そして……
杏子に連れられて来た所は教会だった。そこは一昨日の俺達の闘いのせいでぼろぼろだった。互いの意地の張り合いによってこうなってしまったと言ってもいい。
ステンドグラスはほとんど砕けているし、床もぼこぼこ、他にもいたるところに切り傷や爆風で煤けた後も残っている。それらの原因が二人の子供であることなど誰が想像できるだろうか?
誰かが直してくれるわけがないから、当然教会はそのままだった。
「あーあ、あたしの大切な場所がぼろぼろだ。自棄になってはいけないっていう戒めだな、これ」
そんな有り様に対して杏子が漏らした感想がそれだった。杏子は残念そうではあるが、妙にさばさばとしているようにも見えるのが印象的だった。
「だけど、どれだけこの場所が壊れたとしてもここにあったあたしの想い出は消えたりはしないんだ」
そう言って杏子は魔法少女の姿に変身した。そしてほとんど割れているステンドガラスに向かって、その場に腰を下ろして祈りを捧げた。
赤い修道服を着た少女の祈る姿を見て、俺はかつてあったこの教会の本来の姿を幻視したような気がした。聖女の祈りが届き、神の祝福の光に満ちた世界を――――
「とうとう……ここまで来たな、裕」
「そうだな。ほむらが転校してきて、お前と出会って、それから本当に色々あった……」
ほむらが転校してきた時、それが彼女のループの始まりだった。いつもは誰かがいなくなってしまう結末だったけど、ここではそうはならなかった。変わらず、皆がそばにいる。
「おいおい、お前は何を泣きそうな顔をしてんだよ。あたしがなんかしたのかよ?」
「いや、嬉しくてさ。今も誰もいなくならないで俺達のそばにいてくれることがな。ほむらの話だといつも誰かがいなくなってしまっていたっていうからさ、それを聞いたらなおさら強くそう思ってしまって……」
「裕……」
あーあ、まったく。ここで感傷的になってどうするんだよ。まだワルプルギスの夜を倒したわけでもないっていうのに。これからが一番大変だっていうのに、情けないったらないね。
「……お前が頑張ったからだよ」
「え?」
自分のことを反省していたら、突然杏子が口を開いてきた。
「今も皆がいるのはお前がいたからだよ。皆が頑張った結果だってお前は言うだろうけど、皆だってお前が一番頑張ったって思っているよ。少なくとも、あたしはそう思っている」
「杏子……」
「そう、だからあたしははっきりと自分の負けを認めることができたんだ」
先ほどのマミさんの家で、杏子はこれから先も俺達と一緒に闘うことを約束してくれた。
これで全てに決着がついた。後はアイツとの闘いだけだ。
そのはず、だったのに。
あの時見せた杏子の姿がどうしても頭から離れてくれなかった。あんな姿を俺は知らない。違う、知ってはいけないんだ。だって、それを知ってしまったら……
「あたしも……後悔しないようにって決めたんだ。だから、ここに来たんだ」
知らない。こんな顔をする杏子は知らない。俺はどうすれないいのかが分からない。だから、この空気を俺が知っているものに変えないといけない。
「そっかそっか!! 杏子は負けを認めたわけだから、これで二勝二敗でイーブンだな!! 次の勝負はアイツとの闘いを終えた後にするか!!」
「え? お、おい……」
「俺とお前は永遠のライバル!! 切磋琢磨し合うかけがえのない友達だ!!」
そうだよ、俺と杏子の関係はそれが全てなんだ。他に何か別の感情があるわけがない。いつもの『日常』の中に存在する自分自身であり続けるんだ。
「ライバルに友達……それ以外にはないって言いたいのかよ……?」
「そうじゃないのかよ? ああ、もう一つあるなら、それはツッコミだな。俺のボケに対してのキレのあるツッコミ。ちょっと暴力的な所もあるけど、そこがお前の魅力の一つだよ」
