ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
……考えがまとまる前に、日が傾いてしまった。
日が屋根の向こうに消えて、お客の姿が見えなくなってしばし。本日最後の長舟が、あゆみさんと杏さんの漕ぎ手で対岸に出発した頃合いのことだ。
桟橋に本日閉店の看板をかけた私は、水辺に腰を下ろし、心地よい疲労感に身を浸しながら、赤と青が入り交じった空を見上げていた。
こんなに沢山のお客を相手にするのは初めてだったし、そもそもお客を相手にすること自体、アキュラ・シンドロームにかかってから初めての事だった。そのあたりの事情もあって、慣れない仕事、慣れないお客、そしていつアキュラ・シンドロームで気を失っても、絶対にお客を巻き込まないようにという警戒。結果、日が傾く頃には、舟を漕いでもいないのに、立ち上がるのすら億劫なくらいまで疲れ果てていた。
ただ……その疲れは不愉快なものではなくて。
誰かと触れ合うたびに、身体に疲れが溜まると同時に、何か暖かいものの小さな粒が、心の小瓶に飛び込んで来るような。
そんな感覚が心地よかったから、私はくたくたにへたばっていても、心だけはわくわくと昂らせていたんだ。
「お疲れさま、アニーちゃん」
アトラさんの声がして、私の目の前に、水玉模様の何かがぶら下がった。
「ハッカのキャンディー。疲れた時にはよく効くわよ」
「あ、ありがとうございます」
水玉模様は、キャンディーの包み紙だった。手のひらを差し出してキャンディーを受け取り、口の中に放り込む。すぅっと口の中に爽やかな甘みが広がり、疲れた体に染み渡っていく。
そんな私の横顔を、隣に腰を下ろしたアトラさんがじっと見つめていた。
彼女は、私の事情を知っているのだろうか。あゆみさんとは随分仲が良いようだったし、杏さん共々、話を聞いていても不思議はない。
少なくとも、私に漕ぎ手をやれ、という話が一度も飛んでこなかったところを見れば、二人とも、少なくとも私がゴンドラを漕ぐことができないことは認識しているとは思うのだけれど。
私が人心地ついて息をひとつ吐き出したのを見計らってか、アトラさんが私の顔を覗き込んできた。
「どうだった? 今日は」
「はい、凄く……」
問われて、言葉に詰まった。楽しかった、のも確かだ。くたびれた、というのも確かだ。役に立たなくてごめんなさい、というのも確か。でも、今の気分を表現するのに、それだけじゃ足りない。どんな感想が、今の気分を一番ストレートに表せるだろうか。
言葉を切って、数秒目を閉じて考えた。心の中でさざめく気持ち。
溢れてくるそれを、素直に口に導いた。
「……ありがとうございました、アトラさん」
「えっ?」
予想もしない言葉だったようで、目を丸くするアトラさん。無理もないとは思う。自分でも、まさかこんなことを口にするなんて、思いも依らなかった。
「かーーっ、つっかれたーーっ……ん? どしたの二人とも」
「アトラちゃん、アニーちゃん、どうかしたの?」
二人して戸惑っている所に、いつの間にか戻ってきていたあゆみさんと杏さんが、こちらにやってきた。
「あゆみさん、杏さん……今日は、本当に……ありがとうございました」
また、頭を下げる。謝罪の意味ではなく、単純な感謝の気持ち。
まだ、私の心に見つけた気持ち、その正体は掴み切れていないけど。
だけど、こうして、私が見失いかけていた何かを掴む切っ掛けをくれた人たちに。
私は、感謝の言葉を贈りたかった。贈りたくてたまらなかったんだ。
杏さんとあゆみさんは、お互いの顔を見合わせ、少しふっと頬を綻ばせると、
「……あたしは、何もしてないですよ。」
「そーだね。ウチらは単に仕事を押しつけてただけだし?」
と、それぞれの笑顔を浮かべながら、惚けて見せた。
※
気づけば、空はすっかり光を失って、星がちらちらと瞬いていた。
西から東へ空を横切る、ルナツー。小さく輝くルナスリー。かつてはフォボスとダイモスと呼ばれていた兄弟。大運河の岸辺で、私は彼らをぼんやりと見上げていた。
