ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Sola 10 私だけにできること

「……帰ってないわね、アニーちゃんたち」

 

 ≪白き妖精≫アリシア・フローレンスは、自らの愛するARIAカンパニーのはしけを見渡し、ぽつりと呟いた。

 

 周囲はすっかりアクア・アルタ一色だ。既に一階の足下まで海面が迫っている。愛弟子の灯里は「はひはひ」と慌てながら舟を倉庫に片付け、その間にアリア社長はお客の青年をダイニングに案内している。

 

 水位の上昇はまだまだ止まらない。今回のアクア・アルタはいつも以上に壮大なものになりそうだ。

 

 普段なら、そろそろアニエスは練習から戻っている頃だ。アニエスも見習いウンディーネとして既に相応の経験を積んでいる。ましてアイという客人を載せている状況ならば、アクア・アルタを体験したことはなくても、危険を感じたらすぐに戻ってくるくらいの判断はできるはずだ。

 

 なのに、戻ってきていない。これは異常事態だ。

 

「……申し訳ありません。少し席を外させていただきますが、ゆっくりしていてくださいね」

「ええ、ありがとうございます、アリシアさん。アクア・アルタは本当に壮大ですね」

 

 ダイニングのテーブルに紅茶のカップとお菓子を並べてそう謝罪すると、青年は爽やかに、どこか懐かしそうな顔で微笑んで、水平面に目を向けた。つくづく、どういうわけかこの青年はARIAカンパニーの風景に馴染む。

 

「アリシアさーん! 舟の片付け終わりました-!」

「ご苦労様、灯里ちゃん。……ちょっといい?」

「はひ?」

 

 戸惑い顔の灯里をはしけまで連れ出す。灯里もアリシアの若干の緊張を感じ取ったのか、すぐに表情を引き締めてアリシアに続いた。

 

「……アニーちゃんのことですよね?」

 

 そして、青年に聞こえない程度に距離を離したところで、灯里の方から問いかけてきた。

 

 灯里の方でも、アニエスの姿が見えないことに不安を感じていたのだろう。そんな素振りも見せなかったのは、お客の前で取り乱してはいけないという職業意識のなせる業か。一番弟子の成長ぶりに胸が温かくなるのを感じつつも、アリシアはひとまずそれを思考の隅に押しやった。今はアニエス達の状況を教える方が先だ。

 

「……えっ? アイちゃんも一緒に!?」

 

 流石にアイも一緒であるという話は予想外であったらしく、灯里は喜色二割、不安八割の複雑な表情を浮かべた。

 

 アクア・アルタによって水位はかなりの所までせり上がっている。今の時間まで舟を出したままということは、少なくともどこかの水路に閉じこめられて動きが取れなくなっている可能性が高い。

 

「アニーちゃんなら携帯電話(スマート)を持ってるはずですし、電話をかけてみたらどうでしょうか?」

 

 灯里の提案に、アリシアはぽんと手を打った。アニエスは常にマンホームからのメールを受け取るために携帯電話(スマート)を持ち歩いている。だから電話をかけて居場所と現状を知るということができるのだ。ネオ・ヴェネツィアの人間はあまり携帯電話の類を持ち歩かないからついつい忘れがちだが、そこはなんのかんの言っても灯里はマンホーム生まれである。

 

「じゃあ、かけてみますね。……あ、もしもしアニーちゃん?」

 

 アリシアと連れだってダイニングまで上がる。電話に向かい、アニエスの電話番号を打ち込む灯里。しかし、受話器に耳を当てた灯里の表情は、すぐに不安の雲に覆われてしまった。

 

<おかけになった電話は、通話できない場所にあるか、電源が入っていない場合があります。お留守番サービスに……>

「……ダメです、電源が切れてるみたいで」

 

 機械のアナウンスを途中で切り、アリシアにそう報告する。その声音は不安の色が隠しきれない。ネオ・ヴェネツィアがいかに文明から立ち後れた場所だとしても、灯里のパソコンがどこからでもネットワークに繋がるように、通信網は隅々まで行き届いている。もちろん、単にアニエスが携帯電話(スマート)をまた運河に落としてしまって、機械が止まっているだけという可能性は十分にあるのだが……。

 

 未だアニエス達が帰ってこず、かつ電話が通じないというのは、無性に不安をかき立てる。

 

「晃ちゃんとアテナちゃんに、アニーちゃん達を見なかったか聞いてみましょうか。灯里ちゃんはお客様のお相手をお願いね」

「はい、アリシアさん」

 

