ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
以前、私の歓迎会に供されたレストラン・ウィネバー。そのオープンテラスに、これまた以前集まった顔ぶれが揃っていた。
つまり、藍華さんと晃さんの姫屋組、灯里さんとアリシアさんのARIAカンパニー組、アリスちゃんとアテナさんのオレンジぷらねっと組だ。もちろん、いつも彼女たちと一緒の三大社長も例に漏れていない。
藍華さんたちシングル・ペア組はともかく、水の三大妖精である晃さんたちまで集まれたというのは、珍しいことだ。
それは、今日という日が予めわかっていたものであり、彼女たちにとって重要なものであった故のことなのだろうか。……どれほど感謝してもし足りない。
そう、今日は六月最後の日。私が姫屋にいられる最後の日だった。
「……結論は出したか?」
どこか緊張感を孕んだ食事が一段落して、言葉がふっと途切れた瞬間、晃さんはそう私に問いかけた。
「はい。決めました」
晃さんの目をはっきり見据えて、私はそう答える。
そう、答えはもう得た。何がしたい、何が欲しい、何処へ行きたい。全ての答えは、最初から私の中にあったし、私の側にあったんだ。
晃さんは、先週のあの時以来、私に何も聞かなかった。全ての答えは私が出さなければ意味がなかったし、どんな答えを出したとしても、考え抜いた末であれば認めてくれる。そんな信頼からの事であると、今ならわかる。
「アニーちゃん……」
灯里さんが、不安げな顔で私を見つめる。アリスちゃんも同様だ。彼女たちには、あれから会う機会がなかった。私が……部屋の片付けに忙しかったからだ。私物はさほど多くなかったのだけれど、それでも一年以上の時間を過ごしたあの部屋には、私にとって、そして一緒に暮らした藍華さんにとっても、大切な思い出が溢れている。
それを一つ一つ箱詰めする私を、もちろん藍華さんはじっと見ていた。何も私の答えを聞こうとしなかったけど、それは多分……藍華さんは、私の口から答えを聞くのが怖かったんだと思う。
ただ、てきぱきと部屋を片付けていく私。それを黙って見つめていた藍華さん。その心がどれだけ苦しかったことか。申し訳ない気持ちで一杯だったけれど……それでも私は、藍華さんが聞かない以上、ぎりぎりまで言わないことを選んだ。
だから、藍華さんは私の方を見ていない。何かに耐えるように拳を作って、じっと下を向いて俯いている。好物のマルゲリーテも、ろくに喉を通らなかったみたいだ。
アリシアさんとアテナさんは、静かに私を見つめている。彼女たちは私からは少し遠かったけれど、サイレン事件の時には一生懸命に私を捜してくれたし、何かあれば必ず手を差し伸べてくれた。きっと、頼れば幾らでも手を尽くしてくれただろうし、実際アリシアさんに頼るという選択肢は、まだ私の手の中に残っている。
でも、アリシアさんは、私がどう考えているのかわかっているように、静かに私を見つめている。
……私が、アリシアさんの所に行く選択をしないと、わかっているかのように。
「じゃあ……教えてくれ。アニー、お前はどうしたい?」
晃さんが、先を促した。
時間が、終わる。
最後の時が、始まる。
その先触れの言葉を、私は発しなければならない。
ごくりと、喉が鳴った。
口にすれば、もう戻れない。
口にすれば、そこから、私の戦いが始まる。
だけど、戻れない。戻るために、戻らない。戻らないために、戻ると、決めた。
ペンダントに……アンジェさんとの思い出の品に触れそうになる手を、ぎゅっと握りしめた。
……頼っちゃいけない。これは私の決断なんだから。
だから、私は、はっきりと……決断を、口にした。
「はい。私は……マンホームに、行きます」
*
「どうしてっ!!」
机を叩く音を圧して、藍華さんが、絶望を喉から迸らせた。
「アリシアさんの所なら、ずっと一緒にいられるのよ!? ウンディーネになれなくても、一緒にいられるならっ……!!」
「黙って聞け、藍華!」
身を乗り出し、私に食ってかかろうとする藍華さんだったけど、晃さんの一喝で、言葉を飲み込んだ。
でも、涙までは止められなかった。目の下に、つぅっと水滴が流れ落ちる。
ずきりと、心が痛んだ。
「マンホームに、『行く』のね?」
