゃんはともかく、立ったまま櫂を握る漕ぎ手の私には、低くなったアーチがちょうど胸のあたりでつっかえることになる。
――いや、つっかえる程立派じゃないとかそういう話はひとまずおいておいて。
「……水の流れ、早いですね」
まだ高潮はピークに届いていないようで、外から海水が流れ込んで水位を押し上げている。その流れの力が私たちの舟を奥へ奥へと押し流そうとしており、それに逆らって進むのは、普段より一回り余計な体力を消費する。
特に、こうやって立ち漕ぎの手を休めて進まなければいけない地形は大変だ。屈んで小さく漕ぐか、少し助走をつけて一気に通り過ぎるしかない。
小さく漕いだ方が安全なのは間違いない。でもそれだと時間がかかりすぎる。普段ならそれで問題はないのだけど、今はまだ高潮進行中。ぼやぼやしていると状況はどんどん悪化するばかりだ。
「アニーさん……?」
思案する私に不安そうな視線で見上げてくるアイちゃん。そんな彼女に大丈夫という顔を作って見せてから、私は大きく息を吸い込んだ。
「……よしっ」
冷たく淀んだ空気はあまり気分の良いものではなかったけど、気合いは入った。
舟を流れに任せアーチから距離を置く。そして姫屋風に身体に力を込めて、一気に櫂を手繰った。
「せぇ…………のっ!」
流れに逆らい、舟が走る。目指すは卵状のアーチの真ん中。そのままだと身体をぶつけるので、タイミングを測って身を屈め、アーチをやり過ごす。
帽子を手で押さえて、ふっと頭上が暗くなるのは一瞬。半目で上の安全を確かめて、私はそろそろと舟の上に立ち上がった。
「やった!」
「よしっ、難関クリアです!!」
快哉をあげるアイちゃんに、ガッツポーズを取って見せて、櫂を握り直す。ぼやぼやしていたら、流れに押し戻されて元の黙阿弥になる。急いで修道院の外に出ないといけない。
……そんな焦りがいけなかったんだろうか。
たまたま無茶が上手くいったことで、傲りを罰せられたんだろうか。
これから一気に抜け出すぞ、と意気込んだ瞬間。
――船底から、大きくがつんと音がした。