ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
「きゃぁっ!?」
「ひぁっ!?」
二人の悲鳴が唱和して、がくんと舟が揺れた。
漕ぎ場が揺れて、バランスが崩れる。がくんと身体が傾いて、そのまま水路に投げ出されそうになる。
でも、私はウンディーネ。その程度じゃあ落ちてなんてあげられない。とっさに壁に足を突いて、櫂を手繰ってバランスを取り戻す。
「大丈夫ですか、アイちゃん、シレーヌ!?」
目を向ける余裕がないので、声だけで二人の無事を確かめる。
「は、はい、大丈夫です」
アイちゃんがそう応えてくれる。声はしないけど、ちらりと見た限りではシレーヌの方も心配ないようだった。さすがは火星猫。……とはいっても、アリア社長だとちょっと危なかったかも知れないけど、とか余計な考えが頭をよぎる。ごめんなさい社長。
ともあれ、程なくして舟は安定を取り戻し、私はほっと息を吐き出した。
「ごめんなさい、アイちゃん、シレーヌ。水とか被ってませんか?」
櫂を動かし、舟を再度進ませながら問いかける。
「う、うん、大丈夫です。でも何が……」
「たぶん、水位が上がったことで、それまで水面に顔を出していた瓦礫が沈んじゃって、見えなくなっていたんだと思います。それがちょうど舟の底に引っかかった、という感じじゃないかな……」
「……ゴンドラ、壊れちゃったりしないんですか?」
アイちゃんの心配ももっとも。だけど、ウンディーネのゴンドラはこのくらいじゃ壊れない。白い舟はお客様を快適に乗せるために、黒い舟は見習いがやらかしちゃうのに耐えるために、特別頑丈に作られている。
だから私は「大丈夫、心配ありませんよ」と微笑んで見せたのだけど。
結果は、アイちゃんの方が正しかった。
「アニーさん、水が!」
必死に櫂を動かす私の前で、アイちゃんが切羽詰まった声を上げた。
ちらりと見れば、船底のどこかに穴が開いたのか、底に溜まった水がきらりとライトを反射している。
浸水が始まったのは、船底をぶつけて数分が過ぎた頃だった。船に腰掛けるアイちゃんが「冷たっ!?」と声を上げ、船底に水が入り込んでいる事に気がついたんだ。
「非常用のカップがあります。それで掻き出して! 大丈夫、なんとかもたせますから!」
アイちゃんにそう指示しながら、全身で櫂を動かす。
こんなことで、ゴンドラは壊れたりしないのに! そう内心で叫んでるけど、事実底が抜けちゃってるんだから仕方がない。元々船底が弱っていたのか。たまたま弱っていたところに瓦礫か何かがぶつかってしまったのか。理由はわからないけど……。
「急がなくちゃ…………っ!!」
これ以上舟を傷つけないように注意しながら、でも精一杯のスピードで櫂を手繰る。
でも、どんなに頑張っても、浸水は進行していくばかり。だんだん穴が大きくなっているんだろうか、程なくして浸水はアイちゃんが掻き出すスピードを大幅に上回って、くるぶしまでを冷たい水で浸してしまう。
浸水の重みのせいだろうか、それとも疲労のせいだろうか。櫂がどんどん鈍くなる。
そして、私の視界にまだ浸水していない通路が見えたとき、私の心は決まった。
「アイちゃん、そこの通路に着けます。降りて!」
「は、はいっ!」
舟を通路に横付けするのを待って、アイちゃんが陸に飛び上がる。濡れるのが嫌だったのか、いつの間にかアイちゃんの肩に居座っていたシレーヌも一緒だ。着地で少し不安定になったものの、無事に浸水前の通路に降り立つことができたみたい。
よし、次は私だ。櫂を置いて、船縁に脚をかけるのだけど。
ぐらり、と舟が揺れたとき、ずきりと心が痛んだ。
