ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
「ようこそ、ネオ・ヴェネツィアへ」
そんな凛とした、だけど柔らかな声に、私の意識は夢見心地から引き戻された。
瞼に絡みついたままの微睡みを擦りながら周りを見回すと、客室正面のモニタに観光協会のCMが流れているのが見えた。
画面の真ん中で、凛々しくも優しい笑顔を見せているのは、今現在業界最高と噂されるウンディーネ、≪
「姫屋はまだこのCM使ってるんだな」
「いいじゃないの。≪
近くの席で、ビジネスマンらしき二人組みがそんな感想を交わすのが漏れ聞こえた。
≪
「俺は≪
「それならさっき映してたぞ。お前見てなかったのか?」
「何ぃ? 何で起こしてくれなかった! 折角アリスさんの姿を大型スクリーンで見られるチャンスを!」
「知るか!」
なんてことだ。≪
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので、どうかお静かにお願いします」
「そうは言うけどねえ、悔しいじゃないの」
星間連絡船の客室乗務員の女性がそうたしなめるけど、弱腰なせいか、男性達を大人しくさせるには至らない。逆に勢いづいたのか、男性は≪
迷惑です――と私が声をあげようとした、その時だった。
「お客様。マルコ・ポーロ宇宙港には水先案内人広告用の大型モニターが設置されているのはご存じですか?」
金髪の添乗員さんが割り込んで、そう男性達に尋ねた。
「え? いや、知らないけど」
「なるほど。それなら宇宙港に降りたら、三番ゲート広場で一際大きなモニターを探してみてください。ゴンドラ協会が企画して設置したもので、各種CMはもちろん、そこだけでしか見られないウンディーネのプロモーション映像も上映しているんですよ」
「へ、へえ……」
「しかも、そのプロモーションには、企画者であるとあるゴンドラ協会の役員が映っているんですよ。少しだけですけど、ウンディーネファンなら一目でわかるはずです」
「そ、それは……もしかして」
「さて、真相はご自分の目で……というわけで、楽しみは宇宙港まで取っておいて、今はお静かにお願いできませんか? 周りの皆様にご迷惑になってはいけませんし」
餌で釣り上げてから、ぴしゃりと言い聞かせる。鮮やかな手並みだった。今更集まっている視線に気づいて顔を赤くする男性を後に、頭を下げる客室乗務員さんに微笑んで見せてから、添乗員さんは自分の席に……私の隣の席に戻ってきた。
私の視線に気づいて、金髪の添乗員さんはぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、騒がしくしてしまって」
「アンジェリカさんは何も悪くありませんよ」
お見事でした、と素直な感想を述べると、金髪の添乗員さん……アンジェリカ・フェルナンデスさんは、少し恥ずかしそうに、どことなく儚げで、でも芯の強そうな笑みを閃かせた。
「それにしても、鮮やかでしたね。あんな素早くアイデアを出せるなんて、≪ネオ・ヴェネツィアの生き字引≫は健在なんですね」
「あら、誰から聞きましたか? その呼び名はマンホームでは誰にも知られてないと思っていたのに」
私の何気なく口にした異名に、アンジェリカさんの目が丸くなった。しまった、ついついまた『あるはずのない記憶』を口にしてしまったらしい。
「実は、昔から水無灯里さんのメールマガジンのファンで。以前お名前をそこで拝見した事があったんです。それで……」
「ああ、なるほど。有名ですものね、灯里さんのあれは」
私の必死の言い訳を、アンジェリカさんは少し困ったような色を覗かせつつも、納得してくれたようだった。そもそも、私が灯里さんのメールマガジンでアンジェリカさんの異名を見たと言うのは嘘じゃないし、ひとまずは誤魔化せたことを良しとする。