あれはボケに対するツッコミというより、セクハラに対するおしおきと言った方が正しいのかもしれないけど、まあこの際細かいことは言いっこなしだ。
「……やっぱり、お前はそうだったんだな。」
「お前に俺の何が分かる!? って言ってみたり。まあ、それはそうと早く帰ろうぜ、杏子」
そう、これでいい。俺と杏子のやり取りはこんな感じでいいんだ。変わる必要も、きっとないはずだよ。
「ちょっと待て、洲道裕一」
そう思って背を向けようとした時だった。つかつかと杏子が真っすぐ俺に近づいてきた。何の感情も見えない能面のような彼女に俺は一瞬身をすくませてしまった。
「この……ばか」
穏やかに、杏子は言う。ひゅっ、と風を切る音がした気がした。
「うぐあっっ!!!!?」
その瞬間、かつてない衝撃が俺の腹を襲った。大きなハンマーで思いっきりぶっ叩かれたような重さだった。今まで杏子は普通の人間の力で俺を殴っていた。だけど今は魔法少女としての力を込めて殴っていた。魔力で強化されたそれは、骨の髄にまで響いた。骨折も、内臓破裂も起こしていなかったのが奇跡としか思えなかった。
「ぐっ、あがっ、はあっ……!!」
この一撃は今まで杏子から受けたどの一撃よりも重かった。今の俺の脳は、痛みだけが支配していた。痛みに対してはそれなりに耐性があったはずだが、この一撃は別だった。
「お前は……」
だけど俺は歯を食いしばった。気絶だけはしてはいけない。そうしたら、俺は杏子だけじゃなくて、もっと決定的な何かを失ってしまうような気がしたからだった。
「お前はどこまでヘラヘラしていれば気が済むんだ!?」
「きょ、杏子……?」
「それとも、それはわざとなのか? そうやってとぼけた態度でいれば何も変わらない。自分も他人も、誰も傷つくこともない。だからお前は、そうやってあたしと真正面から向き合うことから逃げているんじゃないのか!?」
「あ、あああぁ……」
……また、俺は杏子から逃げてしまったのか……何やってんだろうな、俺って……
「あたしは……別にお前がどんな答えを出そうが構わないと思っていた。お前の答えが知りたかったんだ。だけど今のだけは許さねえ。そうやって逃げている今のお前は、誰に対しても偉そうなことを言う資格はない、ただの嘘つきだ!!!」
「逃げている……嘘つき、か……」
あーあ……とうとう杏子にばれてしまったか。もう失ってしまった信頼を取り戻すことはできない。
大切なもの、壊れてしまったんだな。その原因も間違いなく俺なんだよな。
だったら……もういいや。
「なあ、杏子。ちょっと話に付き合ってくれないか? 」
だから全部知ってもらおう。目の前の女の子に。俺にとって、一番大切だと思っている佐倉杏子に。
洲道裕一っていう情けない人間のちょっとした過去を聞いてもらうとしよう。
「俺があの男と一緒に暮らしていた時に、猫を飼っていた時があったんだ。名前はベス。足を怪我していたところを俺が拾ったんだ。飼ってもいいかとあの男に尋ねたら、意外にも許してもらえたんだ。
その後はあの男から猫の飼い方についての本をもらって、一生懸命育てた。慣れないこと続きで大変だったけど、あの男もなんだかんだで手伝ってくれていたからな。やがてその生活にも慣れて、いつしかそれが当たり前の『日常』になっていたんだ」
最初は上手くいかないことで、あの男の許可がなくなることに内心ビクビクしていた。だから、あの男が猫の世話を手伝ってくれた時は本当に驚いた。話に聞くと、あの男も昔猫を飼っていたそうだったんだぜ? まったく、本当に人は見かけによらない。
ベスがいる間は、楽しかったと今でも胸を張って言える。
