ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
私には三つの選択肢がある。
一つは、全てを諦めて、マンホームに帰ること。
同じような眠り病、例えばナルコレプシーの患者などは、症状を緩和する薬が存在し、それを服用し続けることで、社会生活を問題なく過ごすことができる。
でも、アキュラ・シンドロームには、そういった薬が存在しない。あるのはとびっきりの副作用がある、強力無比な治療薬。効果があるかもわからない。私自身が人体実験に供されるも同然の、リスクばかりが高い薬があるだけ。
でも、リスクを避けたとして、ウンディーネへの道を断念した私に、合理化が進みきったマンホームで、どれほどの仕事があるだろう。勉強をやり直して、アクアに来る前のところまで戻ったとしても……アキュラ・シンドローム患者の私に、できる仕事は限られる。
メリットは、家族と一緒にいられること。いつ気を失っても、家族が近くにいてさえくれれば、まだ対処のしようはあるし、安全管理に神経質なくらい気を遣っているマンホームならば、道端で意識を失っても、そうそう危険なことにはなりにくい。
デメリットは……これまでアクアで培ってきた私の全てが、どこかに消えてしまうと言うこと。
もう一つは、ウンディーネであることを諦めて、アクアに残ること。
合理化からは縁遠いアクア、特にネオ・ヴェネツィアでは、まだまだ人の力を必要としている仕事は数多い。それに、なんだかんだ言っても私はウンディーネになるために訓練を続けてきた。ネオ・ヴェネツィアについての知識はそこそこのものだし、ウンディーネ業界についての知識もある。
もちろん、アキュラ・シンドロームのせいで気を失う事には代わりはないから、危険な仕事などには就くことができないという点は変わらないし、水路端で気を失ったら、水の中に真っ逆さま、という危険が伴うのが難点。でもそれは気をつければいいことだし、この町の人々なら、きっと何とか助けてくれるのではないだろうか……と期待したい私がいる。
それに、アクアで働き続けるのであれば、晃さんが、ARIAカンパニーへの転職を斡旋してくれている。
実働社員がアリシアさんと灯里さんだけというARIAカンパニーは、ウンディーネとしての舟漕ぎ以外に、会社としての体裁を維持するために、様々な仕事がある。今はそのほとんどをアリシアさんが一人でやっているようなもので、頻繁に彼女がゴンドラ協会の会合に顔を出すのも、そのあたりの関係があるらしい。そういった事務仕事などの雑務を私が担当すれば、アリシアさんや灯里さんにかかる負担を軽くすることができるのではないか……というのが晃さんの提案だ。
正直、魅力的な提案だと思う。姫屋にはいられなくても、アクアにいて、灯里さん達の側にいることができれば、藍華さんや晃さん、アリスちゃんやアテナさんとの繋がりが失われる事はない。どうせ働くのであれば、大切な人たちのためになる事をしたいというのが本音でもあるし。
問題は……多分、この選択肢を選んでしまったら、私の心には生涯、負い目が澱のように凝る事になるだろう、ということ。
そして、最後の一つ。マンホームに戻って、アキュラ・シンドロームを根本から治療すること。
……これは、賭けだ。それもかなり分が悪い。そして、時間がかかってしまえば、私は健康の代償に、ウンディーネとしての時間を失う事になる。
身体が壊れるかも知れない。心が折れるかも知れない。でも、もし全てがうまくいけば、失おうとしている全てのものを、取り戻すことができる……かも知れない。
でも、それには時間がかかる。本当に取り戻せるかどうかもわからない。
つまり……この選択肢の肝心なところは、私が、今失おうとしているものを、どれほど取り戻したいと思っているのか、にかかっている。
私が失おうとしているのは、このアクアで生きてきた一年という時と、それに関わる人々と、そして大切な夢と、いくつかの未来。