嘘なのは、それでアンジェリカさんを知ったと言うあたりだ。私はそれ以前から、アンジェリカさんの事を知っていた。
あの、例えようもなく暖かで、宝石よりも輝いている『あるはずのない記憶』の奥底で。
もう、何年になるだろう。アクアの夢を見なくなってから。
私がアクアの夢を見ていたのは、結果としては、アキュラ・シンドロームのせいだった……と私は考えている。
なぜなら、私がアキュラ・シンドロームの本格的な治療を受け始めてから、私は二度とアクアの夢を見ることがなくなってしまったんだから。
あの夢を見なくなってから、私のアクアについての記憶は急速に薄れていった。最初は、縁が薄かった人の名前。何度も巡ったはずの町並み。大切だった人の名前。一つ一つが、波に洗い流されていくかのように、私の両手からこぼれ落ちていった。
これはいけない、と思ったのは、アクアの夢の中で『私』だった女の子の名前が思い出せなくなった時だった。本来あるべきでない記憶だからなのかもしれないけれど、一番大事だったはずの彼女の名前すら思い出せなくなるなんて。
恐ろしくなった私は、アクアについての本を読み直して、覚えている限りの事をノートに書き記していくことにした。そのお陰でか、灯里さんや藍華さん、そしてアリスちゃんなどの、今も活躍していて名前を目にすることができる人たちの記憶は失われることはなかった。
だけど、一度失ってしまった『彼女』の名前だけは、どうしても思い出す事ができなかった。
だから、私は心に決めた。必ずいつか、アクアに行くと。ネオ・ヴェネツィアの、あの素敵なウンディーネ達と出会うために。
そして、私は死に物狂いでリハビリをした。一日過ぎれば、思い出が一つ消えていく……そんな気がしたから。思い出せないだけで、実は大切な思い出を失ってしまっているんじゃないか。そんな恐怖が私を突き動かしていた。
リハビリの傍ら旅費も蓄えて、ようやくアレクサンドロ先生からOKが出たのが、つい先日のこと。それはつまり、私がアキュラ・シンドロームを完全に克服したと言うことを意味していた。
アンジェリカさんとの再会……いや、出会いはほんの偶然だった。
あまり裕福とは言えない私が星間旅行するには、できる限り安く仕上げないといけない。そこでネットを調べた私は、少人数規模でありながら割安なツアーを見つけた。
オフシーズンながらオフシーズンなりの見せどころをよく見極めたツアー内容に、私は心惹かれた。お財布事情にも合致していたし、何よりこれはネオ・ヴェネツィアを本当によく理解している人が企画している――そう感じた私は迷わずそのツアーに申し込んだ。
そして当日、担当のツアーコンダクターさんと顔合わせをするに至り、私の胸に一気に記憶が呼び起こされていった。
『彼女』が心から敬愛していた元ウンディーネ、金色の髪のアンジェリカ・フェルナンデスさん。彼女に微笑みと共に会釈された瞬間、彼女についての記憶が一気に浮かび上がって来たんだ。
実のところ、私のアンジェリカさんについての知識はそう豊かなものではなかった。私が『彼女』の夢を見た時、アンジェリカさんは既にウンディーネを引退していたから。アンジェリカさんが『彼女』の心の支えとなり、それが故に『彼女』の心を曇らせることになった――そのあたりの顛末は漠然と覚えていたけれど、いざ顔を合わせるまで、細かいところはまでは全く思い出せなかったんだ。
だけど、今は違う。『彼女』がアンジェリカさんに出会って、どんなに憧れていたか、どれほど心の支えにしていたか、その感情がはっきりと思い起こせる。
そう、私が『彼女』に感じていた憧れそのもののように。
そして、同時に私は勇気づけられてもいた。だって、『彼女』が憧れたアンジェリカさんが実在するなら、『彼女』が実在する可能性もぐっと跳ね上がる。『彼女』は存在しないんじゃないか、私の夢が作り出した虚像だったんじゃないか。あの夢以来、ずっと私の心に棘を突き立てていた不安が、軽くなっていく気がする。