 灯里に事後を任せたアリシアが電話に手を伸ばした瞬間だった。

 

「アリシアちゃん、アニーちゃんたちは帰ってる?」

 

 まるで待ちかまえていたかのようなタイミングでベルが鳴り響いたかと思うと、飛び込んできた顔が開口一番にそう問いかけてきた。

 

 見慣れた褐色の肌は、アリシアの親友であり≪水の三大妖精≫の一人、アテナ・グローリィに他ならない。普段アリシアと対面するときにはふわふわと頼りなく捕らえ所のない表情の彼女が、いつになく真剣に……仕事に対するものに更に輪をかけて緊張感を漲らせているのを見て取り、アリシアは知らずのうちに指先を強ばらせていた。

 

「アテナちゃん、どういうこと?」

「アリスちゃんが、学校帰りに水没地区近くでアニーちゃんとアイちゃんを見かけたって言っていたの。それで今日はアクア・アルタが急に来てるし、もしかしたら、どこかに閉じこめられていないかって心配になって……」

 

 水没地区は、かつてのヴェネツィアの遺構を移築したものの、地盤沈下で水没してしまった地区だ。その沈降具合は床上浸水どころか舟で建物に入れる程であり、その分アーチ橋や天井も低いので、水位上昇によって身動きが取れなくなった可能性がある。

 

 もちろん、ひとつドジ話において、アテナ・グローリィが経験済みでないはずもない。故にこその不安であり、故にこそわざわざアリシアに確認の連絡を入れたのだろう。

 

「ありがとうアテナちゃん。アリスちゃんが最後にどこでアニーちゃん達を見かけたかわかるかしら?」

「ちょっと待ってね。……ええと」

「――代わりました、アリシアさん。アニーさん達を見かけたのは――」

 

 思案顔のアテナから電話を引き継ぎ、制服姿のアテナの愛弟子、アリス・キャロルが姿を現す。

 

 彼女が示したのは、ネオ・ヴェネツィアのやや外れ。住居に混じって開拓時代の廃墟や遺構が立ち並ぶ領域だった。

 

 ちょうど、先ほどアリシアがアニエス達を見かけた辺りにほど近い。あの周辺は旧ヴェネツィア時代の遺構を流用しているところも多く、地盤沈下前に建造されたために、アーチの低い橋も数多くある。時間帯もほぼ一致するし、アニエス達がその廃墟近くを彷徨っている可能性はかなり高いだろう。

 

「アリシアちゃん、私たちも探しに行きましょうか?」

 

 電話の向こうで、アテナが提案する。アクア・アルタの間、ネオ・ヴェネツィアの機能の多くがマヒする。警察などが動き出すには時間がかかるし、土地勘のあるウンディーネ以上に、アクア・アルタのネオ・ヴェネツィアを機敏に動ける者はいないだろう。

 

「ごめんなさいアテナちゃん、お願いしていい? 私も今から捜しに行くから」

「うん。他ならないアニーちゃんとアイちゃんのためでもあるもんね」

 

 憂い顔の上に元気づけるような微笑みを残して、電話口からアテナの映像が消えた。

 

 受話器を置きつつ、アリシアはアテナのそれを映したかのように微笑む。

 

 以前、晃とアテナがそれぞれ語っていたことがある。アニエスはまるで、自分たちの弟子でもあるかのようだと。

 

 それぞれが初弟子をシングルまで育て上げた(アリスは形式的にはペアだが)後に現れた新人だということもある。様々な縁で彼女たちと深く関わり合ったということもある。だが何よりも、アリシア達師匠組に加え、灯里達一番弟子組の全員で育て上げた後輩なのだという自負がどこかにある。

 

 だからこそだろう、アテナもアリスも、どこか不思議なくらい親身になって、アニエスの無事を願い、そのために力を尽くしてくれている。

 

 そして、弟子想いなことでは師匠組随一の人物もまた、まるで機を狙っていたかのように電話口に飛び出してきたのだ。

 

「アリシア、アニー達は帰ってるか?」

 

 いつも少し気難しそうな眉を更に厳しめにひそめたその顔は、アリシアのいま一人の親友である、≪真紅の薔薇≫晃・E・フェラーリに他ならない。彼女もまたアニエスを昼間に見かけ、もしも万が一があってはいけないと思って連絡を入れてきたのだという。

 