それを取り戻すために私が失うのは、このアクアで、あの愛おしい人たちと共にいられる時間。時間がかかりすぎれば、更に夢すらも失われる。
折角アンジェさんが見いだしてくれた希望。でも、そこに至るまでの道は茨に覆われていて、私には踏み出す勇気がない。
だって……茨道の向こうに、本当に希望があるのか、わからないのだもの。
茨道に傷ついて、血を流して、それでも前に進んだ先に、私の希望は本当にあるのだろうか……。
*
更に二日が過ぎた、四日目の昼前。
「なーにしてんの、キミ?」
姫屋社屋のロビーの片隅、壁にもたれ掛かって、ぼんやり指先を眺めていた私に、誰かが声をかけてきた。
顔を上げると、見知った顔のウンディーネがそこにいた。赤毛というには色の濃いシャギーの髪の下で、ぱっちりと丸い瞳が私を見下ろしている。
「あ……あゆみさん」
思い出すのに一瞬時間がかかった。同じ姫屋のウンディーネといっても、私は姫屋の跡取り娘である藍華さんと共にいることが多いので、他のウンディーネからやや敬遠されがちだ。結果、他のウンディーネとの繋がりが少なく、ただでさえ大所帯ということもあって、顔と名前がはっきり一致しない人も少なくない。
その中で、あゆみさんは比較的顔と名前が一致しやすい人だった。それはそのさっぱりとして気っ風の良い性格と、最初から渡し船トラゲット専門の漕ぎ手を目指しているという特徴があるからなのだけれど。
「アニーちゃん、だったね。今日は藍華お嬢と一緒じゃないの?」
きょろきょろと周囲を見回して、藍華さんの姿がないことを確かめるあゆみさん。姫屋のウンディーネからは、私は藍華さんのお付きとか金魚のフンとかのように見られているらしく、私は藍華さんとセットで覚えられている事が多い。まあ、姫屋の中でも唯一、同室の同僚がいる、しかもそれが跡取りの藍華さんとなれば無理もないことなのだけれど……閑話休題。
「今日は藍華さんは後輩指導です。私は……一応シングルですけど、ゴンドラ禁止ですから」
愛想笑いに苦みが混じるのは抑えられない。それを感じ取ったのか、あゆみさんはちょっと眉をぴくりと動かし、少し思案顔を浮かべた。恐らく、私に関する噂とかを思い出しているのだろうけれど……。
「ふーん、すると今暇なんだね」
しばし思案しそう呟いたあゆみさんは、そのまま私が何か言う間を与えず、ぐいと私の方に顔を近づけて、
「じゃあさ、ちょっと手伝ってよ、トラゲット」
と、突拍子もないことを言い出した。
「え、あの、その、私、その、経験ないですよ?」
「大丈夫、誰でも最初は初めてだって」
「でも、そもそも私ゴンドラ禁止ですし」
「岸辺でお客さんの誘導とかしてくれるだけでもいいよ。トラゲットはいつでも人員不足だからね!」
すぱん、すぱんと斬り捨てられるかのような勢いが気持ちが良い。そんなあゆみさんの強引さに、結局私は是としか応えることができなかった。
「私、ゴンドラ禁止なのに。……本当、後でどうなっても知りませんよ?」
そう釘を刺してはみたのだけれど、あゆみさんは「いいからいいから」と言って手を引っ張るばかりだった。
*
ネオ・ヴェネツィアを貫く大運河の岸辺、市場の側に、トラゲットの船着き場の一つがあります。
大運河は、通行する舟の量と景観維持の関係で、橋はリアルト、スカルツィ、アカデミアの大きな三本がかかっているだけ。旧ヴェネツィアでは第四の橋が駅前に造られようとしたと記録には残されていますが、モーゼ計画の頓挫と自然死主義の台頭の煽りで架橋計画は中止され、ネオ・ヴェネツィアではその再現は行われなかったと伝えられています。
自動車はおろか自転車すら禁止されているネオ・ヴェネツィアの町では、橋まで迂回するにはいささか遠すぎます。そんなネオ・ヴェネツィアの市民の足として、トラゲットは重要な役割を果たしているのです。
……以上、「ウンディーネのための初歩の観光マニュアル」より、抄訳。