そんな浮き立つような心にを持て余しながら、私は星間連絡船のタラップを踏んだ。
私にとって生まれて初めての一人での旅行、しかも星間旅行の第一歩だった。
「減速が完了致しました。間もなく、本船はアクアの衛星軌道から降下を開始します。船体が揺れますので、シートベルトの着用をお願い致します」
そんな客室乗務員さんのアナウンスと同時に、船体ががたんと震えた。
ゆらり、と前につんのめるような感覚が駆け抜けたと思うと、星間連絡船の壁面が色を失う。
透過した壁の向こうで、星が不思議なダンスを踊る様が映し出されている。
そして、船が進む先に映し出される、青の惑星を目にして、私は息を呑んだ。
ついに、来た。
ようやく、やって来たんだ。
「ようこそ、水の惑星アクアへ」
目を輝かせる私に、アンジェリカさんがやや大仰なポーズ付きでそう微笑んだ。
星間連絡船は、無数の海鳥たちに出迎えられて、ネオ・ヴェネツィアのサン・マルコ宇宙港に着水した。
さっきのうるさかった二人を含む多くの人は、途中のホールにでーんと据えられた立体モニターに目を奪われているようだったけれど、私はそれを一瞥しただけで通りすぎ、早速アクアの日差しの中に飛び込んだ。
目が眩むような光。ネオ・アドリア海の鮮烈な青と白。灰色を見慣れた私の網膜に、容赦なく流れ込んでくる。
これが『彼女たち』が見ていた世界。
これが、本当の水の惑星、アクア。
このネオ・アドリアの海に浮かぶネオ・ヴェネツィアに、私はついにやってきた。
あの夢を確かめるために。
私を立ち上がらせた、あの夢の在処を捜すために。
予定では、市街観光にはウンディーネ業界の老舗である、姫屋のゴンドラを借りることになっていた。
姫屋のウンディーネとはもう話がついているらしく、ツアーの他のお客達は、≪真紅の薔薇≫の二つ名を持つ、現在のネオ・ヴェネツィア最高のウンディーネに観光案内を任せる予定らしい。
……うん。何故、他のお客は、と言うのか。それは実に簡単な理由。
「ARIAカンパニーは、三十年ほど前に、伝説のウンディーネ≪グランドマザー≫によって創立された会社なんですよ」
水上バスに揺られながら、私はアンジェリカさんの説明を意識の半分くらいで聞いていた。
姫屋ではなく、ARIAカンパニーのウンディーネにお願いしたい。そういう私の我が儘に、アンジェリカさんは少し困った笑顔を見せたものの、最後には承諾してくれた。
「かつて、≪白き妖精≫アリシア・フローレンスが所属していた頃に比べると、業界への存在感はちょっと薄れているのが実状ですね。でも、少人数主義である甲斐もあってか、お客様の満足度の平均値は今でも飛び抜けて高いんですよ」
そう友達を自慢するかのような微笑みを見せるアンジェリカさんに、私は『彼女』の事を尋ねてみてはどうかと思った。アンジェリカさんならば、『彼女』の事を知っている可能性が高い。でも、どう聞けばいいんだろう。名前も知らない……思い出せない人の事を。
「あ、ここで降りないと。行きましょう、お客様」
「は、はいっ」
迷っている間に、水上バスは停留場に到着してしまった。先に歩き出すアンジェリカさんに置いて行かれぬよう、私は慌てて荷物を片手に座席を立ち上がる。
「それにしても、ほかのツアーの人を放っておいて良いんですか?」
停留所から海際の小路を歩く途中、私は気になっていた事を尋ねた。アンジェリカさんの本来の予定では、お客さんを引き連れて、姫屋の≪
私の問いに、アンジェリカさんはちょっと悪戯っぽく微笑んだ。
「街中では、お客様をもてなすのはウンディーネの仕事ですから、私の出番はないんですよ。それに……」
「それに?」
「それに、元々私も友達のところに顔出ししようと思っていましたからね」