 アリシアが、アニエス達がまだ帰ってきておらず、連絡も取れないことを伝えると、晃と更に電話口を覗き込む藍華の表情がさっと堅くなった。

 

「わかった。私たちも調べてみる。藍華、他のウンディーネに聞いて回ってくれ。私は街を見て回る」

「わ、わかりました晃さん! アリシアさん、それじゃまた後で!」

「……お願いね、晃ちゃん、藍華ちゃん」

 

 ぷつんと映像の途切れた電話口に深く頭を下げて、アリシアは親友達の配慮に心から感謝した。いつもそうだ。アリシアが困っていると、すっとあの親友達の助け船が差し出される。

 

 そして、晃にも協力を頼んだ後も、電話はひっきりなしに鳴り続けた。

 

「ア、アリシアさん、いつもお美しい……い、いや、今はそれよりも、ボクッ娘は帰っていますか?」

「よう、アリシア嬢ちゃん。アニー嬢ちゃんはもう戻ってるかい?」

「アリシアさん、ご無沙汰しています。アニーさん達は……」

「アリシアさん、突然ごめんなのだー! もうちゃんとアニーちゃん達は戻っているのだ?」

 

 電話口から口々に、火炎之番人である暁、郵便局の庵野、地重管理人のアルなどが。更に窓から飛び込んできたのは風追配達人のウッディーの声である。皆それぞれが、異口同音にアニエスの安否を尋ねる。それぞれが、アイと一緒に町中を徘徊していたアニエス達の姿を目撃しており、更に『そういえば彼女は初アクア・アルタである』ということを思い起こしたのだ。

 

(これだけの人に心配されているんだから、アニーちゃんも人気者ね)

 

 などと思考の隅で嬉しさを転がしつつも、今は優先すべきことがある。

 

「ええ、実はちょっと困ったことになっていて……」

 

 アリシアは来訪者達それぞれに事情を知らせ、そしてこの際だからとアニエスの捜索に協力を頼むこととした。

 

 幸か不幸か、アクア・アルタの最中は、ほとんどの事業者は開店休業状態である。ARIAカンパニーに電話を入れたのも、暇を持て余しての事が半分、本当にアニエスに何か起きていないかと心配だったのが半分くらいだ。

 

 だが、本当にそんなトラブルが起きているとなれば、冗談半分では済まない。それぞれが、自分の周りの人々にアニエスの行方について尋ねる一方、フットワークの軽い面々はネオ・ヴェネツィア市街地を足で捜すことを快諾した。

 

 そして、晃やアテナ、さらには多くの知り合い達を働かせているからには、自分たちが手をこまねいている訳にもいかない。

 

「……さて、それじゃ私もアニーちゃんを捜しに行ってくるわね。灯里ちゃんはお客様のお相手をしていて」

「えっと、でも私も……いえ、わかりました、アリシアさん」

 

 一瞬アリシアに同行を申し出ようとする灯里だったが、お客である青年の存在を思い起こして思い直す。しかし、それよりも早く、

 

「いえ、それには及びませんよ」

 

 と、空のカップを片手に当の青年が否を告げた。

 

「アニーちゃんのことなら、僕にも手伝わせて下さい。どれほど役に立てるかはわかりませんが、男手がないよりはあったほうが良いでしょう?」

「でも……」

「灯里ちゃん、お願いしましょう」

 

 灯里としては、お客を自分事に巻き込むのは抵抗がある。しかし、この青年はアニエスとも縁があるし、それに万が一があることを考えると、人手は多いに越したことはない。

 

 だから、アリシアと青年の顔を交互に眺めた灯里がこっくりと頷けば、もうじっとしている理由はなかった。

 

「ぷいぷいぷいにゅっ!」

 

 ARIAカンパニー総出による、アニエス・デュマ捜索作戦。その開始を宣言するように、アリア社長が鬨の声っぽく前足を掲げた。

 

 

 

 

「あ……ちょっと、どうしたの!?」

「ごめん母さん、今急いでるの!」

 

 突然開け放たれた扉に驚く母さんを尻目に、『私』は病室を飛び出すと、病院のレクリエーションルームに向かった。

 

 目的は、ネットワークに繋がった端末だ。病院の個室は原則電話は禁止だから、ネットワークに繋ごうと思うと各部屋の備え付けの端末か、ここの情報端末を使うしかない。そして私の病室の端末は、私があまりそういうことに興味を持っていなかったためもあって、あまり良いものは使われていない。小さな画面で、簡単なニュースや写真が表示される程度のものだ。細かい単語や文節でネットワークに検索をかけるには、何かとパワーが足りない。

