ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
優しく、ぎゅっと包み込む暖かさを、振り払うように。
ふわり、と『私』の心は、アニエス・デュマから遊離した。
「灯里さん、灯里さん、灯里さん……っ!!」
「うん、アイちゃん、頑張ったね……!」
夜闇の中に、ふわりふわりと浮かぶ私の目の前には、灯里さんに抱きついて泣きじゃくるアイちゃんの姿が見えているし。
「アリシアさん……ごめんなさい」
「良いのよ、二人とも無事だったから……本当に、良かった」
背後には、アリシアさんに抱き留められ、そっと目元の涙を拭って貰っているアニエスの姿がある。
「まったく……まあ、後で良いか」
何か言いたげに柳眉を吊り上げる晃さんだけど、アテナさんが微笑んでぽんと背中を叩けば、困ったように髪をいじって安堵混じりのため息を吐き出す。
「ふん、人騒がせなボクッ娘にアイアイめ!」
「といいつつ、真っ先に飛び出して私の家に乗り込んできたのはあかつきんなのだ」
「僕のところに電話してきたのも暁くんですしね。まさに縁の下の力持ちです」
身体中から滴る水をタオルで拭いながら、腕を組んでふんっとふんぞり返る暁さんは、すぐさまウッディーさんやアルさんに突っ込まれて狼狽えている。
「もっとも、縁の下というには浮島暮らしですけどね」
「アル君……オヤジギャグ禁止」
「ええっ!」
という顛末もいつも通り。
「どうやらうまくいったみたいだね。良かった」
と、皆の輪から少し離れて、くだんのお客である青年も微笑んでいる。そんな彼の足下に、見覚えのない小さな白い猫が身を寄せている。その子の輪郭はあやふやで、多分『彼女』はこの場では私にしか見えていないだろう。彼もまた、アクアとネオ・ヴェネツィア、そしてそこに暮らすもの達に見守られている一人だということだろうか。
……見守るものと言えば。
私は周囲を見回して、その人たちの姿を探した。
その姿は、すぐに見つかった。夜の闇に紛れるように、アニエス達を見下ろせる建物の屋根の上に、彼らは腰掛けていた。
一人は、さっきまで私と……アニエスと一緒にいた、黒いベールで顔を隠した喪服の婦人、≪サイレンの悪魔≫。
そしてもう一人は、毛むくじゃらの、恰幅の良い男性を男性をさらに二周りも大きくしたような、巨大な直立する猫。すなわち……ネオ・ヴェネツィアの守護者、猫妖精。
アニエスには見えていなかったようだけど、私には見えていた。彼はずっと、アニエスを守り、助け、導いていたんだ。
≪サイレンの悪魔≫の誘いをはねのけた時も。『コッコロ』の歌を探し求めた時も。もしかしたら、他の様々な小さな出来事でも、彼はアニエスを助けていたんじゃないだろうか。
神は自ら助ける者を助ける。猫妖精もまた然り。彼らが行うのは、最後の一押しの手助けだけ。
さっきもそうだった。アニエスとアイちゃんが扉を必死に押し開けようとしていたその瞬間、私は見たんだ。
音もなく現れた猫妖精が、悪戯っぽく私とアイちゃんにウインクしたかと思うと、閉ざされた扉にちょんと指先で(肉球で?)触れるのを。
アイちゃんはそんな猫妖精に気づいていたようだったけど、その瞬間に吹き込んできた風に言葉を押し流されてしまった。
たまたま風の流れが変わる瞬間に猫妖精が現れたのかもしれないし、猫妖精が風を呼び寄せたのかもしれない。きっと奇跡っていうものは、そうやって一見区別できないような隙間を縫うようにして、この世界に現れるものなんだろう。
灯里さんも、アニエスも、アリシアさんも。それを理解しているからこそ、ささやかな奇跡を感じ取り、それを喜ぶことができる。だからこそ……奇跡の担い手達は、彼女たちの前に姿を見せ、素敵な奇跡に不思議な彩りを付け加えていくんだろう。
――そして、そんな奇跡の欠片である私も、そろそろ時間のようだった。
不思議と、限界であることがわかった。私という存在が、あちら側で目を覚ますからではなく、この世界とのつながりを失って消え去ろうとしているのが、何故かはっきりと感じられた。
私は空を見上げた。夜の訪れを先触れる宵闇の明星が、白く煌めいていた。
帰らなくてはいけない。私が私であるあの場所に。
私が私として立ち上がり、生きていかなければいけない場所に。