だけどそんな生活は長くは続かなかった。
「ベスは放浪癖のある猫だった。よく家の外を出ていくことがあったよ。その度に俺が連れ戻していた。だけどそれで学習したのか、あいつは外に出ることがあっても、最後は必ず家に帰って来るようになっていたんだ。ある日も、あいつはいつものように家を出ていっていた。雨が降っていた日だった」
あの日は一日中雨が降り続いていた。雨が嫌なことを洗い流すなんて聞くけど、あの雨はまさしく色んなものを流していった。音も、匂いも、暖かさも、この身体で感じられるなにもかも……
「夕方になっても帰って来なかったことに心配した俺は、ベスを探しに行った。必死に探して、ようやく俺は見つけたよ。そこは俺が始めてベスを見つけた所だった。そこにいるのは俺とベスだけで、あの時と何も変わらないままだった。ただ一つ違っていたのは……ベスが全く動かないことだった」
杏子の息を飲む音が聞こえた。彼女にも分かったんだろう。それがどういう意味であることかを。だけど、その時の俺はどういう意味だか理解できなかった。いや、理解したくなかったんだ……
「最初は何がなんだか分からなかった。雨のせいでベスの鳴き声が聞こえなかったんだと思ってた。雨のせいでベスからしていたいつもの匂いが消えてしまったんだと思っていた。雨のせいでベスが冷えて動けないだけなんだと思っていた。だから俺は家に戻って必死に毛布にくるめて、たくさんストーブとかを用意した。それだけじゃ足りないと思った俺は色んな燃えるものを用意している時に、あの男がやって来たんだ」
あの男は俺の様子と、そしてベスの身体を調べてすぐに全てを理解した。
「あの男はただ淡々と事実だけを教えてくれたよ。どんな生き物にだっていつかは死がやってくるって。それは変わらないルールなんだって。そしてベスにも、ただそれが来ただけなんだって……」
俺が大切なものを失ってしまったのだと、あの男は容赦なくその事実を突きつけた。
「それを聞いた俺は、ただ嘘だ嘘だと喚き散らした。大切なベスがいなくなったことが、今までの『日常』が壊れてしまったことが信じられなかった。死体をそのままにするな、と言ったあの男から俺はベスを抱いて必死に逃げた。あの男は俺からベスを奪う気なんだって、この家にいたらいけないって、そう思ってただ必死に雨の中を走り続けた」
どこまでもどこまでも走り続けた。道なんて覚えていなかった。ただあの男から離れることしか頭になかった。服が雨を吸って、どれだけ身体が重くても、どれだけ体力がなくなろうとも、俺は走り続けた。だけどそれも限界が来てしまった。
「でもベスを抱いているこの手からは何も感じられなかった。走り続けている内に、嫌でもそのことを自覚せざるを得なかった。そしてとうとう……ベスが死んでしまったことを認めるしかなくなってしまった」
その時、俺の中の決定的な何かが壊れてしまった。そして俺はただ泣き続けた。だけどその涙すら、雨が全部奪っていってしまったんだ。
「……後日俺はあの男と一緒にベスの墓を作った。死体をそのままにするなって言ったのは、ちゃんと供養してやれっていう意味であったことが、ほんの少しだけ救いだった」
そしてその時、男は俺に問うた。手に入れたものは、いつかは失うことを知ったお前はこれから先どうするのか、と。
「その時の男の問いには、俺はそれでも大切なものを求め続けるって答えたんだよ。これは以前お前にも言ったことだったな。だけどさ、それはただ目の前の問題から目をそらしていただけだったんだよ」
「どういう……意味だ?」
「新しい大切なものを求める……これはまだいいさ。だけど失うことに関しては俺はちゃんと受け入れたわけじゃなかったんだ。お前の言う通り……逃げていたんだよ」
