ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ 作:DOH
A.C.0077 春――。
私、藍華・S・グランチェスタがアニエス・デュマと別れてから、アクアには夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が訪れた。
その間に、私たち三人は揃ってプリマ・ウンディーネに昇格し、それぞれ多忙な日々を送っている。
アリシアさんの引退、アテナさんのオペラ歌手デビュー、私のカンナジョーレ支店長就任と、この一年は本当にきりきり舞いの日々だった。
プリマにすらなったばかりだというのに、いきなり支店長ということで、私はいきなり荒波のど真ん中に放り出されたような状態だった。
それを支えてくれた沢山の人々がいたからこそ、どうにか無事に一年を過ごすことができたのだと思う。
だけど、一番本音を言うならば。私の隣で、姫屋の支店長でもなく、プリマウンディーネでもない、私自身を支えてくれる、そんな相棒がいてくれたら、と思っていたのも事実。
灯里もアリスも、それぞれがいきなり世間の荒波に放り出された状態で、お互いを支えるにもどうにも時間と力が足りない。アルくんとは、まあその、今でも十分頼りになってるというか、あっちも一人前のノームになったばかりで、今甘えたら負けのような気がするというか。
そんな中で、相棒候補の筆頭だった娘は、一番忙しくなる時期の直前に、マンホームに消えてしまった。
「これから、ちょっと大変になる」という手紙が送られてきてから、もう半年以上連絡がない。マンホームの暦では一年になる。
あれだけ言ったのに。必ず追いつくって言ったのに。諦めてしまったんだろうか。それとも、返事をすることすらできなくなってしまったのだろうか。
考えれば考えるほど、絶望が心に忍び寄ってくる。それが怖くて、私は日頃の忙しさに任せて、考えるのをやめた。
そんなこんなで、どうにか支店も軌道に乗ってきたかな、と思えるようになってきた、そんなある春の日の夕方のこと――。
※
「調子はどうだ、藍華?」
今や名実ともにトップウンディーネ、姫屋でも全てのウンディーネを統括するチーフとして活躍する我らが晃さんが、前触れもなしに、支店の私を訪ねてきた。
「あの、私今日ゴンドラ協会の会合で忙しいんですけど」
未処理の書類束を抱えて、私が言う。それは晃さんも見てわかると思うのだけど。
「ああ、まあそうだろうな。だが、まだ話をするくらいの時間はあるだろう?」
と、さっさと歩いて逃げ出そうとする私に、ぴったりと歩調を合わせてくる。
「そうですけど……」
ため息混じりに答える。こういう風に強引に話を押し込んでくるときは、大抵また無理難題なんだ。そりゃまあ親愛なる晃さんの頼みとあれば、大概のことは聞いてあげたいとは思うのだけれど。
晃さんの持ち込んできた話は、またとんでもないものだった。
「もう藍華もプリマになって一年、そろそろ弟子の指導をしてみないか?」
「弟子ぃ?」
思わず声が裏返ってしまった。
「ちょっと待ってくださいよ、私がどれくらい忙しいか知ってますよね?」
「わかってるんだけどな。一人見所のあるのが来るんだが、本社の方には今空きがないんだ。できれば私が指導したかったんだが、流石にこっちももう一人だけを見るって訳にもいかなくなってるし」
「それ言ったら私だって。ただでさえ支店長の仕事で、プリマとしての経験が灯里達に遅れてるって言うのに……」