そう思うと、魂があの星に吸い寄せられる力が強まった、そんな気がした。
――もう、時間がない。私は眼下の皆を――私は皆をよく知っているけれど、皆は私を知らない――だけどたまらなく愛おしい人達を順繰りに見つめた。
藍華さん……姉のように私の手を引き、励ましてくれた人。
晃さん……時に厳しく、時に優しく、私に強さをくれた人。
アリスちゃん……同じ高さから、私に手を取り合う幸せをくれた人。
アテナさん……歌に込める祈りと、誰かを思いやる心をくれた人。
暁さん……無骨な中に、飾らない優しさがあることを教えてくれた人。
アルさん……静かな優しさ、物事を思い測る叡智をくれた人。
ウッディーさん……空を舞う喜びと、いつも朗らかな心の大きさで接してくれた人。
アリシアさん……大きく深い愛で私たちを包んで、あらゆるものを楽しむ術を教えてくれた人。
アイちゃん……慈しみ守ることの喜びを教えてくれた人。
灯里さん……全てを愛して、その輝きを両手一杯に抱きしめて生きる幸せを教えてくれた人。
お客様としてアクアを訪れた、地球生まれの彼……私はその名前を心に刻み込んだ。いつかマンホームで出会えたとき、この優しい人々の思い出を交わせるように。
誰もが、素敵な宝石のような人達だった。
そして……。
最後に、一番大切な人に目を向けると、私と彼女の視線が交錯した。
見えるはずがないのに。いないものを感じることはできないのに。
「……そこに、いるんですか?」
不思議そうに視線を追いかけるアリシアさんを余所に、アニエスが私を見上げていた。
「……誰かいるの? アニーちゃん」
「はい。見えませんけど、感じるんです。そこに大事な人がいるって」
アリシアさんの問いに、アニエスははっきりとそう答えた。そして私を見上げて、
「ずっと、私と一緒にいてくれた人。凄く私によく似てて、私と一緒に喜んで、私と一緒に悲しんで、私に勇気を教えてくれた人が、いるんです」
そこに私がいるという事に揺るぎない確信を握りしめて。そう、言ってくれた。
――心が、どくんと跳ね上がった。
――裸の心を、射ち抜かれた気がした。
それは、私がアニエスに感じていたこと。
私がアニエスに、近親感でもない、友情でもない、例えようもなく抱いていた感情、そのもの。
同じ事を、感じてくれていた。
こんな私を感じて、そんな風に思ってくれていた。
じわりと、熱いものがこみ上げるのを感じた。
胸が熱くなって、目頭が熱くなって、全身全霊が踊り出しそうに歓喜しているのがわかった。
ここに私の体はなかったけれど。
ここに本当の私の体があったならば、私は迷わず、アニエスに抱きついていただろう。
そして、思いっきり抱きしめて、感謝の言葉を繰り返しただろう。
だけど、もう時間がない。
私が、私の両手からこぼれ落ちていく。
熱さも涙も、全部引き連れて、私がここから消えようとしている。
アニエスが、手を私に差し伸べた。
私も、必死に消えかけた手を伸ばす。
届け。届いて。私の一番大事な人のところまで。
だけど、私にはアニエスに触れるための僅かな輪郭すら残されていなくて。
泡になって消える私には、彼女に触れるための小さな現実も残されていなくて。
だけど。
「……いつか、またっ! 会いに来てくださいねっ!」
アニエスが、そう囁いて。
目尻に、小さく光るものを宿して。
精一杯の笑顔を閃かせた。
その瞬間、私の掌は。
確かに、間違いなく。
アニエスのそれと絡み合って。
私は、確かに。
絶対に間違いなく。
そこに感じたアニエスの暖かさを、全身全霊に深く刻み込んだ。
そして、それが。
私のアクアでの、最後の記憶となった。
目が覚めると、いつもの病室だった。
窓からは、明るい日差しが差し込んで、病室に逆に暗く影を落としている。
いつもと違うのは、父さんと母さんが、二人揃って私を見下ろしていたこと。
そして、見覚えのないはずなのに、見覚えのある初老の男性もまた、私を見下ろしていたということだった。
「……私?」
ぺたりと自分の頬に触れる私に、両親が一斉に深く息を吐き出した。
「……良かった」
「……もう、心配したのよ?」
ほっと息を吐き出し、私の額に触れる母さん。どこか所在なさげに頭をかく父さん。
時計を見る。今は昼過ぎくらい。父さんも母さんも、まだ仕事で忙しいはずの時間帯だ。