アテナさんが、確かめるように問う。灯里さん達が、怪訝そうな顔でアテナさんの顔と、私の顔を交互に見る。そのニュアンスの違い……『帰る』ではなく『行く』と言った、私の言葉を問い質しているんだ。
「はい。マンホームに『行きます』。そして……必ず、『帰ってきます』」
その答えで、その場にいる全員に、私の決心が伝わった。
「病気……治すの?」
「凄く苦しい事になるんですよ? なのに……それでも?」
恐る恐るという顔で確かめる灯里さん。僅かに青ざめた顔で確かめるアリスちゃん。だけど、私の答えはもう変わらない。
「はい、決めました」
頷いて答える私の様子をじっと見つめていた晃さんだったけど、深々と息を吐き出し、「そうか」とだけ呟いた。
「準備は大丈夫なの?」
「はい。荷物はもう梱包してありますし、もう両親には伝えてあります。マンホームへの旅券は、三日後の便を取りました。マルコポーロ宇宙港に、お母さんが迎えに来る事になってます」
「それまでの宿とかはどうするの? 良かったら来たときと同じに……」
「いや、それはうちの役目だろう。幸いまだ藍華達の部屋にベッドはあるし、数日なら文句も言われないさ。……いいな、藍華?」
アリシアさんの提案を封じる晃さん。水を向けられた藍華さんは、俯いたまま黙って首を縦に振った。
「じゃあ、三日後の時間がはっきりしたら連絡してくれ。必ず私たちも見送りに集まる。……皆、いいな?」
晃さんの言葉に、一人を除いた全員が、是の答えを返した。
……藍華さん、一人を除いて。
さっきから、口も開かず、ただじっと俯いている藍華さん。その頬に輝く涙の筋は、未だに光を失わない。
ずっと、涙の筋が、濡れ続けている――。
結局、その日それから姫屋に戻るまで、藍華さんは私と一度も目を合わせず、口を開くこともなかった。
*
部屋に戻っても、藍華さんは口を開かなかった。
私など何処にもいないかのように、ぱっぱっと服を着替え、ベッドの上に寝転がる。
「あの……藍華さん」
声をかけるけど、返事はない。
私に背中を向けたまま、微動だにしない。
……いなくなってしまう私など、もういないものと考えているのだろうか。
また、心がずきり、と痛んだ。
「藍華さ……」
「もうすぐ、《海との結婚式》があるのよ」
私の言葉を抑えて、藍華さんの声。
思わず、そのまま言葉を飲み込んだ。
「アクア・アルタだって、アニーは見たことない。床上浸水、ひっどいばかりなのに、アニーは楽しみにしてたじゃない」
そう、楽しみにしていた。アクアの夏はイベントが一杯で、目が回りそうだと話していた。
「レデントーレも、夏祭りも、一緒に楽しもうって約束した。夜光鈴、一緒に結晶になるのを捜そうって、約束したのにっ!」
肩を震わせて、声を震わせて、藍華さんが。
叫ぶように、血を吐き出すように、苦しみを吐き出すように、声を上げる。
「妹ができて、一緒に暮らして、そんな日々がずっと続くって、信じてたのに――――っ!!」
もう耐えられなかった。
気がついたら、藍華さんの背中にしがみついていた。
「――続きます」
びくりと、藍華さんの背中が震えた。
「続かせるんです。そのために……そのために、私はマンホームに行くんですから」
藍華さんのパジャマの背中に顔を埋めながら、そう囁く私。
「でも、でも、何年かかるかわからないのよ? それに、もし、かしたら、下手したら、薬のせいで、死……」
その先の言葉を、藍華さんは言えなかった。
でも、言いたいことはわかる。その可能性もゼロじゃない。私に使われるのは、それほどに強い薬。
後遺症が残るかも知れない。元の私でいられないかも知れない。そんなものに、立ち向かう必要なんて無い。何度も、そう思った。
ARIAカンパニーに転職すれば、何事もなかったように、藍華さんたちと一緒にいられるんだ。
でも、それでも、私は。
「私は……」
私の望みは、違うんだ。
ARIAカンパニーの事務に転職すれば、確かに一緒にはいられるだろう。
でも、それは私の望んだ未来じゃない。
毎日練習に……あるいはもっと未来、三人がプリマになって、海に漕ぎ出していく様を、見送るばかりの日々。
それは、嫌だ。
私が望むのは、違う未来。
「私は……藍華さんたちと、肩を並べて行きたいんです」