「ベスと一緒にいた時は本当に楽しかった。あの男も加えた『日常』は今でも俺にとっては宝物なんだよ。だからそれが壊れてしまった時、俺は何かを失うことの怖さを知った」
失って初めて、その大切さを知るなんてよくある話だ。危機意識だって、実際に起こらないと普通は生まれないものだ。だけど、それは愚かなことだと俺は思う。最初から分かっていれば、失くさずにいることだってできるはずだっていうのに。
「簡単にはなくならない大切なものがほしかった。変わらない『日常』がほしかった。だから俺は人間との『日常』を求めた」
あの時の俺にはあの男しかいなかった。もっと多くの人との『日常』もほしかったが、一つだけ信じられることがあった。それは、この男なら俺を置いて死ぬなんてことはないということだった。
「あの男は俺が知るどんな人間よりも強い。だからいなくなることなんて絶対にない。俺はそう信じられた」
そしてあの男は俺に中学へ行けと言った。これで俺は、もっと多くの人間との『日常』を作ることができる。そうして俺は、恭介達との『日常』を手に入れることができたんだ。
「だけど学校で過ごしていたら、今までの友達との関係がなくなってしまうことがあることに気付いた。その最たる理由が、恋愛とか、そう言ったものだった。それが上手くいくにせよ、上手くいかないにせよ、今までの関係が変わってしまう。変わってしまうことは、失うことなんだと気付いたんだ。それは俺の大切な『日常』を壊すものなんだって、そう理解したんだよ……!!」
だから俺は……そういったことを頭から追い出そうとした。本当は分かっていたことなのに、俺は必死にとぼけようとしていた。
ああ、そうだ。中沢の言う通り、俺は分かっていたさ。
さやかが恭介に想いを寄せていたことを。あんなの、気付かない方がどうかしている。
仁美も恭介に想いを寄せていたことも。仁美を見て、なんとなくそうなんじゃないかと思っていた。
杏子が、俺にどんな感情を抱いていたかも。
そして俺自身も、そんな杏子のことが……
だけど気付きたくはなかった。気付いてしまったら、もう今までの関係ではいられなくなる。変わらざるを得なくなる。俺が求めていた、変わらない『日常』が壊れてしまう。
気付いたままで自分を偽り続けるほど、俺は賢くはなかったんだ。
「ずっと自分に言い聞かせて……俺は自分自身すら欺けるようにまでなっていたんだ。変わらない『日常』を守ることが何より大事なんだって……だけどそれでも俺は、今でもベスが死んだことから逃げていたんだよ……」
ベスは車に轢かれてその命を終えてしまっていた。あの時から、俺があいつの放任癖を治していればと後悔していた。俺がちゃんとしていなかったせいなんだと。
エイミーを助けたのも、そういう後悔によるものだったことが大きい。
エイミーが道路にいた時、ほとんど無意識に動いていた。何もしなかったら、あの時のベスと同じことが今度は俺の目の前で起こってしまう。そんなのは耐えられなかった。
下手したら俺が死んでいたのかもしれないが、それでも俺は手を伸ばした。そしてこの手が届き、助けることができたことで、俺は救われる想いがした。あの時手を伸ばせなかった後悔から、この命を助けられたことが本当に嬉しかったんだ。
だけどすぐに気付いた。そんなのは、ただの代償行為だ。ベスを死なせてしまったことへの免罪符を得ようとした、褒められることのない愚かな行為。
そして、それより後も俺は何かが変わってしまうことが怖かった。ベスがいなくなった喪失感はずっと俺の心に残り続けた。それが、変わらない『日常』を求める気持ちへと変わっていったんだ。