友達。それは今のARIAカンパニーを代表するウンディーネ、水無灯里さんの事だろうか。灯里さんのメールマガジンにアンジェリカさんの名前が出てきたことから考えても、灯里さんとアンジェリカさんが仲良しであることに疑いはないけれど。
でも、もしかしたら。私の記憶が間違っていないなら、アンジェリカさんにとって、『彼女』は一番大切な友達の一人のはず。
だとしたら、やっぱりアンジェリカさんが会いに行く友達というのは、『彼女』の事なんじゃないだろうか。
そんな風に私が悩んでいる間にも、歩みは進んでいた。
「さあ、見えてきました。あそこが、ARIAカンパニーですよ」
海際の角をくるりと曲がり、アンジェリカさんは、アーチ橋の向こう、海の青と町並みの境界線から張り出した、青と白の小さな建物を指さした。
ぱっと、その光景が私の瞼に焼き付く。かちん、かちんと小気味良い音を立てて、頭のなかで幾つものパズルが組み上がっていくような気がした。
見間違えるはずもない。何度も、何度も夢に見た、あの建物。
夢で見たよりも、少し小さいだろうか。いや、それは多分、夢の中の私より、今の私が大きくなったからだろう。
私の見た夢の舞台。大切な思い出の人々が集った、小さくて可愛い建物。丸い天窓も、大きく海側に張り出した看板も、何一つ記憶と違っていない。
その建物のテラスに、人影が一つ現れた。
白と青の制服を纏った、少女らしさと女らしさの中間をたゆたうような、そんな女性。
もちろん、それが誰なのか、私が見間違える筈もなかった。
「こんにちは、お久しぶりです。≪
その女性――水無灯里さんの姿を認めて、アンジェリカさんが手を振って呼びかけた。
「あ、アンジェさん! こちらこそお久しぶりです!」
そう声を上げる灯里さんは、私の記憶にある彼女とは、髪型も物腰も変わっていた。髪はアップに纏められて、潮風に揺れるその髪と裾にまで満ちあふれる柔らかさは、かつての≪
「もう少し待ってくださいね。今準備していますから!」
そう答えて、灯里さんは建物の中に引っ込む。そして中から何か話し声がしたかと思うと、今度はオリーブ色の髪の、小柄な女の子が顔を出してきた。
「よ、ようこそいらっしゃいました、ARIAカンパニーへ。」
その姿を見て、私は胸が熱くなるのを感じた。
笑顔の端々に緊張を隠しきれない様子の彼女は、随分女の子らしく成長しているけれど、間違いなくアイちゃんだった。白と青の制服に身を包み、両手を手袋で覆った、紛れもないARIAカンパニーのウンディーネ。あの時語った夢を追いかけて、とうとうここまでたどり着いたんだろう。
私の夢の中に登場したアイちゃんと、このアイちゃんが同一人物かどうかはわからない。でもどんな道を辿ろうと、結局人は向かうべき所に向かってしまうものなのかもしれない。
思わず口元が綻んだ私に、アイちゃんが不審げに眉を潜めた。
「な、何か、変なところありますか?」
「う、ううん、なんでもないのよ」
戸惑うアイちゃんに、私は手を振って誤魔化す。それは、本来私が知っていてはいけないことだ。
その時、灯里さんが私を呼ぶ声がした。
「お待たせいたしました、お客様」
しずしずと、テラスを渡ってくる灯里さん。ゆっくりと私の前を通り過ぎ、カウンター横に立てかけられた櫂の一本を手に取る。
思わず、私は声を上げかけた。
灯里さんの舟に乗れるならば、それも悪くはない。だけど、私が探している『彼女』は、灯里さんではない。
私が、出会いたい本当の『彼女』は――。
「すみません、遅れてしまって」
その時、建物の角を曲がって。
黒髪の女性が、姿を現した。
私の記憶にあるより、少し髪を伸ばして。
私の記憶にあるより、少し背格好も大きくなって。
だけど、少し緊張の色を交えた、青い空を映し出したような笑顔はそのままで。
「本日ご案内させていただきますのは、我がARIAカンパニー自慢のプリマ・ウンディーネ、≪
灯里さんの紹介に、『彼女』が――。