 

 でも、レクリエーションルームならば、ネットをフルで参照できる情報端末が置いてある。

 

 幸い、今は誰も端末を使っていないようだった。私はすぐさま端末前のシートに腰を下ろし、端末を起動する。

 

 暗転した画面に、宇宙開発時代以前からパソコン業界を牛耳るメーカーのロゴが表示される。もどかしい。のろくさい。次のアキュラ・シンドロームの発作が起きる前に、なんとしてもアニエス達の行方を伝えなければならないのに。

 

 ネットブラウザが、いくつも窓を開く。まず、ウンディーネについて検索。魔術師パラケルススが提唱した四大元素のうち水を司る――いや、そんな事は誰も聞いてない。ネオ・ヴェネツィアとウンディーネで全一致検索をかける。画面に、見慣れた白の制服(ちなみにオレンジ色の模様だから、オレンジぷらねっとのものだ)が表示され、私の知りたいウンディーネについての情報が表示されたことを示す。

 

 調べないといけないことは、灯里さんかアリシアさん、ARIAカンパニーへの連絡先だ。大運河の東側、黒い扉。半分水没したその向こうに、アニエス達が閉じ込められている。情報としては断片的だけど、ネオ・ヴェネツィアを隅々まで知るウンディーネのことだ、きっとそれだけの情報があれば、きっと二人を見つけ出してくれる。

 

 幾度か絞り込みをかけることで、ARIAカンパニーの連絡先はわかった。でもこれは予約向けの連絡先。今の状況のARIAカンパニーが、これを見てくれるとは考えにくい。もっと近くの、もっと確実に灯里さんかアリシアさんに届く連絡先が必要だ。

 

「……えっと、確か……」

 

 アニエスであった時の記憶を呼び起こす。アニエスなら、灯里さんのパソコンのメールアドレスを覚えているかもしれない。それさえ思い出せれば、直接彼女にアニエスの危機と居場所を伝えることができる。

 

 でも、ダメだった。そもそも、アニエスは灯里にメールを送ったことがほとんどない。一つ屋根の下に暮らしているし、いつも一緒だったから、連絡先をわざわざ覚えておく必要もない。

 

 じゃあもっと前。ARIAカンパニーに所属していないアニエスの記憶ならどうだろう。私には、断片的だけど姫屋やオレンジぷらねっとに入社したアニエスの記憶もある。それらの記憶の奥底になら、灯里さんのメールアドレスだってあるんじゃないだろうか。

 

 思い起こす。無理矢理記憶を掘り返す。あの運命のレストラン・ウィネバー。そこから分岐したいくつかの可能性へと記憶を辿っていく。

 

 頭痛がする。でも無理矢理押さえ込む。オレンジぷらねっと時代。ダメだ。そもそも端末に触れてもいない。なら姫屋時代はどうだ。やっぱりパソコンに触れる機会はほとんどなくて、触れた記憶があるのといえば、アキュラ・シンドロームで地球に戻ってから、藍華さんと何度もメールを交換した時期くらいのもの――。

 

「あ……っ!!」

 

 ぱちっと脳裏で電光が閃いた。

 

 そうだ、無理に灯里さんのアドレスである必要はない。アクアのあの人たちに届くのであれば何だっていいんだ。届きさえすれば、藍華さんのアドレスでも一向に構わない。

 

 ――でも、藍華さんは確か、元々は通信端末を持っていなかった。あの、アニエスが姫屋に入社して、かつアニエスがアキュラ・シンドロームを発症する世界でしか、私は彼女が通信端末を持っている姿を見たことがない。

 

 藍華さんのアドレスなら、『私』ははっきりと覚えている。あの世界のアニエスは、何度も何度も藍華さんとメールを交換した。アニエス本人は、アキュラ・シンドロームの原種と戦っている間にど忘れしてしまったようだけど、傍観者である『私』は、はっきりとそのアドレスを記憶している。

 

 でもそのアドレスは、この世界においては、藍華さんのアドレスではない可能性が高い。

 

 ……いや、そもそも。アニエス達が閉じ込められているのは、『この世界』の、今のアクアなんだろうか。

 

 私が見ていたのは、『ARIAカンパニーに入社したアニエス』の姿。でも私には、『姫屋に入社したアニエス』や『オレンジぷらねっとに入社したアニエス』の記憶もある。すべては、アキュラ・シンドロームが見せた夢、あるいは幻。その可能性も決して捨てきれない。いや、その方が可能性としては高いと思う。