そう、人間は猫とは違う。人間なら猫とは違ってそう簡単にはいなくならない。だから求め続けても大丈夫なのだと。そしてそれはある意味では正しかった。
恭介が事故に遭ったと聞いた時には気が狂いそうになった。俺にたくさんの大切なものを与えてくれた恭介がいなくなってしまうなんて考えたくもなかった。だから命に別条がないことを聞いたときは心から安堵し、そしてやはり人間が簡単にいなくなることはないことを信じることができた。
だけど、それでも人間との繋がりが消えることは起こり得る。それは今までの関係が変わってしまうことだ。
誰かが誰かを好きになると、その結果がどうであれ、何かが変わってしまう。今までと同じではいられなくなってしまう。だから俺は必死に気付こうとするのを避けていた。そんなことをしても意味がないことを頭の中で理解できてしまっていたとしてもだ。
「ああ、そうだよ……そんな俺は誰に対しても、何も言う資格なんかなかったんだ。まどかだって、ほむらだって、さやかだって、マミさんだって、そしてお前にだって……何も、な」
そう、これが本当の俺だ。変わることを恐れて、大切なことから目をそむけ続けていた臆病者。そのくせ、他人のことを分かった気になって調子に乗って説教をする。
何様なんだよ、俺は? 彼女達の方が俺なんかよりずっと強かった。教えられていたのはいつも俺の方だったんだ。
「俺はお前の言う通り、ただの口だけの嘘つきで……誰かに感謝されるような人間じゃなかったんだよ」
それが全てだ。今までの俺、それこそが佐倉杏子が、いいや、全員が抱いていた洲道裕一の虚像そのものだったんだ。それは単純に『日常』が壊れることが怖いから言っているんじゃない。そんな虚像にいつまでも縛られているべきじゃないって、そう思えたんだ。
「ごめんなさい、佐倉杏子さん……」
俺が彼女に言ってやれることは、これだけしかなかった。
「…………」
「…………」
俺も杏子も、長い間無言だった。
沈黙が痛かった。
空気が痛かった。
そして何より、心が痛かった……
永遠とも思える、長い長い静寂。
それを破ったのは……
「…………のか?」
やっぱり、俺なんかよりずっと強い彼女だった。
「あたしが…………分からないとでも思ったのかっっ!!?」
今までに聞いたことのない、杏子のあまりに悲痛な声。そして、俺が思ってもいなかったこと。
「何を……言っているんだ?」
「お前が口ばっかりまわるやつなんだってことは初めて会った時から分かっていた!! お前がいつも自分と自分以外の誰かのために、自分を誤魔化して無理して強くなろうとしていたことは分かっていた!! そんなお前の姿が、あたしには見ていて痛々しかった!!」
「な、なんで……なんでお前にそんなことが分かるんだよ!? 俺の話を聞いた後で適当なことを言ってんじゃねえよ!!」
「あたしには分かるんだよ!! だって、あたしだって……」
杏子は今も俺から視線を外そうとはしない。弱い俺を逃がそうとはしない。
「今まで……ずっと自分を騙して生きてきたんだから!!」
「……っ!!」
確かに杏子の言う通りだった。杏子だって、今まで家族を失った時からずっと、本当にしたいことを我慢して、自分を騙して生きてきたんだ。自分が生きていくために、家族への贖罪のために。その杏子が言うのなら、俺には何も言えなくなってしまう。
「でもお前はただ腐っていたあたしとは違った!! 本当に弱いやつだったら、そもそもあたし達に関わろうとするわけがないだろ!? たとえお前が嘘つきだとしても、お前が頑張ってきたことであたし達が救われたことは紛れもない事実なんだよ!!」
「な、に……!?」
俺の本性を知ってもなお、お前は俺が皆を救ったなんて言うのか?
