ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
一日ほど前……アクアとマンホームの間では一日の時差があるため、暦の上では二日前のことである。
「……次の資料、アキュラ・シンドロームの来歴について検索。抽出条件は……」
アンジェリカが口頭で指示を与えると、彼女の周囲に無数の立体映像のウィンドウが開かれ、次々とデータを映し出し始めた。
データの内容は、専門的な医学論文、或いは過去のアクア入植者達の記録だった。アンジェリカは次々と表示されるデータウィンドウに視線を走らせては、落胆交じりで中空をペンで叩く。そうするとそれまで中に浮いていたデータウィンドウが閉じられ、次の資料が映し出されるのだ。
合理化が極端に進んだマンホームでは、既に書物を集積した図書館そのものが姿を消している。今のマンホームでは、資料館とは効率よくデータの検索や閲覧が行える個室を指すものであり、昔ながらの、古書を蓄えた図書館があるネオ・ヴェネツィア育ちのアンジェリカにとっては、未だに違和感が拭えない空間である。
高度に情報化されたデータベースを、たどたどしい手つきでめくってゆく。本当なら、書物に実際に触れて、その内容を五感を総動員して堪能したいところなのだが、どうやらマンホームでは、旧態依然とした書物そのものが、既に趣味物扱いとされているらしい。
ネオ・大英図書館には、世界の書籍が一堂にかき集められているというのだが、今アンジェリカがいる土地からでは、いささかブリテン島までは距離がある。人類発祥の地ではどんな希書に巡り会えるのかと、アンジェリカは密かに楽しみにしていたのだが。落胆を禁じ得ないところである。
だが、今のアンジェリカには、自身の読書リテラシーなどを問題にしている余裕はなかった。
一刻も早く、アニエスの病気を治療する方法を見つけなければならないのだ。
アニエスの病状を知ったのは、いつものアニエスからのメールによってではなく、アニエスの友人である水無灯里のメールマガジンによってのことだった。彼女は普段から日頃体験している事柄をメールマガジンに投稿し、太陽系全域に公開している。何でもアクアに来る以前からの習慣だということで、マンホームのウンディーネファンの間では、密かに名が知られる存在であるらしい。
彼女が「良かったらどうぞ」と、メールマガジンの事を教えてくれたのは、アンジェリカがアクアを立ち去る直前の事だった。元々メールという手段が苦手だったアンジェリカだったが、灯里の豊かな感受性で綴られたメールマガジンの魅力は手放しがたく、アニエスからのメール共々、日々楽しみにしているものだったのだが。
灯里のメールマガジンに投稿された、「友達が辛い病気で苦しんでいます。どなたか、このような症状の病気に心当たりのある方はおられませんか?」という記述と、それとタイミングを合わせたように途絶えたアニエスのメールを合わせて考えれば、「辛い病気」の患者がアニエスであることは容易に想像がついた。
早速、アンジェリカは資料館に走った。灯里の提示した僅かな、しかし精一杯のヒントから、不慣れな電子化資料館を駆使して病気の正体を探る。
もちろん生兵法でそうそう真実を掴める筈もなく、一日目の調査は空振りに終わった。
しかし、二日目。灯里のメールマガジンに、こんなコメントが投稿されたのだ。
『投稿者:にゃんにゃんぷう それは、アクアの古い風土病、アキュラ・シンドロームかも知れません』
投稿者である「にゃんにゃんぷう」というハンドルネームの人物(確か児童向けアニメの主役の名前だ)が何者かは知らないが、早速アンジェリカはその病名を元に調査を進め、資料の奥で眠っていた、眠り病の一種であるアキュラ・シンドロームを発見した。
そして、その治療が、現在の医療技術で容易に治療できるものではないということも。
アンジェリカは、まず晃に現状の経過をメールし、どうにか治療法を見つける時間を稼ぐよう促したのだが……昨夜届いた晃からのメールを見ると、どうやら自分のメールが契機となって、アニエスの解雇が確定してしまったらしい。
どちらにせよ時間の問題だった、とは晃の言だが、結果としてアニエスの夢に止めをもたらしたのが自分であるのは間違いない。
”もう絶対に、アニーの手を離さない”