あゆみさんに従い、人で賑わう市場を抜けて大運河に向かうと、そこには地元の人々の行列ができ上がっていた。
トラゲットの順番待ちの、市場の買い物客達だ。
いつもこんなに人が多かったっけ? と、乏しい記憶を掘り返していると、
「こんにちは、あゆみお姉ちゃん」
「やあ、今日は遅刻かい?」
私達……特にあゆみさんの姿を認めたのだろう、出航待ちのお客さん達が口々に声をかけてくる。
みんなあゆみさんとは顔見知りのようで、丁度灯里さんがそうであるように、旧来からの友達であるかのように笑顔を交わしている。
「アトラちゃんと杏ちゃんだけだから、今日はどうしたのかと思ったよ」
「あはは、ちょっとヤボ用があったもんで。急いで準備するから、あと少々お待ちくださーい」
にこっと営業スマイル……というには自然な笑顔を浮かべたあゆみさんが、お客さん達の列を擦り抜けてゆく。
その後ろについて歩く私なのだけれど、
「お、また見ない娘だね。あゆみちゃんの後輩?」
「あ、えっと……」
「あら? そういえば、何処かで見たことがあるような……」
「確か、この間の……月刊ウンディーネの表紙になってた娘じゃないか?」
「えー? 月ウじゃなかったと思うよ。確か全系誌の週刊ネオ・ヴェネツィア……」
などと、井戸端めいた気さくさでお客さんが話しかけてくるのだ。
なんだか居心地が悪い。あの件でもてはやされるのは、有りがたい事ではあるのだけれど、どこか心に引け目を感じてしまう。
それは多分、もっと尊敬されるべきなのに、そんなことを気にもしていない先輩達の存在に対して、申し訳なさを感じているからなのだろうけど……。
「あーっと、そうそう、ウチの後輩のアニー。ちょっと急ぐからまた後でね」
しどろもどろになっている私を、あゆみさんが腕を掴んで引っ張りだしてくれた。
「キミ、結構有名人だな?」
「あははは……面目ないです」
足早に桟橋に向けて歩きながら、ぱっちりとウインクするあゆみさんに、微妙な笑顔で応える私。それにしても、意外と雑誌の効果はまだ残っているらしい。
気を取り直して人垣を抜け出すと、桟橋に係留し、お客様を概ね吐き出し終わった長舟が見えた。
「あれ? あゆみちゃん?」
長舟の上で、櫂を点検していた黒髪おかっぱの女性が声を上げた。
「あら、今日はお休みじゃなかったの?」
その声に、怪訝な声を上げつつ、係留ロープを結んでいた眼鏡の女性が手を振る。
「あー、うん、暇だったから仕事しようと思ってさ」
そう破顔しながら、あゆみさんも同じように手を振り返す。相手の人は二人ともが姫屋のライバル店、業界第一位であるオレンジぷらねっとの制服を着ているのだけれど、あゆみさんとは馴染みの相手のようだ。
「ほら、こっち増援。ウチの会社のアニー」
私も手を振り返すべきかどうかを悩んでいる間に、あゆみさんが私の背中を押し出した。
「ア、アニエス・デュマです。どうぞよろしくお願いします」
「アニーはウチの藍華お嬢と、あの灯里の友達なんだよ。今日はなんかクサってたから連れてきた」
「へぇ、灯里ちゃんの……。私はアトラ。よろしくね」
「杏です。よろしくお願いします」
波打つ金髪をポニーにまとめたアトラさんと、黒髪おかっぱの杏さん。二人とも、どうやら灯里さんの事を知っているらしい。……まあ、灯里さんなら、ネオ・ヴェネツィアの住人の半数と知り合いでも驚くには値しないのだけれど。
「ええと、それで私はどうすればいいんでしょうか」
連れてこられたはいいけれど、何しろ私はゴンドラ禁止の身の上だ。増して相手はお客は立ち乗り、バランス命のトラゲット。今の私が櫂を握れる相手じゃない。
「アニーはこっちの岸で、係留と離岸、お客の乗船の手伝いを頼むよ。それなら大丈夫だろ?」
「は、はい。それなら多分……」
陸の上なら、万一アキュラ・シンドロームが襲ってきても、倒れるか一人で運河に落ちるだけで済む。後はお客さんを巻き込まないように倒れる方向を気をつけることができれば、多分大丈夫だ。