 

 だったら、私が何をしようと、あちら側の世界に介入することはできない。そもそもが、私は傍観者。あの素敵な人たちがいるアクアは、たとえ同じ時間軸の上にあったとしても、別の惑星……何千万キロの彼方だ。

 

 仮に、このアドレスがこの世界の藍華さんのものだったとしても、それはただの悪戯に終わってしまうんじゃないだろうか。あの世界のアニエス達を助けることができないのなら、私が何をしようと意味がない。意味がないんだ。

 

 

 ……くらり、とまた意識が遠のいた。

 

 耳の奥で囁く、歌声のような耳鳴り。

 

 

 いけない。まただ。こんなに早く、またアキュラ・シンドロームの発作が来るなんて。

 

 急がなければならない。急がないと、何もできないまま、また夢の世界に墜落してしまう。

 

 迷っている暇はなかった。『今』が繋がっているかどうかなんて考える余裕もなかった。やるか、やらないか。私の手元にある選択肢は、それだけ。

 

 幸い、私は発作慣れしているおかげか、すぐに意識が失われることはない。子守歌のように耳の中で響く歌声の中で、ゆっくりと意識が霧に包まれていく。

 

 朦朧とする意識の中で、必死にメーラーを起動して、藍華さんのアドレスを入力する。

 

『大運河』

『東側』

『黒い扉』

 

 ほとんど目も見えないまま、それだけを打ち込んだ。

 

 あとは送信するだけ。

 

 それでいいんだろうか。迷惑ではないだろうか。本当に私が望む彼女たちに届くんだろうか。

 

 悩んだけれど、それもまた端からぼろぼろと闇の中にこぼれ落ちていく。

 

 だから、私は、最後に残った意識の全部で、エンターキーの感覚を指先でどうにか捉えて、そして。

 

 

 そして、私の意識は、また闇に途切れた。

 

 

 

 

 ほんの数バイトの文字列が、電波に乗って宇宙に放射されていく。

 

 それは、極めて曖昧な情報だった。ひとりの少女が、現実が失われていくその中で、必死に送り出したメッセージ。文面が正しいか、送り出せたかどうかも不確定な、まるで波動そのもののような不確かさで編み上げられたメッセージだった。

 

 しかしその曖昧な文字列には、ほんのわずかなデータの塊でありながら、そこには多くの願いが、祈りが載せられていた。

 

 そんな不確かなそれを『彼』は見つめていた。

 

 『彼ら』は、過去と現在を繋ぐことを役目としていた。だからその長である『彼』は、その役割の頂点であり、過去と現在、そして未来を俯瞰する力を持っていた。

 

 だから、『彼』は知っていた。ひとりの少女の願いを込めた文字列が、宇宙を駆け抜けていくことを。超空間通信網をすり抜けて、かつて青かった惑星から、かつて赤かった惑星へと飛び立ったことを。

 

 『彼』の役割は観察すること。介入することはその役割ではない。

 

 だが、介入を禁じられている訳でもない。何しろ、『彼』はその統べる『彼ら』の例に漏れず、何よりも自由で気ままな存在である。

 

 『彼』は自らの興味の赴くままに、宇宙に伸びる祈りの束を掴んだ。

 

 何故、その祈りが特別なのか。その祈りに、『彼』が介入するに足る理由がどこにあったのか。

 

 もしそれを問われたならば、『彼』はにやりと悪戯っぽく笑うだろう。

 

 正しさを定める理由なんてない。正しさを支える理屈なんてない。

 

 だが、十分な理由はあった。

 

 『彼』が、あの少女達の事が好きだったから。

 

 ほんの僅かな可能性の道を辿ってやってきた少女を含めた、あの人々の事が好きだったから。

 

 それだけで十分だった。

 

 『彼』にとっては過去も現在も未来も等価である。より厳密には、あらゆる観測者にとって、観測外の事象は全て等しく不確定なのである。

 

 だから、『彼』は掴んだ祈りの束を、かつて赤かった星のある時間、ある場所へと導いた。

 

 二つの観測点が、繋がる。

 

 祈りを通じて観測点が共鳴し、お互いを確定させる。そして。

 

 かつて神が『光あれ』と呟いたその瞬間のように。

 

 祈りの線を通じて――二つの世界は、かつて、今も、そして未来においても繋がっていると定義された。

 

 

 

 

