ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
『私』が追いついた時、アニエスとアイちゃんは疲れた顔でその場に蹲っていた。
扉に寄りかかった二人の様子を見て、私は扉が開かないのだと気がついた。時折気力を取り戻して、アニエスが通路を戻ったり、扉をもう一度押し込んだりしているけれど、どちらも思うような結果は得られていない。
通路を戻った方は、もう水没して泳がないと外に出ることはできない。今は外に出るには流れに逆らわないといけないし、舟を傷つけたことを考えると、下手に泳ぐと沈んだ瓦礫にぶつかったりして大変なことになりかねない。泳ぐとすれば、少なくとも水の流れが弱まるアクア・アルタのピークを待つべきだろう。
扉は結局どう頑張っても開かず、扉の隙間から流れ込む水の量は、時間を経る毎に少しずつ量を増やして、今ではちょろちょろと小川のような音を立てて通路の奥へと下っていく。
最初はアニエスもアイちゃんも立っていたけれど、疲労に負けたのか、拾ってきた瓦礫を即席の椅子にして、服が濡れるのもお構いなしに腰を下ろしている。
もちろん、さっき落とした
「あれが動けば、外の誰かに助けを求める事もできたかもしれないのに」
そう言ってアイちゃんは申し訳なさそうにしたけれど、「電波はこんな地下通路では通じません」とアニエスは苦笑混じりにアイちゃんの頭を撫でていた。
アニエスの身体がぶるっと震えた。地下通路の冷たい気温と海水に体温を奪われるのを少しでも抑えるために、二人は今ぎゅっと身を寄せている。
だから、抑えたつもりのアニエスの震えを、アイちゃんも感じ取った。
「アニーさん、寒いならシレーヌどうぞ」
「ううん、シレーヌはアイちゃんが守ってあげてください」
アイちゃんの提案を、アニエスは笑って遠慮する。シレーヌも濡れるのが嫌なのか、アイちゃんの腕の中でじっとしている。もう触らせないようにとか気にしていられなくなったんだろうか。冷たい水に体温を奪われていく今、シレーヌの体温が感じられるだけでもだいぶ違うんじゃないだろうか、と思う。……シレーヌに体温があれば、だけれど。
二人の交わす言葉も尽きたのか、少し前からあまり話さなくなった。今は体力を温存するときだ……そう判断したんだろう。
だけど――第三者だからこそ判断できることもある。このままでは状況は悪くなる一方だ。アクア・アルタのピークがいつ頃なのかはわからないけれど、このまま時間を過ごしていたら、チャンスが巡ってきた時には二人の体力が尽きている。
何か手を打たなければならない。私にできることはないだろうか。
私には今手足がある。私が『私』であると認識したせいだろうか。アニエスと一緒になっていた時に比べて、自分の輪郭がわかるようになっている。だから何かに触れることはできる――けど、何かを動かすことはできない。幽霊みたいなもので、暖かさも持ち合わせていないから、二人に分けてあげることもできない。
――そうだ。私が幽霊だというならば。
蹲ったままのアニエスとアイを横目に、扉に手をかける。シレーヌの視線が私を追いかけているけれど、こちらから話しかけることはないし、シレーヌが話しかけてくることはないだろう。だから気にせず、扉に手を押し込む。
抜けられない。冷たい感触があるわけでもなく、ただそこにある壁のようなものに押し返される。
幽霊と言えば壁抜けが定番だと思うのだけど、そうもいかないんだろうか。
もう一度試す。やっぱり、何かに押し返される。
本物の鉄扉に阻まれている訳じゃない。少し手が壁にめり込んで、でも何かに押し返されている。だから、何かを工夫すれば、扉をすり抜けることはできるはずなんだ。
そこで気がついた。通り抜けられないのは当然だ。だって今、私は床を歩いている。靴が床を踏みしめて、足が前に身体を運んでいる。それはつまり「石壁は踏みしめることができる=入ることができない」というルールの上にいるから歩くことができるんだ。
だったら、そのルールを無視すればいい。難しいことじゃない。さっきまでやっていたことじゃないか。
手と足を意識せず、自分自身も意識しない。自分はここにいない、ということを何度も自分に言い聞かせる。
歩くのじゃなく、ただ扉の方に移動する。何も考えない。何も障害はない。進めば普通に外を見ることができる。そこには何の疑問もない。
そのとき、声が聞こえた。
”そのまま行くと、貴女消えてしまうわよ”
扉に触れる直前に、投げかけられたそんな言葉。
それは、アイちゃんの腕の中のシレーヌのものだった。
消える……?