「マミが二度も命を救われたのは誰のおかげだ!? さやかの願いが本当の意味で叶えられたのは誰がきっかけだった!? まどかが強くなれたのは誰が支えたからだ!? ほむらが時間遡行の旅を終わらせると決意できたのは誰の存在があったからだ!? あたしが……今の自分を好きになれたのは……!!」
「あ……」
声が漏れた。それは杏子の言葉に気付かされたからじゃなかった。必死に言葉を紡いでいる内に、
杏子が、泣いていたからだ。
しかしそれでも構わず、狂おしいほどの想いを胸に懐いて彼女は言葉を紡ぎ続ける。
「全部……お前がいたからなんだよっっ!!!」
「だけどさ……それは嘘だったんだぜ? 俺はどこまでいっても嘘つきで……」
「あたしは過去のお前まで否定しちゃいない!! たとえ嘘つきだったとしても、お前が頑張って来たことだけは変わったりはしないんだよ!! それを嘘だって否定する権利なんてお前にだってない!! 否定なんてさせるもんか!!」
「俺にも、否定できない……」
「もしもお前が皆を騙していたとして、そのことに責任を感じるのなら……最後までその嘘を貫き通せ!! あいつらを最後まで騙し続けろ!! ずっと強いお前であり続けろ!! そうすれば……あいつらにとってお前の嘘は本物の希望であり続けるんだよ!!」
嘘つきであり続けろ、強い自分のままでいろと杏子は言う。
……ああ、確かにそれはこの上なく大変なことだ。彼女達を騙し続けた罪はそれほどまでに重い。
「だって、そうじゃなかったら……お前の言葉が、全部嘘だなんて言われてしまったら……」
ぼろぼろと杏子は泣き続ける。これも俺の弱さのせいなんだよな……
「お前を信じて希望を得たあたし達はどうすればいいんだよ……!?」
佐倉杏子の慟哭は、どこまでも俺の弱い心をずたずたに切り裂いた。
「教えてよ、裕……」
――――ああ、俺は弱い。
当たり前だ。変わることを、失うことを怖がっている俺が強くなれるはずがないんだ。
変わらない『日常』にしがみついているからだ。一歩を進む勇気がないからだ。
何も、変わらない。
だけど……ああ、だけど、と俺は思う。
本当にそうなのか? 俺はそのままでいいと、何も変わらぬ『日常』こそが、俺が本当に望んだものなのか? 俺は……インキュベーターと同じように、傷つくことから逃げて何も学ばなかったのだろうか?
違う、そんなことはないはずだ。俺とあいつは違う。だって俺は……今まで見てきたんだから。
そう、彼女達が俺を見てきたように、俺も彼女達を見てきた。
まどかが、自分の弱さを受け入れて強くなろうとしていた。
さやかが、皆の手を取って、自分もまた誰かに手を差し伸べるようになっていた。
マミさんが、自分の運命を受け入れて生きていくと選択してくれた。
ほむらが、自分の運命を俺達と共にしていくと決意してくれた。
恭介が、全てを知ってもさやかを支えると誓っていた。
仁美が、新たな一歩を踏み出す勇気を持って、俺達が変わるきっかけを与えてくれた。
中沢が、誰かが変わっても、それでも変わらない大切なものがあると教えてくれた。
そして杏子は、いつの間にか変わってしまった自分自身を受け入れて、俺達とこれからも生きていくことを約束してくれた。
皆が自分の弱さと向き合って、そして変わっていった。いいや、強くなっていったんだ。
そんな姿を見て、俺は分かったんだ。
誰かと出会えば、その関係が変わる時が来る。失われる時はやはり来る。
だけど、それでも……俺は求める。それはきっと、ただの逃避なんかじゃない。
それは、俺が皆と出会うことで、出会うことの大切さを知っているからなんだ。
恐れるだけじゃ駄目だ。逃げてしまったら、皆と出会えたことを後悔することになってしまう。それだけは、絶対に嫌だった。それは俺と出会ってきた全ての人達への、裏切りだからだ。
そうだよ。求めること、手に入れることの価値を俺はもっと前から知っていたんじゃないか。
だから俺は……この手を伸ばす。
いや、それだけじゃ足りない。脚も動かすんだ。皆と同じように、一歩を進む勇気を持つんだ。
そして俺が前に進み、何かが変わったとしても……
それでも変わらない大切なもの――――『絆』があることを信じ続けるんだ。
ああ、やっと理解できた。それこそが、俺がずっと求めていたもの。
皆との『日常』の中にある『絆』こそが、俺が求める、俺だけの願いだったんだ。
すっごく遠回りしちゃったけど。たくさんの人と出会わないと分からなかったけど。
やっと……俺は自分の願いを見つけたよ、桐竹宗厳。
(……なんて、色々と答えが出たけどさ、俺はまず真っ先にしないといけないことがあるだろうが)
今この瞬間、俺の目の前で杏子が泣いている。
好きな女の子を泣かせちゃいけないことくらい、そんなの俺だって知っている。
俺と杏子の距離は、ほんの一歩でゼロになる程度。