おんぼろの、今ネオ・ヴェネツィアのウンディーネが扱うゴンドラの中でも、たぶん一、二を争うくらいの年季物。姫屋の倉庫の奥底で、何人ものシングル・ウンディーネを見送ってきた最長老。
それが、船底に穴を開かれて、ゆっくりと沈み逝こうとしている。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
私が、失敗しちゃったから。
私が、こんな所に入り込んでしまったから。
修繕できるかどうかはわからないけど。
もう一度運河に漕ぎ出せるかどうかわからないけど。
必ず、迎えに来ますから。
絶対、迎えに来ますから。
だから、今は――。
「――ごめんなさい」
鉄板で補修された船縁に触れる手に、精一杯の謝罪の気持ちを込めて。
私は舟を蹴って、乾いた通路に身を躍らせた。
※
――再び、『私』の心が遊離する。
アニエス・デュマと重なっていた心が、ふわりと別れて、暗い水路に漂い出す。
アニエスが、アイちゃんとシレーヌを引き連れて、乾いた通路……わずかに上りの傾斜がかかった通路に歩み出した。
その背中を見送っていた『私』は、置き去りになった黒い舟の船縁に、黒衣の老紳士の姿が見えることに気がついた。
もちろん、現実の存在じゃない。たぶん、これも幻想世界の住人。舟の精霊とか、そんな感じのものではないだろうか。
”あんたは、行かんのかね”
老紳士は、私の方を優しげな瞳で見上げて、そう呼びかけてきた。
そう、幻想世界の住人には、今の『私』の姿が見える。アニエスと重なっていない私は、幽霊とか亡霊とか生霊とか、そのあたりに属する存在。だからこそ、今の私は幻想世界の住人を見ることができるし、同時に彼らは私の姿を見ることができるんだろう。
”あんたは――あの娘達と一緒にいたくて、ずっとそこにいたんだろう?”
私が老紳士を見えるように、老紳士もまた私を見ることができるようだった。きっと彼はずっと、アニエスと一緒になっていた私を見て……見守っていてくれたんだろう。
幾十、もしかしたら幾百のウンディーネを育ててきた、老練の舟の精霊。その目はとても優しくて、異物であろう私の姿を見ても、慈しむように穏やかな眼差しを差し向けてくれる。
そして、老紳士に言われて私は迷った。どうして私はここにいるんだろう。私はアニエスに自分を投影して、その喜びや悲しみ、健やかな成長を楽しむ傍観者に過ぎなかったはずなんだ。
『私』は夢を見ているだけだったはず。なのに、どうして私はここにいるんだろう。
”それは、あんたがそこにいたいと思ったからだよ。同じであることで我慢ができなくなった、そんなちょっとした欲張りの結果なのさ”
同じであっては触れあえない。違う誰かであるから、お互いを知って、触れあうことができる。喜びを、感動を分かち合って、響き合わせることができる。
アニエスとアイちゃんがそうであるように。灯里さんや藍華さんやアリスちゃんが互いにそうであるように。
そう望むから、私は私として、アニエスと別れることを選んだんだろうか。
そんな馬鹿な、と思う。これは私の夢。私が誰かの夢の産物なのか、このアクアが私の夢の産物なのか、区別はつかないけれど。
このアクアが私にとっての夢である限り、私はこのアクアに触れることはできない。できるはずがない。
そのはずなのに……今、私の意識はここにある。
ここにいて、水路を駆け上がってゆくアニエス達の背中を見送っている。
”早く追いかけねば、置いて行かれてしまうよ?”
老紳士が、そう穏やかに語りかけてくる。
その舟底には、運河の水が音もなく染みこんで水位を上げてきている。アクア・アルタの水面上昇も手伝って、遠からず『彼』は運河の中に消えてしまうだろう。
”――いいんですか?”