「どうして……?」
「お前が、病院を抜け出そうとして倒れたって聞いたからだよ」
父さんが少し憮然として言う。なるほど、端末の前で倒れた私は、一見そういう風に見えたかもしれない。
「心配したのよ?」
「ごめんなさい」
両親に素直に頭を下げる。すると両親は二人揃って毒気を抜かれたような顔をして、「あ、うん、わかればいいんだ」「気をつけなさい」と曖昧に頷いた。
……そんなにも、素直な私というのは腑に落ちない存在なんだろうか。自覚はなかったけれど、改めてそういう対応をされると、かつての自分の行いに恥じ入るばかりだ。
「……オホン、そろそろ宜しいかな?」
咳払い一つで家族の会話に割り込んだのは、見覚えのある初老の紳士だった。何か、凄く見覚えがある気がするのだけど、私の人生において、この人と出会った記憶は見あたらない。
「あなたは……?」
「アレクサンドロと申します」
その名前を聞いた瞬間、私の頭に閃光が駆け抜けた。
見覚えがあるはずだ。彼の姿と名前は、アニエスがアキュラ・シンドロームを発病し、マンホームで治療を受けることになった世界で、アニエスの主治医をしていたお医者様に相違ない。
でも、どうして。彼はもっと遠くの土地のお医者様で、私とは縁もゆかりもなかったはず。
「アレクサンドロさんは、この間アキュラ・シンドロームの治療法を確立した偉いお医者様なのよ」
と、母さんが補うけれど、それは私は知っている。
……いや、待て。そうじゃない。
アレクサンドロ先生がアキュラ・シンドロームの治療法を見つけだすのは、アニエスがあれを発症した世界だけのことのはず。それ以外の世界では、アンジェリカさんがアキュラ・シンドロームと変異元の類似性について指摘することもなく、その治療法が足がかりを得る事もなかったはずなんだ。
だけど、そんな事実を私が知っているはずもない。知っているはずのないことだから問いただす事もできず、私は疑問を飲み込んだ。
ただ、一番シンプルに私にとって重要な事実だけを問いかけた。
「……私、治るんですか?」
私はアニエスと同じアキュラ・シンドローム――不治の眠り病にかかっている。
アキュラ・シンドロームは発症の条件もまだまだ不明で、だからこそ治療法もなかなか確立しなかった。そもそも原産であるアクアでは既に根絶されたと思われていた訳だし、アニエスも感染はしていたものの、発症したのはごく一部の時間線の上だけだ。
一方で、私は完全な発症者だった。しかもアニエスと違い、私はさらに幾つかの合併症に蝕まれており、そのために何年もの時間を病室に閉じこめられたまま過ごしている。
アニエスのアキュラ・シンドロームが完治する様を体験して、私は心底羨ましいと思った。そして同時に無理だとも思った。治療法が見つかったのは羨ましい。でも、私には、あの苦しみには耐えられない。致死性の病気に自分からかかるような勇気も、その治療薬の副作用の苦しみに耐える力も、私にはなかったから。
だから、恐れた。例え治療法が見つかったとしても、アニエスと同じ道では私には耐えられない。ぬか喜びになるかもしれない。それを恐れた。
「治療法が見つかったとは言っても、貴方はいくつか別の病気を併発しているからね。強い薬を使うことができないから、ゆっくり時間をかけて治していかなければならない。その長い時間、病気と戦い続ける体力と気力が必要なんだ」
そんな私の恐怖を感じ取ったんだろうか。アレクサンドロ先生は、強面にできる限りの微笑みを映し出したようだった。しかし、その隙間から滲み出る暗い影が、真実は彼が言うより深刻な苦しみを伴うものであると想像できたし、それは私のあるべきでない記憶とを裏打ちするものでもあった。
「……途中で死んじゃうかもしれないくらい、苦しいんじゃないですか?」
そう私に言われて、アレクサンドロ先生は面食らったように目を見開いた。不安げに顔を見合わせる両親にちらりと視線を向けて、こほんと咳払いをする。
「もし、一番強い薬を遠慮なく使ったなら、冗談ではなくそうなるね。でも、それは土台貴方の体力ではとても使えないし、医者としてあんな使い方は認める訳にはいかない。……他に手段がない状態でない限りはね」