それは、サイレンの悪魔事件の時に誓った事。それはサイレンの脅威が去った今でも反故になった訳ではない。
だから、アンジェリカは今日も資料館の住人となっていた。
ツアーコンダクターとしての勉強には、ひとまず休みを取った。今年中の資格取得は難しくなるが、自分の夢は一年くらい遅らせても問題はない。ましてマンホームの一年はアクアの半分。それくらい、アニエスの夢を繋ぐことができるならば、安いものだ。
この資料館に入り浸ってから、早くも一週間。左右を板で仕切られただけのブースにも、すっかり慣れてしまった。背後を通過する警備員や司書達も、時折アンジェリカの後ろで足を止め、「御苦労様です」と会釈をして行く有り様である。
今し方も、通りがかりの司書の労いの言葉に会釈を返したアンジェリカは、再び資料に意識を戻す。データベースには「治療法なし」と書かれていたが、普通に触れられるデータベースは所詮一般人向けのもの。専門家が現在進行形で進めている研究については、まだ記載がなくてもおかしくはない。
逆に言えば、そんな僅かな希望しか、アンジェリカには残されていなかったのではあるが……。
「とにかく、アキュラ・シンドロームを専門にしているお医者さんを探してみないことには……」
誰に聞かせるという訳でもなく、自分に言い聞かせるように呟いた、その瞬間の事だった。
「いやぁ、流石に難しいと思いますがねえ、それは」
突如背後から聞こえてきた声に、アンジェリカは身を縮み上がらせた。
慌てて振り向いたアンジェリカの視界は、大きな影に覆い尽くされていた。
「きゃ……」
「おっと、お静かに。私は怪しい物ではありません」
思わず悲鳴を上げかけたアンジェリカの前に、ふっくらとした男の人差し指が立てられる。
見れば、それはブースの出口を一杯に埋め尽くす程の巨漢だった。溢れんばかりの体躯をコートに詰め込み、目深に被った帽子は、男の顔をそっくり覆い隠している。
……これを怪しくないと自称されても、困る。
「いや、これは失礼。たまたま聞き覚えのある病気の名前が聞こえてきたものでしてね」
そういう男は帽子を脱ぎ、やや仰々しく礼をして見せた。恰幅の良い体躯にはやや不釣り合いに吊り上がった黄色い目に見据えられ、アンジェリカはこの人物にどこかで出会ったことがあるような感覚を覚えていたのだが。
「アキュラ・シンドロームをご存じなのですか?」
疑問よりも、先に確かめる事があった。
「ええ。と言っても私が専門という訳ではないのですがね」
アンジェリカに問われ、紳士はぴっと、革手袋の指先を立てて見せた。
「アキュラ・シンドロームは、アクアで発生した病気で、しかもアクアではウイルスがすっかり絶滅してしまった病気です。今では専門に研究しても、それを求める人間がほとんどいない。専門家を捜すのは、至難の業と言えるでしょう」
予想通りの回答に、思わず肩を落としてしまうアンジェリカだったが、
「でも、どうしてもアキュラ・シンドロームを治療したいと言うのであれば、希望はないでもありません」
それに続いた紳士の言葉に、ぱっと顔を上げて紳士を凝視した。
思わせぶりに、指先をちっちと振る紳士。その様子は巨躯の割に愛嬌があるものの、アンジェリカに更なる不審感を煽らずにはいられない。だが、それとは裏腹に、問い返さずにはいられないのもアンジェリカの立場である。
「希望、ですか?」
「ええ。実は、知人にアキュラウイルスの変異元を専門に扱っている者がいるのですよ」
「変異元……?」
「ええ。元々アキュラ・シンドロームというものは、かつてマンホームで発生した致死性のウイルスが、アクアの環境に適応した結果、変異したものなのです。そして、そのウイルスの振る舞いは、致死性か眠り病か、その一点しか違いがない」
「と、いうことは……?」
その紳士が、何を言おうとしているのか。問い返す言葉が、何かの予感に震えている。
そんなアンジェリカの様子に、紳士は帽子をちょっと気取った風に傾けて、茶目っ気たっぷりにウインクして見せた。
「……恐らく、変異元に対する処置は、アキュラ・シンドロームに対しても効果があるのではないか……そう私は考えているのですよ」
男の言葉を理解するのに、アンジェリカはたっぷり30秒を必要とした。
そして、その言葉の意味を飲み下したアンジェリカは、ばんと机を叩いて立ち上がって……。