 アクア・アルタで水没した小径を、敬愛する師匠の美しい黒髪を追いかけて歩いていた藍華・S・グランチェスタは。

 

「…………ひゃっ!?」

 

 制服のポケットの中で震えるものに、思わずあられもない悲鳴を上げてしまった。

 

「どうした、藍華?」

「ちょ、ちょっと待ってください……あ、こ、これっ!」

 

 慌ててポケットを探り、慣れない手つきで震えるものを引っ張り出す。

 

 それは、つい先日手に入れたばかりの携帯電話(スマート)だった。アニエスが使っているような高機能なものではなく、灯里が使っているようなパソコンとも違う。電話をすることに特化したようなシンプルなものだ。

 

 『そろそろ仕事をするのに必要だろう』と、両親に半ば無理矢理押しつけられたものである。姫屋の跡取り娘として、いつどこで緊急の連絡が飛んでくるかわからない。その自覚を持たせるための電話……などという親の理屈は藍華にもわからないでもない。

 

 しかしいつでもどこでも電話に縛られる生活というのは、ネオ・ヴェネツィア人としては必ずしも喜ばしいものではなく、藍華もその例に漏れない。結果、押しつけられはしたものの、今日までほとんど持ち歩くこともなく、灯里達に番号を教えることすら怠っていたものなのだが。

 

 その電話が、震えていた。

 

 この電話の番号を知っているのは、それこそ両親を含んだ姫屋の一部の人間だけのはずなのに。

 

「え、ええと、もしもし? ……あれ?」

 

 おっかなびっくりで取り出した時には、電話は静かになっていた。電話を開き、「どんくさい」といつもからかっている灯里を笑えない有様で受話ボタンを押す。

 

 しかし、声は聞こえてこない。

 

「もしかして、電話じゃなくてメールだったんじゃないか?」

「あ、そ、そっか。ええと……」

 

 師匠たる晃・E・フェラーリの指摘に、藍華ははたと気づいてボタンを操作する。そして苦労してようやくメール画面を呼び出すと、メール受信履歴にたった一つだけ表示されている、無題の新着メールを開いた。

 

 そこに表示されていたのは、ひどく単純ないくつかの単語だった。

 

『大運河』

『東側』

『黒い扉』

 

「……え、何、これ?」

 

 思わず、藍華は呻きにも似た声を漏らしてしまった。

 

 気持ち悪かった。誰も知らないはずの電話に、誰ともわからない誰かから届いた、訳のわからないメール。今すぐ消してしまいたいところだけれど、生憎現状の藍華はメールの消し方すらわからない。

 

「悪戯、にしては妙に具体的だな」

 

 藍華の横から携帯電話の画面を覗き込む晃。晃もそうこの手の機器に詳しい方ではないので、送信者のアドレスを辿るなどの発想には思い至らない。ただ、文面の不自然さ、不気味さだけが脳に焼き付く。

 

(大運河の……東側の、黒い、扉だと?)

 

 記憶を呼び起こす。一日一度は必ず通る大運河。ネオ・ヴェネツィアは、水没前のある時期のヴェネツィアの建物が移築され、それ以外の建物も当時を模倣するように建築されている。その中には、地盤沈下で水没寸前の扉などもあり、そういったものは危険なために柵や閂で封印されている事が多い。

 

 もう一度、頭の中でいつものルートを辿ってみる。いつも通りのカンパニーレ。水路を南に下り、対向の舟に当たらないよう無意識に周囲を見回している。特に交通量の多いあたりでは、舟を水路端にぶつけないように注意深く視線を配っており、その記憶の中には確かに幾つかの水没しかけた扉が……。

 

(だが、そんなことがあり得るのか?)

 

 晃は自問する。このヒントが正しいものだと信じるのは、いささか非論理的がすぎる。

 

 アニエスは猫妖精を見たことはないという。しかし、≪サイレンの悪魔≫事件をはじめとする幾つかの奇跡を思い起こしても、アニエスが猫妖精に、このネオ・ヴェネツィアに、そしてこのアクアに愛されているということは間違いない。だとしたら。

 

 ――ならば、信じる価値はある。

 

「藍華っ!!」

「は、はいっ!?」

 

 思わず鋭く飛び出した晃の声に、藍華はその場で跳ね上がった。

 

「もしかしたら、これはアニーの居場所のヒントかも知れない! 急ぐぞ!」

 

 そう言って駆け出す晃を、藍華は目を白黒させながら追いかけるしかなかった。

 


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