苦笑と憤激、他にもいろいろな感情がないまぜになったような、独白めいた呟き。それは、記憶にある誰かの姿を思い浮かべてのことだろうか。どうしてだろう。その彼が思い浮かべているであろう姿は、私の中の『あるべきでない記憶』にあるアニエスの姿と重なっている気がする。
この人は、私の記憶の中にある通りに、アニエスを治療したお医者様なんだろうか。
「貴方に使える薬は、それをずっと弱くしたものだ。命に関わる程ではないかわりに、治るのに本当に時間がかかる。それはつまり、薬の副作用で苦しむ時間が長いという事でもある」
私の疑問と葛藤を気づいてか気づかずか、先生は私に諭すように問いかけた。誇張も何もなく、私が選びとるべき未来の姿を指し示してくれている。
だけど。
「今のまま、病気とつきあい続ける道もある。貴方はどちらの道を選んでもいいんだ」
アレクサンドロ先生が指し示してくれる選択肢に、私は黙って頭を振った。
以前の私なら、恐怖に縮こまって変わらない未来を選んだかもしれない。
以前の私なら、苦しさに負けて、楽な未来を選んでしまっていたかもしれない。
だけど、今は。今の私は。
「……やります」
真っ向からアレクサンドロ先生の目を見返した。榛色の瞳に、私の姿が映っているのがわかる。
弱々しい自分。すぐに負けそうになる自分。頼りなくて、だらしなくて。私自身が許せない自分の姿がそこにあった。
だけど、それでも。
「大丈夫です。頑張れます。だって」
負けられないから。私が心から望む未来にたどり着くためには。
「会いたい人が……会いたい人達がいるから」
アニエス達に会いたい、彼女たちそのものにはなれなくても、彼女たちに胸を張って会いに行ける自分になりたい、そう思うから。
だから、立ち向かう。そんな決意を精一杯に心で燃え上がらせながら見返す私に、アレクサンドロ先生は少し戸惑ったような顔をしてみせたけれど、ふっとその目元を緩めた。
そして幾度かの瞬きの間に、その瞳に映る色が、どことなく懐かしそうな色を帯びて感じられたのは、気のせいだったろうか。
――いや、気のせいのはずがない。だって。
アレクサンドロ先生は、キョトンとする私を眺めて、どこか懐かしそうに呟いたのだから。
「不思議なものだね。見た感じでは貴方に見覚えはなかったのに、いざ話してみると、どこかで会ったことがあるような気がするのです」
遥か遠く、記憶の底より更に深い場所にある思い出。あるはずのない記憶へと視線を遠くするアレクサンドロ先生に、私は頷いた。
「……私もです」
灯里さんが、アリシアさんが、そしてアニエスがしていたものには届かなくても。
私にできる、精一杯で輝く笑顔で。
※
幾つかの季節が過ぎた。
水無灯里がプリマ・ウンディーネとなり、アリシアがARIAカンパニーを去って、更に数ヶ月が過ぎた頃。
ある新月の夜、仕事を終えてふとテラスに目をやった灯里は、そこに一つの人影があることに気がついた。
「アニーちゃん……?」
部屋の明かりに照らされるだけの姿でも、灯里が彼女を見誤るはずがない。そこにいたのは、アニエスだった。今やたった二人(と一匹)のARIAカンパニー、その大事な一人。
いつの間にか、ARIAカンパニーが象徴するその青と白を、誰よりも素直に現すようになっていた、灯里の最初の後輩で、最初の弟子で、大事な友達。
そのアニエスが、テラスに身を預けていた。水平線に視線を凝らしていた。
そして、その目尻からは……透明な涙がぽろぽろと、こぼれ落ちていた。
「どうしたの、アニーちゃん?」
「……灯里さん」
灯里の声に、アニエスははっと目を覚ましたかのように息を呑み、目尻の涙を指先で拭った。
どうしたのだろう。何か悲しいことでもあったのだろうか。心配げに様子を伺う灯里に、答えるアニエスの声は嗚咽混じりだった。
「シレーヌが……さよなら、だって」
途切れ途切れに言う。
その紡がれる中に見つかる名前、シレーヌ。灯里は結局ついぞ目にしたことのない、アニエスの友達の火星猫だ。
本当に彼女が存在していたのかどうか。アイがシレーヌと一緒にいたことがあるというし、存在したこと自体は間違いないだろう。
もっとも、そんな証拠がなかったとしても、灯里がアニエスの信じるシレーヌの存在を疑う理由はどこにも存在しなかったが。
灯里がかつて出会った様々な不思議なこと。今は見えなくなってしまったけれど、不思議の世界の住人達は確かに存在した。そこには一片の疑いも存在しない。