「それじゃ、アニーちゃんは早速お客様を誘導してください。お待たせしました、乗船手続きはじめまーす!」
杏さんが舟に飛び乗り、桟橋に向けて手を差し伸べた。それを合図に、乗船待ちだった人の列が、ざわざわと桟橋に流れ込み始める。
「は、はい、こちらにどうぞーっ」
勝手が分からないなりに声を張り上げて、人の列に流れを作る。要は人の注意を引き付けて、あとは手振りで誘導すればいい。それはゴンドラの上で、観光案内をするときと要領は同じ……だと思う。
「じゃ、頑張りなよ」
ゴンドラの定員まで人が乗り込んだのを見届けて、あゆみさんが私の背中をぽんと叩く。腕まくりをしながら長舟の後操舵台に取り付いて、まるでそうであるのが当たり前であるかのように、自然に櫂を担いで声を張り上げた。
「準備よーし! それでは間もなく、ゴンドラ出まーす!」
「ゴンドラ、出まーす!」
杏さんの声が重なって、そして長舟が桟橋を離れた。
*
トラゲットの仕事は、ウンディーネの仕事でありながら、観光案内とはまた大きく異なっている。
一応、姫屋のシングル指導の一環で、基礎講習だけは受けている。だから重量バランスが違うとか、力のかけかたが違うとか、そういう技術面の事は頭に入っているのだけれど、講習だけでは現場の雰囲気までは掴めない。
観光案内は、ほとんどの場合、同じお客を二度乗せることはない。だから、ウンディーネは素早くお客の性格や要望を捉えて、限られた一回の時間で、できる限りお客が満足できるようにサービスをすることが必要になる。
だけどトラゲットはそれとは正逆で、お客は立ち乗りだし、乗っている時間は場所にもよるけどせいぜい五分。待っている時間の方が長いくらいで、その間お客はめいめい世間話をしたり、本を読んでいたりと様々な時間の過ごし方をする。そして……通勤や通学などで、同じ人が繰り返し乗る事が多い。
ウンディーネが精一杯の接客をする観光案内であれば、お客の方も個人差はあるけどそれなりに真摯に耳を傾ける(そのためにお金を払っているんだし)。だけどトラゲットの場合、時間が短い上に他の乗客が多いので、単なる交通機関としての利用法をする人が多い。だからお客の方もウンディーネにそう手厚いサービスを期待している訳ではなく、どちらかというと待ち合わせの際の話し相手や『桟橋の花』としての役割の方が重要みたいだ。
そんな訳で……ゴンドラ禁止の私は、『桟橋の花』としての役割を、存分に果たすことになった。
幸い、アキュラ・シンドロームは今日は大人しくしてくれているようで、休憩中に一度、くたりと意識が飛んだだけで済んだ。それ以外は、トラゲットを利用して学校から帰る子供、市場での買い物帰りの主婦、タルのように大きなカートを抱えた男性など、様々な人々と触れ合いながら、桟橋へと送り出してきたし、桟橋から迎え入れもしていたんだ。
世間話をして、人が舟に乗ってゆく。舟を見送る人がいる。舟を迎える人もいる。そこにあるのは、観光案内だけでは得られない、ネオ・ヴェネツィアという都市に息づく人の営み。
今、私はネオ・ヴェネツィアの血管なんだ。ふと、そんな考えが浮かび上がり、私は思わず苦笑した。人々の営みを、繋ぎ、導き、そして運んで行く。そしてネオ・ヴェネツィアという大きな生命を動かしてゆく。
外から来た血を優しく抱きとめるのがウンディーネならば、中を巡る血の日々の営みを癒すのもまた、ウンディーネの役割。火炎之番人が星を暖め、地重管理人が魂を引き付け、風追配達人が想いを巡らせる。彼らと同じように、空と大地を繋ぐ水の如く、星の血を抱きとめ、共に安らぎ、笑顔へと変えてゆく。それが水先案内人の役割なんだろう。
そう想うと、身体が震えてきた。
もっと、誰かに出会いたい。
もっと、海を征きたい。
この愛しい惑星の、火と、風と、土と、そして水。それぞれの思いが紡ぐアリアを、全身いっぱいで感じたい。
「ははっ、恥ずかしい台詞禁止だね」
うっかり口から零れていたそんな呟きに、あゆみさんが容赦なく突っ込みを差し込んだ。