「……どうしたら、いいんだろう」
膝を抱えて、呟く。日が落ちると共に、あれだけ高揚していた気分が、霧散してしまったのを感じる。
それは、絶望したからじゃない。あの暖かさは、まだ胸にはっきりと残っている。
……むしろ、胸が温かいからこそ、その暖かさが、痛い。
今日が終わってしまう。私がウンディーネでいられる時間が、また一日が終わろうとしている。
今月はあと三日。今日が終われば、あと二日しかない。この愛おしい時間は、もうそれだけの時間しか残されていない。
その時間が過ぎる前に、私は決断しなければならない。
全てを諦め、マンホームに帰るか。
ウンディーネを諦め、アクアで転職するか。
それとも、マンホームで病気に立ち向かうか。
「ウチには、アニーが選びたい答えは、もう決まってるように思えるけどね」
長舟の舟床を掃除していたあゆみさんが、さらりと言ってのけた。
私の事情は、後片付けの間に話した。もう時間がないこと。私に残された選択肢。それぞれの問題点の、全てを。
それを理解した上で、あゆみさんはさらりと言った。私には、もう答えが出ているのだと。
「私の選びたい……答え?」
「そうね。私もそう思う。……だって、アニーちゃんは、どこまでもウンディーネなんだもの」
アトラさんもあゆみさんの答えに同調する。だけど、私には彼女たちが言うことがよくわからない。首を傾げて杏さんの方を見ると、
「アトラちゃんとあゆみちゃんが言うとおりだと思います。だって、今日アニーちゃんは、凄くいい顔で接客していたから」
と、杏さんまでが同意した。思わず頬が熱くなる。
「で、でもそんなの当たり前じゃないですか。私はウンディーネで、お客様に接するのにいい顔するのは当たり前……」
「その当たり前が、誰でもできる事じゃないんだよな、これがね」
あゆみさんが、肩を竦めた。
「今日、私たち二人だけで長舟を漕いでいたの、おかしいと思わなかった? 四人でもあれだけ忙しいのに」
「それは……」
確かにそうだ。観光案内と違って、トラゲットは舟を漕ぐにも体力が必要だし、ひたすら同じ場所を往復し続ける。お客が多くなると、休憩時間も思うように取れない。お客の誘導や整理の仕事もあるし、少なくとも交代要員がいなければ、とても長くやっていられる仕事ではないと思う。
私も何度、手伝おうと思ったかわからない。そして、それができないからこそ、手の届く範囲の全力で、お客をもてなそうと思ったんだ。
「時々いるんだよ。会社の指示でトラゲットに来たはいいけど、これはウンディーネの仕事じゃないとかいって、帰っちゃうシングルがね」
悲しそうな笑顔で、あゆみさんが言う。彼女のトラゲットへの想いは本物だ。だからこそ、それを否定する人に対して、色々と思うところがあるのだろう。
「今日はここ担当のウンディーネは四人だったんですけど、一人は来る前から風邪ひいてて、早々にダウンしちゃいました」
「もう一人は今日が初めてのトラゲットだった上に、負担が増したせいで嫌になったみたいで……ね。『こんなの私のやりたい仕事じゃない!』って言って……」
杏さんとアトラさんも、ため息を吐き出す。そんな状態では、午前中はさぞかし多忙だったことだろう。私たちが来たとき、妙に桟橋で待つお客が多いと思ったのも、二人だけでやっていたために、お客を捌ききれなくなっていたからなんだと思う。
「それで、たまたま通りがかった藍華お嬢が場を見かねて会社に連絡して、オフだったウチが駆り出されたって訳」
そしてその途上で、あゆみさんがたまたま私を見つけて引っ張り出した、ということなのだろうか。
……いや、多分違う。
「でも……それと私のことは」
「関係あるさ。ゴンドラを漕ぐのがウンディーネの仕事。なのに、キミは嫌な顔もせず、ずっとお客をもてなし続けてた。舟の上で、お客が褒めてたよ。キミのことをね」