アニエス・デュマが、ぺこりと小さく頭を下げた。
ああ。
ぱちり、と記憶のパズルの、一番大事なピースが填まっていく。
ようやく出会えた。
夢の向こうの、私。私よりもずっと素敵な私。
貴女に会うために、私はここにやって来たんだ。
「……本日は、数多のウンディーネの中から、私をご指名戴き、心よりお礼を申し上げます」
緊張しながらも、その言葉には淀みなく。
「お客様の出会うアクアが、そしてネオ・ヴェネツィアが、最高に素敵なものになるよう、微力ながら精一杯お手伝いさせていただきます」
蒼穹の二つ名が示すように、澄み渡る青空のように、透明で、広くて、抱き留めるような笑顔で。
「――さあ、お手をどうぞ」
白魚のように細く、しなやかな指先が、私に差し出された。
手を取ろうとして、ふと思った。
アニエスが光ならば、私はまるで、その影のような存在。
光と影が触れあったりしては、どちらかが消えてしまうようなことはないだろうか。
だけど、結局、何のこともなかった。
指が触れ合っても、絡み合っても、私は私で、アニエスはアニエスで。
よく似た道を歩んできても、結局私たちは、違う人間。
だから、出会える。だから、触れ合える。
魔法のような奇跡が、私とアニエスの心を触れあわせ、そして私は立ち上がった。
アニエスが経験してきたこと、心に宿した想い、そういった沢山の素敵なものを、誰かが私に届けてくれた。
だから私は今、笑える。だから私は今、ここにいる。
繋いだのは奇跡。だけど、私を立ち上がらせた心は、アニエスのものに他ならなかったから。
「――ありがとう」
だから、私は、その言葉を。
私ができる、精一杯の笑顔とともに、アニエス・デュマに送り出した。
アニエスはきょとんと、戸惑ったような顔を覗かせたけれど。
全てを見通しているかのような、灯里さんの笑顔と。
眩しそうに微笑むアンジェリカさんの頷きと。
よくわからないなりに励ますような、アイちゃんの笑みに囲まれて。
「…………はいっ!」
力強い是とともに、私の掌を、ぐっと強く握り返した。
灯里さんと、アイちゃんと、アンジェリカさんに見送られて、私たちの舟は漕ぎ出した。
優しい風が、ネオ・アドリアの水面を撫でて過ぎる。
空には、≪
海には、≪
その二つを繋ぐように、白い舟が浮かぶ。
青と青が白で繋がれた、この世界を象徴するかのような、青と白の衣が、風に揺れている。
さんさんと陽光が煌めいて、舳先の小さな天使が目にとまった。
金色の天使像――見覚えがある。よく磨いて、メッキを直してあるようだけれど、片方の翼の付け根に傷跡がある。
これは、あの沈んでしまった黒い舟が掲げていた天使像に他ならない。
そうか。アニエスはあの舟に、必ず助けに行くと誓っていた。どんな経緯で白い舟の舳先に掲げられたのかはわからないけれど、あのときの舟は……あの老紳士は、今でもここでウンディーネ達を見守っているのかもしれない。
「……あっ」
あの老紳士が客席に腰かけて、穏やかに微笑んでいるかのような――そんな空想を瞼に浮かべながら、櫂が奏でるリズムに身を浸していると、アニーが小さな呻きを漏らした。
「ええと……申し訳ございません。お客様のお名前を、お伺いしても宜しいでしょうか」
見上げれば、申し訳なさそうに、肩を竦めるアニー。
申し込みの際に、名前は伝わっている筈なのだけど、ど忘れしてしまったらしい。
つくづく、彼女らしい。見てくれは成長しても、そういうおっちょこちょいなところは、あまり変わっていないようだ。
でも、考えてみればお互い様。なにしろ私自自身、今の今までアニエスの名前を思い出せずにいたんだから。
でも、きっともう忘れない。
取り合った手の暖かさが、今度こそ私の魂に刻み込まれたから。
だから、始めよう。予定より随分遅れてしまったけれど。
「ふふ、 私の名前は――」
私の名前を乗せた風が、駆け抜けていった。
蒼と白の入り交じる、遠く遥かな