ぎゅっと、藍華さんを抱きしめる手に、力が籠もる。
三艘の舟を、見送っていく日々じゃない。
四艘の舟が、並んでいく日々こそが、私の願い。
「だから……」
待っていて、という言葉を口にしかけて、ふと言葉を止めた。
待っていて、というのは違う。
私が、みんなに望むことは…………。
私の口は、その答えを紡ごうとしたのだけれど。
それより先に、私の耳があの歌声を聞いていた。
※
夜中、目が覚めると、私は藍華さんの腕の中にいた。
藍華さんは、まるで私を手放したくないとでも言うかのように、ぎゅっと私を抱きしめていた。
藍華さんの頬は、眠っていても濡れて光っていた。
本当――泣き虫ですね。
ささやきは胸の奥に仕舞い込んで、私は藍華さんの体温を感じたまま、眠ることにした。
再び意識が、今度は心地よい闇の中に沈んでいくのに、そう時間はかからなかった。
そして、寝相の悪い藍華さんの膝が私の鳩尾に入ったり背中から上にのし掛かられたり、何かと大変な目にあったことは、藍華さんの名誉のために心の内に留めておくことにする。
※
「皆さん、本当に、アニーがお世話になりました」
お母さんが、一堂に介した先輩達に、ぺっこりと頭を下げた。
「それじゃアニー、私は乗船手続きを済ませてくるから、遅れないようにね」
「わかってる。もう、いつまでもいつまでも……」
心配そうに言うお母さんに、ちょっとわざとらしくむくれてみせる。
でも、無理もない。あんな啖呵を切ってアクアに残ったのに、ほんの数ヶ月でマンホームに戻ることになってしまったのだから。
しかも、どこで拾ったのかもわからない病気つき。心配するのも当然だと思う。我が身の不甲斐なさにため息しか出ないけど、ひとまずそういうことは後に回しておく。
……私の、旅立ちの日。藍華さん、灯里さん、アリスちゃんはもちろん、晃さん、アリシアさん、アテナさんも、私の旅立ちに立ち会ってくれた。
観光シーズンも盛りで、忙しい時期だろうに、強引に時間を作ってくれた素敵な先輩達には、感謝してもし足りない。
「…………」
お母さんが受付に行って、微妙な沈黙が下りた。
何を話すべきだろう。何も思いつかない。
一昨日と昨日は、藍華さんたちとネオ・ヴェネツィア中を巡った。思い出の場所、まだ知らない場所、あちこちを。
私が、マンホームに行っても、忘れないように。
私が目指す宝物が、この場所に溢れていることを、心に刻みつけるために。
その間に、幾つもの言葉を交わした。
何度も泣いた。何度も怒られた。
そんな時間が、ずっと続くといいのに、と思った。
でも、今日という日は、来てしまった。
時は、止まらない。
「アニーちゃん、元気……でね」
灯里さんが、涙ぐみながら、口火を切った。
「アニーさん、でっかい負けちゃ駄目ですからね」
アリスちゃんが、そう声援してくれた。
「まぁ」
「……みー」
何を考えているのかわからないまあ社長が、アリスちゃんの腕の中で鳴き、ヒメ社長もどこか寂しそうに小さく声を聞かせてくれた。
「貴女が帰ってくるのを、ずっと信じていますから」
アリシアさんが、崩れそうになる表情を懸命に結びながら、信頼の言葉をくれた。
「……ううう、アニーちゃぁん」
「ぷいにゅ~~ぅ」
アテナさんが、隣のアリア社長そっくりの様子で涙腺を存分に決壊させながら、私の手を握ってくれた。
「お前が選んだ道だ。絶対に……帰って来るんだぞ」
晃さんも、厳しい言葉を紡ごうとしているけれど、その目元に涙が溢れるのを、抑えられていない。
「……アニー、これ」
そして、藍華さん。
誕生日に、ブレスレットを貰った時の仕草そのままに、つんとそっぽを向いて差し出した掌にあるのは、小さなボイスレコーダー。
「私たちと、今日来れなかった人達の声が入ってるから。……無くさないでよ」
「……はい」
掌に載せられたそれを、ぎゅっと胸に抱きしめる。
無くしはしない。絶対に無くすものか。
私は、これを取り戻すために、行くんだから。
「ぐすっ……アニー、絶対、絶対帰ってきなさいよ。待ってるから、何年でも待ってるから」
藍華さんが、ついに必死に我慢していた涙をこぼしながら、そう言ってくれた。
だけど……その時、思い出した。
アキュラ・シンドロームに封じられて、あの時口に出来なかった願いを。