「だからこそだ。一足先に弟子を取ってリードしてみるっていうのはどうだ?」
なんというか、ああ言えばこう言う、の見本のような話。口車では、どうにもまだまだ先輩方には及ばないことを自覚する。
「まあ、いいから資料を見ろ。見たらお前も気が変わるから」
そう言って、晃さんは手にしたファイルを私の手の中に放り込んだ。
まったく、どうしてこうも強引なのか。仕方ない、顔くらいは見てやるか……そう思って、嘆息混じりに私は渡されたファイルのページをめくって……。
「……………………!!!!」
そして、未処理の書類束が、ばさばさと音を立てて、床に散らばった。
だけど、私はそちらには目もくれず、食い入るように、そのファイルに書かれた名前と、写真を凝視する。
間違いない。間違いっこない。少しやつれているけど、そのちょっと男の子のような笑顔は。
「……な、気が変わっただろう?」
散らばった支店の重要書類を拾い集めながら、悪戯っぽく晃さんがウインクした。
でも、それに答えている余裕はない。急いで備考欄を捜して、到着時間を確認する。
「…………今日の……午後六時、パリア橋!」
時計を見る。あと三十分、急げば間に合う。
でも、それではゴンドラ協会の会合に出席できない。支店長として、これを無断で欠席する訳にはいかない。だけど。
「遅刻するって、連絡しておいてもいいんだぞ?」
そんな晃さんの提案に、私が乗らない理由はどこにもなかった。
*
オールを引っ掴み、ゴンドラを引っ張り出す。このネオ・ヴェネツィアで、私たちウンディーネにとって、舟より速い乗り物はない。
「お、《薔薇の女王》、お出かけかーい?」
大運河を突っ走る途中で、岸の方からそんな声が聞こえるけど、相手をしている暇もない。適当に片手だけ挙げて応えつつ、更に櫂をかき回す。一分一秒でも早く、パリア橋に辿り着きたい。気ばかりが急いて、櫂の繰り手がどうしても粗雑になる。仕事中だったら言語道断の有様だけど、知ったことか。
リアルト橋の手前で脇道に逸れ、後は慣れ親しんだ小運河を疾走する。リアルト橋からパリア橋……つまりため息橋までのコースなら、目を瞑っていてもたどり着ける。あまりの勢いにすれ違った荷運びの舟が目を丸くしているけれど、反省するのは後で良い。
やがて、ため息橋が見えてきた。時間帯的に、その周辺にはカップルを乗せた舟が多い。流石に彼らの側を爆走する訳にもいかないので、逸る気を鎮めながら櫂を手繰る。
そして、ため息橋を潜り抜けると、パリア橋が見えてきた。
赤く染まった橋の上に、見えるいくつかの影。そしてその橋の手すりに背中を預けて、ぼんやりと空を見上げている影が一つ。
逆光で、姿はよく見えない。だけど、近づくにつれてその輪郭がはっきりしていく。
見覚えのあるショートカット。ほとんど変わっていない背格好。少し大人びたシルエットのコート。
「アニーーーーーッ!!」
周囲の人が驚くのも構わず、声を張り上げた。
びくりと、人影の肩が揺れる。
光の中で振り返る。そしてこちらを見下ろす。
最初に見えたのは、驚愕の色。そしてそれが崩れて浮かび上がる、笑顔と泣き顔のハーフ&ハーフ、そして。
「藍華さーーーーーんっ!!」
手を伸ばして、叫び返したんだ。
……変わっていなかった。
少しやつれたかも知れない。少し大人びたかも知れない。だけど、その髪型も、笑顔も、声も、アニーがアニーである事は、何も変わっていない。
そう。
こんな状況で、パリア橋から飛び降りるような、無茶苦茶な所も含めて――――っ!!