だから俺は、一歩を踏み出す。それは洲道裕一が確かに変わった瞬間だった。その一歩で、俺は杏子の目の前に立った。
そして俺は泣いている杏子をそのまま抱きしめた。
「――――泣くな、杏子」
「あ……」
自然と声が出る。何よりも、それを望んでいる証だった。
「誰の、せいだと思っているんだよ……」
「そうだな。全部俺が悪い。前回は俺にも原因の一端があったけど、今回は全部俺が弱かったことが原因だ」
それは覆らない事実だ。そう、だからこそ……
「だから、俺は強くなるよ」
「え……?」
「皆が教えてくれた大切なもの、『絆』を俺は信じるよ。それこそが、俺がずっと求めていた願いだって、ようやく分かったからさ。それに何より……」
俺は杏子の身体をさらに強く抱きしめる。想像以上に華奢なその身体を壊さないように、だけど俺の想いが伝わるように、しっかりと俺の中に包み込む。
「この世で一番大好きな女の子を、泣かせたくはないからな」
「―――――っ!!!」
「俺はお前を泣かせないために強くなる。皆に吐き続けた嘘が本物であり続けるように、そんな言葉を言うにふさわしい人間になってみせる。お前のためになら、俺は何にだってなってみせる。どんな時だって、お前が笑顔でいられるように、俺は俺の全てをお前に捧げると誓うよ」
それだけは、嘘なんかじゃない。それは俺が心から望むことだからだ。杏子のそばにいたい。ずっとずっと、笑顔でいてほしい。過ごしたい時間が一杯あるんだ。杏子との……確かな『絆』がほしいんだ。
「……今までずっと誰かがそばにいたお前は知らないだろけどさ……」
ふと、胸の中で杏子の声が聞こえてきた。その声はくぐもっていて、何だか胸がくすぐったかった。
「一人ぼっちは、寂しいんだぞ……自分でなろうとしていたけど、本当はそれがずっと嫌だった……あたしはずっと誰かのぬくもりがほしかったんだよ……」
家族を失い、マミさんと決別した杏子は俺達と出会うまでは孤独だった。
俺も恭介達と出会うまではそうだったけど、それでも出会えた俺は杏子と同じだとは言えない。その気持ちをきちんと理解してあげることはできない。
だけど、それでも俺がすることは変わらない。
「これからは違う。俺はずっとお前のそばにいる。それはお前のためだけじゃない。俺がお前のそばにいたいからなんだ。好きな女の子のそばにいたいって思うのは、男なら当然だろ?」
今まで変わることを恐れていた俺だったけど、答えを得た今は違う。
俺は杏子との関係を変えたい。杏子をもっと近くで感じていたい。そんな欲求が次々と湧き上がってくる。それは今までふざけていたものとは違った、もっと優しい気持ちだった。
「……お前があたしのそばにずっといるって言うのなら、あたしを好きだって言うのなら……」
そう言って杏子は腕を回してくる。だけど回してきた先は俺の背中じゃなくて、俺の首だった。
そして杏子は頭を上げて俺を見つめてくる。涙で濡れていたけど、その顔は驚くほど美しく、そして扇情的に見えてしまって思わず喉を鳴らしてしまった。
「それを……証明して」
そして杏子はゆっくりと目を閉じた。それだけで、彼女が何を望んでいるのかが分かってしまった。
迷うことなんてなかった。俺もゆっくりと目を閉じ、そして自分の頭を杏子の顔に近づけていった。
そうして俺達の想いが交わされたとき、今まで見えなかった月の光が教会の全てを照らした……
しばらくして俺達は階段の上で腰掛けていた。今はただ、月を眺めながらさっきの行為の余韻に浸っていたかった。
「裕……今は何を考えている?」
今は普通の服装になっている杏子が唐突にそんなことを聞いてきた。杏子が気になるほど間抜けな顔をしていたのだろうか? 特に隠す必要はなかったので、俺は正直に答えた。
「さっきのことを思い出していたんだよ。あの瞬間、身体全体が暖かくなったこととか、しょっぱかったこととか……あいてっ」
そこまで言ったら杏子に叩かれてしまった。
「そ、そんなことあっさりと言うなよ!?」
「だったら溜めて言えばよかったのか?」
「そういう意味じゃねえよ!!」
……あー、なんか同じやり取りを見た気がするぞ。あ、そうだ。大事なことを聞き忘れていた。
「なあ、杏子。俺はさっきお前に好きだって告白したわけだけどさ……お前の答えはまだ聞いてなかったよな?」
「はあっ!?」
俺の言葉に杏子は素っ頓狂な声を上げた。いや、今の俺はそこまでおかしいことは言ってないよな? まだ杏子の答えを聞いていないのは事実なのだから。
「俺の方から言ったんだから、それに返事をするのが当然だろ? 何もそこまで恥ずかしがらなくたって……ぎゃぼぉっっ!!!?」
それ以上言えなかったのは杏子の拳が俺のみぞおちに突き刺さったからだ。痛みに耐えるために俺は必死に歯を食いしばる。だ、駄目だ、気絶だけは……!!