「藍華さん……駄目です、それ」
ぎゅっと、藍華さんの手を両手で握りしめながら、私が言う。
それじゃ、駄目なんだ。忘れるところだった。
「駄目……って?」
「藍華さん……灯里さんも、アリスちゃんも、私を待っちゃ駄目です」
私の言葉に、藍華さん達の表情が、凍り付いた。
赤くなる。青くなる。険しくなる。三者三様の、怒りと困惑の色。気持ちはわかる。だけど、私はこれだけは、絶対に譲れなかった。
私が、みんなを心の支えにできるように。
みんなが、私を心の枷にしないために。
呼吸を継ぐ間も惜しんで、言葉を続けた。
「私、何年かかるかわかりません。その間ずっと足踏みです。だから……だから、私を待っちゃ駄目です。進み続けてください。夢に向かって、真っ直ぐにっ」
気づけば、頬から熱いものが流れ落ちていた。
「でも、そんなこと、言ったら」
「追いかけますから!」
灯里さんの反駁を、全力の涙声で押し返す。
「全身全力で、追いかけますから。必ず、追いつきますから! だから……次に会うときは」
涙が止まらない。だけど、泣き顔は見せない。渾身の笑顔を浮かべて、そして。
「素敵な、新しい水の三大妖精って呼ばれるくらいに素敵なプリマの姿を、見せてくださいっ!!」
「アニーッ!!」
「アニーちゃんっ!!」
「アニーさんっ!!」
藍華さんが私にぶつかるように抱きついた。
その上からアリスちゃんが、そしてその上に灯里さんが、私を包み込むように抱きついてくる。
みんな、泣いていた。
灯里さんも、アリスちゃんも。
アリシアさんも目尻を押さえ、アテナさんはアリア社長と一緒になって、晃さんもこちらに背中を向けて肩を震わせる。
藍華さんなんて酷いもので、顔を埋めた私のネクタイが、ぐしゃぐしゃになるくらいに泣きじゃくっていた。
「あはっ、はっ、藍華さん、本当に泣き虫です」
「そういうアニーだってっ、涙ぼろぼろじゃないのっ」
「私のは……ぐすっ、いいんですっ。だってっ」
藍華さんの泣き顔を真っ直ぐに見つめながら、私は。
溢れる涙はそのままに、渾身の力を込めて。
「涙は流れても、泣き顔じゃありませんからっ…………!!」
満面の笑みで、別れの幕を閉じた。
*
『本日は、太陽系航宙社、ネオ・ヴェネツィア=パリ便のご利用、誠にありがとうございます』
アナウンスの声が聞こえて、身体にかかる重力が消えた。
一瞬の酩酊感に続いて、身体にかかる重力が、元に戻る。
……窓の外で、ネオ・ヴェネツィアが20度くらい傾いているけれど。
星間連絡船が、離床したんだ。
『大気圏離脱までのしばしの間、水の惑星の名残をお楽しみください』
そうアナウンスが聞こえて、座席の足下がモニターになって、眼下の光景が映し出された。
行きの船で知ってはいたけれど、これは何度見ても感動するし……驚く。
気にする必要はないとわかっているのだけど、思わずスカートの裾を抑えながら、眼下の光景を凝視した。
……いた。
星間連絡船の上昇航路に合わせて、六隻の舟が並んで、こちらに向けて手を振っている。
手を振り返しかけて、相手からこちらはまったく見えないことを思い出す。
その時、藍華さんに貰ったボイスレコーダーを思い出した。
だんだん小さくなってゆく舟の列から目を離さないようにしながら、ぱかっと二つに分かれたレコーダーを、耳に押し当てる。
「アニーちゃんへ。灯里です」
録音されたメッセージが、再生された。
「えっと……私たちの想いが、アニーちゃんの未来を照らす光になりますように。必ずメールするからね」
「アリシアです。今は辛くて苦しいかも知れないけれど、それを乗り越えた貴女の素敵な未来に出会える日を、楽しみにしています」
「アリスです。アニーさん、どうかでっかいでっかい元気になって帰ってきてください。どちらが先にプリマになれるか、競争です」
「アニーちゃん、アテナです。どんなに苦しくても、貴女の目指す希望を忘れないで。私たちはいつでも応援しています」
「アニー、晃だ。……その、何だ。マンホームでもシミュレータがあると聞くし、身体をこわさない程度に鍛錬を欠かすんじゃないぞ」
「アニーへ、藍華です。……ええと、その……きっちり病気治しなさいよ。それと、あんまり遅いようだったら、引きずってでもアクアに連れ戻すんだからね!」