そう私は問いかけた。いや、言葉は出なかったから、心で語りかけるだけだったけれど。
こんなに長く、ウンディーネを見守ってきた貴方が、こんなところで沈んでしまって、朽ち果ててしまってもいいんですか、と。
”儂はもう、十分だよ”
言葉は出なかったけど、思いは伝わったらしい。老紳士は穏やかに目を細めた。
”何人ものウンディーネを乗せてきた。その喜びと悲しみを一緒に背負ってきた。何人もの新人が一人前になっていくのも、夢敗れていくのも見送ってきた”
思い出を呼び起こすように、視線を上に彷徨わせる。そこには水路の暗い天井しかないけれど、彼にはきっと水路の天井を透かして、遠く青い空が見えているんだろう。
”それに、倉庫の奥で朽ち果てるのではなく、最後に素晴らしい娘達を乗せられた。これ以上を望むのは贅沢というものさ”
そう言って、老紳士は満足そうに髭を揺らした。本当に、これ以上を望んではいないということが、私の目からもはっきりとわかる様で。
私にはわからなかった。でもわかるしかなかった。歳を経て、いくつもの思い出を両手に抱えられないほどに抱いて、そして消えていこうとしているその人の存在が、あまりにも大きくて、あまりにも重くて。
私には何も言えなかった。何か言いたいのに、私という小さな器に満たされた言葉では、この人にかけられる言葉が何も思いつかなくて。
そんな私の様子を、老紳士は穏やかに見つめていた。私の葛藤も悩みも、すべて見透かしているかのように。
”でも、そうだね……敢えてあんたと同じに欲張りを言わせて貰うなら”
だからだろう、彼は少し思案するように視線を宙に彷徨わせて、何か楽しい悪戯を思いついたかのように目を細めて、
”儂に、あんたを見送らせて貰えんかね”
そう言って、口髭を揺らした。
見送る……と言われても。私は戸惑った。私はウンディーネはおろか、このアクアの上では人間ですらない。生霊とかそのあたりの、この世ならざる存在だ。
そんな私を、どう見送るというんだろう。こんな甘い夢から目覚めて現実を見ろということなんだろうか。
”プリマになって夢を叶えた娘も、夢を諦めて舟を降りた娘も。儂から離れる時には、皆自分の新しい未来を目指して歩き出していた……だから”
少しだけ、彼は目を細めた。
”あんたにも、儂を離れていくなら、何か新しい希望を手にしていて欲しいのさ”
それはつまり――本物の希望でも、空元気でもいい。笑って、前を向いた私に、彼が生きていた歴史の最後を飾って欲しい――ということ。
勝手なことを、と思った。そんなことを言われても、とも思った。
だけど、それ以上に。アニエスと一緒に長い日々を過ごし、この老紳士と……古いゴンドラと共に、短いながらも日々を過ごしてきた私だから。
彼のために何かしたい、彼の喜びになりたいと思った。
私は頷いた。それが彼に見えたかどうか、どういう風に見えたかはわからないけど。
彼は私がどういう顔をしているのか、はっきりわかっているようで。私が歩む道行きを祝福しているかのように。
”――さあ、行っておくれ。早くしないと置いて行かれてしまうよ”
そう、豊かな口髭を揺らして、微笑んだんだ。
――私は、幽霊のようなものだ。アニエスの影に取り付いて、彼女の健やかな成長を追いかけて、自分のもののように喜んでいた、そんな形のない傍観者。
だけど、そんな私でも、誰かのためになれるのならば。
誰かのために、私の大事な誰かのために、笑顔になろう。笑顔で未来を目指して歩きだそう。
私は老紳士に、そして永らく一緒に過ごしていたゴンドラに背を向けた。
いつしか、回廊に足を踏みしめていた。それまで、私は自分の形を意識することもなかったのに。
私には手がある。足がある。前を向いて、憧れる別の自分……いや、そうなりたいと憧れるアニエス・デュマという一人の女の子を目指して。
そうか、これが踏み出すってことなんだろう。目の前にあることを現実と認識して、それを踏みしめて歩き出す。誰かの感覚を借りてではなく、私自身の感覚として、一歩を、また一歩を踏み出す。
十歩を踏み出したところで、ふと気になって振り返った。
そこには、ついに浮力を失って闇色の水面に溶け込んでいく、黒いゴンドラの姿があった。
小さな光を、羽根のない天使が最後の合図のように煌めかせて、そして。
彼は、水路の闇の中に、消えていった。
さあ、急ごう。私は彼の残滓に背を向けて歩き出した。
傍観者である私に何ができるのか、何のためにここにいるのかもわからないけど。