「――――っ!!」
とっさに、櫂を放り捨てた。
天を仰いで、舞い降りる少女に両手を差し出す。
コートがひらめき、光が交錯する。
それは、まるでアニーの背中で、天使の翼のように輝いて。
そして……アニーは、私の腕の中に、飛び込んだ。
がくんっと、舟が揺れる。とっさに腰を落として衝撃を殺す。ぐらぐらと揺れる舟から振り落とされないように、お互いの身体をしっかりと抱き留める。
そして、舟が静まるまでの数十秒。一言も口を開かないまま、私たちは抱き合っていた。
どんな言葉を言えばいいのだろう。どんな言葉なら、この気持ちを伝えられるだろう。
何秒も、何十秒も考えあぐねて、私はもっとも素直な感想を述べるところから始めようと思った。
「……少し、痩せたわね」
「……藍華さんは、ちょっと背、伸びましたね」
約七百日ぶりに交わす会話は、そんな言葉から始まった。
潮に流された舟が、ちょうどため息橋の真下を通り過ぎた、そんな夕方の事だった。
※
それからの事を、少し話しておこう。
「本当、大変だったんですよ? 本気で死にかけましたから!」
場所はレストラン・ウィネバー。マルゲリータを片手に、アニーが戯けて語った。
マンホームに戻ったアニーは、アンジェさんと再会した後、専門医(アレクサンドロという人物だったらしい)と面会した。
アレクサンドロ氏は、事前の話でもわかっていた通り、アキュラ・シンドロームの専門家という訳ではなく、その変異元を専門としていた。そのため、アニーの治療は、まずは変異元に有効かどうかの検証から始まった。
アニーから採取されたアキュラウイルスを投与して、マウス相手の検証にかかった時間が、約六ヶ月。その間、アニーは体力を落とさないようにジムでトレーニングの傍ら、シミュレータで毎日のように舟漕ぎの練習を続けていたのだという。
そのあたりまでの顛末は、私はアニーからの手紙で聞いていたのだけど……。
「手紙が来なくなったのはどうしてなのよ? 心配したんだからね?」
「あはは……実は、特効薬の認可申請があんまり時間がかかるものですから……」
御定まりの例に漏れず、治療法というのは見つかっても、人間に使うには何年もの検証期間が必要なもの。動物実験をする限りでは特効薬の有効性は証明されていたものの、副作用のせいで命を落とす実験体が多く、人間への使用は当分認可されないだろう、という結論になってしまった。
そこで、アニーは一計を講じた。
――どうせ副作用で死にかけるなら、いっそ特効薬を使ってもいい状態になってしまえばいい。
もちろん、アレクサンドロ医師は反対した。だがアニーはアレクサンドロの資料室から変異元ウイルスのサンプルを見つけだし、勝手に自分に投与してしまったんだという。
致死性の病原体だ。もちろん、ただでは済まない。
「あはは、もう本気で死ぬかと思いました……」
「当たり前だっ!! この馬鹿っ!!」
とりあえず一番はっきり聞こえたのが晃さんの声だったけど、私はもちろん、灯里やアリス、アテナさんに至るまでが一斉に声を荒げた。
灯里やアテナさんが怒るのを見るのは本当に珍しいのだけど、まあアニーがやっちゃったことは流石に許し難い。アリシアさんが蒼白になるだけで済んだのがむしろ残念なくらいだ。
「ご、ごめんなさい、でも無茶の甲斐あって、両方まとめて一網打尽にできましたから!」
大体それをやらかしたのが前の秋の入りで、手紙が届かなくなったのもそのあたりの事情だったようだ。
「それから隔離病棟行きになって、先月までの間ずっと出してもらえませんでした。手紙も出すのを禁止されて……まあ、数カ月の間はそもそも手紙を出す気力もなかったんですけど」
それから、ウイルスの根絶が確認できるまでずっと寝たきりの状態だったという。あまり成長して見えないのと、どこかしらやつれて見えたのもそのせいらしい。
「それで、もう大丈夫なのね?」
アリシアさんの問いに、アニーは力強く頷いて見せた。