ここでも、藍華さんの声は涙声だった。それを隠そうとした、ちょっとぶっきらぼうな物言い。
……またぞろ、涙が溢れてきた。
『アテンション・プリーズ。本船はこれより赤道軌道に遷移し、スイング・バイの後に加速を……』
アナウンスが聞こえて、舟が傾いだ。
窓の外一杯に広がる、浮島と、ネオ・ヴェネツィア。
浮島の外周を巡るレールウェイが、大きく映し出される。
そこに小さく、いくつかの人影が見えた。
「暁だ。んー、どうもこう言うのは苦手だ。後輩っ子よ、後輩っ子返上のため、絶対戻ってくるのだぞ!」
「アルです。藍華さんが寂しがりますから、頑張って早く帰って来てくださいね」
「ウッディーなのだ。アクアの風は、いつでもアニーちゃんを待っているのだ」
奇しくも、ボイスレコーダーの声は、浮島出身組のものになっていた。
まさか、あそこに見えるのが暁さんやアルくん、ウッディーさんということはないと思うけど……。
私の視力では、その人影の正体を見極めるには至らない。目をこらしている間に、星間連絡船はぐんぐんと高度を上げてゆく。
「アニー、こちらあゆみ。……ええと、戻ってきたら今度は漕いでもらうからな! またな!」
「アニーちゃんへ、アトラです。次に会うときは、必ずプリマになった私を見せます。旅立つ貴女に誓って……ね」
「杏です。アニーちゃん、これから、一番堅くならないといけないんだろうけど、どうか、自分らしいしなやかさを忘れないでいてください」
ボイスレコーダーから、あゆみさん達の声が聞こえてくる。
藍華さんたちは、彼女たちにまで声をかけてくれたんだ。そして、彼女たちも、私のために、こんな暖かい言葉を残してくれた。
胸が、熱くなる。
そして、更に船は高度を上げた。
足下のネオ・ヴェネツィアが、遠くなる。
雲の中に、消えてゆく。
そして、視界一杯に広がってゆく、青と白の惑星。
空と大地を、深く深く繋ぐ水の惑星、アクア。
私とアクアは、繋がっている。私の心のこの熱と、ボイスレコーダーの優しい声が、その証。
それは、光の羽根のように、私に力を与えてくれるだろう。
だから、どんな困難も、どんな願いも、貫き通せる。
――そして、宇宙船が大気圏を突破した。
『これより亜光速加速に突入いたします。スターボウの旅をお楽しみください』
アナウンスと共に足下のスクリーンが無機質なパネルに戻り、外の光は窓から届くものだけになってしまった。
そして、それを待っていたかのように、私の耳に、あの歌声が聞こえ始めた。
身体から力が抜けてゆく。心が闇に沈んでいく。
……今は、勝てないかも知れない。闇に沈むしかないかも知れない。
だけど、いつか必ず、打ち負かしてみせる。
だって、私は、アクアに帰るんだから。
「お前になんて、負けてやらないんだか……ら……」
そして、私の意識は、闇色の微睡みの中に、消えていった。
*
――最後に、一つ、私が見た不思議な話をしておこう。
アキュラ・シンドロームで眠りについた私は、連絡船の中で、ふと目を覚ました。
深夜なのだろうか、船内のお客は誰も眠っていて、物音一つしない静けさに満ちている。
窓の外は星が静かに瞬いていて、星灯りが柔らかく船内を照らし出していた。
――ふと、船首の方から、ちかちかと光るものが見えた。
星虹? と思ったのだけれど、どうも違うみたい。
光るものは、徐々に大きく近づいてくる。大きく、大きく。
そして、汽笛のような音が聞こえたと思うと。
窓の外を、列車が駆け抜けていった。
私たちの逆に、マンホームの方から、アクアの方へ。
煙を吐き出しながら、鋼鉄の列車が、駆け抜けてゆく。
「銀河……鉄道?」
呆然とそれを見送る私を、客室の灯りが瞬いて照らし出す。
そして、その客室の、無数に並ぶ窓の一つに。
私は、間違いなく見た。
黒いコートに身を包み、鷲鼻が目立つ仮面を被った、恰幅の良い紳士を。
その紳士は、まるで私が見えているかのようにこちらを向いて、帽子を外して仰々しく一礼した。
そして仮面を外し、黄色い目でウインクして見せたんだ。
黒くて、恰幅のいいその紳士の正体は。
黄色い目をした、大きな大きな、猫だった。
「……ケット・シー?」
そう、私が呟いたときには。
銀河鉄道は、もう遙か後方に飛び去ってしまっていた。
私の記憶は、そこで途切れている。