「あたしが言う前にお前が茶々を入れてきたんだろうが!!」
「あー……確かにそうでしたね……」
やっちまった……中沢との会話の時に気付けば、こんな回り道をすることもなかっただろうな……
「だ、大体あたしがお前のことをどう思っているかなんて……さっきの時だって……」
そう言って杏子はそのまま膝を抱えて顔をうずめた。
「好きでもないやつに……あたしの初めてを捧げるわけないだろ、ばか……」
「う……」
ま、まあ、そりゃそうだよな……
いかん、初めての行為とか、色々なものが変わったことに戸惑っているせいか、なんかテンパってるぞ、俺……これって、男としては駄目な分類なんじゃないか……?
落ち着け……いつもの俺を取り戻せ……いや、俺達はもう恋人の関係になったわけだから、同じでいるのは駄目なのかな? 俺達がどう変わろうと、『絆』がなくなることはないと今でなら信じられる。
俺は今まで臆病だった。ベスが死んだことを乗り越えたふりをして、俺は結局変わらない『日常』を求める言い訳にしていただけだったんだ。だから俺は杏子を傷つけてしまった。
ごめんな、ベス。今までずっと引きずっていて。だけど、俺はもう大丈夫だから。
これからもお前のことは忘れない。お前がくれた大切なものを持って、俺は強くなってみせるから。
だから、見守っていてくれ。
そうして俺は、今度こそベスとの想い出に決着をつけた。
ベスのことを考えて少し冷静になれた俺は、もう少し杏子と一緒の時間を過ごしたいと思った。
「なあ、杏子。ちょっと町に出ようぜ。お前との時間を、もっと過ごしていたんだよ」
「あ……」
俺は立ち上がり、杏子に手を伸ばした。杏子も少し戸惑っていたが、やがてその手を掴んだ。
「し、しょうがねえな。お前がどうしてもって言うのなら、その、付き合って、やるよ……」
「あー、ツンデレ乙?」
「うるさい!!!」
「ぐふぁっ!!?」
さやか風にからかってみたら、すねを蹴られた。それでも杏子は手を掴んだままで、片方の手だけですねをさすることになった。うー、地味に痛い……
けどまあ、俺達はこれからも変わって行くだろうけど、俺とこいつとのこんなやり取りだけはずっと続いて行くような気がする。もうちょっと暴力にはならないやり取りがよかったのかもしれないけどな。
やれやれ、だ。
気を取り直して、俺達は互いに手を繋いで教会を後にした。
もう少しだけ、この一日を続けよう。
答えを見つけた裕一の決意や想いを、ここで表現できていたらいいなと思います。
今回はエイミーの話から思いついた話でした。裕一の心の傷にも関係していますが、実はまだ伏線を考えていたりしています。多分、名前で分かりますよね?
次は恋人の関係になった杏子との時間です。よーし、頑張るぞー!!