ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ   作:DOH

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Sola 12 ローレライは誰がために

 『彼女』は迷っていた。

 

 『彼女』は人ならざる存在である。本来、昼間の世界に現れてはならないもの。しかし気まぐれに、世界に介入するもの。人を誘い、惑わせ、連れ去るアヤカシ。

 

 『彼女』には幾つかの名前がある。例えばそれは≪サイレンの悪魔≫、≪噂の君≫、そして……≪シレーヌ≫。

 

 だが、それが彼女自身を表す名前かどうかは定かではない。今の彼女が、≪サイレンの悪魔≫と呼ばれたもの、そして≪噂の君≫と呼ばれたものと同一の存在であるかは、彼女自身にもはっきりと判断できないことではある。

 

 しかし、最後の名前は、今彼女の目の前にいる少女が名付けたものだ。そして『彼女』はそれを受け入れた。故に今は『彼女』の事をシレーヌと呼称しよう。

 

 シレーヌは迷っていた。

 

 自分は、どうすればよいのだろう。

 

 シレーヌは、人を連れ去るアヤカシである。人を惑わせ、自分の世界に連れ去る魔物。人の空想の『恐怖』を象徴するひとつ。

 

 本来、人を脅かす存在であったシレーヌは、かつてアニエス・デュマを獲物に選んだ。

 

 アニエス・デュマの魂が、大きな光を宿しつつも、淀んで曇っていたからだ。そんな魂は、少し惑わせるだけで現実を見失い、『彼女』の領域への扉を開いてしまう。

 

 だが、アニエス・デュマはシレーヌの誘いをはね除けた。

 

 それは猫妖精の力を借りたことかもしれない。しかし、本当にシレーヌの誘いをはね除けるのに必要なのは、獲物に選ばれた者の心の強さ。アニエスの心が強かったからこそ、シレーヌの誘いは打ち砕かれたのだ。猫妖精はいつでも、切っ掛けを与える事しかしない。

 

 別の世界では、アリス・キャロルに手を伸ばした。アニエスへの心のわだかまりを煽り、心を凍らせる。誘いの試みは、あと一歩というところまで成功していたのだ。しかし、間の悪い事に、そこにはあの偉大なる大妖精が居合わせた。

 

 そしてアニエスとアリスは、偉大なる大妖精の薫陶を受け、更に心を強く健やかに磨き上げた。あるいはそれすらも、あの猫妖精の仕込みであったのだろうか。

 

 そして、この世界。猫妖精を探し求めるアニエスの前に、シレーヌは姿を現した。もちろん、あわよくばアニエスを拐かそうと考えてのことではあるが。

 

 実際には、シレーヌの誘いの言葉は、まるでアニエスに通用しなかった。

 

 まるで、シレーヌと同じく数多の世界を渡り歩き、その世界の自分の強さを一つ一つ取り込んできたかのように。

 

 抜けるように高く、透けるように蒼い空のように、アニエスは大きく、強く、健やかで。

 

 拐かしの言葉にもまるで動じず、逆にシレーヌの方が「遊びに来て」と誘われる始末。

 

 しかも、試しに本当に遊びに行ってみようと姿を現してみたら、思いの外アニエスの側は居心地が良く、そのまま居着いてしまう体たらくである。

 

 だが――今ならば、アニエスも、そしてその腕の中のアイも、『彼女』の世界に連れて行くことは難しくない。

 

 アイはもはや言葉も無いほどに憔悴しているし、古い舟を沈めてしまった自責の念もあり、アニエスの心も折れかかっている。

 

 今シレーヌが誘えば、彼女たちにそれをはね除けることはできないだろう。そうすれば、シレーヌは永遠の時を、二人の友と過ごすことができる。

 

 

 だが。

 

 甘言を紡ごうとするシレーヌの口を、迷いが噤ませた。

 

 それで、本当に正しいのか。

 

 アニエスと過ごしてきた日々が楽しいものであったのは、彼女が自ら光り輝いていたからこそではなかったか。

 

 今、彼女の心を闇に染め上げ、自らの世界に引き込んだとして、果たしてそれは、輝く魂を持つアニエス・デュマと同じであるかどうか。

 

 心を輝かせることなく、ただ闇の中で虚ろに過ごすばかりのアニエスを手に入れたとして、シレーヌは果たして満足できるのか。

 

 

 ――できるはずがない。輝きを知ってしまった今のシレーヌが、満足できるはずがない。

 

 

 本来、シレーヌは『恐怖』だった。負の空想によって形作られるもの。それが光を求めるなど、あるはずのないことだった。

 

 アニエス達の優しさに触れたことで、シレーヌもまた変化していったのだろうか。

 

 アリシアや灯里達に触れてきたことで、アニエスが変化していったように。

 

 あのアニエスと共にあった永遠の客人が、アニエスに触れて変化していったように。

 

 シレーヌもまた、優しさの風に心を揺らされて、変わっているのだろうか。

 

 

 それはシレーヌ自身にもわからなかった。でも決断するには今しかなかった。

 

 永遠に、心を闇色に染め上げた二人を手に入れるか。

 

 いつしか出会えなくなる事を覚悟で、輝く少女達を見守り続けるか。

 