見届けなければならない。それが不確かな傍観者である私の役割だと思うから。
だから、私は歩みを速め、いつしか回廊を駆け出していた。
※
「そんな、行き止まり……っ!!」
ポシェットから取り出したライトで照らしながら、私ことアニエス・デュマは、暗い回廊を歩き続けていたんだけど。
少し後ろを歩くアイちゃんが、ライトが照らし出した無情な光景に悲鳴じみた声を上げた。
そんなアイちゃんの声を聞きながら、私はがっくりと手足から力が抜けていくのを感じていた。折角ここまで歩いてきたのに、行き止まりだなんて。これだけ長い通路なら、どこかしらに繋がっているはずだと思ったのに。
だけど、弱気は見せられない。手足に無理矢理力を込めて、前をじっと見据える。アイちゃんを不安にさせないように。私自身が折れないように。
「大丈夫、待って下さい……」
不安そうに私の制服の袖を握るアイちゃんを勇気づけるように、ぽんぽんと頭を叩いてから私は壁に取り付いた。
ちゃぷ、と靴下にまで届いた水が濡れた音を立てる。アクア・アルタの海面上昇はまだ止まらない。確か一番水位が上がって、サン・マルコ広場を歩いて長靴が水浸しになるくらいだと聞いている。だとしたら、まだ水位上昇は止まらない。
さすがに、頭まで水に浸かるということはないと思うけど、少なくとも膝までは覚悟しなきゃならないと思う。だとしたら、危ない。短い時間ならともかく、長い時間水に浸かっていたら、酷く体力を消耗してしまう。アクア・アルタが落ち着くには大体半日はかかるはずだから、その間ずっと冷たい地下の水に晒され続ける。それは……下手をすれば命にも関わる重大事だ。
……落ち着けアニー。以前聞いた藍華さんの言葉を思い出せ。私は今、アイちゃんとシレーヌと一緒にいるんだ。練習のお手伝い名義ではあっても、実際は立派なお客様。だったらお客様のためにベストを尽くさないでどうするんだ。
行く手の壁は、どうやら扉になっているようだった。長い時間閉ざされたままになっている扉。鍵はこちら側からかけられているようで、閂を外すのは頑張ればどうにかなりそう。
風化した閂の木材はがっちり鋼材に食い込んでいる。動くかどうかは試してみないとわからないけど……。
何度か試して、私一人の力だと、素手の左手に朽ちた閂の吸い針を立てるばかりだということがわかった。
「あいたたた……アイちゃん、ちょっとこっち手伝って貰えますか?」
「は、はいっ!」
手袋を外してアイちゃんに渡し、閂の端を指し示す。片手だけでも、力一杯押し込んで貰えばうまくいくかもしれない。こちらはハンカチを手に巻き付けて、リトライ。
「せぇ…………のっ!」
呼吸を合わせて、ぐいっと閂を押し込む。櫂を動かす要領で体重を乗せて、二度、三度と繰り返す。そしてそれが五回繰り返された時、閂に食い込んだ鋼材のあたりで、ずる、という乾いた音が聞こえてきた。
「やった!」
アイちゃんの快哉に心の中で同調しつつ、更に力を込める。ぐい、ぐいと力を込めれば、一度動き始めた閂はずる、ずると鋼材の隙間を滑って、そしてついに扉の継ぎ目のところまで押し込まれた。
「これで開くでしょうか?」
ふうふうと息を荒くしながらアイちゃんが聞く。
「やってみましょう。一斉の勢で……うん……っ!!」
扉に体重と渾身の力を込めて扉を押し込む。扉にはこちら側に蝶番が見えないから、向こう側に開くようになっているはず。だから頑張って押し込めば、きっと扉は開くはず。
開くはず、なんだけど。
私たちが何度も何度も力を込めて押し込んでも、扉はびくとも動かなかった。
他にも閂がかかっていないか。錠がかかったままになってはいないか。私たちは丹念に扉の周りを調べてみたけれど、それらしいものは見つからなかった。純粋に、扉が重くて開かなくなっていたんだ。もしかすると、外側からも封じられているのかもしれない。
見れば、足下を濡らしている水は、後ろの水路からではなく、目の前の扉の隙間から漏れ出していた。つまり、今この部屋の中の水位よりも、外の水位の方が高いということになる。多分その水が扉を押さえる力が、私たちが扉を押し込む力よりも強いんだ。
水位上昇はまだ止まらない。このままぼやぼやしていたら、更に状況は悪くなる。私たちは更に必死になって扉を押し込んだ。
だけど、何も変わらなかった。
何十年、もしかしたら百年以上の沈黙を纏って佇む扉に、私たちは為す術もなく、ただぐったりと疲れた身体でしゃがみ込むことしかできなかったんだ。