半身だけで振り返り、私は言葉に出さないままに呟いた。
シレーヌは、口を動かさないままに語った。それでどうしてシレーヌが喋っているとわかるのか自分でも不思議だったけど、まあそれはそういうものなのだと割り切ることにする。
”貴女は、アニエスと一緒にいることで、この世界に居続けることができた。でも今貴女はアニエスから離れようとしている。それは、貴女がこの世界に居続けるための楔を失うということ”
だから、消える。この世界にあるべきでないものだから、私は私として行動すれば、この世界に居続ける資格を失うことになる。
アニエスから離れても、傍観者だから、観察者だから存続できた。
その領分を逸脱すれば、私はここからいなくなってしまう。幻想ではない、『私』としてこの世界に干渉しようとしているから。
うん、なんとなくわかる。きっとそういうことなんだろう。だって、私が変わって、アニエスから離れている時間が徐々に増えているんだから。
私は迷った。私はこの世界が大好きだ。水に満たされた火星の、古い町を模した小さな島。そこに暮らす日々と人々。その全てが愛おしい。
ずっとアニエスと一緒にいられたらどんなにいいだろう。こんな素敵な世界に囲まれて、ずっと夢を見続けられたらどんなにいいだろう。
だけど、それは夢だ。私には私の世界がある。どんなにつまらないものに見えても、あの灰色の地球が……お父さんとお母さんと、友達がいる場所が、私の本当の世界。
――夢はいつかは目覚めなければならない。それが早いのか遅いのか、それだけの違いでしかない。
そう考えれば、心はすぐに決まった。どうせ夢が終わるならば、楽しい夢として終わって欲しい。今の、怖くて悲しくて辛い夢のまま終わってもらいたくはない。
だから、私は思った。思って言葉をシレーヌに伝えた。ありがとう、と。
だから、私は私でなくなった。心を虚ろにして、扉に向けてまっすぐに進む。
シレーヌの視線を背後に感じながら、私だったものは扉にすぅっと吸い込まれて。
そして、オレンジの世界に飛び出した。
アクア・アルタで高さを増した水面。
それが、夕陽のオレンジを幾重にも幾重にも照り返す。
それは、大運河に面した古い扉だった。黒く塗られたそれは封鎖されて長いのか、表面にいくつかの木板が填め込まれてアニエス達を阻んでいる。
これを外すには、外から誰かが手を貸すしかない。そのためには、この場所を誰かに知らせないと。
大運河に面した……黒い扉。多分夕陽を直接浴びているから、大運河の東側に面している。あとは――。
くらり、と世界が傾いだ。
『消える』とシレーヌが言っていたのを思い起こす。まさか、もうそのときが来てしまったんだろうか。
ダメ、まだ早い。せめてアニエス達の居場所を誰かに伝えないと。
でもどうやって伝える。私は幽霊。この世界に干渉する術はほとんどない。ケット・シーの真似をするほどの力も私にはない。
どうしたら、どうしたら――。
そう悩んでいる間に。
私の世界と私の意識は、再び闇に閉ざされた。
「――!!」
がば、と半身を起こした。
ここは、いつもの病室のベッドの上。いつものように、アキュラ・シンドロームの発作で意識を失う直前と同じ場所。
記憶を呼び起こす。あのアクアの夢は驚くほど鮮明に残っている。夢というものは少し油断するとすぐに消えて無くなってしまうけれど、この夢はいつも私の頭の中にくっきりと焼き付いて消えていかない。
アニエス達が修道院の奥に閉じ込められて、身動きが取れなくなっていることも。
彼女たちがいるのが、大運河東側の黒い扉の向こうだということも。
私の記憶にははっきり残っている。
でも――。
「どうしたら……届くんだろう」
アニエスも、アイちゃんも、灯里さんもアリシアさんも、みんな私の夢の世界の住人だ。そんな彼女たちに、私の言葉をどうやって届ければいいんだろう。
……いや、正しくは、少し違う。私にとっての現実世界にも、灯里さんは確かに存在している。
私はこちら側で、アクアの本を読みあさった。灯里さん、藍華さん、アリスちゃん。アリシアさん、晃さん、アテナさん。他にも多くの人々。そして誰よりもアニエスを捜して、アクアについて、ウンディーネについての本を読みあさったんだ。
彼女たちは実在するのか。私の夢の中だけの産物じゃないんだろうか。そんな不安に突き動かされて。
結果としては、彼女たちは実在した。月刊ウンディーネ、週刊ネオ・ヴェネツィア、他にも様々な書籍で、≪水の三大妖精≫とその弟子達の姿を見ることができた。
だけど。
アニエスだけは、どこにもいなかった。どこにも見つけることはできなかった。
探し方が悪かったのかも知れない。私の調べられる範囲なんて知れている。家族や友達が買ってきてくれるいくつかの雑誌と、
だけど、もしかして。私がアニエスを見つけることができなくて、そしてアニエスとよく似た道を歩んできているのだとしたら。
私は、アニエスが辿った別の可能性だったんじゃないだろうか。
アニエスが辿り得た別の可能性だからこそ、私は夢の中でアニエスと同じになって、あの素敵な世界を体感できたんじゃないだろうか。
だとしたら、私にはどうしようもない。そもそも、アニエス達が閉じ込められたという事実すら、私の夢の世界でしか起きていないのかもしれない。だとしたら、こちら側の世界で何をしたとしても、彼女たちを救う役に立つとは思えない。
所詮は夢の話。気にしなくていいのかもしれない。そう思って目を閉じれば、きっと終わってしまう話なんだろう。
だけど。
私には、記憶が残っている。幾度も幾度も、少しずつ色を変えながら辿ってきた、アニエス・デュマという少女になって過ごした日々の記憶が。
あまりにも、色鮮やかに。心を締め付けるほどに暖かく。
今目を閉ざすことは、きっとあの世界を、あの暖かな記憶を否定することになる。
それは、嫌だ。絶対に嫌だ。
私は頭を振って、ベッドを降りた。
目覚めた直後だし、アキュラ・シンドロームの発作はしばらく起きない。そのしばらくが、一日か、一時間かはわからないけれど。
その時間が潰える前に、考えなければならない。
アニエス達を助けるために。私が今できることを。