だから、例え灯里に見ることができなくとも、アニエスが出会ったと信じているものは、きっと存在しているのだ。
そう思うと、ふと思い出す。偉大なる≪白き妖精≫アリシアもまた、灯里が目にした不思議なものを、何一つ疑うことなく認めてくれた。藍華あたりに言えば三秒で「うん、ありえないからっ」などと一刀で切り捨てられるような話でも、アリシアはにこやかに頷いてくれた。そんなアリシアの姿勢が、灯里の感受性を損なうことないままに、プリマ・ウンディーネに育て上げたのだ。
灯里が猫妖精に別れを告げられた時、アリシアはどうしたのだったか。そっと抱きしめ、言葉で取り繕うことなく共感してくれたのではなかったか。
だから、灯里もそうした。そっとアニエスの背後に寄り添い、手すりに置かれたアニエスの手に自分の掌を重ねる。
「……灯里さん」
「うん」
深く息を吐き出して、アニエスは少しだけ灯里に身を寄せ返した。さりげなく預けられる重さが、ほんのりと伝わる体温が、灯里の胸にも嬉しさの熱を灯す。さながらそれが、アニエスと灯里の心の繋がりを示すようで。
「灯里さん、聞いてくれますか? シレーヌのこと」
もちろん、灯里に拒否する理由はなかった。アニエスは赤く腫らした目元を笑みに歪めて、訥々と語り始めた。
彼女が胸に抱きしめた、シレーヌという友達と過ごした日々の思い出を。まるで一つ一つを取り出して、アルバムに綺麗に並べていくように。
彼女が手にした沢山の思い出を、決して忘れないよう心に刻み直すように。
それは、別れの儀式だった。二度と会えないとわかるから、シレーヌと触れあい、別れ、さらに強く健やかなアニエス・デュマに変わるための。
「私は……シレーヌに出会えて、本当に良かったと思います」
そして、そう言って物語を結んだアニエスの笑顔は、まるで。
雨上がりの夜空そのもののように晴れやかで、透き通っていて。
(あ――――)
その、背後で満天を覆うもの、そのものを映したような笑顔に、灯里は心臓が一つ跳ねるのを感じた。
(アリシアさんと、おんなじ)
アリシアだけではない。凛々なる晃、澄み渡るような謡のアテナ、薔薇すらも従えるように華やかな藍華、オレンジに祝福されたアリス。最高に素敵なもの、素敵な人々を目の当たりにする度に、一つ跳ね上がる心臓が、また一つ踊った。
つまり、それは。
アニエスが、灯里が大切に思い、尊敬する人々と肩を並べるほどに輝き始めた、その証に他ならないのではないか。
アリシアは白だった。灯里は蒼だった。そして、アニエスが象徴するものはその中間、蒼と白が入り交じった、高い高い空。
空――"sola"。イタリア語では、孤独を意味する言葉。空が孤独――面白い一致だと思う。
アニエスは、孤独だろうか? そうだったかもしれない。己の憧れのために飛び出して、行き着いた先に憧れの人の姿はなく、孤独を噛みしめ、前に進んできた。
そして歩む過程で、アニエスの周囲には沢山の人々が集まった。
そう、"sola"は孤独でも、"空"は孤独ではない。"空"には多くの友がいる。昼には雲と太陽が、夜には月と無数の星々。
そう、空は孤独ではない――孤独ではないことに気づいたとき、"sola"は"空"になる。
暁の赤も、真昼の蒼も、黄昏のオレンジも、宵闇の黒すらも。すべてを内包し、色を変えていくイル・チェーロ(Il Cielo)。
いつの間にか、アニエスはそんな存在になっていたのではないか。
(ああ、そうか――)
気づいてみれば、色々な靄が……悩みや迷い、恐れなどといった心の澱が、ぱぁっと晴れていくような気がした。
それは、かつてアリシアが語ったこと。
何かが動き出すときは、まるで示し合わせていたかのように、一斉に動き出すのだと。
ならば、立ち止まってはいられない。
新しい未来が、舞い降りるタイミングを見計らっていたのだとしたら。
それを受け止め、更に素敵に変わっていくのが、”いま”を生きる自分たちの役目だから。
後ろ手にした、見覚えのある名前と顔が刻み込まれた、ウンディーネ新人募集応募願書を持つ指先に、ほんのわずかに力を込めつつ。
「アニーちゃん」
涙を拭わぬまま、水平線を見つめるアニエスに、灯里は呼びかけたのだ。
「明日――プリマ昇格試験、しようか」