 不安げに自分の姿を見上げる二人の少女の姿を見返して、シレーヌが逡巡していたのは、ほんの数秒。

 

 しかし永遠もかくやと思える程の緊張を孕んだその数秒の間に、シレーヌの中では天秤が、数百、あるいは数千回揺らされて。

 

 

 そして、シレーヌは決断した。

 

 

 

 

「……≪サイレンの悪魔≫」

 

 闇の中にぽっかり浮かび上がるその毛皮コート姿の女性に、私ことアニエス・デュマは思わずアイちゃんを抱きしめ、その名を呟いていた。

 

 私を、何度も闇の中から誘い、惑わせた悪魔。アンジェさんに化けて、私を惑わせた。私をどこかに連れ去ろうとした、まさしく悪魔のような何か。

 

 それが、私達の目の前に姿を見せた。

 

 それがどういうことなのか、わかる。彼女は、私達の心が弱ったときに現れる。そして、心を暗い色に染め上げて、何処か彼女の世界に連れ出してしまうんだ。

 

 前の時は、私は彼女の誘いをはね除ける事ができた。それは結果として私から彼女に会いに行った形になったことと、私が灯里さん達と一緒に、一番意気を蓄えていたときだったからだと思う。

 

 だけど、今は。

 

 ついさっき助けてくれるなら誰でも良いと願ってしまった私には。

 

 もう、彼女を振り払えないかも知れない。

 

 そんな不吉な予感が、心の中一杯に広がってくる。

 

「……アニーさん」

 

 怯えるように私にしがみつくアイちゃんを抱き返して、私は精一杯の気力を振り絞り≪サイレンの悪魔≫を睨みつけた。

 

 腕の中のアイちゃんの温もりがなければ、もう負けてしまっていたかも知れない。

 

 だけど、≪サイレンの悪魔≫は私の葛藤を知ってか知らずか、少し思い悩むように顔を伏せると。

 

 大きく息を吸い込むように、肩を揺らして。

 

 そして。

 

 

 歌った。

 

 

 

 地下通路に、幾重にも、歌声が響き渡った。

 

 ≪サイレンの悪魔≫の歌声が。

 

 それは、私の知らない歌だった。

 

 だけど、知っているような気がした。

 

 どこかで聞いた事がある。聞いた事があるような気がする。

 

 穏やかで、でもどこか弾むようなリズム。はしゃぐ子供達を見守る母親が口ずさむような、優しいメロディ。

 

「……これって……」

 

 歌詞は、よく聴き取れない。イタリア語らしい単語が時々聞こえてくるけど、わかるのはほんの一部分だけ。

 

 だけど、わかる。

 

 この歌は、誰かを愛する人が、誰かのために贈る歌。

 

 

”素直な歌は、心を届けてくれるのよ”

 

 そんな≪天上の謡声≫アテナさんの言葉が思い起こされる。

 

 ああ、そうか。

 

 この歌は、アテナさんの歌だ。

 

 アリスちゃんを慈しみ、元気づけようとしたときに、彼女が決まって口ずさむ、誰かを見守る慈愛の歌。

 

 表題は……確か『コッコロ』。

 

 

 だけど――この歌は、アテナさんのそれとは違っていた。

 

 確かに、歌詞は違う気がする。ほんの少し、より正確な発音で紡がれている気がする。

 

 だけどそれ以上に。明らかに違う事は。

 

 アテナさんが、何の迷いもなく歌い上げるのに比べて、≪サイレンの悪魔≫のそれは、どこか不器用で。

 

 旋律は正確で、技量的にはアテナさんに勝るとも劣らないくらいに思えるのに。どうしてだろう、おっかなびっくり、自信なさげに紡がれている。

 

 

 だけど、その歌は、私の心に染みこんできた。

 

 ほんのりと小さな灯を点し、暖めてくれた。

 

 どうしてなのかはわからない。だけど、これだけは確かだと思えた。

 

 この歌は、不器用だけど、だけど間違いなく優しくて。

 

 ――≪サイレンの悪魔≫は、私たちのために歌っているのだと。

 

 だからだろうか、私には、この歌の歌詞が手に取るように思い浮かんだ。

 

 誰かと一緒にこの歌を歌った事があるかのように、不思議と心に馴染んだ。

 

 だから、私も息を吸い込んだ。

 

 目を白黒させるアイちゃんを元気づけるように、抱きしめる腕に力をちょっと込めて。

 

 そして、≪サイレンの悪魔≫の歌声に、そっと寄り添うように。

 

 私も、歌った。

 

 びっくりしたようにヴェールを揺らす≪サイレンの悪魔≫にちょっと悪戯っぽく笑って見せて、私は彼女に声を重ねた。

 

 誰かを慈しむ歌を。

 

 元気になって欲しい、不安に惑う誰かのために。

 

 私が声を重ねると、≪サイレンの悪魔≫も自信がついたのか、その旋律は徐々に力強く、揺るぎないものに変わっていった。

 

 それを追いかけて、私もリズムを重ねていく。

 

 そうして、二つで一つの歌声が、石壁に反響して響き渡った。

 

 暗い地下通路に、幾重にも、幾重にも。

 


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