「それだけじゃなく、さっきまでも凄く嬉しそうな顔をしてたものね。貴女は、本当にウンディーネという仕事を……ううん、ウンディーネという仕事を通して、この街のすべてと触れ合うことが好きなんだと、見ていてわかったわ」
「だから……アニーちゃんの答えは、きっともう決まってます。……ウンディーネを諦められない、そうでしょ?」
杏さんの言葉が、はっきりと、私に答えを突きつけた。
頭が、がぁんと殴られたように揺れた。
心にかかっていた雲が、ぱぁっと晴れていくのがわかった。
――そうか。
そうなんだ。言われてみれば、確かにそうだ。
私は、ウンディーネのアンジェさんに憧れて、アクアにやってきた。
そして、ウンディーネの藍華さん、晃さん……更に他の会社の皆さんに出会って、様々なことを教えられて、そのたびに彼女たちに魅せられていった。
この星の、ネオ・ヴェネツィアの全てが、私を包み込んでくれた。そして、その全てが、私を惹きつけていった。
私は、ゴンドラが好きだ。
私は、人に笑顔をもたらすのが好きだ。
町中で、海上で、大陸の上で。このネオ・ヴェネツィア、このアクアの全てにある、ウンディーネの仕事が好きで好きでたまらない。
そのウンディーネが、私の手から離れてしまうなんて、そんなこと。
そんなこと……認められるはずがない。
「そう……ですね」
ぎゅっと、服の下のペンダントを握りしめて、私は是を返した。
認めるしかなかった。
私の答えは、決まっている。
なら、何故それを選べないのか。
それは……怖いから。
アキュラ・シンドロームが消えるまでに、過ぎていく時間が。
その間に、失われてしまう全ての機会が。希望が。夢が砕け散ってしまうのではないかと思うと、怖くてたまらない。
「……だって、何年もかかっちゃうんですよ」
声が震えるのを。俯くことを、抑えることができなかった。
今日が初対面の人たちの前なのに、涙が溢れそうになる。
三年経てば、私は十九歳。そこから、シングルの修行をやり直したとすれば、二十歳を軽く超えてしまう。
「アクアに戻ってきたとき、もうお前じゃプリマになれない……なんて言われたら……」
結局、そこなんだ。
茨の園を潜り抜けて宝物を手にしても、それがもう朽ち果てていたとしたら。
それが、怖い。どうしょうもなく怖くて、呼吸にしゃくり声が混じるのを、抑えられない。
……今日が初対面の先輩達に、吐き出す事じゃない。そんなことはわかっているのだけど。
私の感情の吐露を浴びて、先輩方は嫌悪の表情を浮かべているだろう……またぞろ鎌首を持ち上げた後悔に駆られて、顔を上げる。
すると、先輩方は、驚いたように顔を見合わせていた。
杏さんが、頷いた。
あゆみさんが、目配せをする。
そして、アトラさんが、何かを諳んじるように、口を開いた。
「いつでも、どこでも、何度でも、チャレンジしたいと思った時、それが真っ白な出発点」
「自分で自分をおしまいにしない限り……きっとさ」
「本当に遅すぎることなんて、きっとないんです」
あゆみさんと杏さんが、順繰りに言葉を引き継いだ。
まるで、魔法の呪文のように。心に染みこんでいく言葉。
「それって……」
「ある素敵なウンディーネの言葉よ。私が怯えて迷っていたとき、この言葉をくれたの」
そう言って、アトラさんは微笑んだ。
「不思議よね。彼女に救われた私が、彼女に頼まれたわけでもないのに、アニーちゃんに出会って、彼女に貰った言葉を贈っている」
そう、まるで優しさのヴェールが、風に乗って人から人へと渡っているかのように。
誰かの優しさが、誰かを通じて、風が髪を揺らすように、私の心を静かに揺らしている。
そんな、不思議な奇跡があるのが、この惑星。人の心に花の咲く星、アクア。
「まあ実際、怖いよな。もう遅い、なんて言われたらと思うと」
「でも、それでも前に進まないと、夢には絶対届かないんです」
「だから……アニーちゃん、自分の心に素直になって」
先輩方の言葉が、優しさが、私の心を揺らす。
胸が熱くて、暴れ出しそうなくらい揺れていて。
「…………はい」