「はい。私の中のウイルスは完全に撲滅されましたし、特効薬の調整で、アキュラ・シンドロームだけを狙い撃ちにする薬もできあがりました。……もう二度と、サイレンに惑わされる人は現れません」
私達は顔を見合わせた。晃さんは知っていたようだけど、アキュラ・シンドロームは別名を《サイレンの呼び声》というらしい。まあ、今となってはどうでもいいことだけれど。
「それからもずっとリハビリ地獄で、やっと体力が戻ったのが先々週で……なんとか、予定より早く帰ってこれました」
そこまで話して、ようやくひと心地ついたように、アニーは息を吐き出した。
思わず、私も深々と息を吐き出していた。他のみんなも程度の差こそあれ似たようなものだったらしく、吐き出した息と一緒に、緊張感のようなものが溶け落ちていくような感覚を覚える。
舞い降りる違う空気。欠けていたピースが揃った、懐かしくて、そして新しい、そんな暖かな空気。
それを、みんな感じ取ったのだろう。一人一人がほんのりと笑みを浮かべてゆく。
そして最後に、難しい顔を取り繕おうと必死になっていた晃さんが白旗を揚げた。
「いろいろまだ言いたい事はあるが……な、藍華」
「そうですね。……それでは、我らが愛すべき後輩の完全復帰を祝いまして……乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
かちぃん、というグラスの音が、まるでアニーの前途を祝福しているかのように、響き渡った。
*
「で、これからアニーちゃんはどうするの?」
灯里の問いに、アニエスは少し困ったような顔を見せた。
「ええと……できれば元のように晃さんの下で指導を、と思ってたんですけど、思った以上に晃さんが多忙のようで……」
「今や姫屋のチーフ・ウンディーネ、絶対無敵の《真紅の薔薇》です。でっかい無理もありません」
「ですよね、それで……」
「それで、なんと、この私がアニーの指導員として、カンナレージョ支店で引き取ることになりました!」
灯里とアリスが、一斉に歓声を上げた。
「うわぁ、藍華ちゃん凄い!」
「でっかい指導員一番乗りですね」
「ふっふーん、幸か不幸かブランクの分アニーはペアに降格になったし、この際弟子の飛び級昇進目指すわよー」
「いや絶対不幸なんですけどねそれ」
「あの宣言、でっかい本気だったんですか」
「とーぜんよっ! アリスに負けっ放しでいられるもんですか。明日から早速ビシバシ鍛えてあげるからね!」
「……今すぐマンホームに帰っていいですか?」
「ノー、断じてノー! 恨むなら最初にウチの門を叩いた自分を恨めー!」
「ひぇ~っ」
「わ~ひ、藍華ちゃんもアニーちゃんも頑張れー」
やいやいと姦しく騒ぐ四人娘をやや遠目に、晃・E・フェラーリはワイングラスを傾け、ほっと小さく息を吐き出した。
「……少し、軽くなったかしら」
「ああ、前より四キロも痩せたらしいぞ、アニーは」
「違うわよ、晃ちゃんの心の荷物。藍華ちゃんが無理して頑張ってたの、随分気にしていたでしょう?」
アリシアの予想外の言葉に、晃は目を丸くした。そして自分の手と、子供のように抱き着いて騒いでいる藍華とアニーの姿を交互に見やって、思わず口元を綻ばせる。
「……そうだな」
「
いつものように、柔和な笑みを浮かべ、アテナはそうアニエスを評した。
なるほど。薔薇の女王の隣に佇む、紅蓮の不死鳥。なかなか絵になるじゃないか。
(……いずれ、藍華に提案してみるか)
ペアに降格されたばかりのウンディーネの二つ名を考えるとは、いささか気が早すぎるきらいは拭えないが。
きっと、今のアニエスならば、必ず試練を乗り越えられる。
どれだけ苦しくても。どれだけ辛くても。どんな困難も振り払い、このアクアへと想いを届けた、アニエス・デュマならば。
……夢を叶えられない、筈がない。
そう、内心では思っていたのだが。
「不死鳥か……燃え尽きる時に辺りかまわず灰にするのは勘弁して欲しいけどな」
「え~~」
「あらあら……」
そう、親愛の気持ちにちょっぴりの皮肉のスパイスを交えつつ、晃はグラスを掲げたのだ。