「そ、そのお医者様を紹介してください!」
コート姿の男の襟につかみ掛かり、早口に詰め寄ったのだ。
*
「……つまり、マンホームで治療を受ければ、私の病気は治るんですか?」
半信半疑で、私アニエス・デュマは難しい顔の晃さんに念を押した。
私が目を覚ましたのは、姫屋の藍華さんと私の部屋。気を失ったままの私を、藍華さんや灯里さん、アリスちゃんがここまで運んできてくれたらしい。流石は、日頃からゴンドラを漕ぎ続けるウンディーネ、みんな見かけより体力はある……というのはともかく。
晃さんがそのニュースを携えて飛び込んできたのも、この部屋だった。
「ああ、少なくとも、専門家に近い医者を見つけて話を通したと、アンジェさんのメールには書いてあった。アニーにも行ってる筈だから、後から確認しておけ」
頷いて言う晃さん。その言葉に、藍華さん、灯里さん、アリスちゃんがぱっと顔を輝かせた。
「でっかい凄いです。アンジェさん」
「本当だねー。アンジェさんってば、こんなに早く調べてくるなんて、これはもう凄い奇跡だよ」
「マンホーム暮らしも、こういうことは悪くないのかもね。やれやれ、ちょっと肩の荷が下りたわ」
口々にそう言って喜色を明らかにする先輩方なんだけれど……私は、晃さんの表情に、堅さが抜けていないことが気になっていた。
そう、晃さんなら、私の病気が素直に治るならば、もっとはっきりと喜んでくれるはずなんだ。
なのに、今の晃さんは、どこか言葉を選んでいるような顔をしている。どうやって切り出そうかという、前のメールが来た時と同じ、堅く強ばった表情。
「晃さん……?」
私が気づくくらいだ。もっと付き合いの長い藍華さんも、晃さんの様子に気づいたようだった。
不安げな色を宿した藍華さんと目配せを交わして、私は晃さんに問いかけた。
「……晃さん、何か……まだ、あるんですか?」
「……ああ。そうだな。隠すことでもないし、アニーへのメールにも書いてあるはずだが……」
そこまで口にして、晃さんはすーっと息を吸い込んだ。
そして肺の中の空気と一緒に言葉を暖めて、短く簡潔に吐き出したんだ。
「……治療に、どれだけかかるか、わからないらしい」
*
緊張が部屋を覆い尽くして、誰もが口を開くことを躊躇っていた。
「どれだけって……お金の話ですか?」
そんな中、最初に口を開いたのは、何かと思い切りの良いアリスちゃんだった。
「いや、時間の方だ。マンホームに戻って入院したとしても、完全に治療が終わるまで、最低でもマンホームで一年、もしかしたらもっとかかるらしい」
藍華さんたちが、一斉に息を飲むのがわかった。
「一年以上……」
「でっかい、長いです」
「どうして、そんなに時間がかかるんですか? アキュラ・シンドロームに似た病気は、特効薬があるんでしょう?」
藍華さんにそう問われ、晃さんはメールの抜粋を見せながら、かい摘まんで理由を説明してくれた。
アキュラ・シンドロームの変異元は、致死性の病気であるために、効果優先でとても強い薬が使われるのだということ。
この薬を使うと、体に深刻な副作用が生じ、そちらのリハビリに相応の時間がかかってしまうということ。
更に、アキュラ・シンドロームに薬を使った臨床例がないので、動物実験に成功しないと、薬を使うための認可が下りないということ。
それらを含め、最低でも一年、恐らくは三年ばかり、マンホームで治療を受け続けないといけないだろう、ということを。
「三年……」
呆然と呟くしかなかった。
あまりのことに、思考がぱったりと停止していた。
三年。今の私は十六歳だから、三年治療を受けたら、十九歳になっている。
プリマウンディーネへの平均昇格年齢は、十八歳から二十歳。まだぎりぎり間に合う。でも、シングルになってからプリマになるまでの訓練期間は、通常二年から三年。三年のブランクがあるなら、ペアから修行をやり直すようなものだから、かかる時間はもっと長い。
……間に合わない。やり直すには遅すぎる。
「……治療にはそれ相応のお金はかかるし、薬の副作用で身体を壊してしまう可能性もある。これを希望と見るかどうかは……アニー次第だ」
そう言って、晃さんは深々と息を吐き出した。
私は勿論、藍華さんも、灯里さんも、アリスちゃんも。
誰ひとりとして口を開くことができない、そんな重々しい沈黙が舞い降りた。