ようやく、私はそれだけを絞り出した。
※
「藍華お嬢~~、そろそろ出てきてもいいんじゃ?」
あゆみ・K・ジャスミンが、そう物陰に声を投げかけた。
「ごめんなさい、やらなきゃいけないこと、一杯あるの忘れてました」と言って、アニエスが一足先にと運河端を去っていった、その少し後のことである。
「……あー、あゆみさん、気づいてましたか」
そんな言葉と共に、物陰から音もなく、闇夜に紛れるような色のゴンドラと、その櫂を操る白と赤の制服が、街灯に照らされて姿を現す。
運河端に舟を乗り付け、陸に上がってきたのは、他ならぬ藍華・S・グランチェスタである。
「それだけ長い間隠れてれば、誰でも気づくってもんで……ああ、でもアニーは気づいてなかったかな」
あゆみが肩を竦め、杏とアトラがころころと笑う。彼女らも、夕方あたりから、藍華がこっそり物陰に隠れていたことに気づいていたのだ。それに気づかないふりを続けていたのは、姉が妹を心配する様そのままの藍華の様子に、微笑ましさを感じたからに他ならない。
「ごめんなさい、あゆみさん。オフなのにアニーの事任せてしまって…………くしょっ」
二歳年上のあゆみに対し、敬語で頭を下げる藍華。その勢いでくしゃみを一つして、ぶるっと身震いする。春とはいえ、日の落ちた後はそれなりに気温も下がる。水の上で身を隠したままでは、身体もすっかり冷えてしまった。恰幅のいいアリア社長ならともかく、スマートなヒメ社長を抱いているだけでは、いささか限界というものがある。
「藍華ちゃん、はい、お茶をどうぞ」
「あ、ありがとうございます、ええと……杏さん」
杏が差し出した湯気を上げるコップを受け取り、藍華は頭を下げた。
アトラと杏の二人とは、以前会社のトラゲット教習の際に、ベテランのあゆみに付き従って話したことがある。今朝方、後輩指導の途上で彼女らの窮地を見かね、あゆみに増援を頼むよう連絡を入れたのも、その時の縁あってのことだ。
そしてついでにアニエスを引っ張り出して、強引に働かせることを依頼したのも藍華の仕業である。
「でも、思った以上に効果があったみたいで、良かったです。アニー、このままだとマンホームに帰っちゃうんじゃないかと思ったから……」
ほっとしたような顔をしているのは、お茶の温かさによるものだけではあるまい。カップを両手に抱え、丸くなったヒメ社長を膝の上に眺めつつ息を吐き出す。そんな様子を眺めて、あゆみは内心で「あー、アニーは実際帰っちゃうとは思うんだけど」と呟くが、ひとまずそれは心の内に秘しておくことにする。
「本当に、藍華ちゃんはアニーちゃんの事を心配しているのね」
にこにこと微笑みながらのアトラの問い。
「当たり前です。大事な……妹分なんですから」
そう言って、藍華は不味いことを言ったという風情でそっぽを向いた。その頬が茹で上がったように赤くなっているのは、幸いにして夕闇の中に溶けて、アトラ達の目には届かなかったが……見られなければわからないというものでもない。
「さて、それじゃそろそろ戻ります。皆さんもお疲れ様でした」
照れ隠しも交えて、藍華が立ち上がった。ヒメ社長を襟巻きのように首に巻き付かせつつ、ぱんぱんと腰についた砂埃を払う。
「うっし、お疲れさーん」
「うん、お疲れ様」
「お疲れ様です」
「今日はありがとうございました、あゆみさん、アトラさん、杏さん。……あゆみさん、また何かあったらお世話になります」
「かーっ、誰も彼も、ウチは便利屋じゃないっつーの!」
櫂を仰ぐ藍華に請われ、悲鳴のように声を上げるあゆみ。またころころと笑うアトラと杏。口ではこう言っているが、何かと面倒見のいい性格のあゆみは、姫屋の中でも親しみやすい先輩として日頃から頼られることが多いし、あゆみ自身、そうやって誰かの手助けをするのが嫌いではない。
そんな性格を見込まれ、あゆみは後に姫屋カンナレージョ支店が開店したとき、支店長を任された藍華に初期スタッフとして招かれる事になるのだが……それは別の物語である。